瀧口修造

『記憶の謎―迷宮の無限回廊』

3週間に渡って日本橋高島屋本店・美術画廊Xで開催された個展『直線で描かれたブレヒトの犬』が終わり、今は初めての詩集の刊行が企画されている為に、詩を書き下ろしている日々である。思い返せば、個展時は毎日会場に行き、新作の〈今〉の姿を静かに考えたり、様々な人との嬉しい再会があり、また新たな人達との出逢いがあって、実に手応えのある展覧会であったと思う。……ともあれ、ご来場いただいた皆様に心よりお礼申しあげます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……個展会場にいると様々な人が来られるので、これが実に面白い。Mさんはその中でも異風の人であったかと思う。画廊Xの受付の人に「彼(私の事)、大学が一緒なんですよ」と言う声が耳に入って来たので振り向くと、そのMさんが私の前にやって来てマスクを外し「私の事を覚えていますか?」と問うので、私は「申しわけないですが、全く覚えていません。でも貴方だってそうでしょ?」と言った。するとMさんは「いや、北川さんの事は強烈に覚えていますよ!…だってあなたは入学式の時に学生服を着て来たので、最初からかなり存在感が強かった!」と言う。私が学生服を?……全く覚えてない話であるが、言われてみるとそんな事もあったような気も少しする。私の忘れていた自分の記憶の一部を、私でない他人が所有しているという事は、ちょっと風が吹くような感覚である。(……私が学生服姿で大学の入学式に現れた?)……まぁ、これをわかりやすく例えれば、実践女子大の着飾った華やかな入学式に、1人だけ鶴見の女子高のセ―ラ―服姿で荒んだ顔の娘が現れたようなものか。……そんな事あったかなぁと思う自分と、いやこれは、Mさんが懐いている私のイメ―ジが独走して紡いだ錯覚ではないかと思う、もう一人の自分がいる。……過去の一つの事象に対して立ち上がる、異なる断定と懐疑、また別な角度からの予想外の解釈が現れて、そこに短編のミステリ―が誕生する。一つの事象に対して複数の証言者が全く違った物語を展開する。……それを膨らますと、何だか芥川龍之介の『薮の中』、またそれを題材にした黒澤明の『羅生門』のようである。

 

写真家のエドワ―ド・マイブリッジが3台のカメラを使って撮影した、一人の女性が椅子から立ち上がった数秒間の動作を正面、右側、やや背後の三方から同時に撮した写真があるが、視点の違いから、同じ瞬間なのにかくも違って見えるから面白い。記憶もそうである。人が懐かしいと思って記憶している或る場面とは、つまりは一つの角度からの光に充ちた光景に過ぎず、違った角度から見れば、それは何と闇に包まれた別相なものである事か。ことほど左様に記憶とは覚束無い、つまりは脳の不完全な営みが産んだ幻影のようなものなのである。……先ほどの入学式の記憶をもっと解体すると、そもそも私は本当に美大に行ったのか?……もっと言えば、そう思っている実の自分は、未だ幼年期に故郷の神社の木陰で涼しい風をうけながら惰眠をむさぼっている、少し永い夢見の少年のままでいるのではないだろうか?……荘子が詠んだ『胡蝶の夢』、更には王陽明の詩にある「四十余年、瞬夢の中。/而今、醒眼、始めて朦朧。…………」或いは更に現実を離れて、唯心論の方へと、想いは傾いても行くのである。

 

 

 

 

