#三島由紀夫

『勅使川原三郎xジョン ケイジを踊る』

 

先日の19日に荻窪の劇場カラスアパラタスに行き、勅使川原三郎さんと佐東利穂子さんによるダンス公演『ケイジの夢』を観た。…真っ暗な会場の舞台の上に垂直に朧な光が射しこむと左右にマヌカンのような気配を持った演者である二人が立っている。完璧なその美しい立ち位置の配置に先ず息をのむ。…そこから既に立ち上がっている緊張感は、かつてマルセル・デュシャンが(名人が配したチェス盤上の駒の配置は実に美しい)と語った、その美しさを想起する。

 

…また、満席で埋まった観客席に鋭く突き刺してくるその緊張感は、詩人・日夏耿之介の(己が頭脳は千百の思考の銀線で悉く/張り裂けさうであるところへ/水晶体は多彩多淫の光塵にて/……)という詩行の、正にそれである。…勅使川原さんの、時に犯意を多分に帯びたグロテスク、時にロマネスク、時にアルカイック…と妖しい身体表現の多彩な様が展開し、それに対演するように佐東利穂子さんの優美にして妖しい身体の動きが相乗して、ますますの膨らみを呈する中、そこにケイジの「夢」の緩やかにして眠るように虚ろな幻聴のような音が聴覚から忍び入って来て、私達はかつて覚えた事のない体感を各々の感性のまま各々の孤独の内に享受するのである。

 

……一瞬の隙もないこの緊張感の持続はおよそ一時間続き、最後の正に最後の暗転直前に、勅使川原さんが光の中で見せた〈一瞬の振り返り〉という所作によって、その一瞬後に美しい幻の残像となって、この作品は完成度の高さを極めるように、鮮やかに紡ぎ終えるのである。

 

 

 

………話を一変して物騒な事を書こう。…かつて三島由紀夫は、切腹する時の刃の様をこう語った事がある。…〈刀が体内に入るのではなく、体内にそれは出るのである〉と。…私がこの〈出るのである!〉と書かれた文章を読んだ時に覚えた戦慄は今も生々しく覚えている。…マゾヒズムの極地、被虐的なエロティシズムと狂気の混合、或いはやがて本人が突き刺す時の気合いの映しか⁉…三島が現代の定家と評した天才歌人の春日井建の歌にも、さすがにここまでのイメ-ジの言及は無い。

 

……それともう一つ。…周知のように、この宇宙はわかっているだけでも11次元あるというが、私達が感覚として実感出来るのは僅かにこの3次元だけである。身体内部もまた広大無辺な宇宙として捕らえ、そこに11次元的な考察をする事から見えてくる事の可能性の数々。……また、A4用紙の両端の左右に点を打つと、各々の点は左右に離れているが2つ折りにすると、この2点は一瞬で重なって最短の関係となる。

 

…………私は勅使川原三郎という稀人が全く独自に編み出したダンスメソッドについて時に好奇心を持って想像するのであるが、それをダンスではなく詩法の一つの可能性として考えている。…今述べた、三島の特異な身体感覚、宇宙の11次元的構造、紙上の2つの点の重なり……等々。これらも含めて様々な角度からの詩的イメ-ジの出現として捕らえ、その想像の権能から身体感覚へと移し変えているのではあるまいか、…そんな想像さえも、自分の制作の合間に想像してみるのである。そしてそれは自分の作品制作にも及んで来て、実に有益な時間でもあるのである。

 

………荻窪の劇場カラスアパラタスに行くと地階が公演会場であるが、私は1階の奥に展示してある勅使川原さんの毎回の新作素描を先ずじっくりと拝見するのを楽しみにしている。…来場した観客達は地階へと急いで、その素描の存在には気付いていないようであるが、私は実に興味津々に新作の素描に見入るのである。…世界素描大全という画集がもしあるとしたら、その全集に収まる事のない危ういまでに逸脱したその素描は必見である。

 

…あえて近似値を探すとしたら、人間の人体構造の仕組みを冷徹な迄に追及して描写したダ・ヴィンチが近いか、…或いは少女の腕の傷口に偏執したヴォルスのそれか。…とまれ勅使川原さんの素描を例えるならば、手術用の薄いゴム手袋を裏返した、その生々しさに或いは近いかもしれない。…それまで裏側の日影的な存在だったゴムの皮膚が急に表にされた事で、恥じらうように熱や匂いを放射して、腐臭さえも伝わって来るような、…そして腑分けされた肉の積み重ねられた素描の中に出現する幼児、時に胎児のままの姿と化した彼自身の肖像を前にする時、あたかもダンスという美的犯意の現場に遺された、犯人の姿を垣間見れるヒントのようで実に興味深いのである。

 

そして、真に彼は中原中也が記した、物が名辞される以前の感覚を温存したままに感性が息づいている稀人(つまりは本当の詩人)なのだと思うのである。

………『失踪したフィレンツェの或る屠殺執行人が遺した犯罪忘備録』…私は勝手にそう呼んで拝見している、この膨大な素描の山は、天才勅使川原三郎を知る、興味深いヒントなのである。

 

 

………ヴェネツィア・ビエンナ-レで金獅子功労賞を授賞して以降、更に海外からの公演依頼が殺到し、2月からは、プラハ・そしてミラノなどのイタリア三都市・ロンドン・セルビア・オランダと公演が続くので、次回の日本での公演は4月26日からである。

 

 

………アトリエには知人や未知の美術家からの個展案内状が届くが、申し訳ないが私は殆ど観に行かない。人生という短い時間の中で、無駄には過ごしたくないからである。…しかし、この荻窪にある劇場カラスアパラタスには余程の事がない限り私は通いつめ、既に10年以上の時が経つ。早いものである。…何故行くのか⁉…理由は簡単で、それが至純に美しく、紛れもなく本物の芸術だからである。

 

 

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『2024年が自転車に乗って去っていく…』

アトリエの片づけを3日間続けてやったら、引っ越して来た時に失くしたものと諦めていた手紙がまとめて出て来たのには驚いた。掃除はするものであるとつくづく思った。……作家の森まゆみさん、写真の分野を革新して芸術の高みへと押し上げたツァイト・フォト・サロン石原悦郎さん、私が最も影響を受けた比較文学者の芳賀徹さん、作家の松永伍一さん、…同じく作家の矢川澄子さん、版画家の浜田知明さん、加納光於さん、…他。大事と思って手紙をまとめてアトリエの奥の奥に仕舞っていたのがよくなかったのである。

 

 

…『週刊ポスト』で、私と久世光彦さんの共著『死のある風景』(新潮社刊)の書評を書いてもらったご縁で知り合った作家の倉本四郎さんのご自宅に喚ばれた時に、森まゆみさんとお会いしてご一緒に流し素麺を食べたのが出会いである。

 

…当時刊行したばかりの拙著『「モナリザ」ミステリ-』(新潮社刊)を森さんにお送りしたら、後日に読まれた感想を記したお手紙が届いた。…その末尾には(絵描きにこんな素晴らしい文章を書かれたら困る‼)…という強烈なお褒めの言葉が書いてあって私を喜ばせてくれた。……今、私の書斎には森まゆみさんの著書が20冊以上あり、中でもお互いが好きな樋口一葉に関する著書が最も多い。私が昨今とみに探訪している谷中に関しては、その多くを森さんの著書を導きの杖としているのである。

 

 

 

………芳賀徹さんの『與謝蕪村の小さな世界』から比較文化論的に思考する事の蒙を拓かれた私は、拙著『美の侵犯-蕪村×西洋美術』(求龍堂刊)と『「モナリザ」ミステリ-』を芳賀さんにお送りしたら後日にご丁寧なお手紙が届き、(『美の侵犯』は、小生も一度はこういう自由自在でまた的確な画文交響を演じてみたいと願っていたような面白さ。

 

…(中略)…モナリザミステリ-は、特にモナリザと漱石を小生論じつつありますので大いに使わせて頂きます。云々)という内容が綴られており、私はこれらの本を書いた事の手応えを芳賀さんのお手紙から最も強く覚えたのであった。

 

……またこの『美の侵犯-蕪村×西洋美術』を刊行してすぐの事であるが、この国の西洋美術史研究の礎を築かれた高階秀爾さんが、高島屋の個展初日に会場に来られ、私に、(新聞の書評で読んだ『美の侵犯…』の事が気になって買いに来ました。)と言われて驚いた。…高階さんは蕪村にかんする造詣も深いのであるが、専門の西洋美術史と蕪村は、高階さんの中ではあくまで別物であった。…それを私が一本の線で結びつけて論じてしまった事に驚かれたというのである。……これも芳賀徹さんからの比較文化論的な影響が奇想の着想を成したのであった。………加納さん、森さん以外は既に逝かれてしまったが、この手紙は私の大事な生きた証しとして大切に持っていようと、あらためて思った。

 

 

