勝新太郎

『昔日の撮影所・あの日あの時』

…ある日、福井県立美術館の当時の学芸員だった野田訓生さんから電話が入った。(…ちかじか世田谷美術館のYさんから連絡が行くと思いますので、よろしくお願いします)との事。…はて?何だろうと思って野田さんに訊くと(世田谷美術館の仕事で世田谷区の文化に関する資料を作っているので、その件だと思いますよ。…北川さんは、昔学生の頃に世田谷の砧にある東宝撮影所でバイトしていたでしょ?)…(やってましたが、どうして知っているのですか?)。… (いろいろと伝わってくるものです)と野田さんが笑いながら言う。…(話して参考になる事など全く無いと思いますが、まぁ、その時はその時で)…数日してYさんから連絡が入り、ともかくもアトリエから近い田園調布駅で待ち合わせの約束をした。…………… (砧の東宝撮影所かぁ、懐かしいなぁ… 。)思い出していくと走馬灯のようにその時の事が蘇って来た。

 

… 20歳の頃は、バイトに明け暮れる毎日であった。昼、バイトをして夕方から世田谷の多摩美大に行き、銅版画を夜半まで制作する日々。…しかし撮影所のバイトはなかなか面白く、テレビや映画の虚構の裏側が生に直で視れて、日々がワンダーランドであった。版画の前は、以前にも書いたが三島由紀夫に熱い気持ちの手紙を出す程に舞台美術を志向していただけに、ア-ティフィシャル(虚構美・人工美)な空間への傾きが私は強いのである。(これは現在のオブジェの人工美を強調した表現へと繋がっているようである)

 

…最初の仕事は『ウルトラマンタロウ』のセットのビルを造る仕事。しかし後日に定食屋などでその放送を観ていると、一生懸命に造ったビルが怪獣に一瞬で壊されていくのである。…(これではたまらん、私に適した仕事をぜひ)と責任者に話して、ウルトラマンタロウの撮影現場に栄転した。(美大の友人何人かが一緒であった。) …ある日、現場に行くと監督が困った顔をしている。…最終回の大事な撮影だというのに怪獣役の男性が無断欠勤との事。…スタッフ連中が、ふと私の友人の安部ちゃんに目を止めた。長身の彼はその代役にピッタリだったのである。

 

(安部ちゃん、凄いじゃないか、故郷の母さんや親戚に自慢出来るぞ)と私が言うと、安部ちゃんもまんざらではない表情。…重くて汗臭い怪獣のぬいぐるみを被った安部ちゃんはうまく動けない。…点滴した患者に連れ添った看護師のように私が怪獣役の安部ちゃんを連れてスタジオの扉を開いた瞬間、私も怪獣になった安部ちゃんにも同時に走ったのは戦慄であった。

 

…今日は最終回。セットの薄暗い平野に自衛隊の戦車が10台ばかり半円状に整然と並び、怪獣は一斉射撃を浴びて今日は瀕死でのたうち回る場面撮りなのであった。(勿論その内容の説明など全く聞かされてはいなかった。)「本番スタート!!」。監督の声に呼応して戦車砲が一斉に火を吹き、リアルなロケット弾が何発も怪獣にぶち当たっていく。…安部ちゃんは、なかなかの迫真の演技。…「素晴らしい!実にいい!」監督の喜声が響くと同時に助監督が「監督!変ですよ‼」との声が。

 

撮影を中断してスタッフが怪獣に駆け寄り、背中のジッパーを外すと、もの凄い黒煙と、くすぶった火の粉が…スタッフがぐったりした安部ちゃんを引っ張り出すと、目を閉じたかなり危険な状態であった。…何発かのロケット弾がもろに突き刺さり、中でまさかの火災が始まっていたのである。…怪獣役の男が無断欠勤した理由が、その時に漸くわかった。…そして安部ちゃんはスタッフに抱えられて保健室へと消えていったのであった。

 

