ミケランジェロ

『十月・神無し月の五つの夜話―澁澤龍彦から勅使川原三郎まで』

①……今や四面楚歌に窮したプ―チンが新たに発令した100万人規模の兵士追加動員令。しかし死んでたまるかと、この愚かな兵役命令を嫌って国外に脱出するロシア人達の車列の長さ。……ロシア各地方の役場が慌てて発行したずさんな召集令状には、年寄りや病人も入っていたというが、あろうことか既に亡くなって久しい死者にまで発行されたという杜撰さ。……それを知った私は想像した。旧式の銃を担いで村役場前に集合した、蒼白くうっすら透けてさえ視えるその死者達の不気味な群れを。そして私は昔読んだ或る実話を思い出した。

 

……それは、今から118年前の日露戦争時の話である。日露併せて22万人以上の死者が出たこの戦争が終った後に、日本軍の戦史記録者が記した記録書にはロシア兵の捕虜が語った興味深い言葉が残っている。

 

「日本軍が突撃して来る時の凄さは本当に怖かった。屍を踏みつけて来るその様は怒濤のようであった。中でも一番怖かったのは白い軍服を着た一団であった。撃っても撃っても倒れないので、遂に我々は恐怖で狂ったようにその前線から逃げ出した。……」という記述。これは一人の証言でなく、何人もの捕虜達が語っている記録である。……もうおわかりであろう。日露戦争時の日本の軍服は茶褐色(カ―キ色)で統一されており、白い軍服を着た一団などは存在しない。……そう、彼らは戦死した死者達が一団となって突っ込んでくる幻影を視たのである。しかし、一人でなく沢山の捕虜達が同時にその白い軍服の兵士達を視たという事は、……幻でありながら、実在もしていた……という事である。

 

 

②先日、10月2日から鎌倉文学館で開催される『澁澤龍彦展』のご案内状が奥様の龍子さんから届いたので、初日の2日に観に行った。しかし先ずは久しぶりに澁澤龍彦さんの墓参をと思い、菩提寺の浄智寺が在る北鎌倉駅で下車した。

 

……駅前の広場に出た瞬間に、30年以上前の或る日の光景が甦って来た。それは澁澤さんの三周忌の法要の日で、その広場には沢山の人が集まっていた。俗な組織や団体とは無縁の、つまりは群れない個性的な一匹狼の面々ばかりなので愉しくなって来る。私はその時、確か最年少であったかと思う。……顔ぶれを思い出すままに書くと、種村季弘出口裕弘巌谷國士高槁睦郎吉岡実四谷シモン金子国義池田満寿夫野中ユリ……それに舞踏、写真、文芸編集の各関係者etc.……その中に中西夏之さんの姿が見えたので「中西さん、一緒に行きましょうか」と声をかけ、浄智寺を目指して歩き出した。折しも小雨だったので、この先達の美術家との相合傘であった。

 

中西さんに声をかけたのには訳があった。……最近刊行された中西さんの銅版画集の作品について思うところがあったので、いい機会なので訊いてみようと思ったのである。その時に語った言葉は今も覚えている。「この前、銅版画の作品集を拝見して思ったのですが、銅版画家が発想しがちな積算的な制作法でなく、真逆の引き算的な描法で現した事は試みとして画期的だったと思いましたが、版を腐蝕する時にどうして強い硝酸でなく、正確だが表情が大人しい塩化第二鉄液を選んで制作してしまったのですか?……中西さん、もしあれを薄めた硝酸液で時間をかけて腐蝕していたら、あのような乾いた無表情なマチエ―ルでなく、計算以上の余情と存在感が強く出て、間違いなく版画史に残る名品になっていましたよ。」と。

 

