多摩美術大学

『産婦人科に行った日の事』

……季節は啓蟄となり、春の芽が息吹きはじめた或る日、多摩美大で喋っている友人のTから連絡があり、「たまにはもの語りなどしよう」との誘いがあったので、気分転換のつもりでアトリエを出て、世田谷の上野毛にある大学を久しぶりに訪れた。……上野毛駅を出て、かつて私も通った多摩美大への道は、まるで時が止まったように昔日の姿を留めていて懐かしい。20才の頃の、よれよれの服と生意気な面。そして金が無いので伸ばし放題の髪をした自分とすれ違うようで妙に懐かしい。……大学の門を入ると、記憶のままに右側の下り傾斜にある、うす暗い駐車場へと至る。信じがたい話だが、この大学には体育館なるものが無かったので、空手部と剣道部がこの狭い駐車場を半分に分けて汗を流していた。当時、私は剣道部に入っていたので、古い日記を開くように、ここにはいっそうの思い出がある。……Tとの約束した時間にはまだ間があったので、私はふと昔日の或る日の事を思い出し、「そうだ、あの時お世話になった、あの産婦人科医院はまだあるかな!?」と思って、大学のすぐ真裏、瀬田にあった産婦人科医院へと向かった。しかし、その辺り周辺を廻っても、あの日の夕暮れに明々と灯っていた「○○産婦人科医院」の大きな看板は見当たらず、あの時、お世話になったあの医院は無くなっていた。そして替わりに、あの日の苦い出来事がまた、フラッシュバックのようにありありと甦って来た。

 

 

……あれは、私が3年の時であった。独学で銅版画にのめり込み、版画科の学生達が制作している明るい時は剣道に励み、皆が帰った夕方から私は誰もいない版画実習室で一人、作品を作っていた。……そしてその日は、私は銅板にミリ単位の間隔で定規を使いカッタ―を引いて深々とした線を刻んでいた。どす黒く、精神に斬り込んでくるような鋭い暴力的な黒の面を作りかったのである。のめり込んで作っていると、現実感が無くなってくる時がある。その時がまさにそれであった。……ザクッと心臓を突くような鋭い感覚と次に鈍い痛みが走った時、、カッタ―の硬い刃先は定規を斜めにえぐってなお走り、更に私の左の親指を深々と斬り込んでいた。パックリと開いた指の腹。直後に噴き上げてくる鮮血を見て、誰もいない実習室の中で私はどうすべきか焦った。何故なら、既に夕方で保健室は閉まっており(開いていても常駐の保健医など見た事がない)、血はどんどん流れ出てくるのである。そして、混乱する頭の中に、剣道部の稽古時に防具を付け裸足で走っていた時にふと見た、瀬田の畑と人家の間に場違いのように建っていた、○○産婦人科医院の事が過ったのであった。

 

指を布切れで押さえながら、大学裏にある産婦人科医院に走ると、まるで地獄で仏のように看板の明かりが灯っていた。医院に入ると、看護婦が二人出てきて、布に染まった鮮血を見て、すぐに事を理解してくれた。「とにかく中へ!」と促してくれたその時、床に鮮血の塊がボタリと落ちた。「おっ、綺麗だな!」と思った瞬間、私の背筋をひんやりとした震えるものが走り、不覚にも私は失神し、後ろへと倒れていった。手慣れた看護婦が倒れていく私をハタと受けとめてくれたのは、いま思い返しても頭が下がる。その看護婦二人が私を抱えて何処かへと運んでいくらしい。…………やけに眩しい照明がバチりと私の顔面を照らしたので、ふと我に帰ると、私がいる場所は分娩台の上であった。数年前のブログに書いたが、かつて私はブル―ジュの博物館の中に設置してあった本物の古いギロチン台の展示を見て、部屋に人が誰もいない事が後押しとなり、好奇心を押さえきれないままに台の上によじ登り、紐で釣り下がっているギロチンの刃の下に首を潜らせ、マリーアントワネットの断末魔の感覚を味わった事があった。もし紐が切れたら一巻の終り「ブル―ジュで日本人の旅人、まさかの事故死!」であるが、恐怖よりも好奇心の方が私を震わせてやまない。とはいえ、ギロチン台に首を潜らせた人間も珍しいかと思うが、次にまさかの分娩台の人になろうとは……。ともあれ、院長の手慣れた技術によって傷口は縫われ、包帯が巻かれて私は安堵した。そして感謝を述べ「今日は治療費は持っていませんので、明日持って参ります!」と云って医院を後にした。……しかし、明日の食費のあてもない苦学生に保険の効かない高い治療費など払えない。……私は医院を去る時に今一度振り返り「すみません、お世話になりました」と呟いた。……名前も告げておらず、私はこのまま消えようと思ったのである。

 