さて話は変わって、今度はカニの話を。……先日、私の故郷の福井から越前がにが沢山届いた。送ってくれたのは、高校の美術部の後輩だった小川正隆君である。(…小川君、こんなに沢山送ってくれたら、日本海からカニが絶滅しちゃうではないですかぁ…)と、バカな独り言を言いながら木箱を開け、…そして食べた。……カニの味噌や脚を裂きながらひたすらに食べた。

 

 

 

 

…そして、おもむろにカニの顔を視て恐怖した。三島由紀夫がカニが苦手でカニを出すと卒倒したという話も頷けるという、…何とも怨みがましい顔つき。…いずれの顔も渋い表情でいかにも無念げである。…ふと昔、家に出入りしていた大工の棟梁の留さんの顔を思い出した。頑固一徹の職人に、こういう顔つきの人が時々いる、そう思った。

 

 

………そして、カニと蜘蛛が先祖は同じだという説があるのを思い出し、タブレットで両者の顔を比較した。蜘蛛の顔を初めて視たが、こちらもゾッとする。

しかしよく調べたら同じ節足動物で、分類学上では鋏角亜門に入り、蜘蛛とカブトガニ、サソリは近いが、大別的には先祖はだいぶ離れているというので、少し納得をした。

 

 

 

 

…先ほど書いた、見つかった手紙の束の中に30年前に亡くなった父親からの手紙もあった。久しぶりに読み返すといろんな事が思い出されて来た。……その中にこんな事があった。…私が未だ小学生の頃、町内の家の並びの中で、何故か一軒だけ3メ-トルばかり奥に引っ込んでいる家があった。その空いた空間も私たちの善き遊び場であったが、しかしその家が放つ佇まいが子供心にも暗く不穏であったのを今も覚えている。……確か岩堀、そういう苗字であった。(…どうして、あの岩堀の家だけが奥に引っ込んでいるの?)…ある時に父親に訊いたら、笑いながらこう言った。(あの岩堀の家は稼業が泥棒なんだよ。だけど、市内の遠くで泥棒をしているが、この近所では絶体にやらないので、みんなが大目に見ているんだよ)…笑いながらそう言った。…奥に引っ込んでいるのは、そういう近所への頭を下げた感謝と遠慮を現しているのだというのである。…今では信じ難い話であるが、本当の話である。その頃は、そんなゆるい話がまかり通っていた、そんな時代だったのである。

 

 

前回のブログで盲目の按摩の話を書いたが、その後で旧知の友のMYさん(福岡市在住)と話をしたら、MYさんは面白い話をしてくれた。…昔、子供の頃の話であるが、MYさん宅で按摩にマッサ-ジを頼む為に電話をすると、盲目の按摩の人が自転車に乗ってやって来るのだという(しかももの凄い早さで正確に)。…私は闇夜に笛の音を頼りに按摩を探したが、未だそれは抒情的な方で、MYさんのこの話は、イタリアのフェリ-ニの映画や、唐十郎の舞台を想わせるものがあって面白い。…ベ-ト-ヴェンゴヤは聴覚を失ってから、更にその表現世界は深化したというが、人間がもつ代替の潜在能力たるや恐るべきものがあるのである。……そして、あらためて、自転車で疾走して来る盲目の按摩の姿を想像すると、その身体が一種の「闇だまり」(舞踏家・土方巽の造語)に見えて来た。

 

 

 

……思えばこの一年はろくな事がなかった。…世界はますます狭くなり、一触即発の気配が増す中で、人類はますます滅亡へのカウントダウンを早めているように思われる。…だから、ろくな事がなかったこの闇だまりのような2024年を、自転車に乗せて何処か遠くへと走り去らせたい、今は気分なのである。

 

…では来年は⁉…………その答えは誰もが直観の内に感じとっている事であろう。…決して口には出さないが、その次に来るであろうもっと巨大な「闇だまり」が、チリンチリン…と不気味なベルを鳴らしながら近づいて来ている事を。

 

 

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『記憶の中の夕暮れに属する部分』

 

…異常気象のために春や秋がその姿を消して久しい、2024年の12月はじめ。…(これぞ秋の姿!!)という風景が、一瞬目の前に恩寵のように現れた。場所は日暮里御殿坂に沿った谷中墓地。…銀杏の大樹から綺麗な黄葉が落ちて地表に充ちたその様が、記憶の中の或る絵画と重なったのであった。…パリ近郊の村グレーを描いた浅井忠の名作『グレーの秋』である。

 

『グレーの秋』

 

 

 

 

 

…最近の私は、木下杢太郎の詩をよく読んでいる。同時代の北原白秋と比べると、詩の才は虚構の美文へと高める白秋に指を折るが、杢太郎は画家を志望しただけに、その詩から当時の風景が生に立ち上がって来て、白秋とは異なる不穏な郷愁を喚んで、私の記憶の中の夕暮れに属する部分を少し揺らすのである。

……『玻璃問屋』という詩をここに挙げよう。玻璃は「はり」と読むが、ここでは「がらす」。また、盲目は「めくら」。

 

 

……………「空気銀緑にしていと冷き/五月の薄暮、ぎやまんの/数数ならぶ横町の玻璃問屋の店先に/盲目が来りて笛を吹く。その笛のとろり、ひやらと鳴りゆけば、/青き玉、水色の玉、珊瑚珠、/管の先より吹き出づる水のいろいろ/一瞬の胸より胸の情緒。…………(以下は略)。

 

 

 

この詩の(盲目が来りて笛を吹く。)という部分から、推理作家の横溝正史の名前を連想した方もおられるであろう。…そう、横溝正史は間違いなく、木下杢太郎のこの詩を読んで、彼の代表作『悪魔が来りて笛を吹く』という題名を着想した事は間違いないのである。

 

…私が未だ20代の頃に、その横溝正史と出会った事がある。昔々、都内の某ホテルで角川映画の完成記念パ-ティに招かれたので行くと、沢山の映画人、文化人がおり、通された席の白い円卓に私の名前があり、同じ席にデビュ-直後の薬師丸ひろ子と、横溝正史夫妻の名もあったのである。…(この人が、江戸川乱歩と交わりがあり、あの『八つ墓村』を書いた人なのか‼)…じっくり眺めたその顔を私は今でも覚えている。

 

 

…後年、私は彼が『八つ墓村』を書く切っ掛けとなった実際に起きた凄惨な事件『津山三十人殺し』の現場となった、岡山県の西加茂村にある貝尾部落を訪れた事があるが、横溝正史は事件発生直後に、この三十人殺しの余韻が生々しく残る現場を訪れて、後に『八つ墓村』を書いたのである。…同席した時に、もしその事を先に知っていたなら、私は横溝正史に直接訊く事が山ほどあったのにと悔やまれる。

 

 

…木下杢太郎の詩に戻ろう。…この詩に登場する盲目の男の姿は直に虚無僧や、めくらの按摩師を想わせる暗い気配がある。…歌舞伎の『東海道四谷怪談』に登場する按摩・宅悦(仏壇返しという不気味な場面は見どころ)や、勝新太郎『座頭市』演ずるところの、その按摩(現在のマッサ-ジ師)である。…昨今は見かけなくなったが、昔は地方の町にはいたものである。…朝は豆腐売り、昼は金魚売り、…そして黄昏後から深夜にかけて哀しい笛を吹きながら、町の辻々を流していた昔日に視た一編の風物詩であろう。

 

…私は覚えている。子供の頃に父に頼まれて、笛の音を頼りに按摩を探しに行った事があった事を。…子供心に盲目の按摩は不気味であったが、親の頼みだから仕方がない。…夜の闇へ、さらに深い闇へと探しながら私は歩いた記憶がある。…そして子供心に想ったものである。(…ここは、江戸か…⁉)と。

 

 

…按摩と言えば、やはり勝新太郎の座頭市であろう。その勝新と三島由紀夫が面白い会話をした事がある。映画『人斬り』で薩摩の田中新兵衛役を演じた三島が、土佐の岡田以蔵役を演じた勝新に(勝さんの居合い斬りは、実に見事ですが、何処で学ばれましたか?)と剣の流派を問うと、勝新いわく(俺かい?…俺は杉山流だよ)と答えると、三島いわく(なるほど、道理で‼)と、さも納得したように頷いたという。

 

 

 

 

 

 

…この話には落ちがある。勝新は或る人にその話をして(杉山流と言うのはな、…あれは按摩の流儀なんだよ)と言って豪快に笑った。…絶対に、〈私はそれを知らない〉と言うのが嫌いな三島由紀夫の負けず嫌いな面が表れた面白い逸話である。

 

 

 

 

……さて、2024年も間もなく終わりであるが、このブログは、今年は今回で終わりになるのであろうか。…何だかもう1回だけはありそうな。…ともかく、今は昼は木下杢太郎や室生犀星を読みながら、夜は詩を書いている、年の暮れの私なのである。

 

 

 