…………中西さんは暫く考えた後で「あなたの言わんとする事はよくわかります。実は作り終えた後に直ぐにその事に気がついていました」と語った。……やはり気づいていたのか、……私は自分の表現の為にも、その是非を確かめたかったのである。……私達が話している内容は中西夏之研究家や評論家には全くわからない話であろう。……私達は今、結果としての表象についてではなく、そのプロセスの技術批評、つまりは表現の舞台裏、云わば現場の楽屋内の表現に関わる事を確認していたのである。……その後、私達は作る際に立ち上がって来る、計算外の美の恩寵のような物が確かに存在する事などについて話し合いながら鬱蒼とした木々に囲まれた寺の中へと入って行った。

 

しかし奥に入っても、誰もいないので、不思議な気分になった。神隠しのように皆は消えたのか?蝉時雨だけが鳴いている。…………そう思っていると、中西さんがゆっくりした静かな声で「……どうやら私達は寺を間違えてしまったようですね」と言った。話に没頭するあまり、澁澤さんの法要が行われる浄智寺でなく、その手前にある女駆け込み寺で知られる東慶寺の中にずんずん入って行ってしまったのである。浄智寺に入って行くと既に法要が始まっていて、座の中から私達を見つけた野中ユリさんが甲高い声で「あなた達、何処に行ってたの!?」が読経に交じって響いた。…………想えば、あの日から三十年以上の時が経ち、中西さんをはじめ、この日に集っていた多くの人も鬼籍に入ってしまい、既に久しい。

 

……澁澤さんの墓参を終えた後に、三島由紀夫さん達が作っていた『鉢の木会』の集まりの場所であった懐石料理の『鉢の木』で軽い昼食を済ませて、由比ヶ浜の鎌倉文学館に行った。

三島の『春の雪』にも登場する、旧前田侯爵家別邸である。

 

澁澤龍彦展は絶筆『高丘親王航海記』の原稿の展示が主で、作者の脳内の文章の軌跡が伺えて面白かった。先日観た芥川龍之介の文章がふと重なった。

 

……この日の鎌倉は、海からの反射を受けて実に暑かった。永く記憶に残っていきそうな1日であった。

 

 

 

 

③……話は少し遡って、先月の半ば頃に、線状降水帯が関東に停滞した為に夕方から土砂降りの時があった。……このままでは先が読めないし危険だと思い、アトリエを出て家路を急いでいた。雨は更に傘が役にたたない程の物凄い土砂降りになって来た。……帰途の途中にある細い路地裏を急いでいると、先の道が雨で霞んだその手前に、何やら奇妙な物が激しく動いているのが見えた。……まるで跳ねるゴムの管のように見えた1m以上のそれは、激しい雨脚に叩かれて激昂して跳ねている一匹の蛇であった。雨を避ける為に移動するその途中で蛇もまた私に出逢ったのである。

 

……細い道なので、蛇が道を挟んでいて通れない。尻尾の後ろ側を通過しようとすれば、蛇の鎌首がV字形になって跳ぶように襲って来る事は知っている。私の存在に気づいた蛇が、次は私の方に向きを変えて寄って来はじめた。……私は開いた傘の先で蛇の鎌首を攻めながら、まるで蛇と私とのデュオを踊っているようである。……やがて、蛇は前方に向きを変えて動きだし、一軒の無人の廃屋の中へと滑るようにして入っていった。暗い廃屋の中にチョロチョロと消えて行く蛇の尻尾が最後に見え、やがて蛇の姿が消え、無人の廃屋の隙間から不気味な暗い闇が洞のように見えた。

 

 

 

 

 

④…3の続き。

蛇に遭遇した日から数日が経ったある日、自宅の門扉を開けてアトリエ(画像掲載)に行こうとすると、隣家からIさんが丁度出て来て、これから散歩に行くと言うので、並んで途中まで歩く事にした。

 

 

 

 

 

Iさんは私と違い、近所の事について実に詳しい。……そう思って「Iさん、先日の土砂降りの日に蛇に出会いましたよ。暫く雨の中でのたうち回っていましたが、やがて、ほら、あの廃屋の中に消えて行きましたよ」と私。すると事情通のIさんから意外な返事が返って来た。「いや、あすこは廃屋じゃなくて人が住んでいますよ」。私は「でも暗くなった夕方も電気は点いていないですよ」と言うと、「電気が止められた家の中に女性が一人で住んでいて、時々、狂ったような大声で絶叫したり、また別な日にそばを歩くと、ブツブツと何かに怒ったような呪文のような独り言をずっと喋っていて、年齢はわかりませんが、まぁ狂ってますね。」と話してくれた。

