四十七士

『勘三郎と内蔵助』

中村勘三郎さんのこの度の逝去に際し、あらためて人生の意味とは、その長さではなく密度と生き様である事を痛感した。舞台は度々拝見したが、今年の新橋演舞場での勘九郎襲名披露公演での口上が最後となってしまった。間近でお見かけしたのは久世光彦さんの葬儀の時であった。遺影の前に座っていて焼香のために並ぶと、数人前に勘三郎さんがいた。舞台では大きく華やいで見えるが、実際はかなり小柄であるのに驚いた。そういえばすぐ近くに森光子さんもいたが、舞台で共演したお二人がほぼ同じ時期に逝くのも何かの縁であろうか。政治家で、その死が惜しまれる人は昨今皆無であるが、役者は惜しまれてこそ命である。勘三郎としての円熟は果たせなかったが、この人が放つ「粋」と「艶」は、それを出し切っての生涯であったかと思う。生き急ぐように駆け抜けた見事な生涯であった。

 

人生を駆け抜けた・・・といえば、この時期はやはり1702年に起きた「赤穂事件」が思い浮かぶ。昨日、慶応義塾大学で開催中の瀧口修造展に行くために三田へと向かったが、途中で「泉岳寺」に眠る浪士たちの墓が見たくなり立ち寄った。私は四十七士の中では、最も奮闘した不破数右門と、上野介に太刀(槍ともいう)を浴びせ絶命させた武林唯七が好きであるが、やはり大石内蔵助(1659-1703)の墓前では立ち止まってしまう。その大石の辞世の歌「あら楽し思ひははるる身はすつる浮世の月にかかる雲なし」は、主君の浅野内匠頭の辞世の歌「風さそう花よりもなおわれはまた春の名残をいかにとかせん」の現世への未練がましさと比べると晴れ晴れとした心情が見事に刻まれていて心地良い。本来、辞世の歌とはあまり芸術的なレトリックを凝らさず、明快単純こそが好ましい。歌の31文字は俳句の17文字と比べると、その字数が多い分、つい本音が出てしまう。しかし本音を封印して後世に虚構や意地を放つのが辞世の歌の、云はば要領なのであろう。その意味でも、この大石の辞世の歌は目的を達成した自分や浪士たちの心境を映した名歌として、あまりにも有名である。しかし、しかし・・である。歴史好きな私としては、この大石の歌が、かつて何処かで聞いたものと重なって響くのが気になっていた。それで、個展も終わった束の間の閑を利用して調べてみた。すると、ある戦国武将の辞世の歌に辿り着いた。それは、信長と共に私の最も好きな武将である上杉謙信(1503-1578)である。謙信の辞世の歌は「極楽も地獄も先は有明の月ぞ心にかかる雲なき」である。如何であろうか・・・。たまたまだよと言う方もおられるかもしれないが、しかし両者を結ぶ人物が一人だけいる。それは江戸前期の儒学者、山鹿素行(1622-1685)である。彼は官学である朱子学を批判したため、一時、赤穂藩にお預けとなっていた折、若き日の大石たちに兵学を講じ、その際に行動学の美しい範として上杉謙信について熱く語った事は想像に難くない。その証しの一つが、大石が討ち入りの際に使った山鹿流の陣太鼓である。

 

討入りを果たした後に浪士達は四つの藩にお預けとなったが、その浪士たちが残した手紙の中に「虚しい・・・」という一文がある。ここに赤穂事件の真実が透かし見えるが、既に大石の意識は後世の評価にその目があった。「・・・・・浮世の月にかかる雲なし」を大石が切腹前のいつ頃に詠んだかは不明であるが、名プロデューサー大石内蔵助の本領がここに在る。上杉謙信からのパクリとは決して言えない見事な「引用の詩学」であると、私は思うのである。

 

 

泉岳寺の中門。空襲から免れて当時の遺構を今に留めている。

 

 

今も線香の煙が絶えない大石内蔵助良雄の墓

 

 

討入りの本懐を果たした後で、泉岳寺のこの井戸で吉良上野介の首を洗ったと云われている。碑は明治時代の俳優ー川上音二郎の建立。

 

 

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