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『何故、川端康成はそれについて黙っていたのか…完結編』

今年もアッという間に年末になってしまった。…12月になると、ジンタの楽隊のように遠くから〈クリスマス〉という響きが聴こえて来る。…私は耶蘇教の信徒ではないので別段関心はない。…むしろクリスマスと聴くと、私の耳の中で変換されるのか、…クリスマスが→苦しまず、に聴こえて来てしまう。…出来るならば…苦しまずに一瞬で逝きたいものだ…と。

 

 

 

…さて、12月に入ったある日の事、私は日本橋人形町の老舗洋食店『小春軒』に入って早めの昼食を食べていた。…店の隣は文豪・谷崎潤一郎の生誕の地である。

 

 

 

 

…出てきた好物の海老フライを食べながら幼年時代の谷崎について考えていると、そのライバルであった川端康成の事が浮かんで来て、あれこれと思う事があった。今回のブログは、それについて書くのである。

 

 

 

…この国が戦後にやってしまった愚策の代表的なものが2つある。1つは抒情豊かであり、先人達との魂の結び付きの深かった地名(町名)が1962年に変更になり、何とも褪せた浅い名前になってしまった事である。…例を挙げれば、小石川初音町が→文京区小石川1~2丁目に、また、樋口一葉が住んでいた本郷菊坂町が→文京区本郷1~2丁目に、湯島天神町が→文京区2~3丁目…といった具合に。…この愚策を、第二の東京大空襲と評して怒った人がいるが至言かと思う。

 

…もう1つが、教科書からルビを無くしてしまった事である。…「日本の戦後教育の大誤算の一つは、ルビをなくせば漢字学習の民主化が徹底されると考えて、あの便利なルビを極力一掃してしまったことであろう。じつに馬鹿げた発想というべきだ。…」と、澁澤龍彦は自著『狐のだんぶくろ』の中で書いているが、この愚策を考えた役人は万死に値するといっても過言ではない。

 

…さて、そのルビに関してであるが、川端について小春軒でつらつら考えていたら、今まで全く考えていなかった或る疑念が卒然と湧いてきた。……それは川端康成の代表作である『雪国』のまさしく冒頭に書いてある「国境」の文字であるが、あれは本当は、「こっきょう」でなく「くにざかい」と読むのが正しいのではないか⁉…という疑念である。日本語本来の読みは訓読み(和語)が正しいので、当然くにざかいが正しい。…しかし今では当然のように「こっきょう」と皆が読んでいる。川端自身もそれを否定していない。…確かにその方が勢いがある、しかし、川端の抒情豊かな世界から見ると、この勢いは…いささか速すぎる感があり、列車から見る風景に、哀しみを含んだ村々の景色がありありとは見えて来ないのである。

 

……早速アトリエに戻って調べが始まった。…そして驚いた。…私が懐いたこの疑念は当たっていて、文学界でも未だに結論がつかないまま論争中なのだという事がわかり、俄然面白くなってきた。……事実、川端自身が武田勝彦(武田はくにざかいが正しいと読んでいる)との対談で「くにざかい」の読みを諾なっているのであるのを知った時に、徹底して詰めて考える私は、これはミステリ-として実に面白い…と思ったのであった。…つまり、誰よりも美しい日本語に厳しい筈の、しかも作者自身である川端康成が、「こっきょう」の読みも否定せず「くにざかい」の読みも諾なっている事のこの曖昧さ。もっと言えばいい加減さ。……その川端自身の曖昧さの奥にある、秘めた心理の実相を開いてみようと私は考えたのである。

 

…川端のもう一つの代表作は『伊豆の踊子』である。清らかな14歳の踊子に惹かれる、孤独な青年を美しく描いた、あまりにも無垢な短編小説。…しかし、この小説が誕生する裏には1冊の本の存在が原点となっている事はあまり知られていない。

 

田山花袋が大正7年に書いた『温泉めぐり』がそれである(ちなみに伊豆の踊子は大正15年に発表)。

…田山はその本の中で書いている。(湯ヶ野にある温泉宿の福田屋の湯槽からは、向かいで湯浴みする旅芸人の若い娘たちが見えた)という意味の事を。

 

……それを結び付けたのは猪瀬直樹の川端康成と大宅壮一に関する著書である。猪瀬の調査は川端自身が書いている気象の記録までを精査した徹底ぶりで、まるで偽証やアリバイを覆すようで面白い。…濁った視線の欲望から結晶化した無垢なる産物『伊豆の踊子』の生誕逸話としては実に面白い。

 

…さて、その猪瀬の本が出る遥か前に、一人の美大の学生が、中伊豆のその福田屋に泊まり川端が入った浴槽につかった。……「私」である。

 

 

 

 

 

 

部屋で名物の猪鍋を食べていると仲居がやって来て、(このお部屋は百恵ちゃんも泊まったんですよ)と嬉しそうに話した。

 

…はて、百恵ちゃん?…伊豆の踊子に主演した山口百恵の事か、なるほど、そう思った。

 

 

 

…私は学生時は梶井基次郎の文章が好きで、彼が泊まった『落合楼』に翌日は泊まり、大学の寮に戻ってから50枚ばかりの論文『伊豆の踊子小論』を書いた。

 

川端の資質の内に生来ある突然の時間感覚の飛翔性に及んだもので、…その論旨は、川端も評価していた伊藤整の伊豆の踊子論と重なる視点だったので、大いに自信を得たが、銅版画の制作が忙しくなってきたので、文芸評論家への道はやめた。やめた後に、文芸でなく美術評論を手掛けるようになり、それは『「モナリザ」ミステリ-』(新潮社刊)や『美の侵犯-蕪村x西洋美術』(求龍堂刊)となり、美術書としては異例の増刷となった事は善い事である。

 

 

 

…さて急いで結論に入ろう。…私はこう考える。…つまり川端自身が当初思っていた以上に作品は独り歩きを始め、いつしか作者を離れて『雪国』は川端の生涯を代表する名作であるばかりか、日本の近代文学を代表する名作となっていった。

 

……本当は国境は「くにざかい」と読むつもりで抒情豊かに書いたのであるが、自分がまさかのルビを打たなかったばかりに、いつしか「こっきょう」として読まれ始め、その速度感が読者にも気持ちよく響いて広く知られる事になり、口々に誰もが知る〈国境(こっきょう)の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。…… 〉になっていった。……ここに至って、(くにざかい…と訂正を入れる事にもはや意味はないだろう。…このまま曖昧なままでいよう。それがいい。…それでいい。)…彼の内なる生身の俗性と野心はそう思ったと私は視る。

 

 

 

俗性と野心?…私は今そう書いた。…………後年に、(今回は私に譲って欲しい。)…ノ-ベル賞受賞が決まる前に、川端が、今一人の候補者として下馬評が高かった三島由紀夫に書いた焦りとも映る、手紙で見せたノ-ベル賞受賞という栄誉への異常なまでの執着は凄まじい。

 

 

…受賞の決定は三島が審査するわけではないのに、そこまで見せてしまった俗を極めた名誉欲に映る様は、ある意味、不気味ですらあるだろう。

 

…………この受賞以後、川端の執筆はその勢いを停めてしまい、自裁した三島由紀夫の幻を度々視るようになり、睡眠薬への依存はやがて、誰もが知る逗子マリ-ナでの終焉へと繋がっていったのである。

 

 

…さて最後にささやかな秘話を一つ書こう。…実は川端康成は1971年に①仰天すべき或る事をしてしまった。…もしこの事実が明るみに出れば、新聞は一面に載るばかりか、ノ-ベル賞の歴史までもが根底から覆る出来事なのである。…さすがに私でも、それをここで書く事は憚られる、秘密にしなければならない質の、それは内容なのである。……日本の文芸界の裏の秘話を実によく知る知人から最初に聞いた時は、私もさすがに疑った。…しかしあの川端ならあり得ない話ではないな‼…私はすぐに切り替えた。

 

……②話は全く変わるが、1971年に秦野章(元・警視総監)が都知事選に立候補した時に、川端康成が応援演説で登場した時、世間は大いに戸惑い、川端という人物に疑問を呈した事があった。…政治には全く関わりを持たない事を信条としていた、あの川端が何を考えているのか理解に苦しんだのである …。

 

さて、今書いた①と②は各々が別な2つの点である。…しかし、この2つの点に1本の線を引いたとしたら、さぁどうだろう。……直観の鋭い、このブログの賢明な読者諸氏の中にはピンと来た方がおられるのではあるまいか。…ヒントを?…ヒントなら今回のブログの中にそっと伏せたそのままに。…とまれ、「事実は小説よりも奇なり」を地でいく、それは話なのである。どうしても知りたいという方は、いつか、人形町の小春軒でお会いしたその時に。………………

 

 

