先日、90歳近いご高齢の方と話をしていた時に、その方は、「震災や戦時中の空襲の時と比べて、今のコロナは形が目に見えないから、その分、かえって怖い」と話された。しかし、田山花袋の『東京震災記』に書かれた、運よく生き残った人達でさえ、その日の不気味に揺らぎながら沈んでいく落日の様を見て「この世の終わり」を実感したという物凄い惨状を読み、また戦時中の空襲の連夜に続く猛火の様を、記録からとは言え知っている私は、そんな筈はないだろうと思い詳しく聞くと、そのご高齢の方は、果たして東京の下町の惨状の現場にはおらず、彼方の安全な横浜の高台から真っ赤に燃える東京を遠望していたにすぎないのであった。
……震災の猛火から逃げて、墨田区にあった広大な空き地(旧陸軍被服厰跡)に辿り着いた人達およそ4万人が安堵したのも束の間、突然四方八方から飛んで来た烈火の炎を浴びて一瞬で死に絶えた話。また、沖縄のひめゆり部隊で生き残った人達が語った証言、……先ほどまで談笑していた一瞬後に横にいた部隊の女子の顔が半分、銃撃を浴びて吹き飛んでいた……という壮絶な話などと比較すると、まだまだこの度のコロナ禍は、比較にならない程に甘いものがあると私は思う。
ただただ目に見えない事から来る、実感なき相手への漠然とした不安と妙な疲れが……ストレスとなっているのである。……さらには、とりあえずワクチンが出来た事から来る気の弛みが、第4波のリバウンドを迎えても、昨年の4月頃の緊張感はもはや失せてしまっているように私には映る。……上野公園や目黒川沿いの桜の花見客の浮かれた様などを観ると、彼らには、見えない敵コロナなるものと、その感染者の現状は、対岸の火事のように見えているのではないだろうか?
つまりは、コロナウィルスの姿が見えないから気が弛む。緊張の持続が続かない。……ならば、とふと想像してみる。……このウィルスの不気味な存在を、何らかの形で可視化するには、どういう可視化があるのであろうか……と、いささかホラ―映画のコンペティションのお題的に考えてみた。そして1つの光景がすぐに浮かんだ。……その光景とは、じわじわと空から烏(カラス)の姿を消す事である。……では消えた烏は何処にいるのか?……烏は空ではなく、私達の足下に死体となって何羽も其処彼処に横たわっているのである。ウィルスは人以外には感染しないという定説を嘲笑うように、最初はあまり目立たずにパラ…パラと、そして、日を追って、さすがにニュ―スでもこの異変の報道が始まり、……郊外や山中でなく、例えば、浮かれた若者達が交差する渋谷のスクランブル交差点、新橋のJR改札口辺り、新宿歌舞伎町辺りに始まり…京都の祇園・宮川町辺り、福島の四倉町辺り、………にボトボト……と、しかも外傷なく横たわっている烏の死骸から、直感的にコロナウィルスのいよいよの不気味な侵犯の気配をそこに見て、今やウィルスを撒き散らしている若者達もひんやりして、さすがに沈黙するのではあるまいか。(いや、そこまでの感受性は期待出来ないので、やはり無理か!!)。
……とまれ「濡れ羽色をした恐怖」と、ひとまずは書いて、今日のブログでの妄想は仕舞う事にしよう。