…撮影所の中は実に広い。俳優達も役に扮した姿で自転車で移動する。…撮影所の果てに学校の校舎風の建物があり、窓から覗くと、中にはゴジラモスラカネゴン…等のぬいぐるみがズラリと勢揃いしていて懐かしい。小さなプ-ルは、それが特撮カメラの魔術を受けると一変して『日本海海戦』の広大な太平洋に。…食堂に行くと、映画やテレビで馴染みの俳優、女優が鯖の味噌煮定食やパスタを食べている光景が。…(正に笑って動く一種のマダムタッソ-の館なのかここは。)………次に来た仕事は映画のセットに付く事。コロコロ変わる私の仕事。…果たして栄転なのか左遷なのかはわからない。

 

…仕事は原田芳雄の当たり役『無宿人御子神の丈吉』の撮影現場。しかしその日は、確か女郎役の宮下順子との濡れ場シ-ンで、監督ほか数人以外は外で待機するようにとの事。…ならばと思って撮影所の中をふらふらしていると、「これから大物の俳優が来られるので、手透きの人は全員集合して下さい」との連絡が入った。「大物?…関係者一堂がやけに緊張しているが、はて誰だろう」

 

…暫く待っていると、黒塗りのばかでかい外車が停まり、中から座頭市などで聴いた事のあるドスの効いた低い声で、パナマ帽、全身白のス-ツ姿の勝新太郎が出て来た。次に中村玉緒が…。一斉に歓迎の拍手が鳴り響く。…勝新は沢山の出迎えを受けて上機嫌で若い付き人(後の松平健)らと共に何処かへと消えていった。…なる程、大物俳優への対応はさすがに違うな…と思い、その風習の面白さに感心した。勝新か、なかなか見れない俳優を観たな、そう思った私は次の面白い現場はないかと、またふらふらと歩き、と或るスタジオの扉を開いて中へ入った。

 

… 奥で鮮やかな照明に照らされて、一人の未だ若い女優が何かのセリフを明るい笑顔で喋っている。… よく見るとその女優は吉永小百合であった。確かハウス食品のCM撮りだったと記憶する。…  (原田芳雄、吉永小百合、勝新太郎…か) … 今日は何故か盛り沢山だなと思って、ベンチに腰掛け、図々しくもその撮影を見続けた。しかし誰も私を注意しない。……私の特技の1つは、擬態ではないがどんな場面でも、その空間に溶け込んでしまう事である。突然セットの照明が消え、件の吉永小百合がこちらに歩いて来るのが見えた。(ん?…何か私に話したいのかな…)いや違うようだ。ベンチで座っている私の横に座り、読書を始めたのであった。…そうか、このベンチは吉永小百合の為の休憩ベンチだと暫くして気づいた。…申し訳ないなと思いながらも、そのまま私は座って、昭和を代表する美女の一人と云われたその美しい横顔を、後学の勉強の為に見入ったのであった。

 

…そのスタジオを出ると、同じ美大生で流行りのコンセプチュアルア-トにかぶれている慎ちゃん(苗字が思い出せない)に出会った。慎ちゃんは未だ特撮の現場でバイトをしているが、私と同じで隙をみてサボタ-ジュとの由。…ならば一緒に歩こう!…そういって暫く行くと、大きなスタジオが目に入った。…興味が湧き中へ入ると、私達は幻かと思って唖然とした。…まるで大正時代の関西風の豪奢な料亭の和室がそこにタイムスリップしたように現れたのであった。(ここは何だろう!?)…何かの大きなセットらしいが、不思議だったのは、まるで神隠しのように辺りは全くの無人。…見ると、私達の眼前には見事な将棋盤と立派な駒が。……(こんな好機はない、慎ちゃん将棋やろうぜ!)…そう言って私達は、重い将棋盤と駒を抱えて、セットの奥へ、人に気づかれない奥へと行き、まるで名人戦のような高揚した気分で、へぼ将棋を指し始めたのであった。

 