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『存在感を放つ戸嶋靖昌記念館-東京・半蔵門』

…ここ数年来、千葉のDIC川村記念美術館から毎回送られてくる展覧会の招待状から次第に「気」が抜けて来ているなと思っていたら、案の定、来年1月から休館に入るという。収蔵されているコ-ネルほかの名品の行方を危ぶむ声が届いていて、その存続を願う動きが起きているという。しかし、多くの人々は気づいていない。美術館の実質は、建物や収蔵品が第一に非ず、ひとえにそれを企画する館長の理念と気概、学芸員のセンス、知性、そして発信するという事は知の揺さぶりなのだという有機的な自明の事を認識しているか否かの是非にあるという事を。…確かに千葉の佐倉は遠くて不便ではある。しかし、展覧会の質が高ければ、人は己を高める為に其処に行くのである。伝わって来る休館(或いは移転説)に至った経緯を読むと、運営における資金面や他の諸事情はあるとしても、つまりは人、人材が美術館というものの実質的な骨格なのである。

 

……例えば、10月2日から始まる高島屋での大きな個展の後、私は、11月29日から名古屋画廊馬場駿吉さん(美術評論・俳人)とヴェネツィアを主題とした二人展を開催する予定であるが、その馬場さんが以前に館長をされていた当時の名古屋ボストン美術館の展覧会の企画力は、実に素晴らしいものが続いており、その多くを観た私の記憶には今もそれが鮮明に残っている。馬場さん自らがその多くの企画の立ち上げから関わり、また優れた学芸員がそこに能力を発揮していて、展覧会には常に観る事の愉楽と知との華やぎがあった。ジム・ダイン展、北斎展、ゴ-ギャン展…と様々な名品展が次々に開催され、会場はいつも沢山の観客で溢れていた。…繰り返すが、その美術館の館長が抱いている理念の高みと、それを具体化する能力のある優れた学芸員の存在があれば、その美術館へと人は己を高めに積極的に行くのである。

 

 

しかし問題はDIC川村記念美術館だけでなく、アトリエに届く、他の多くの美術館の案内状からも同様に「気」が抜け落ちていて、何やらぼんやりとした黄昏時の感がある。…そのような中で例外とも云えるのが、このブログでも度々紹介して来た、東京・半蔵門にある戸嶋靖昌記念館からの展覧会の案内状であり、その記念館が刊行している冊子「ARTIS」が届いた時である。…郵便受けに届いていると、まるで私宛に届いた果たし状か挑戦状のような気配が既にしてそこから伝わって来る。

……「戸嶋靖昌記念館」…館長の執行草舟さんは、実業家、啓蒙家であると共にまた数多の著作を執筆刊行している人であるが、美術作品や書などの収集も精力的にされており、現在の収蔵品は既に数千点を超えており、今なおその作品数は増え続けている。…ちなみに私のオブジェや銅版画も多数そのコレクションの中に入っている。…昨年、この美術館の数多ある収蔵品の中から選抜してスペイン大使館で『禅と美』と題する展覧会が開催されたが、その企画の切り口の鋭さを感受した人々が会場を訪れて連日賑わいを呈していた。…前述したが、発信するという事は知と美の揺さぶりであり、この展覧会はそれを具現化した一例なのである。

 

 

…執行さんは「美とは、部分の調和によって成り立つ。それは、目に見えるものと見えないものとの間にある」というダ・ヴィンチが遺した言葉を知る人であり、その見えないものの深部迄も直観で感受出来る人なのだと、私は時おり感じることがある。

 

田中昇 「イタリア風景」1971年制作

…今、この戸嶋靖昌美術館では『イタリアの響き』というテ-マで、40代で夭折した画家・田中昇展を11月30日迄開催中である。…デュ-ラ-ゲ-テは烈々たる過剰な光を精神に受容せんとして希求するようにイタリアへと赴いたが、田中の描いたイタリアには、私達が知るその光が無く、むしろ謎めいた静寂を帯びていて、遺された画面には、ミステリアスな一人称めいた韻が静かに流れているのである。…

 

 

 

…さて、前述したが、この美術館では冊子「ARTIS」を刊行している。それは僅か10頁前後の薄い冊子であるが、その内容の知的密度には無尽蔵な深みと緊張があって、私は毎回送られてくるのを待ち遠しくしているのである。内容は主席学芸員の安倍三﨑さんから執行さんへのインタビュ-が主であるが、10代にして三島由紀夫や小林秀雄と対話して鍛えて来た人だけに直観の鋭さと知性の洗練が深みを帯びていて、その文章を読む事それ自体が私達に突きつけられた挑戦状であり、美的享受ともなっている。また安倍さんが執筆している巻頭の〈一点を追う〉、自由企画の〈いま、ここで〉は、9月号では田中昇さんの作品への詩的抒情に充ちた文章が綴られ、次回、10月1日から刊行配布される「持続する思考」特集号では、私のオブジェについての論考が掲載される予定である。

 

 

 

 

…………さて、最後に大事なお知らせを。…隔月毎に刊行されているこの「ARTIS」。希望される方には無料で送られてくるので、ぜひ読んで頂きたいと思っている。
申し込み方法は、①戸嶋靖昌記念館直通の電話番号03-3511-8162か、②主席学芸員の安倍三﨑さんのアドレス-abemi@biotec1984.co.jpに、お名前・ご住所・お電話番号を連絡すれば、次回、拙作のオブジェへの論考が掲載されている号から、無料で隔月毎に送られてくるので、ぜひのご愛読をお勧めする次第である。

 

 

……………さていよいよ、10月2日からの高島屋での個展『狂った方位-レディ・パスカルの螺旋の庭へ』展が近づいて来た。出品総数65点。…今回は私の感性にいつしか呪縛的に入り込んでいる螺旋という構造が放つ狂いのオブセッションから、美を立ち上げるという試みである。全作品に私の神経が放射されており、深く突き刺さっているという手応えが強くある。今月末のブログにはそれについて書く予定。…乞うご期待である。

 

 

 

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『台風直下に登場する宮沢賢治』

…かつて死者3000人以上を出した伊勢湾台風に匹敵する強烈な台風が発生し、九州地方で猛威を奮った後で、今、東へと向かっている。…このブログを書いている時点で、ようやく台風は熱帯低気圧に変わったが、これから関東にやってくる為、まだ大量の雨の心配が残っている。…止まらない海水温度の更なる上昇は、来年以降、前代未聞の破壊力を持った台風へといよいよその狂暴さを増していく事は必至である。…(ここはヴェネツィアか⁉)と映るほどに、特に東日本は水都(いや廃都)と化し、車が水に漬かっている光景が、もはや日常的になって来た。

 

山は常に大量の水を孕んでいるので、今や何れの山も、実質は砂山のように脆い。特に、山を真後ろに背負って暮らしている人々にとっては、梅雨から秋まではメメント・モリの心境ではあるまいか。

 

人類におけるカタストロフ(悲劇的な破局)が、遠くから次第に、うっすらと視えて来てでもいるような…………

 

 

…話は変わるが、少し前に親しい知人の方から、私の書いたいわゆる直筆原稿なる物がオ-クションに出品されているという事を教えて頂いた事があった。…寝耳に水の事で早速ネットを開いたら、確かに私の書いた原稿が、入手した誰かによって出品されていた。…それも原稿3枚で3万円の高値であった。競売でこれから更に上がっていく気配で、私は驚いた。原稿が高値で流通しているという話は小説家ではよく聞くが、美術家では例がない。

 

…小説家の直筆原稿で一番高いのは、漱石樋口一葉を筆頭に、三島由紀夫もかなり高い。…私の価格のクラスでは、色紙の北原白秋がやや近いか。……その話を友人に話したら嬉しそうに喜んでいる。彼が持っている私の年賀状や手紙に未来を託してでもいるのだろうか。…しかし当人の私としては疑念が残って気持ちが悪い。…ネットで視た私の原稿は30年以上前に書いた原稿で、老舗書店の丸善から刊行しているお堅い冊子に書いたものであったと記憶する。確か英文学者の高山宏氏からの依頼で書いた原稿で、その号には荒俣宏氏ほか何名かの方も書いていた記憶があった。

 

…(何故、その原稿が流れてオ-クションに出ているのであろうか??)…流して売ったのは誰か!?まさかとは思うが、消去法で考えていくと、忽ち一人の人間に辿り着いた。丸善の当時の編集者である事は間違いがない。…そう思うと、その痩せた小柄な編集者の顔や姿がありありと浮かんで来た。…当時私はシェイクスピアに関心があったので彼にその話をしたら、頼んでもいないのに直ぐに分厚いシェイクスピア学会の大事な名簿のコピ-を送って来た事があった。(この人物、ちょっとバランスを欠いているな)…そういう印象を、その編集者に持った事が思い出されて来た。…

 