……さて、今まで書いて来た事「記憶とは何か?……その不確実性が生むミステリアスな謎の無限回廊」を映画化した名作がある。アラン・レネ監督、脚本アラン・ロブグリエによる『去年マリエンバ―トで』が、それである。…私が、美術をやるか、或いは映像、文芸評論、……それとも舞台美術の何れに進むか!?その進路に迷っていた頃に観て自分の資質を知り、先ずは、銅版画の持つモノクロ―ムの冷たく硬質な、更に言えば強度な正面性を孕んだ表現分野に没入して行く事を促してくれた、決定的な出逢いとなった作品なのである。……この映画に軸となる一本の定まった筋は無い。文法的に言えば、文章が成り立つ為の規則―統語法(シンタックス)が外されている為に、それを観た観客は謎かけを提示されたままに、冷たい幾何学的な硬い余韻のままに映画館を去る事になるが、しかし想像する事の妙が次第に立ち上がって来て痛烈に忘れ難い印象を、私達の内に決定的に刻み込んでくる。……アラン・ロブグリエは映画化に先立ち四本の脚本を作り、それをバラバラにした後で繋ぎ合わせるという実験的な手法を用いた。「①現在、②Xの回想〈Xにとっての主観的事実〉、③Aの回想〈Aにとっての主観的事実〉、④過去〈客観的事実➡Mの視点〉の四本である。……ちなみにこの映画を、シュルレアリスムに深く関わった詩人の瀧口修造は「私における映画の最高傑作」と高く評している。画像を一点掲載するので、そこからこの映画の気配を感じ取ってもらえれば何よりである。

 

 

 

 

この映画『去年マリエンバ―トで』に、ダンスの勅使川原三郎氏が果敢に挑戦するという報が入って来た事は、最近に無い鮮烈な驚きであった。かつて観たあの難物に、最近ますますその才を発揮している佐東利穗子さんと共にデュオで挑む!!……氏の公演は三十年前から観始め、およそ七年前からは殆ど欠かさず集中的に観ており、このブログでも機会をみては度々書いて来たが、今回の公演はまた別な昂りもあり、今から公演が待たれて仕方がない。題して「去年『去年マリエンバ―ドで』より」。「……二十世紀は二人の怪物を産んだ。ジャン・ジュネニジンスキ―である」と書いたのは鋭い予見の人でもあった三島由紀夫である。私はそのニジンスキ―の伝説的なバレエの舞台に立ち会えなかった事を後悔し、長い間、嘆息をついていたのであるが、勅使川原氏のダンスを知ってからは、その嘆きも何時しか消えた。……送られて来た今回の公演の案内状には、「記憶ほど怪しいものはない。交わらない視線上の女と男」という一行と共に、以下のような一文が記されていた。「……私にとって記憶とは、頭脳で操作する遠近法ではなく、不確かに記録した身体内に置き去りにされた消えつづける煙のようなものを物質化する遊戯のようです。遊戯としての記憶と希薄な身体とが時間をさかのぼりさまよい途方にくれる。螺旋状に女は蒸発しつづけ男は常に決して勝てないゲ―ムをつづける。…………勅使川原三郎」

 

会場・シアタ―X(東京・両国)
会期: 2020年12月12日(土)・13日(日)・14日(月)・15日(火)

詳しいお問合せ : KARAS(カラス)  TEL03―5858―8189

 

〈チケットの取扱〉

チケットぴあ・イ―プラス

シアタ―X 〈電話予約・03―5624―1181〉

 

 

 