… よほど高価な将棋盤なのかパチンパチンという響きはまるで風格が違う。4.6の角、2.7の銀 … パチンパチンとなおも指す。… すると遠くの板囲いの向こうから、何やらビルマの密林をさ迷い歩く飢えた虎のような地響きのする低い響きで(何処だぁ、何処にあるんだぁ-‼)という声が伝わって来た。耳の錯覚か?… 私は気にせず(慎ちゃんは詰めが甘いですなぁ)と言うと、慎ちゃんの反応が無い。ん?…と思って慎ちゃんを見ると、血の気が引いて恐怖に歪んだ顔が。…その顔が、私でなく私の背後を見て真っ青に硬直しているのである。… 私はゆっくり振り返った。そしてそこに見たのは、これ以上はない怒りに怒髪天を衝くと化した、勝新太郎の怒りに狂い殺気を帯びたもの凄い形相であった。しかも私の顔面の僅か10センチ先にその顔が‼  私はその時の言葉を今もありありと覚えている。

 

……… (てめぇかぁ!この若僧、ふざけた真似をしやがって‼ … 俺にとって一番大事な将棋盤を持ってずらかるとはとんでもねぇふてぇ野郎だ‼ …) … 怒りで勝新の肩が震えている。… 思えば、最初に見たのは撮影所に入って来た上機嫌の勝新であったが、いま眼前にいるのは、兄貴の若山富三郎と並んで、映画界で最も凄みのある恐ろしい男と云われた勝新の一変した姿であった。…勢いよく喋べる為か勝新の唾が私の顔に容赦なくかかってくる …しかし不思議と殴っては来ない。…それどころか、途中から私に(いいかぁ、覚えておけよ、てめぇも役者を考えているんだったら、役者っつうのはな、一瞬一秒に命を賭けているんだ!わかったか若僧‼)と調子が説教調に変化している。…この撮影所の世界でバイトしているのは役者志望が多い。私は、この人はなんか勘違いしているなと思ったが、心底申し訳なかったと反省もした。

 

……眼前にいる勝新の顔を見た私は、勝新の顔左奥に、この成り行きに血の雨が降るのではないかと心配顔で見ている、もう一人の俳優がいる事を知った。…やはり切れ味のある演技で知られる名優の仲代達矢であった。…何故ここに?…と思ったが、心配顔の仲代達矢は緊張しながらこの成り行きを見守っている。そして思った。勝新太郎、仲代達矢、この二人の芯の素顔は実に優しい人達なのだなと私は思った。

 


……ともかく漸く事が納まり、役者達が撮影に戻るべく去って行くと、監督とおぼしき人とスタッフがやって来て、私と慎ちゃんに(お前たち、本当殺されなくてよかったな。勝さんは、神経を集中して仲代さんと現場に入って直ぐに本番一発撮りだが、座った瞬間に大事な将棋盤と駒が無いとわかり、もの凄い怒りで現場は荒れたんだぞ、今日は『王将』の一番大事な名人戦の撮影。役に成りきって集中して本番の撮影に入ったのに、大事な小道具が無いとわかり、そりゃあ、荒れるのはわかるよ‼…しかしまぁ無事でよかった。)

 

……『王将』…と云えば、勝新のあのメ-クは坂田三吉、仲代達矢の役は名人の関根金次郎か。私は未だその映画『王将』を観ていないが、機会をみて観ようと思っている。最後のクライマックスの名人戦の勝負の場面が出て来たら、(あぁ、あれから気を取り直して撮影したのだな、)と思うであろう。………………………………………  野田さんからかかって来た1本の電話から、砧の東宝撮影所のあの日、あの時の事を走馬灯のように思い出したのであった。

 

 