高山宏氏から自由に書いてほしいと言われたので、私は宮沢賢治と、アッサンブラ-ジュの先駆者として知られるジョゼフ・コ-ネルに共通する試論のような事をその原稿に書いた。……宗教を信仰するという事は、ある意味、他力本願の要素があるので、自力を持って道を切り開く事を旨とする表現者とは道が違うと思われる。少なくとも私自身はそう思っている。…しかし客観的に考えてみると、私の知る限りでは、二人の表現者が宗教の教義を背景にして創作活動をしていたな!…という共通点が見えてきた。…それが宮沢賢治でありコ-ネルなのである。私はその事をその原稿に書いた覚えがある。…

 

周知のように宮沢賢治は法華経との出逢いにより、あの特異な宇宙観を自らの物とした。…一方のコ-ネルが信じた宗教はクリスチャン・サイエンスというキリスト教系の新宗教で、世界は、つまりはイリュ-ジョン(幻影)であるという考えである。なるほど、その視点から視るとコ-ネルの消え入りそうな表現世界の芯がそこには視えて来る一面がある。

 

 

…ちなみに拙著『美の侵犯-蕪村X西洋美術』(求龍堂刊)でもその事が出て来て、更にミステリアスなコ-ネルの震撼すべき姿へと話は発展して書いているので、ご興味があり、まだ未読の方は、お読み頂けたら有り難い。

 

…今年の始め頃から何故か宮沢賢治の事が度々気になって仕方がない。文芸史の域を超越した彼の表現世界の特異さに関心がやたらに行くのである。…私が何か或る事を強く思っていると、向こうからそれがやってくるという事は度々あるが、今回もそういう事が起きた。横浜高島屋美術部の荒木さんから、宮沢賢治を主題とした展覧会を今秋(10月9日から14日まで)開催するので、という出品依頼が届いたのである。

 

…私は秋(10月2日から)の日本橋高島屋の個展と、11月29日からの名古屋画廊への出品予定があるが、宮沢賢治ならば話は別とばかりに、6月に宮沢賢治作品への想いを具現化した一点の作品を作り、その作品に『幾何学に封印された銀河鉄道の幻の軌跡』というタイトルを付けた。…すると先日、荒木さんから自作に寄せた文章を書いて欲しいというメールが来たので、私はそれを一気に書いた。今回のブログはそれを掲載して終わろうと思う。

 

 

「『銀河鉄道の夜』の主人公ジョバンニと、親友のカムパネルラとの薄雪の結晶のような透視的なまでの詩的叙述の旅。

……賢治の特異な宇宙観や自然界との強い交感力は、現実の世界とは異なる位相への同化を希求してはじめて獲得出来た、云わば自己放棄ゆえの精神的な達成であった。

……本作品『幾何学に封印された銀河鉄道の幻の軌跡』は、その詩的結晶に迫る試み、…語り得ぬゆえの、オブジェに秘めた硬質な試みである。」

 

 

 

 

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「火炎地獄の夏は、ひんやりとした話を…」

①…ふと思うのだが、今の時代、もしこんな猛暑の中にク-ラーが無かったら、熱中症で毎日毎晩何万人という死者が出る事はもはや間違いない。…想像するに、火葬する焼き場が足りず、積み上げられた死体の山は、中世のヒエロニムス・ボスの絵を遥かに越えて凄惨なものとなっていたであろう。

 

……火葬場といえば、私の少年時代にこんな事があった。今でこそ火葬場はまるで結婚式場のような綺麗な造りであるが、少年時代、特に田舎の火葬場といえば山の上の暗い場所にあり、湿った緑蔭に蔦が繁っていかにも何かが出るという不気味な雰囲気があった。

 

…確か8才の頃であったが、遊びに飽きた私達ガキどもは胆試しがしたくなり、火葬場を探検しに行く事にした。人家が次第になくなって来て、そこへと続く一本の坂道が私達を誘っているようであった。…先頭にいた私は、その坂道の途上で、薄い煙があがっている角状の小さな欠片が落ちているのを見つけ、それをつまんでみた。瞬間それは指にくっつくような、絡み付くような冷たさで、思わず私はそれを捨てた。…(何だろう?)…その疑問は数年後の夏に解けた。…それは蓋をする前に棺の中に入れて死体の腐敗を防ぐ為のドライアイスだったのである。

 

 

…しかし疑問は続く。…私達が来る前に通っていったであろう何台かの霊柩車。その黒い車の中に、釘打ちされて厳重に開けられない棺の中に入っている筈のドライアイスが、何故1個だけ、あろう筈がなく棺から飛び出して何故そこに落ちていたのだろうか!?そんな事がありえるのだろうか?……夏ゆえにドライアイスは死者の体をびっしりと覆うように詰められている。…私はその一片のドライアイスを通して、顔さえ知らないその死者と………。

 

 

②度々このブログでも登場して頂いている田代冨夫さん(通称・富蔵さん)は、以前にも書いたが、鉄や真鍮などで実に超絶的な細密なオブジェを作って発表している人である。…ここ数年来、私は気心の知れた富蔵さんとは頻繁にお会いしているのであるが、場所は決まって日暮里・谷中墓地近くの老舗の蕎麦屋「川むら」で食した後で、静かなカフェで過ごすのである。少年時代の話や、幽霊の話、最近は富蔵さんの不思議な体験談など話は尽きないが、先日はこういう事があった。

 

…私がその時に持っていたのは、作家の吉村昭さん(1927-2006)の「私の普段着」(新潮文庫)と題するエッセイ集であった。

 

その中に吉村さんの少年時代(昭和9年頃)に体験したトンボ捕りの話が出て来る。吉村さんの生まれ育った町は、今、私達がいるカフェや谷中墓地の近くなのである。

 

「…谷中の墓地は、トンボ捕りの格好な地で、私は、連日のように歩きまわっていた。ある日の早朝、墓地に入ると、今は焼けてない五重塔の近くに二、三名の警察官がいて、縄が張られていた。異様な雰囲気で、恐るおそる縄の張られた中をうかがってみると、墓石のかたわらの松から白いものが垂れさがっているのが見えた。白い着物を身につけた若い女性で、白い帯を松の枝にかけて、縊死している。…素足の伸びきった先端がわずかに地面にふれていて、私はトンボ捕りどころではなく、逃げるようにその場を離れた。……」

 

 

吉村さんの少年時代の話は、次に谷中墓地内に眠る徳川慶喜の墓所で、人目を避けて営まれていた男女の切迫した暗くて熱い営みの目撃談へと続くのであるが、…つまり、この墓地はかつてはエロスとタナトス(死の本能・衝動)の真剣な舞台であり、現場だったのである。

 

(………ここ谷中の墓地は桜の名所。ほとんどが桜で松の木は数本有りや無しや。…しかも五重塔(放火の為に今は塔は無い)の礎石は今もそのまま残っている)。…ここのカフェは次にお茶が出てくる。…私達は出された熱いお茶を呑みながら、殆ど同時に同じ事を考えていたらしく、それが好奇心の強い私達の目に表れていた。

 

…店を出て向かったのは、その松の木であった。…五重の塔跡に近づくや、富蔵さんが(在った!)と言って指を差した。盆栽などにも造詣が深いので植物の見分けもさすがに瞬時である。…しかし枝分かれした部分(つまり白い帯をかける場所)がかなり高い。およそ9m以上も上に在るのである。(果たしてここなのかな?)……その時、友が以前に教えてくれた知識(松の木は20年で2m伸びる)が卒然とよみがえって来た。…私達は現在から逆算して当時の枝分れの場所を推理して、およそ2m位の高さにそれが在った事を推定した。…ならば、90年前に吉村少年が目撃したそれとピタリと符合する。

 

……ここか、ここで吉村昭さんはその縊死の現場を目撃し、そういう体験の蓄積が、三島由紀夫久世光彦が評価した名作『少女磔刑』やその他の密度の濃い作品へと羽化していったのだと私は思った。

 

 

 

 

…富蔵さんと私は、その若い女性が90年前にこの松の木の下で深夜に紐を掛けるに至ったであろう、その時代の物語りについて、結論などない事を知りながらも話し合ったのであった。

 

 

 

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『占星術vs実証主義的人間』

…横浜山手の根岸の坂を上がった所に、相模湾を眺望できるレストランがある。荒井由美(松任谷)の初期の代表曲『海を見ていた午後』の舞台となったレストラン『ドルフィン』である。その眺めのいい坂を少し下がった所に山下清澄さんという銅版画家の友人が住んでいたことがあった。ロマネスク趣味のその作品は三島由紀夫マンディアルグ寺山修司らが評価していた。

 

…ある日、彼の自宅で話をしていると山下さんがこう言った。(僕の知人で女性の占星術師がいてね、実によく当たる。なかなかの美人で確かミス慶応だったと思うけど、裕次郎から映画界入りなどの話があっても彼女は全く関心がなく、ひたすら占星術の技を究める事だけに生きているような女性でね。この世の万象に起きる事や人間各人の運命が、その人間が産まれた時の星の配列と何らかの因果関係があると確信するようになり、ひたすらその技の研鑽のみに専心して生きている不思議な女性だよ。彼女は最近、元町(横浜)の裏通りに店を出しているけど、どう?…よかったら紹介するけど、今から行かないかい?)……私は2つの日本語で返事をした。…ぜひ…と。