その後、次第に傷口は塞がっていったが、まだカッタ―で銅板に線を切り刻むだけの力は出ない。その時に作っていた作品「Diary―Ⅱ」は、近々にあるコンク―ルに出品する予定だったが、応募〆切迄に時間がない。……その時、美大の後輩のSの事が閃いた。Sは私の事に興味があるらしく、時々、版画の実習室にも遊びに来ている。私はSに電話をして、カッタ―で線を引く作業の手伝いを頼むとSは喜んでやって来た。そして、私の代わりに作業をしながら、傍にいる私との会話を楽しんでいた。……まさかの事が起きたのは、その時であった。私の耳に「北川さん、やっちゃった!」という信じたくないSの悲鳴が響き、見ると、左利きのSは私の時とは真反対の右の親指の腹がパックリと開き、その顔は痛みで歪んでいる。……時刻はあの時と同じ夕刻。私はSを励ましながら、あの、もはや訪ねる事はない……と思っていた産婦人科医院へ行くしかない、と腹を括って駆け込み、Sもまた分娩台の人となった。……Sにも、また院長に対しても、もうしわけないという気分と、とうてい払えない治療費の事が頭を過りながら、Sの治療されるのを見守っていた時、院長が私に「あれからずいぶん経ったねぇ!」と笑いながら語る声が聞こえた。「えぇ、全くこいつが……」と、私は分娩台の上にいるSの頭を軽くピシャリと叩きながら、訳のわからない返答をした。…………私はしかし幸運であった。今のように儲け主義に走って「医は仁術(博愛)」が遠退いた時代と違い、その院長は私がまさに極貧であるのを理解してくれて、今は死語となった「出世払いでいいから、余裕が出来たら持って来なさい」と云ってくれたのであった。…………それからずいぶんの時が経った。あの時、既にご高齢であった院長は、もう亡くなられてしまったに違いない。……私は、あの時に医院があったと覚しき場所に暫し立ち、美大へと戻った。大学に戻り、研究室で助手の人から、かつて地下に在った版画の実習室も、今は演劇の学科の倉庫になってしまったという話を聞いた。…………約束していたTと、暫く美術の現況についてもの語りをして、私はアトリエへと戻ったのであった。

 

 

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『志賀直哉』

私は、最後の文豪 ー 志賀直哉に会い損ねた事があった、と云えば、人は驚いて「お前は一体何歳なのか!?」といって笑うであろう。しかし私は、そして時代は、実際にかすったのであった。それについて以下に少し記そう。

 

1970年。私は多摩美術大学に入り、川崎の溝の口に在った男子寮に住んでいた。同室は現在は服飾デザイナーとして国際的に活躍しているYであった。80人ばかりいた寮生は皆、個性が豊かで蛮カラの気風が残っていた。その寮生の中の私の1つ先輩に小谷文治さんという油画科の人がいた。或る日突然、全身の半分をタテに、頭髪、まゆ、ひげ、身体の毛すべてを剃り落し私達を喜ばしてくれたりした。しかしその気質は真面目であり、後年、美術教師として故郷の岡山に帰ってからは、ずいぶんと生徒達に慕われたという事を後に風の便りに聞いた。或る日、私が部屋で寝転んでいて天井を見ていると、その小谷さんが突然部屋に入って来て、「北川、明日よかったら志賀直哉に会いにいかないか!?」と切り出したのであった。その時、初めて知ったのだが、小谷さんは随分と志賀直哉を愛読しており、渋谷に未だ存命中なのでどうしても訪ねたいが一緒に来ないかと言うのである。「……志賀直哉ですか、三島由紀夫なら行きますけどねぇ……」私が気乗りしない返事をすると、小谷さんは残念そうな顔をして出て行った。

 

二日後の夜に寮の食堂で小谷さんを見掛けると、随分と嬉しそうであった。聞くと、小谷さんはやはり翌日に渋谷の志賀直哉に会いに行き、運良く在宅していた志賀直哉に許されて部屋に入り、一時間ばかり話をしてきた由。もちろんアポなしの、まるで刺客のような訪問ではあったろうが。(… やはり行けば良かったかな)ー 私は少し後悔したが、この後悔は、後に自分が文筆業もやるようになって次第に大きなものとなっていった。文体のエッセンスを盗むべく、あの正確な観察体の眼差しの極意について、後年の私は無性に知りたくなったのである。この年の秋に三島は自決し、翌年に志賀直哉も亡くなって、新聞は昭和の最後の文豪の死を大きく報じていた。その辺りから、文学も美術も大物が出なくなり、各々の扱う主題もまた小さくなっていった。

 

今になって、ふと思うことがある。小谷さんは何故私を誘ったのか…と。その頃の私は、文芸評論では伊藤整が抜きん出て良い事を語っていたからなのか……。後年になって、横浜に住んでいた私のところに深夜、小谷さんから電話が掛かって来た事があった。電話の声は思い詰めたように暗く鋭かった。電話の話では、小谷さんは教師を辞めて、やはり絵画で自分の才能を試してみたいのだという。聞くと、今、静岡のドライブインから電話をしているとの事。これから会いに行くので、作品を見てくれないか… という話であった。既に美術家としては身を立てていた私だが、何様でもない私が、先輩の絵を見て意見を言う…という、その不自然なニュアンスが何となく気になっていた。しばらく待ったが…結局小谷さんは現れなかった。そしてまた月日が流れていった。……小谷さんが既にこの世にはいない人であるというのを知ったのは、大学から送られてきた卒業生名簿の消息欄であった。古い手帖に書いてあった小谷さん宅の番号に電話をすると、奥様が出られ、その後の軌跡を知らされた。小谷さんは結局故郷の岡山に戻り、教職を務めながらその早い生を閉じたのであった。未だ40歳前後頃ではなかったろうか。小谷さんを思い出すと、いつも決まって浮かぶ想像の場面がある。それは小谷さんが志賀直哉と向かい合って対話をしている場面である。論客であった小谷さんは何を尋ね、志賀直哉はどう答えたのか……。それはもはや答えのない永遠の謎として二人は鬼籍に入って既に久しい。「やはり一緒に志賀直哉に会っておけばよかった!!」私が18歳の時に落として来た青春時の悔いのひとつである。

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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