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『追悼・クリスト氏に寄せて―佐谷和彦氏と共に』

先月の31日、歴史的な建造物などをまるごと布で包む壮大な表現活動で知られる世界的な美術家のクリスト氏が死去された。死因は不明との事であるが、来秋に予定されていたパリの凱旋門を包むプロジェクトは本人の希望で進められ、公開される由。……名実共に、現代美術史における最後の巨匠といっていい人であっただけに、その死は実に惜しまれるものがある。私事になるが、私のオブジェの中では一番大作にあたる2m以上はある『反称学―エル・エスコリアルの黒い形象』(佐谷和彦氏収蔵)を、クリスト氏が来日された折りに、打ち合わせで訪れた佐谷氏の自宅で眼が止まり、絶賛の高い評価を頂いた事があった。佐谷氏の自宅のコレクションル―ムは一つの優れた美術館であり、実に心地好い緊張感に充ちている。タピエス、デュシャン、クレ―、ジャコメッティ、エルンスト、そして瀧口修造、……。その作家達の作品が展示してある壁面に拙作の大作のオブジェもまた掛けられている。クリスト氏は、その部屋に入るや、私のオブジェに真っ先に眼が止まり、「この作品はいい、実にいい」と話し始め、作者の事をもっと知りたいというクリスト氏に、佐谷氏は丁寧に答えられた由。そして深夜、クリスト氏が帰った直後に、佐谷氏は実に興奮して事の顛末を私に電話して来られ、私もまた熱い気持ちで、それを受け止めたのであった。これから私はオブジェの新領土に分け入っていこうと思っていた、正にその出発点―原点にあたる作品だけに、クリストという、これ以上は無い審美眼を持った先達に評価されたという事は大きな自信となり、以後1000点近く産み出して来たオブジェ作品の創作力の原点に立つ人なのである。……その後、ジム・ダインという、私が最も影響を受けていた世界のトップクラスに立つ美術家に版画を高く評価された事で、全くぶれない、表現者としての独歩の道を私は歩んでいく事になるのであるが、その表現者としての矜持とも言うべき立脚点に立つ恩人と云える人がクリスト氏なのである。……亡くなられたという知らせを受けた後、私はコレクションの中に在るクリスト氏の作品(画像掲載)を久しぶりに出して来て長い時間、それに見入って時を過ごした。

 

…………クリスト氏から高い評価を得る契機を作って頂いたのは、先述した佐谷和彦氏であるが、氏の運営して来られた佐谷画廊は、クレ―やジャコメッティ展をはじめとして、この国の美術館の追随を許さない最高度のレベルの展覧会を最後まで開催実現して来た、今や伝説的な画廊である。その企画も、クレ―の遺族のフェリックス・クレ―氏や、クレ―財団と直に交渉して最高な質の展覧会を手掛けて来られ、例えばそのクレ―展は、観客数が会期の1ヶ月間で3万人を越え、美術館のそれを遥かに凌いでいる。またライフワ―クとなった『オマ―ジュ・瀧口修造展』は、氏が亡くなられてからようやく美術館でも遅れて企画展を開催しているが、何れも佐谷氏の後追いにすぎない。その『オマ―ジュ瀧口修造展』の最期の企画(つまり、佐谷画廊の最後の企画展)は、私の個展を考えておられたのであるが、企画半ばにして逝かれてしまった。その事の詳細は氏の最期の著作『佐谷画廊の三十年』の、馬場駿吉氏(美術評論・俳人・元名古屋ボストン美術館館長)との対談で語られている。佐谷氏が亡くなられた時、私はそれが一個人の死にとどまらず、この国の美術界そのものの牽引力が無くなり、一気に希薄なものになって行く前触れと予感したが、果たして私の予見した通りの散文的な奈落へと、今の美術界は堕ちていっている。

 

 

 

 

……「芸術は死者のためにもまた存在する」という名言を記したのは、ジャン・ジュネであったか、ジャン・コクト―であったか。とまれ、今、私はオブジェの制作を日々続けているが、作品が出来上がると、私を表現者の高みへと導いてくれた人達を想いだし、その人達の眼になって、自作を視る事が度々ある。佐谷和彦・……駒井哲郎・棟方志功・池田満寿夫・浜田知明・……また、土方定一・坂崎乙郎といった美術評論家や、生前に関わった文学の分野の種村季弘や久世光彦・諸氏。……そしてクリスト氏がその点鬼簿に新しく加わった。このコロナウィルスの騒動の中、生と死の境が曖昧になって来た今、死者と対話する事が何やら日増しに多くなって来たように思われるのである。

 

 

 

 

 

 

 