 

私は、あの土砂降りの雨の中、その廃屋の中に入っていった一匹の蛇と、昼なお真っ暗な中に住んでいる一人の狂女の姿を想像した。……あの蛇が、その女の化身であったら、アニメ『千と千尋の神隠し』のようにファンタジックであるが、事は現実であり、その関係はいっそうの不気味を孕んでなお暗い。芥川龍之介の母親の顔を写真で見た事があるが、母親は既に狂っていて、その眼は刺すように鋭くヒステリックであった。……与謝蕪村に『岩倉の/狂女恋せよ/ほととぎす』という俳句がある。蕪村の母親は芥川龍之介の母親と同じく、蕪村が幼い時に既に狂っていて、最後は入水自殺であった。

 

……ともあれ、その廃屋の中に一匹の蛇と一人の狂女が住んでいるのは確かのようである。……昔、子供の頃に、アセチレンガスが扇情的に匂う縁日で『蛇を食べる女』の芸を観た記憶がある。芸といっても手品のように隠しネタがあるのでなく、女は実際に細い蛇を食べるのである。だからその天幕の中には生臭い蛇の匂いが充ちていた。……周知のように、蛇の交尾は長く、お互いが絡み合って24時間以上、ほとんど動かないままであるという。……ならば、もしあの蛇が雄ならば、狂女もずっと動かないままなのか?……。文芸的な方向に想像は傾きながらも、その後日譚は綴られないままに、私は今日も、その暗い家の前を通っているのである。

 

 

 

⑤先日放送された『日曜美術館』の勅使川原三郎さんの特集は、この稀人の多面的に突出した才能を映してなかなかに面白かった。番組は今年のヴェネツィアビエンナ―レ2022の金獅子賞受賞の記念公演『ペトル―シュカ』(会場はヴェネツィア・マリブラン劇場)の様子や、勅使川原さんの振り付けや照明の深度を探る、普段は視れない映像、また彼がダンス活動と共に近年その重要度を増している線描の表現世界などを構成よくまとめた作りになっていて観ていて尽きない興味があった。

 

……その線描の作品は、荻窪のダンスカンパニ―『アパラタス』で開催される毎回の公演の度に新作が展示されているのであるが、1階の奥のコ―ナ―に秘かに展示されている為に意外と気付く観客が少ないが、私は早々とその妙に気付き、毎回の展示を、或る戦慄を覚えながら拝見している一人である。……踊るように〈滑りやすい〉トレペ紙上に鉛筆やコンテで描かれたそれは、一見「蜘蛛の糸のデッサン」と瀧口修造が評したハンス・ベルメ―ルを連想させるが、内実は全く違っている。ベルメ―ルが最後に到達したのは、幾何学的な直線が綴る倒錯したエロティシズムの犯意的な世界であったが、勅使川原さんのそれは、ダンス表現の追求で体内に培養された彼独自の臓物が生んだような曲線性が、描かれる時は線状の吐露となって溢れ出し、御し難いまでの強度な狂いを帯びて、一応は「素描」という形での収まりを見せているが、この表現への衝動は、何か不穏な物の更なる噴出を辛うじて抑えている感があり、私には限りなく危ういものとして映っているのである。(もっとも美や芸術やポエジ―が立ち上がるのも、そのような危うさを帯びた危険水域からなのであるが)。……想うに、今や世界最高水準域に達した観のある彼のダンス表現、……そして突き上げる線描の表現世界を持ってしてもなお収まらない極めて強度な「何か原初のアニマ的な物」が彼の内には棲んでいるようにも思われて私には仕方がないのである。

 

