先月の31日、歴史的な建造物などをまるごと布で包む壮大な表現活動で知られる世界的な美術家のクリスト氏が死去された。死因は不明との事であるが、来秋に予定されていたパリの凱旋門を包むプロジェクトは本人の希望で進められ、公開される由。……名実共に、現代美術史における最後の巨匠といっていい人であっただけに、その死は実に惜しまれるものがある。私事になるが、私のオブジェの中では一番大作にあたる2m以上はある『反称学―エル・エスコリアルの黒い形象』(佐谷和彦氏収蔵)を、クリスト氏が来日された折りに、打ち合わせで訪れた佐谷氏の自宅で眼が止まり、絶賛の高い評価を頂いた事があった。佐谷氏の自宅のコレクションル―ムは一つの優れた美術館であり、実に心地好い緊張感に充ちている。タピエス、デュシャン、クレ―、ジャコメッティ、エルンスト、そして瀧口修造、……。その作家達の作品が展示してある壁面に拙作の大作のオブジェもまた掛けられている。クリスト氏は、その部屋に入るや、私のオブジェに真っ先に眼が止まり、「この作品はいい、実にいい」と話し始め、作者の事をもっと知りたいというクリスト氏に、佐谷氏は丁寧に答えられた由。そして深夜、クリスト氏が帰った直後に、佐谷氏は実に興奮して事の顛末を私に電話して来られ、私もまた熱い気持ちで、それを受け止めたのであった。これから私はオブジェの新領土に分け入っていこうと思っていた、正にその出発点―原点にあたる作品だけに、クリストという、これ以上は無い審美眼を持った先達に評価されたという事は大きな自信となり、以後1000点近く産み出して来たオブジェ作品の創作力の原点に立つ人なのである。……その後、ジム・ダインという、私が最も影響を受けていた世界のトップクラスに立つ美術家に版画を高く評価された事で、全くぶれない、表現者としての独歩の道を私は歩んでいく事になるのであるが、その表現者としての矜持とも言うべき立脚点に立つ恩人と云える人がクリスト氏なのである。……亡くなられたという知らせを受けた後、私はコレクションの中に在るクリスト氏の作品(画像掲載)を久しぶりに出して来て長い時間、それに見入って時を過ごした。
…………クリスト氏から高い評価を得る契機を作って頂いたのは、先述した佐谷和彦氏であるが、氏の運営して来られた佐谷画廊は、クレ―やジャコメッティ展をはじめとして、この国の美術館の追随を許さない最高度のレベルの展覧会を最後まで開催実現して来た、今や伝説的な画廊である。その企画も、クレ―の遺族のフェリックス・クレ―氏や、クレ―財団と直に交渉して最高な質の展覧会を手掛けて来られ、例えばそのクレ―展は、観客数が会期の1ヶ月間で3万人を越え、美術館のそれを遥かに凌いでいる。またライフワ―クとなった『オマ―ジュ・瀧口修造展』は、氏が亡くなられてからようやく美術館でも遅れて企画展を開催しているが、何れも佐谷氏の後追いにすぎない。その『オマ―ジュ瀧口修造展』の最期の企画(つまり、佐谷画廊の最後の企画展)は、私の個展を考えておられたのであるが、企画半ばにして逝かれてしまった。その事の詳細は氏の最期の著作『佐谷画廊の三十年』の、馬場駿吉氏(美術評論・俳人・元名古屋ボストン美術館館長)との対談で語られている。佐谷氏が亡くなられた時、私はそれが一個人の死にとどまらず、この国の美術界そのものの牽引力が無くなり、一気に希薄なものになって行く前触れと予感したが、果たして私の予見した通りの散文的な奈落へと、今の美術界は堕ちていっている。
……「芸術は死者のためにもまた存在する」という名言を記したのは、ジャン・ジュネであったか、ジャン・コクト―であったか。とまれ、今、私はオブジェの制作を日々続けているが、作品が出来上がると、私を表現者の高みへと導いてくれた人達を想いだし、その人達の眼になって、自作を視る事が度々ある。佐谷和彦・……駒井哲郎・棟方志功・池田満寿夫・浜田知明・……また、土方定一・坂崎乙郎といった美術評論家や、生前に関わった文学の分野の種村季弘や久世光彦・諸氏。……そしてクリスト氏がその点鬼簿に新しく加わった。このコロナウィルスの騒動の中、生と死の境が曖昧になって来た今、死者と対話する事が何やら日増しに多くなって来たように思われるのである。