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『勘三郎と内蔵助』

中村勘三郎さんのこの度の逝去に際し、あらためて人生の意味とは、その長さではなく密度と生き様である事を痛感した。舞台は度々拝見したが、今年の新橋演舞場での勘九郎襲名披露公演での口上が最後となってしまった。間近でお見かけしたのは久世光彦さんの葬儀の時であった。遺影の前に座っていて焼香のために並ぶと、数人前に勘三郎さんがいた。舞台では大きく華やいで見えるが、実際はかなり小柄であるのに驚いた。そういえばすぐ近くに森光子さんもいたが、舞台で共演したお二人がほぼ同じ時期に逝くのも何かの縁であろうか。政治家で、その死が惜しまれる人は昨今皆無であるが、役者は惜しまれてこそ命である。勘三郎としての円熟は果たせなかったが、この人が放つ「粋」と「艶」は、それを出し切っての生涯であったかと思う。生き急ぐように駆け抜けた見事な生涯であった。

 

人生を駆け抜けた・・・といえば、この時期はやはり1702年に起きた「赤穂事件」が思い浮かぶ。昨日、慶応義塾大学で開催中の瀧口修造展に行くために三田へと向かったが、途中で「泉岳寺」に眠る浪士たちの墓が見たくなり立ち寄った。私は四十七士の中では、最も奮闘した不破数右門と、上野介に太刀(槍ともいう)を浴びせ絶命させた武林唯七が好きであるが、やはり大石内蔵助(1659-1703)の墓前では立ち止まってしまう。その大石の辞世の歌「あら楽し思ひははるる身はすつる浮世の月にかかる雲なし」は、主君の浅野内匠頭の辞世の歌「風さそう花よりもなおわれはまた春の名残をいかにとかせん」の現世への未練がましさと比べると晴れ晴れとした心情が見事に刻まれていて心地良い。本来、辞世の歌とはあまり芸術的なレトリックを凝らさず、明快単純こそが好ましい。歌の31文字は俳句の17文字と比べると、その字数が多い分、つい本音が出てしまう。しかし本音を封印して後世に虚構や意地を放つのが辞世の歌の、云はば要領なのであろう。その意味でも、この大石の辞世の歌は目的を達成した自分や浪士たちの心境を映した名歌として、あまりにも有名である。しかし、しかし・・である。歴史好きな私としては、この大石の歌が、かつて何処かで聞いたものと重なって響くのが気になっていた。それで、個展も終わった束の間の閑を利用して調べてみた。すると、ある戦国武将の辞世の歌に辿り着いた。それは、信長と共に私の最も好きな武将である上杉謙信(1503-1578)である。謙信の辞世の歌は「極楽も地獄も先は有明の月ぞ心にかかる雲なき」である。如何であろうか・・・。たまたまだよと言う方もおられるかもしれないが、しかし両者を結ぶ人物が一人だけいる。それは江戸前期の儒学者、山鹿素行(1622-1685)である。彼は官学である朱子学を批判したため、一時、赤穂藩にお預けとなっていた折、若き日の大石たちに兵学を講じ、その際に行動学の美しい範として上杉謙信について熱く語った事は想像に難くない。その証しの一つが、大石が討ち入りの際に使った山鹿流の陣太鼓である。

 

討入りを果たした後に浪士達は四つの藩にお預けとなったが、その浪士たちが残した手紙の中に「虚しい・・・」という一文がある。ここに赤穂事件の真実が透かし見えるが、既に大石の意識は後世の評価にその目があった。「・・・・・浮世の月にかかる雲なし」を大石が切腹前のいつ頃に詠んだかは不明であるが、名プロデューサー大石内蔵助の本領がここに在る。上杉謙信からのパクリとは決して言えない見事な「引用の詩学」であると、私は思うのである。

 

 

泉岳寺の中門。空襲から免れて当時の遺構を今に留めている。

 

 

今も線香の煙が絶えない大石内蔵助良雄の墓

 

 

討入りの本懐を果たした後で、泉岳寺のこの井戸で吉良上野介の首を洗ったと云われている。碑は明治時代の俳優ー川上音二郎の建立。

 