……三島由紀夫は「われわれはヨ―ロッパが生んだ二疋の物言う野獣を見た。一疋はニジンスキ―、野生自体による野生の表現。一疋はジャン・ジュネ、悪それ自体による悪の表現……」と評したが、あえて例えれば、彼の内面には、ニジンスキ―とジャンジュネのそれを併せたものと、私が彼のダンス表現を評して「アルカイック」と読んでいる中空的な聖性が拮抗しあったまま、宙吊りの相を呈しているように私には映る時がある。……以前に松永伍一さん(詩人・評論家)とミケランジェロについて話していた時に、松永さんは「完璧ということは、それ自体異端の臭いを放つ」と語った事があるが、けだし名言であると私は思ったものである。そして私は、松永さんのその言葉がそのまま彼には当てはまると思うのである。……異端は、稀人、貴種流謫のイメ―ジにも連なり、その先に浮かぶのは、プラトン主義を異端的に継承したミケランジェロではなく、むしろ世阿弥の存在に近いものをそこに視るのである。

 

……さて、その勅使川原さんであるが、東京・両国のシアタ―Xで、今月の7日.8日.9日の3日間、『ドロ―イングダンス「失われた線を求めて」』の公演を開催する。私は9日に拝見する事になっていて今からそれを愉しみにしているのである。また荻窪の彼の拠点であるダンスカンパニ―『アパラタス』では、勅使川原さんとのデュオや独演で、繊細さと鋭い刃の切っ先のような見事な表現を見せる佐東利穂子さんによる新作公演『告白の森』が、今月の21日から30日まで開催される予定である。そして11月から12月は1ヶ月以上、イタリア6都市を上演する欧州公演が始まる由。……私は最近はヴェネツィアやパリなどになかなか撮影に行く機会が無いが、一度もし機会が合えば、彼の地での公演を、正に水を得た観のある彼の地での公演を、ぜひ観たいと思っているのである。

 

 

 

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『プラトリーノの遠い夏』

曇っているが蒸し暑い。じめじめした不快な夏が続いている。こういう時は、カラッと晴れた事を書こう。イタリアの七月の遠い日の事を書こう。

 

澁澤龍彦の『滞欧日記』(河出書房)を開くと、1981年7月15日の日付のある日には次のような一文がある。「・・・プラトリーノ荘の場所を万知子に聞いてもらったら、直ぐわかったので、さっそく車で行く。ボローニャ方面へ行く道で、山道にさしかかる。いい所だ。道にPratolinoの標識あり。道の右側に大きな門。運転手が番人を呼んで説明するが駄目らしい。チップを渡そうとしたが受け取らない。どうにも仕方がない。門だけ開けてくれて、ここから500メートルほど行ったところに巨像があるという。塀のくずれたところから広大な庭を覗き込むが、巨像らしきものは見えない。おそらく鬱蒼たる杉の林の中に隠れているのであろう。坂斉君の望遠レンズでのぞいてみたが、やはり見えない。・・・・・」

 

ここで澁澤が書いているプラトリーノ荘とは、フィレンツェの北方12キロほどにある旧メディチ家の別荘の一つ(20近くあった内の)である。そこに在る巨像とは「アベニンの巨人像」の事であり、イタリア半島の脊梁ともいうべきアベニン山脈を巨人に見立てたもの。ちなみにかのミケランジェロのイメージの中に巨人幻想のイメージがあるが、それはこの像を彼が見た事に拠るという。おそらく澁澤が訪れた日は閉園日であったのであろう。

 

私がそこを訪れたのは、澁澤の時から丁度10年後の奇しくも同じ7月15日の午後であった。広大な庭の中にメディチ家の壮麗な館が在り、杉林の中を行くと、やがて、とてつもなく大きな巨人像が見えて来た。しかし途中から立入り禁止の不粋な柵があり、2、30人ほどの観光客がうらめしげに巨人像を遠望している。見ると、巡察のパトカーが近くにあり、銃を持った二人の警官がまさに乗り込むところであった。ものものしい雰囲気の中、パトカーがゆっくりと動き始めた。人々がそれを目で追っている。私は柵の所から人々と同じように巨人像を眺めていたが、頭にふと閃くものがあった。(・・・今、パトカーが去って行ったという事は、・・・おそらくは30分間くらいはこの広大な敷地の中を巡るのであろう。・・・と、すれば、今こそはまさに好機ではあるまいか!!)