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『高村光太郎の、……その前に』

前回のブログの反響はかなり大きく、たくさんの読者の方から「面白かった!!……もっと続きが読みたい!」といった内容のメールが続々と届いて嬉しかった。自分でも久しぶりに書いた連載であったが、まぁあれで、あの実録に基づいたミステリ―は書き尽くしたかなという感がある。書けばもっと続くのであるが、そうしていては切りがない。何しろ書きたい話が他にもたくさんあるのである。……想えば、このブログも10年以上書き続けて来たが、幾つか思い出すブログとしては、……砧の撮影所でふとした成り行きで出会い、最後には私を役者志望の貧乏学生と勘違いして延々と役者の心得を熱く説教してくれた名優・勝新太郎との数奇な出会いを書いた『勝新太郎登場』、また、未亡人下宿で聴いた森進一の歌「襟裳岬」から始まり、次第に新古今和歌集の藤原定家へと話が移っていった『未亡人下宿で学んだ事』の2話に続く渾身の作であったかと思う。……さて今回は、予告では『もう1つの智恵子抄』であったが、不気味なコロナウィルスについて、先にちょっと書こうと思う。

 

 

 

……先日、体が少し鈍って来たのでジムに行こうと思ったが、ふと「密閉してあるジムこそ危ないな!」と、頭のセンサ―が作動したので行くのを止めた。するとさっそく翌日の午後に「千葉のジムからコロナウィルスの患者が連鎖発症」の報道がありホッとした。世はあげてコロナウィルスで、もはや世界がパニックである。今までにない不気味な猛威を見せているというが、はたしてそうか!?…………調べてみるとかなり上手の先輩がいた。1918年から1919年にかけて世界的に流行したご存知の「スペイン風邪」がそれである。なんと感染者5憶人、死者5000万~1憶という桁違いの猛威であり、当時は第一次世界大戦の最中であったが、徴兵できる成人男性が減った為に、世界大戦の終結が早まったというから凄まじい。日本だけでも死者は39万人、アメリカで50万人以上が亡くなっている。このスペイン風邪は約1年間の長期に渡り世界的に猛威を振るったというから、今回のコロナウィルスの終息もまだまだ先が読めないのが現状である。……このスペイン風邪で、画家のエゴン・シ―レやクリムト、またアポリネ―ル、日本では劇作家の島村抱月、画家の村山塊多などが亡くなっている。(ちなみに、私が好きな松井須磨子は島村抱月の後を追って自殺)。………………

スペイン風邪以前の日本の話では、1858年(安政5年)に流行ったコレラ(短期間でアッという間に逝くので別名コロリと言われた)も凄まじく、江戸だけでも死者が10万人(一説によると23万人ともいう)を越え、浮世絵師の歌川広重はこれで亡くなっている。その後にもコレラは度々流行ったのであるが、歴史の逸話としては、もし文久2年(1862年)に第3期のコレラが流行らなかったら、かの「新撰組」は生まれなかった可能性が高いという説がある。……江戸の試衛館(天然理心流の剣術道場で道場主は近藤勇、他に食客で土方歳三・沖田総司・永倉新八・斎籐一・藤堂平助……たち猛者がいた)が、流行りのコレラで入門者が激減し、今回と似た黒字倒産の危機に瀕していた。そこに同じ食客の山南敬助が、幕府の官費による浪士組設立の話を持って来た。江戸で浪士を募り、彼らを使って不穏な京都の治安を守るのが目的という。……この案を幕閣に仕掛けたのは庄内藩の志士・清河八郎。しかし清河は稀代の仕掛人、……実は幕府の官費で集めた浪士をもって幕府を倒す浪士隊を作るというのが、その考えの底にあった。浪士は300名ばかり集まり京都に行くのであるが、近藤勇達はこの話に応じて道場を閉鎖し、第2の転職人生を託す事になる。文久2年のコレラの流行が無ければ、近藤達は江戸と多摩の道場暮らしで平凡に人生を終えた可能性が高いから人生は面白い。彼等に元々の政治的な思想などは無く、まぁ時代の流れに後ろからやむなく押されたにすぎない。……清河八郎のような山師は私は好きであるが、少しやり過ぎた感がある。……京都に着くや、壬生の宿舎で本来の目論見を演説でぶちまけたのであるが、同席した幕府の役人や浪士の殆どがパニックのまま解散して江戸に戻る。そして近藤勇たち試衛館の連中と、何故か芹沢鴨の一派だけが京に残り、会津藩から資金を得て、京の治安を守る新撰組が俄に少人数から誕生した次第。……一方の清河は江戸に戻るが、佐々木只三郎(後の龍馬暗殺の実行犯)によって、赤羽橋近くの路上で白昼に暗殺されてしまう。……(ふと気がつくと、私はコロナの話から幕末の逸話に話が移ってしまっているので、軌道を戻そう。)……つまり、コロナウィルスはスペイン風邪に比べると規模は全く小さいのに、世はあげて人類死滅のごとき騒ぎであるが、この原因は、ネットやSNSの普及、そして世界経済の連鎖性により、明らかに世界が狭くなっている事、また同じ情報の反復受信や、様々な意見の洪水で、脳がそのCapacityを越えて、情報パニックともいうべき一種の集団ヒステリーが連鎖的に起きているのは明らかである。……全く知らないという事もある意味恐いものがあるが、映像を通して見えすぎてしまう……というのも、実体の原寸を越えて投影された暗すぎる巨大な幻想を生んでしまう。……とまれ、もしこのブログが前置きなく突然発信が途絶えた時は、私が不運にもコロナウィルスに罹ってしまったと思って頂けると有り難い。……無事な場合、次のブログは『もう1つの智恵子抄』、更には『阿部定異聞』etcなどと続く予定です。……引き続き乞うご期待。