 

…その当時、私は横浜山下町の海岸通に住んでいたので、歩いて中華街を越えれば元町はすぐである。…(こんな近くにこんな店があったのか)…そう思って薄暗い店内に入ると件の女性(仮にSさんにする)はいた。確かにSさんは美しい人だと思ったが、それよりは一見して直感力の鋭さを内に秘めたものを私は強く感じた。その時に未だ小学生だったお嬢さんも一緒だった。Sさんはゴヤが好きだというので話が盛り上がり、やがて山下さんと私は店を出た。…後でSさんから聞いた話であるが、お嬢さんは勘が鋭いらしく私達が帰っていった後でこう言ったという。(さっき来た二人で、ママとずっとお付き合いしていくのは、あの北川さんの方よ)と。…そして事実そうなった。またSさんも、私が店内に入って来た瞬間に、普通と明らかに違う鋭い気を放っているのを感じとったという。

 

…その頃は版画をあまり作っておらず、またオブジェの妙に目覚める前だったのでかなり暇な時であった。だから日々の散歩がてらに元町のその店に度々行き、私の中学生時代に体験した(著名な俳優夫妻の幼児が、住み込みの家政婦に浴室で絞殺された事件があった時に、私は夢の中で正にその殺されていく瞬間を生々しくリアルタイムでカメラを回すように透かし視てしまった)話や、その後も思った事が現実になる予知夢を頻繁に視てしまう話などをたくさん語った。…Sさんいわく、占星術の店といっても実際に来る客は、浮気の話や相手を代わりに呪い殺してほしいという俗な依頼ばかりで全く面白くない。…だから、私が話す体験談は、本当の占星術の深みに絡んで来るので実際に面白く、具体的に勉強になるのだと話してくれた。誤解がないように云うが、占星術師といっても、皆がみな万能的に当たるのではない。医者と同じで、ほとんどの者は素人に毛が生えた程度と見て間違いないだろう。

 

…元来、直感力の鋭い人間が古代から伝えられて来た、例えば占星術の場合、カ-ドを介した透視術を更に研鑽する事で漸くその内の何人かだけが本物になっていくのである。…だから依存性の強い人間が客になった場合、占星術を商いにしている似非占星術師にとっては待ってました!の大事な客であるが、Sさんのような人はそういう客は煩わしいので殆ど避けている。……Sさんの場合、資産は潤沢にあるので、食べていく為にやっているのではなく、あくまでも稀人のような手応えのある人物の出現を期して店を開いているようである。

 

私の知人・友人は各々に独自の道を究めている個性的な人が多いので何人かを連れて行きSさんに紹介した事があった。…例えば、この国を代表する詩人の一人であるTさんを連れていった時は特に面白かった。…生年月日をTさんが言うとSさんが机上にカ-ドを並べてこう言った。(ごく最近、とても親しい人を亡くされましたね)と。…Tさんは私に小さく耳打ちし(…吉岡実さんの事だね)と言った。…西脇順三郎以後のこの国を代表する詩人の一人、吉岡実さんはつい数日前に逝去したばかりなのである。……Sさんは続けてカ-ドを読み解きながら、Tさんにこう断言した。(近いうちに大きな賞を取りますね)と。…果たして、二週間ばかりして、Tさんは賞としては一番評価の高い読売文学賞を、故・澁澤龍彦さんと共に同時受賞したのであった。

 

…私はいつも無料で視てもらうのであるが、海外に留学する文化庁の在外研修員の試験の前に開催した個展の時には、このような事があった。…個展が始まる1週間前にSさんは私に次のように助言してくれた。(作品をプリントした紙やきの写真を二枚と、作家としての詳しい履歴書を一枚用意しておいた方がいい)と。…何故なのかは訊かなかったが、ともかく私は用意して個展初日を迎えた。…初日の午後に築地の朝日新聞本社の学芸部長で美術評論家の小川正隆さん(後の富山県立近代美術館館長)が画廊にふらりと来られた。…小川さんは池田満寿夫さんを介して面識はあったが、個展の案内状は出しておらず、また画廊側も出していなかった。…何かに引かれるようにして個展に来られた小川さんはこう言った。(とてもいい個展なので文化欄で紹介したいのですが、作品を撮した紙やきはありますか?)と。私は用意していた作品の紙やきの写真を渡すと、(あぁ助かります。これがあれば直ぐに載せられます)と。…会期の後半直ぐに新聞に写真入りで大きく紹介されたので、人がたくさん来てくれて個展は盛況であった。

 

…小川さんが画廊に来られた時に(そうだ!)と思い、私はこう言った。(実は文化庁の試験に応募したいのですが、小川さんに推薦状を書いて頂く事は可能ですか?)と。…私は群れるのが嫌なので団体展の組織に入っておらず、もう一つの美術評論家連盟は、面識のあった土方定一さんや坂崎乙郎さんは既に故人の為、知己は無かったので、他に推薦状を書いてくれる人が浮かばず困っていた時に、小川さんが現れたのであった。(推薦状、もちろん書きますよ。そうだ、北川さんの経歴を書いた書類のようなものはありますか?)と。…小川さんに履歴書を渡して、間もなく推薦状が送られて来た。…画廊から去っていく小川さんを見送りながら(…そうか、Sさんが用意しておくようにと言ったのは、この事だったのか…と私は思った。

 

……そして、文化庁の留学試験日がやって来た。…版画部門のその年の倍率は確か800倍くらいであったと記憶する。…もちろん自信はあるが、受かる為に事前に裏工作とか必死で仕掛けて来る者がいるらしい。…一次、二次の書類選考を突破して最終選考は面接である。…残った40名ばかりの作家が控え室で自分の名前が順に呼ばれるのを待っている。…私は官庁内の古くて薄暗い天井をぼんやりと見ながら(まるで処刑前の赤穂浪士みたいだなぁ…)と思った。……面接員は左右に役人20名づつ。正面に審査委員長、美術評論家ほか数名の書記官がいた。…この時の美術評論家はよりによって私が最も評価していない人物であった。…よほど私はこの相手が嫌いなのであろうか、喋っている途中から怒りに似た妙な感情が沸いて来て、私は止せばいいのに、この評論家にグイグイと逆に迫った。

 

審査が終わった後で、(あぁ、やり過ぎてしまったなぁ、)と思ったが後の祭。………2週間ばかりして元町のお店に行くとSさんが含み笑いをしながら、面白そうにこう言った。(この前の面接の時、もの凄く強気で攻めていたでしょ)と。…(確かにバンバン攻めましたが、どうしてわかるのですか!?)と訊くと、その面接の時間に私の事が気になってカ-ドで視ていたのだという。……そして、Sさんは笑いながらこう言った。(来年は、北川君は日本にいないと出ているから、大丈夫、受かっているわよ)と。…半信半疑の妙に浮わついた気分のまま家に帰ると、留守電がチカチカと点いていた。…受話器を取ると、録音の声で文化庁からであった。…在外研修員に内定した事を知らせる電話であった。

 

…占星術を信じる人、信じない人、各々にいて当然である。…信じない人、そこに確とした論拠は実は無い。何故なら体験していないから(だけ)である。また依存するように過信、盲信するのも気持ちが悪い。…というより他力本願になり、その実人生に拠って立つ足場が弱くなってしまう。…ただ私のように度々不可思議な事を実体験すると、占星術、またその他にある占い云々といった概念的なものを超えて、何か不可思議な交感の法則めいた絶対律のようなものが、私達の人智や想像力を越えて存在する事は否定できないように思われるのであるが、読者諸兄はどう思われるであろうか?…想えば、無から美という有を引き出す営みとしての芸術も然り、また詩の発生する瞬間に立ち上がる瞬発力もまた何物かとの交感する発火行為に他ならない。…不可思議。…ただそれだけが残るのである。

 

…さて次回は、この占星術に真っ向から挑んだ二人の人物、織田信長とレオナルド・ダ・ヴィンチの知られざる逸話を紹介する予定。引き続きの乞うご期待である。

 

 

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『日暮里に流れている不思議な時間…』

…今年は展覧会が5ヵ所で予定されている。…5月は金沢のアート幻羅(5月9日~6月2日)と千葉の山口画廊(5月22日~6月10日)での個展。金沢は初めてなので、私の今迄の全仕事総覧。千葉の山口画廊は全く新しい試みと挑戦による鉄の新作オブジェを中心とした展示。10月9日~14日は横浜の高島屋で、これは個展でなく、宮沢賢治の世界を主題としたグル-プ展。…10月2日~21日は日本橋高島屋ギャラリーXでの大きな個展。11月29日~12月14日は名古屋画廊で、ヴェネツィアを主題とした、俳人の馬場駿吉さんとの二人展である…。今はアトリエで制作の日々であるが、それでも忙中閑ありで、時間を見つけては度々の外出の日々であり、数多くの人と会っている。