 

私は意を決して柵を乗り越え、その巨人像を目指して歩き始めた。背後に人々の驚きの声が聞こえるが、もはやそれは私の意の外である。真下に来て像を仰ぎ見ると、思った以上の大きさ、身震いする程の威圧感が私に降り注いでくる。500年以上前に作られたこの強度なイマジネーション。像の台座となっている巨岩の背後に廻ると、そこに小さな洞があった。察するに、かつてその暗がりの中に小舟を浮かべたルネサンスの貴婦人たちが恋人たちと共にそこから眼前の大きな池へと、優雅に滑り出して行ったのであろう。私はその暗い洞へと入った。するとひんやりとした冷気が私を包み、私は彼らと同化するようにして、ルネサンスの時の中へと遊ぶ想いがしたのであった。そこには不思議な気をもった風が吹いていた。

 

館の中を巡り、私は杉の林立する庭を歩いた。すると草むらの中に一枚のカードが落ちているのが目に入った。拾い上げると、真っ赤な色でAの文字が刷られている。その瞬間、まさに一瞬で作品のインスピレーションが立ち上がった。そして私は、その作品(オブジェ)に、その時から400年以上も前にこの場所を初めて訪れた日本人ー 天正遺欧使節と呼ばれた四人の少年たちのイメージを注ぎ入れようと思った。少年たちの名は、伊東マンショ千々石ミゲル中浦ジュリアン原マルチノ。そう、後に悲劇が彼らに待ち受けている事も知らずに、かつてこの地の全ての光景に目を輝かせた無垢な魂にフォルムを与えようと思った。そして、そこに今一人の少年である私を加え、その時間の時の長さの中にポエジーを入れようと、その場でたちまち閃いたのであった。タイトルは『プラトリーノの計測される幼年』にしよう。そしてイメージの立ち上げの初めに先ずは、このAの文字の記されたカードを、そのオブジェに入れようと思った。その夏の日から半年後に私は帰国して、その時の閃きのままにオブジェを作った。その作品は、今は福井県立美術館の収蔵となっている。

 

暑い夏が訪れる度に、私はそのプラトリーノの夏を思い出す。そして、まるで導きの恩寵のように、何故か場違いな場所に落ちていたAの文字の記されたカードの不思議について、私は遠い感慨に耽るのである。

 

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『福井へ ー 貴重な体験の旅』

2011年の秋に福井県立美術館で開催した個展以来、1年半ぶりに福井を訪れた。福井から車で40分ばかり行くと、昔日の良き面影を残す勝山市がある。そこに住まわれているコレクターの荒井由泰さん宅を訪れて、荒井さんが所有されている700点近い膨大な数の版画コレクションの中から、現在企画が進んでいる或る展覧会の為にお借りする作品を選ぶのが、今回の旅の目的なのである。荒井さんは数多くいるコレクターの中でも突出した鋭い感性を持つ炯眼(けいがん)の人である。そのコレクションはそのまま日本版画史にとどまらず、近代の西洋版画史の正統を映している。私の作品も50点以上持っておられるから、身近な心強い存在でもある。ちなみに画家のバルチュスとも親交があり、バルチュスも来日した際に勝山の荒井さん宅を訪れている。

 

私はコレクションの中から、じっくりと時間をかけて、ルドン駒井哲郎・サルタン他を選んだ。又、今回訪れた成果として、私の恩地孝四郎への認識が高まった事は、望外の収穫であった。恩地は版画に留まらず、美術における実験的なパイオニア精神の先駆者である。版画・詩・写真・評論と云った多角的な表現活動、・・・・思えばいま私が挑んでいる姿勢を、恩地は先人として生きたのであった。荒井さんの、それも実に深い恩地に対する眼差しから収集されたコレクションの膨大な作品を見て、私は教わる事が大であった。