 

 

 

 

 

 

 

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『強烈な火花―棟方志功』

どうやら記憶にも遠近法というのがあるらしく、出会った順番ではなく、その人の放つ個性の強度や印象の強弱で、記憶の中に存在の韻を各々に放っているようである。その遠近感でいくと、私の場合最も鮮やかな最前列にいる人物が二人いる。……勝新太郎棟方志功である。勝新太郎との面白い出会いについては以前のブログで書いたので、今回は棟方志功さんとの出会いについて書こうと思う。

 

私が銅版画を独学で作り始めたのは、美大の二年生の19才の時であった。『Diary-Ⅱ』という表現主義的な作品を作ったのは翌年の20才の時である。作り始めて二作目の版画『微笑む家族』という作品を私が住む神奈川の美術展に出して、神奈川県立近代美術館館長の土方定一氏の眼に止まり、美術館に収蔵されたという流れもあって、翌年、再びこの美術展にその『Diary-Ⅱ』を出品したところ、今度は版画部門で受賞した。賞金は当時の十万円。貧乏な美大生にとっては救いの神の賞金である。授賞式は展覧会の会場の神奈川県民ホ―ルであった。会場に着くと、受付の人から仰々しく私の名前を書いた名札を渡されたのであるが、その人が私を見て「あなたが北川さんですか!いや、もう審査の時が大変だったんですから!」と言って、審査時の事を詳しく話してくれた。版画部門の審査員は三人で、その中に板画家の棟方志功さんがおられたのであるが、私の版画が審査員達の前に現れた瞬間、棟方さんは急に席を立って私の作品の所にやって来て、係員から額に入った版画を奪い取るようにして床の上に置き、額のガラスの上から私の作品を掌で撫でまわし、「凄いなぁ、凄いなぁ……」と、あの特徴的なだみ声で呟きながら延々とその動作を続けた為に、審査が30分近く完全に止まってしまったのだという。…………棟方志功。この20世紀の日本美術を代表する巨人の名前はもちろん知っていたが、私はこの美術展の審査員に棟方さんが入っている事など全く知らなかった。しかも、その棟方さんが私の作品を見るや、そういう行動に出た事など、係員から言われるまで私が知るはずがない。……私は話を聞きながら、あの棟方志功の顔が浮かんで来たが、私の作品とその顔が今一つ、どうも結び付かないでいた。式の会場の中に行こうとすると、その係員の人が「今日、棟方さんが来られますので」と告げてくれた。

 