 

…その中でも一番多くお会いしているのは、このブログでも度々登場して頂いている、真鍮細工などの超絶技巧の持ち主である富蔵さん(本名、田代冨夫さん)である。富蔵さんは、パリで昔建っていて今は無い建物とその一郭をアジェの古写真を元に精密に真鍮で再現し、その時に流れていた時間や気配までもそこに立ち上げるという、不思議なオブジェを最近は集中的に作っていて、作品のファンが多い。…富蔵さんとは初めてお会いした時から波長が合い、前世からのお付き合いが現世でもなお続いているような、懐かしの人である。昨年からは特に制作の具体的な話から、文芸の話、幼年時代の記憶までも含めて幅広い内容でお会いする事があり、私には気分転換と充電を兼ねた密にして大切な時間がそこに流れているのである。…待ち合わせ場所は決まって日暮里の御殿坂の上、谷中墓地の前にある老舗の蕎麦屋『川むら』であり、その前にあるカフェでさまざまな事を語り合っているのである。

 

3月のある日、その日も富蔵さんとの約束の日で、私は日暮里駅を降りて、御殿坂を上がっていったが、未だ約束の時間には早すぎたので、坂の途中にある古刹・本行寺の境内に入った。…この寺は江戸時代からの風光明媚な寺として知られ、小林一茶種田山頭火も俳句を詠んでいる。また寺の奥には徳川幕府きっての切れ者、永井尚志の墓があるので、それを見に行った。…坂本龍馬が暗殺の危機にあり、周りから土佐藩邸に入るように勧められた時に、龍馬が「自分は永井と会津に面会して、命の保障をされているんだ」と言った、その永井である。結局、龍馬は中岡慎太郎と共に見廻り組によって斬殺されてしまったのは周知の通り。……ちなみに文豪の永井荷風三島由紀夫の先祖である。

 

…墓参して引き返す時に、面白い光景が目に入った。…寺の塀に沿って夥しい数の卒塔婆がズラリと立ち並んでいるのである。その向かい側にはすぐに家々が建っていて、明らかに、その部屋から見える朝からの光景は、障子や窓越しに並んで立っている、卒塔婆、卒塔婆…のシルエットなのである。私はそれを見て思った。「…こういう眺めが平気で住んでいる人というのは、一体どういう人たちなのだろうか?」と。映画『眺めのいい部屋』の裏ヴァ-ジョンである。

 

 

…私は卒塔婆の傍に立って、様々な人物像や、その生活の様を、オムニバスの短編小説を書くようにして想像(妄想)した。…すると、何よりも好奇を好む私のセンサ-が強く反応して「いや、きっと面白い人物が住んでいるに違いない」、そう思い、私は待ち合わせ場所の『川むら』の横にある露地へと入っていった。

 

…昭和然とした家々がひっそりと建っている、その先に、はたして一軒の家が目に入った。

 

 

『湿板冩眞館』と書かれた白い看板。そして見ると、この家を訪れて撮影したとおぼしき、女優の杏さんや北野武、草彅剛の写真がその下にあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…そして、坂本龍馬を撮影した幕末期の写真機を使って、現在も活動中である由が書かれた看板も目に入った。…入ってみたい衝動に駈られたが富蔵さんとの約束の時間である。いったん戻り、再び私達はその家の前に立って、呼び鈴を押した。

 

 

 

中から出て来られたのは、写真家(写真術師の方が相応しい)の和田高広さん。…玄関壁には今まで撮影された人達の硝子湿板写真(その誰もが現代と昔日のあわいの不思議な時間の中で生きているようだ)。

そして、和田さんに案内されてスタジオの中に入るや、そこは、現代の喧騒とは無縁の、まるで時間を自在に操る光の錬金術師の秘密の部屋に入ったような感慨を覚えた。

 

 

…それから、和田さん、富蔵さん、そして私の、表現創造の世界に人生の生き甲斐を見いだしてしまった、云わば尽きない物狂いに突き動かされている私達三人の熱い話が、堰を切ったように、およそ二時間始まった。…話を伺うほど、和田さんが独学で究めてきた、写真術が未だ魔法の領域に属していた頃の世界に私達は引き込まれていった。

 

 

…私は以前のブログで書いた或る疑問を和田さんに問うてみた。…幕末の頃は写真機の前でポ-ズする時間がおよそ30分位は必要と言われているが、私には1つの疑問がある、それは龍馬と一緒に暗殺された中岡慎太郎が笑って写っている写真があるが、…30分くらい、人は可笑しくもないのに笑っていられるのか?…という疑問であった。…長年懐いていたこの疑問を和田さんは一言で解決してくれた。…(30分くらい必要というのは間違いで、実際は20秒あれば写ります!と。

 

 

…また樋口一葉が手を袖の中に入れて写っているが、その訳は何故か?…その答えは樋口一葉研究者達を一蹴するような、古写真撮影の現場を実際に知っている人にしかわからない話で、私は長年の疑問の幾つかが、忽ち氷解して勉強になったのであった。

 

…富蔵さんの話も面白かった。話が進んでいくと、富蔵さんと和田さんに共通の知人がいる事がわかってくる。私達はアンテナが何処かで間違いなくつながっている、そう思った。…二時間ばかりがすぎて私たちは写真館を出てカフェに行き、余韻の中で更なる会話がなおも続いたのであった。

 

 

2日後の22日に、東京国立近代美術館で4月7日まで開催中の写真展-『中平卓馬 火/氾濫』展を観る前に、私は今少し和田さんにお訊きしたい事があったので、事前に連絡を入れて、再び日暮里の写真館を訪れた。…すると嬉しい事が待っていた。午後から写真を撮られに来る人がいるので、その撮影の為に感光液を新たに作ったので、(その液の試験に)と、私を撮影する準備が出来ていたのであった。いつか私も生きた証しとなるような記念写真を和田さんに撮影してもらいたいと考えていたのであるが、まさか今日!とは嬉しい限りである。…しかも坂本龍馬を撮したのと同じ写真機で。

 

 

 

……思えばつい先日、本行寺に寄って龍馬と関わりがあった永井尚志の墓を見た帰りに、ふと見た卒塔婆に導かれて、細い露地へと入っていったその先に、このような出会いが待っていようとは、だから人生は面白い。…和田さんの二階から見えた本行寺の墓地は実に明るい眺めで、彼岸の陽射しを浴びて墓参に来られた人達もまた穏やかな会話を交わしている。…最初に予想していた逆で、この部屋こそ正に『眺めのいい部屋』なのであった。…ちなみに、私が撮ってもらった写真の仕上がりは、龍馬というよりは、高杉晋作、或いは石川啄木の姿に近いものであった。

 

 

 

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『人魂に魂を入れてしまった男の話』

…東京の大井町線とJR南武線が交わる所に「溝の口」という駅がある。今ではすっかり様変わりして駅前通りが綺麗になってしまったが、昔は溝(どぶ)の口とよばれた、実にロ-カルな渋い場所であった。…この駅から線路沿いにしばらく歩いた所に、多摩美術大学の男子寮があり、私は18才の一年時からそこに入っていた。(…余談だが、寮に行く途中に地味な布団屋があった。後で知ったのだが、私が来るしばらく前に一人の青年がその店でバイトをしていた。…後のタモリである。私はタモリは頭がいいと思って感心した。…布団屋は暇であり、たまに仕事が入って布団を運んでも軽い楽な仕事、しかし時給は他とあまり変わらない。バイトをするなら、忙しいスタバでなく、布団屋に限る。)ま、それはともかくとして、大学に入ってすぐに私は二つの大きな挫折をあじわった。

 

一つは、日本の美術の分野を代表する作家の斎籐義重氏が多摩美で教えていたので習おうと思って勇んで入ったものの、斎籐氏は学園紛争で外部に出てしまい、目標とする人物が大学にはいなくなってしまったのである。…二つ目は、三島由紀夫の『近代能楽集』に強く感化された私は、三島に長文の手紙を書き、その最後に「貴方の美意識を舞台美術で具現化出来るのは、間違いなく私しかいないと思っています」と熱く書いて投函した。…根拠はなくても強烈な自信だけは満々とあったのである。…出してから数日して丁度届いたと思った頃、ふとテレビをひねると、三島由紀夫が決起して市ヶ谷の自衛隊駐屯基地で演説をしている、まさかの姿が中継で入って来た。そして自決。…上京して半年で、前途の目標を失ってしまったのである。(斎籐氏には後に会う機会があり、私のオブジェを高く評価してもらったが、やはり18才の生な時に語り合いたかったと思う。)……、当面の目標が断たれはしたが、しかし私は未だ18才。生きていかなくてはならない。