 

夕刻に荒井さんのご好意で福井県立美術館まで車で送って頂いた。現在開催中の『ミケランジェロ』展(8月25日まで)を見るためである。この展覧会はこの後、上野の西洋美術館へと巡回するが、私はこれを見るのを楽しみにしていたのである。それが幸運にも時期が重なったのであった。昨年の秋に日本橋の高島屋で個展を開催していた折、芹川貞夫さん(当時・福井県立美術館館長)が来られた。『ミケランジェロ』展の開催の為に、フィレンツェにあるカーサ・ブオナローティ(ミケランジェロの館)を訪れ、ここに保存されている作品を選別して戻って来られる途次あった。芹川さんの選別ならば、かなり良質の展覧会になるであろう事を予感していた。

 

しかし会場に入って私は驚いた。普通、昨今の美術館の展示では、目玉作品を数点だけ集中して展示し、残りは同時代の画家の凡作を並べるのが多い。フェルメール展、ダ・ヴィンチ展しかり。しかし、会場に展示されている作品のことごとくが、ミケランジェロの作であり、わけても驚いたのは、カーサ・ブオナローティの秘宝であり、ルネサンスの一つの極でもある『レダの頭部の習作』が展示されていた事であった。私の予想を超える充実した内容である。私はかつて大英博物館の「素描研究室」に研究員の名目で入れてもらった折、ミケランジェロの素描を百点近く、直接見せてもらった体験があるが、ミケランジェロの素描の頂点と云っていい『レダの頭部の習作』は見れなかったが、遂にそれが果たせたのである。又、14歳頃に彫った『階段の聖母』、そして『天地創造』『最後の審判』他の凄まじい構想を示す数多の素描が展示されていて私を驚かせた。そして最後に、ほとんどの画集に載っていない、ミケランジェロ晩年の実に小さな木彫が展示されており、私の目を惹いた。この展示を見た後で、私の意見を聞くために待っていた新聞社のA氏と、学芸員室でその作品の主題について、興味深いミステリアスな推理をし合った。大阪の大学の研究者は、「奴隷」ではないかと云うが、私はそれが晩年の作であるところから、「磔刑」か「ピエタ」の説を語った。頭部のずり落ちたような傾きは、死によって筋肉を支える力を失くした様態のそれである。「奴隷」のような力はもはやここにはない。晩年に彼が執着した未完成作「ロンダニーニのピエタ」への伏線を私はそこに見る。しかし、それにしてもこの木彫は、今後もっと研究されるに値する質の物であると思った。ともあれ、現在、日本の美術館で開催されている展覧会としては最高にレベルの高いのがこの「ミケランジェロ」展であると思う。この質の内容は今後、実現がおそらく不可能なものであろう。美術ファンの方は必見の見応えのある展覧会である事を、私は確信を持って申し添えておこう。

 

夜、足羽川河畔にある常宿の旅館に泊まった。最上階の温泉の窓からは、秀吉が柴田勝家を攻める時に陣を張った、小高い足羽山が見える。その中腹には私の遠い親戚にあたるらしい橘曙覧(江戸末期の歌人)の資料館があり、麓には、女装して女風呂に入って捕まってしまった中学時代の友人Fの家が見える。デュシャンに心酔していたというFは、今どうしているのだろうか・・・・。目を左に転ずると幕末の横井小楠や由利公正の旧居跡があり、暗殺される10日前にこの足羽川を舟で渡った坂本龍馬の面影が立ち上がる。そして何より、自分の子供の頃からの様々な思い出が蘇る。さぁ、明日は東京の美術館の学芸員の方と合流して再び荒井さん宅を訪れるのである。秀れた先達の作家の作品を直接見れるという体験は、貴重な何よりの充電なのである。

 

 

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『まるで・・・ミステリーの現場』

 