……授賞式が進んでいったが、しかし棟方さんの姿は会場に無かった。「まぁ、そういうものだろう」、私がそう思ったまさにその瞬間、会場にざわめきが走り、紋付き袴姿の棟方志功さんが、頭のてっぺんにかんざしをグサリと突き刺した奥様と同伴で突然現れ、そのまま壇上に上がった。確かにもの凄いオ―ラをこの人は放っていた。……挨拶の第一声は、今でもありありと覚えているが、「夫婦の枕は長まくら!!」であった。……つまり、式に遅刻した言い訳を、先ほどまで夫婦の愛の営みをしていたのだから、まぁ、そこは……と天衣無縫の表情で笑いながら話して、会場の雰囲気を一瞬で自分の話術に引き込んでいく。棟方さんは最初は上機嫌で笑顔であったが、版画部門の審査の話になるや表情が一変して鋭い口調になり、激しい怒りの表情へとそれは変わった。会場は一変して静かになり、ただ棟方さんの言葉だけが響いてくる。棟方さんの話でわかったのであるが、今回の審査で絶対に納得いかない不正があり、それを糾弾し始めたのである。棟方さんは私の作品を版画部門の受賞だけでなく、大賞に値する作品として強く推したのであるが、大賞は既に審査の事前に内々で決まっていたらしく、その受賞者は県の教育委員会関係の御曹司らしい事が、棟方さんの口からズバズバと明らかになっていく。最近よく話題に上がる「忖度(そんたく)」である。「北川さんのあの作品が、どうして大賞にならずに、そんな作品が大賞に決まるわけですか!!……そんな馬鹿な話がありますか。私はこんな馬鹿げた美術展の審査はもう絶対に今後やりません!!」。……棟方さんの怒りを込めた熱い語りはさらに続いたが、私の名前が何度も棟方さんから出てくる事に、私は自信へと繋がる熱いものが湧いてくるのを覚えていた。大賞の賞金は当時の100万円とパリ一年間の留学であるが、私は大賞よりも、遥かにもっと大きな、作家としての今後に繋がる大切な物をこの時に棟方さんから貰ったのであった。駒井哲郎氏からは既に評価を受けており、その後に出会う池田満寿夫氏や浜田知明氏、そして、パリで一緒に展示された、国際的な作家のジム・ダイン氏から受けた評価とはまた別なものが、棟方志功という人にはあるのである。当時まだ20才そこそこであった私に、しかし、この出会いと作品への評価はあまりに大きく、いま思い出しても貴重なものがあった。……式場の帰りに、私は棟方さんと握手を交わし、一緒にエレベーターに乗ったのであるが、この時に棟方さんの本領が発揮された。……棟方さんは、突然このエレベーターが欲しい!!、どうしても家に持って帰りたい!!と子供のような駄々を本気でこね始めたのであった。私は笑いながら、同乗している棟方さんの奥様を見ると、(またいつもの癖が始まった!)と呆れ顔であり、横にいた土方定一氏も爆笑されていた。……棟方さんは、その二年後に亡くなられたのであるが、私の作家への過程における巨きな恩人であり、今もその特異な存在の記憶は昨日の事のように煌めいて在る。……あの日、棟方さんと別れた数日後に、土方定一氏から一通の葉書が届いた。その手紙には、君はもうあのようなレベルの美術展ではなく、もっと高みの上を目指せ!!……という内容の文面が綴られていた。土方氏は、死後もまだ無名だった松本俊介を世に出す契機を作るなど、信じられる慧眼の人である。私はそれに従い、立体や大きな平面に混じって版画は画面が小さいので審査の上で不利である事は承知の上で、当時最大の難関であった現代日本美術展に応募し、ブリヂストン美術館賞を受賞したが、その時の審査委員長であった土方定一氏の強力な推薦があったときく。……とまれ、私は折に触れて、棟方志功という稀代の才能が産み出した作品を観る度に、あの日の貴重な、そして不思議な導きに充ちた〈一期一会〉という人生の妙を覚えるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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