 

…二年生の夏に、偶然の導きで池田満寿夫氏の版画と出会い、一気に版画表現にのめり込んで行くのであるが、私はもちろんその運命を未だ知る由もない。…文芸評論、映像作家、或いは悪の道。…しかしどの道に進むとしても先ずは充電と思って、映画はフィルムセンタ-に通い、文芸はかなり読み耽った。…金が無いのでバイトは数々したが一番日当が佳かったのは、桜田門や大手町の地下鉄の送風機を取り付ける仕事で、日当5000円(今に換算すると毎日3万円くらいか)であった。…このバイトは力仕事なのに何故か多摩美と芸大の学生だけが独占し、各々の大学から30名づつくらいが、いつも組んで場所を移動しながら稼いでいた。…昨年亡くなった坂本龍一氏の本を本屋で立読みしていたら、彼もそのバイトをしていた事を知って驚いた。…(そうか、あの学生達の中に彼もいたのか…)と思うと共に、彼もその本の中で書いていたが、どの大学も紛争直後で荒廃し、何か空無な気だるい無力感が漂っていた、そんな時代であった。

 

…多摩美の男子寮は、多摩芸術学園と洗足学園音楽大学(寮も含む)の間に在った。…寮の庭から、洗足学園の女子寮の食堂が見えた。華やかな笑い声が時折聞こえても来た。…この大学は、古くは歌手の渡辺真知子や、近くは平原綾香等が出た、いわゆるお嬢様学校。…私どもの寮の食事はほとんど茶色一色。冷えたご飯に生卵を割れば、先ずは白身が沈んで次に黄身も消えるような粗食。先方の寮の食事はカラフルの一語に尽きる、…同じ人間として生まれて来た筈なのに…いささかの理不尽がそこにあった。一言で言えば、晩飯とディナーの響きの違いか。だから寮の先輩からは、こう言われたものである。(洗足女子寮の食事は見るな!…見れば自分たちが辛くなる)と。

 

…私の部屋の隣室に中村敬造さんという2年上の先輩がいた。…デビュー当時の武田鉄矢を講釈師にしたような飄々とした、何とも味のある人であった。…私達は、そして寮の誰もが、真昼時の太陽が沈むのを忘れたかのように……暇であった。…敬造さんの部屋で、(……しかし暇ですなぁ…)と私。(…まったく、何か面白い事が無いかねぇ…)と敬造さん。……私は言った。(いっそ、人魂でも出しますか!?)と。敬造さんは(人魂かぁ、それは面白いかもなぁ。しかしどうやって作るんだ?)と訊くので、(まぁ任せて下さい!)と言って、私は寮の黴びた物置小屋から細い竿を出して来てピアノ線を結んで艶消しの黒を塗り、綿に油画に使う画材のオイルを染み込ませて、アッという間に作り上げた。

 

…(で、何処に人魂を出す?)と敬造さんが言った瞬間、私達は同じ事が閃いた。…やがて夜になった。…私達は寮の塀を乗り越え、一路、隣の女子寮へと向かった。…ある部屋の前に来たものの意外と窓が高い。敬造さんが踏み台になり、私が部屋の中を見た。…しかしそこに見たのは紫煙けむる中、あぐらにコップ酒、花札の中にいる女子達の姿であった。…(北川、何が見える?)と下にいる敬造さんが小声で訊くので、私は応えた。(見ない方がいいですよ、まるで女囚、ここでは人魂を出しても意味が無い)と話して、静かに下りた。…その時であった。ボロンボロンというピアノの音が近くの窓から流れて来たのであった。…見ると、先程とは一転して真面目風な感じの女子2名が熱心にレッスンの最中であった。…(人魂はここがいい!)…私達は綿にライターで火を入れて、ゆるやかに、かつ怨めしく人魂を闇夜にゆらゆらと浮かべ、そしてさ迷わせた。

 

敬造さんが小声で言った。(しかし北川は上手いね!…まるでプロの文楽の人形師のようにリアルだなぁ!)と。(人魂の中に魂を深々と入れるんですよ。悲しく、あくまでも悲しく!)……自分たちでも感心するような哀しい人魂の揺れ具合である。(これで食べていけるのでは)私はふとそう思った。

 

……、その瞬間であった。突然バタンという、ピアノの蓋を激しく閉じる音が響いたと同時に、部屋の中から複数の叫び声がキャ~からギャ~へとけたたましく響いた。その時であった。「こら~!!」という警備員の鋭い声が響き、私どもの方へ走って来るのが見えた。…私達は咄嗟に逃げて、先ずはバタンバタンと転がる人魂を矢投げのように塀の向こうに投げ、続いて私どもの姿も瞬時に多摩美の寮がある暗闇の中へと消えた。

 

問題が起きたのは、その翌日であった。洗足学園の寮から抗議があり、放火魔らしき二人組が出没して多摩美の寮に消えたので、調べて欲しいという内容であった。寮生全員が集められたが、結局名乗り出る者はいなかった。…洗足学園側は、美大の連中はらちが明かないと見て、浸入を防ぐ為の鋭い有刺鉄線が、まるで収容所の塀のようにして、延々100メ-トル近くも張り巡らされたのであった。…敬造さんと私は反省会議を開いた。…あのようにリアルな人魂をもっと人々にあまねく見せたいが、ではそれを何処に出すか…という会議であった。…そして寮の最屋上の給水設備の所から、第三京浜へと向かう車列に向けて、人魂を出す事になり、それはその夜に決行された。

 

…私達は黒服に身を包み、人魂を闇夜に再び揺らしたのであった。効果は予想以上であった。(北川、見ろ!…車が渋滞し、車から出てきたみんながこっちを指差しているぞ!)と。方々のクラクションが鳴り響き、…私達は想像したのであった。…人魂を見たあの人達は、後々までずっと信じるかもしれない。…人魂は本当にいる!何故なら私は、あの夜に溝の口で見たのだから……と。……しかし、その時、私はまだ知らないでいた。…僅か六年後に本当の人魂を見てしまうという事を。

 

…多摩美の大学院を修了した私は、寮を出て、2つの住所を転々と移り、横浜山手の丘の上に在った「茜荘」というアパ-トに移った。…この建物は以前は連れ込み宿であったのを作り直したのであるが、玄関に料金所の名残りがあって、それとわかるのであった。出て右に行くとすぐに真っ赤に塗られた打越橋というのがあるが、そこは飛び込み自殺の名所。…茜荘を出てすぐ左には牛坂と呼ばれる暗い坂道があるが、引っ越して来てすぐに読んだ、『昭和の猟奇事件-ノンフィクション』という中に突然、その坂の事が出てきて驚いた。…なんとその坂道の途中に在った人家で、狂った若い女が家族を皆殺しに殺すという事件が起きたのであった。その話の出だしは「…食っちゃったぁ」と、その狂女がへらへらと笑いながら、踏み込んだ二人組の刑事に話す場面から書いてあった。…救いは山手へと向かう先にあるミッション系の共立女学園の存在。…しかし、ここだってわかったものではない。

 

池田満寿夫さんのプロデュ-スで初めての個展を開催したのが、私が24才の時。…その個展が始まって、確か3日目の夜、銀座の画廊から帰途につき、石川町という駅を出て、地蔵坂という坂道を上がり、途中から石段を登って家路に着くのであるが、その夜は小雨が降っていた。石段の途中の右側がロシア正教の小さな教会、左が江戸時代からの小さな墓石がたくさん立っている、その墓石の私のすぐ近い所に、ポッと鈍く光るものが突然、出現した。「…人魂か!!?」一瞬そう思った私は、その人魂の走る先を凝視した。…人魂は燐が燃えたものと俗に言うが、燐ならば無機質な物質なので林立して立っている墓石の何れかに直ぐにぶつかって消える筈。私がぞっとしたのは、その小さな人魂が、まるで意識があるように、ランダムに立っている墓石を次々と避けるように薄く光りながら流れていき、やがて墓場の先の暗闇に消えていったのであった。

 

……私が人魂を見たのは、それ1回きりであったが、学生の時に作った人魂とは全く違う、静かな不気味さがあり、今も記憶に焼き付いて離れない。…昔作った人魂は、歌舞伎の怪談で、離れた客席まで見せる為の大きな作りであり、人々はそのイメ-ジのままに今日まで到っている。……私の残りの人生の中で、今一度、あのような薄火の、しかしそれ故に芯から恐怖が伝わって来る人魂を見る機会が果たしてあるのであろうか?…ここまで書いて来て、俳句で人魂を詠んだのがないかとふと考えた。…意外になく、只一作だけあったのを私は思い出した。…「ひと魂でゆく気散じや夏の原」である。気散じとは気晴らしの意味。…ひとだまになって、それでは夏の原っぱをぶらりとゆこうかという、風狂達観の意味がこめられた作である。…作者はいかにもの人。葛飾北斎の辞世の句である。

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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