東京・渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで6月10日まで開催中の、『レオナルド・ダ・ヴィンチ – 美の理想』展を見に行った。目玉作品は日本初公開の《ほつれ髪の女》である。会場に入ると、先ずデューラーの木版画による「レオナルド・アカデミア」の幾何学紋章があり、私をふるわせた。デューラーはイタリア訪問でミケランジェロラファエロには会った事を記しているが、ダ・ヴィンチの名前だけは全く記していない。しかし日記の中で「私はイタリアに行き、遠近法を巧みに操って描く人に会いに行くのだ」と記している。この文は(自然・人工)の二つの遠近法を駆使出来た唯一の人物ダ・ヴィンチを指す。そしてデューラーの素描帖には、ダ・ヴィンチに直接会わなければ出来ない素描の写しが存在する。しかし、デューラーは意図的にそれを伏せている。何故か・・・!? 高階秀爾氏は、二人は会っていないとし、坂崎乙郎氏は間違いなく二人は密かに会っていたと推理している。私は坂崎氏と同じ考えである。

 

会場には《レダと白鳥》の写しや、《岩窟の聖母》、そしてダ・ヴィンチの《衣紋の素描》など数多くの作品が展示されているが、やはり圧巻は《ほつれ髪の女》である。霊妙深遠、まさに円熟期の至高点と云えよう。これは私見であるが、この作品は《モナ・リザ》を描いた次にダ・ヴィンチが着手した作品であると推察している。この作品は《レダと白鳥》の下絵である。《レダと白鳥》のオリジナル作品は行方不明であるが、弟子が描いたコピーの写し(本展に展示)が存在する。そこから推察するに、その表現世界は、官能を越えて妖しいまでに淫蕩的であり、ダ・ヴィンチの精神の暗部を映していて興味が尽きない。会場内には想像以上に貴重な作品が多く展示されており、美術史を越えて人類史上最大の謎めいた人物といえるダ・ヴィンチの創造の舞台裏に踏み入った感興があり、まるで上質なミステリーの現場として私には映った。会場出口のショップでは、拙著『絵画の迷宮』も多くのレオナルド本に混じって平積みで販売されている。係の方から拙著が好評で売れ行きがかなり良く、追加の注文をしているという話を伺った。作者としては嬉しい話である。

 

・・・会場を出て、一階のカフェに行く。待ち合わせをしていた毎日新聞学芸部のK氏と会う。この展覧会は毎日新聞社も主催に関わっていて、K氏は私の話を聞いて、それを新聞に掲載するのである。これは連載のため、何人かが登場する企画との由。私はK氏に一時間ばかり感想を話した。私の思いつくままの意見をK氏が素早く速記していく。そのK氏の指先を見ていて、・・・ふと、私の中で、今まで誰も気付いていない、故に誰も書いていない、ダ・ヴィンチの最後のパトロンであったフランソワ一世、そして彼が仕掛けて誕生した〈フォンテーヌブロー派〉という、短期で消えた危うい表現世界について、たちまち幾つかの推論と仮説が立ち上がってくるのであった。これは今考えている書き下ろしの本の最終章に使える。その為には、フランソワ一世という人物の仮面を剥ぐために、彼についての文献を漁る必要があるであろう。ダ・ヴィンチとフランソワ一世。その結び付きには、今一つの知られざる面があったに相違ない。ともあれ、本展はダ・ヴィンチの内面が透かし見える、ミステリアスな展覧会である。未だ御覧になっておられない方にはぜひお勧めしたい内容である。

 

 

追記:

6月2日(土)まで東京都中央区・八重洲にあるSHINOBAZU  GALLERYて『モノクロームの夢〜駒井哲郎を中心に』展を開催中。作家は駒井哲郎池田満寿夫加納光於・北川健次・浜口陽三ヴォルス他。黒の版画に拘った作家たちのなかなか見られない珍しい作品を数多く展示。又、東京・恵比寿にあるLIBRAIRIE6(シス書店)は、《動物》を主題にした不思議な切り口の展覧会を開催中。野中ユリ・合田佐和子他。私の作品は、《ヘレネの馬》の頭部彫像をミクストメディアで表現した作品が展示されています。詳しくは各ギャラリーのサイトを御覧ください。

 

 

 

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