 

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『中長小西』

1990年代のアートフェアーは横浜で開催された〈NICAF〉などに代表されるように、海外からも一流の画商が参加して質の高いものがあった。私も個展という形で当時の取扱画廊であった池田美術が出品したが、その時は真向かいのブースでドイツの画商がJ・コーネルの箱の作品を十点ちかく出品し、なかなかに緊張感の漂う見応えのある展示内容であった。

 

しかし、次第に個性のある画廊が姿を消して、代わりに右並えの流行ばかりを追った画廊(とは言い難い)がぞろぞろと出てきて、先述したアートフェアーも質の高さが次第に消えていった。数年前に訪れたアートフェアーもかくのごとくで、仕切られた各々の空間での展示は、そのほとんどが唯、並べただけの美的センスの伝わって来ないものが多く、私は未だ途中であったが帰ろうと思って出口へ向かった。すると、或る画廊の空間がふと目に入って来て私は足を止めた。他の画廊とは全く異なる緊張感がそこからは伝わってきて、私は引き寄せられるようにその前に立った。そこに展示されていたのは、私も生前にお会いした事のある天才書家、井上有一の今までに拝見した中でも最高の書(それはクレータピエスと同質の凄みを持っていた!!)、そして瀧口修造デカルコマニー山口長男など、決して数は多くはなかったが、圧倒的な質の高さと、何より張り詰めた美意識がその空間からは伝わってきて私を魅了した。画廊の名前は「中長小西」(NAKACHO KONISHI  ARTS)。初めて知る名前であった。その時、オーナーは不在であったが、私は一人の眼識を持った人物がそこにいる事を直感した。その中長小西のオーナー小西哲哉氏とお会いするのは、それから一年後のことであった。

 

中長小西が開廊したのは2009年の秋である。銀座一丁目にあるその空間は、まるで無駄をそぎ落とした茶室を連想させた。黒を基調とした壁面には、山口長男・斎藤義重李禹煥・・・といった現代作家から陶芸の加守田章二深見陶治、そして奥には村上華岳の掛軸がある。又後日訪れた時にはジャスパー・ジョーンズマルセル・デュシャン・・・といった作品があり、時代・ジャンルに促われずにトップクラスの作品だけを紹介していこうという画廊のコンセプトが静かに伝わってくる。オーナーの小西氏は、中長小西の開廊までは14年間、老舗の水戸忠交易で平安時代から現代までの美術に対する修行を積み上げてから独立したという筋金入りの歩みがあり、その眼識に一本のぶれない眼差しがある理由を私はそこで理解した。

 

その中長小西で私のオブジェの個展『立体の詩学 — 光降るフリュステンベルグの日時計の庭で』が今月の20日(木)から10月6日(土)まで開催される。私の持論であるが、或る作品が本物であるか否かは、例えば、洗練された美意識の極を映した茶室に掛けてみれば瞬時でよくわかる。本物はそこに同化し、偽物は弾かれる。例えばクレーデュシャンジャコメッティー、・・・彼らの作品を茶室に掛けてみる事を想像して頂ければ、私の云わんとするところが伝わるかと思う。その茶室の本質を画廊空間に移したような洗練が、この中長小西には存在する。その厳しい空間での展示は、私の表現者としての本能を激しく揺さぶってくるものがある。オブジェという、この名付けえぬ不可思議な存在物が、〈客体〉となってどう映るのか。個展を間近に控えた私の最大の関心がそこにあるのである。

 

〈マルセル・デュシャンの珍しいマルチプル作品〉

 

 

 

 

 

 

「中長小西」(NAKACHO KONISHI  ARTS)

住所:〒104-0061 東京都中央区銀座1丁目15-14 水野ビル4F

TEL/FAX:03-3564-8225

営業時間:午前11時~午後7時

日曜休 *22日(祝)は開廊


 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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