レンブラント

『実は、…私はよく知らないんですと、その男は言った!』

先日、知り合いの女性から(横浜の催場で、函館から来た画商という人が閉店セ-ルで3日間だけ西洋版画を商っていて、レンブラントの風景版画が45万円で売っているので、その版画を買おうかと思っているのですが、すみませんが、もし出来たら見に行ってもらえますか?催日は明後日迄です…)という連絡が入った。…打てば響くを信条としている私は、興味もあって直ぐ見に行った。…催場で一目見て思った。「こりゃあいけない、贋作だ!」と。…一見、誰もが知るレンブラントである。インクも強弱があるし、古色も帯びている。…しかし間違いなく贋作である、そう確信して見ていると、店の中から紳士然とした風格のある男が微笑を浮かべながら近づいて来て、こう言った。(このレンブラント、なかなかの掘り出し物だと思いますよ、如何ですか?)と。

 

…私は男に問うてみた。…(版画の左下にエディション(限定)番号48/100と書いてありますが、これは誰が書いたのですか?)と訊くと、男は平然と(レンブラントの当時の画商です)と答え、意味不明なまばたきを2回した。(……その時の心理を映すこの男の癖なのか?)………確かに画商の始まりはレンブラントが亡くなった頃のオランダを祖とする17世紀後半からであるが、しかし私はこう言った。(あれですよね。このエディションという制度は、確かピカソの画商だったヴォラ-ルあたりが始めた制度で、間違いなく20世紀初頭が始まりですよね)と。…一瞬、男の目が泳いだ。私は続けて(昔、オランダのレンブラントの家を美術館にした所で、本物の版画から撮影してカ-ボンティッシュというドイツの写真製版技法で完全に再現した版画を、確か1枚5000円くらいで売店で売っていて、私も数点買って持っていますよ!)と言うと、男は静かに(……実は私は、よく知らないんですよ)と言って、静かに店の奥へと消えていった。

 

………版画に古い年月を感じさせる古色であるが、以前に澁澤龍彦のエッセイを読んでいて感心した事があった。…それは浮世絵の贋作に古色をつけるテクニックであるが、何と、昔の汲み取り式トイレ、通称「ぼっとんトイレ」の真上の天井に吊るしておくと、自然な古色を次第に帯びてくるのだという。…しかも、年中湿気の多い北陸地方(おぉ私の故郷!)が、実にリアルな古色を出してくるのだという。…ここまで追究して贋作を作っている連中は、ある意味たいしたものだと、思ってしまう。

 

昔、ロンドンに住んでいた時に、テムズ川に架かるタワ-ブリッジ傍で朝早くから開催している骨董市(通称、泥棒市)に出掛けた事があった。…そして朝未だ来の薄暗い中で、手紙の束と一緒に在ったレンブラントの風景を画いた銅版画を4000円で入手した事があった。店主はレンブラントの事など知らないらしく(兄さん、これ昔のペン画だよ!)と言う。…後でサザビ-ズの知人に無料で鑑定してもらったら、初刷りの掘り出し物であり、今もアトリエの中に大切に仕舞ってある。

 

…日本の骨董市も玉石混交の現場である。…以前に三島由紀夫の直筆原稿という触れ込みで店頭にそれが堂々と出してあった。一目見て三島のあの流麗な筆致から遠い贋作であるが、先のレンブラントの時と同じくリアルさを出す為に、この時は編集者が書き直しで入れた朱の文字が何ヵ所かに入っていた。これで贋作者は墓穴を掘っているのであるが、知らない人は、その朱色に興奮してしまうのであろう。…断言するが、完璧な三島由紀夫の文章に、朱の文字で編集者が文字を入れる事などあり得ない。…その贋の原稿は確か28万円(考えぬかれた数字!)だったが、その次に来たら無かったので、どなたかが買ってしまったのであろう。(…合掌)  昨日画いたばかりの、色が綺麗な、しかし高価なアニメ-ションフィルムも要注意である。…店頭に出る事は稀であるが、フィルムの裏を見て、彩色された絵に亀裂が入っていないのはかなり怪しい。

 

 

ワンランク上になると高価な書画骨董の類である。人気のある西郷隆盛の書は、特に贋作が多い。…見分け方の一つであるが、西郷の癖でチョンと跳ねる箇所を、西郷は決まってボトンと野太く書く。しかし、そこが危ない。

…贋作者は、西郷のファンがそこを注視するのを熟知しているので、あえて目立つようにボットンと太い点を黒々と置く。こうなると、生半可な知識と悪知恵の化かし合いである。

 

 

……30年ばかり前の話であるが、パリで一番大きな骨董市で知られる「クリニャンク-ルの蚤の市」を歩いていた時の事。20世紀後半の代表的な美術家で、妖しい球体関節の人形の作者でも知られるハンス・ベルメ-ルの版画の明らかな贋作が、その日はやたらと随所の店で目立ち、不審に思った事があった。…しかも何より不可解なのは、そのサインが明らかに本物だったからである。…私のアトリエにもベルメ-ルの代表的な銅版画が何点か在るので、その特徴的なサインの筆跡は記憶に入っており、間違いのない本物のサインだと私は断定出来る確信があるのである。…贋の版画に記された、しかしサインだけは本物とは…?その正体や如何にである。

 

 

……こういう時には、パリの裏も表も熟知している友人の到津伸子女史に訊くにしくはない。彼女は30年以上パリに住み、様々な人物との交流が深い。…その日の夕刻にサンミッシェルのカフェに呼び出して、真相を知っているか?と訊いてみた。…彼女は即答で知っている!と答えた。…それかあらぬか、生前(晩年)のベルメ-ルの家も彼女は訪れていたのであった。

 

(まるで彼は逃亡者のように荒んでいたわ。麻薬の中毒で廃人に近くなっていた彼につけこんで、悪い画商がベルメ-ルの贋作を量産し、金と引き換えに、ベルメ-ルに本物のサインを書かせていたわけよ)。…なるほど、それで昼見た謎がたちまち解けたのであった。……その真相を知った後に感じたのは、しかし苦い感慨であった。…ベルメ-ルは好きな作家だっただけに、やりきれないものが残ったのであった。……………次回は、『人魂に魂を入れてしまった男の話』を書く予定です。乞うご期待。

 

 

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『必見 – 川田喜久治写真展』

「幻視者」という言葉は、或いは現実の核にある不気味で異形な実相をも見究められる人の謂ではあるまいか。・・・・昨日私は、フォト・ギャラリー・インターナショナルで開催中の川田喜久治写真展「2011-Phenomena」を見ながら、そう思った。そして本当の意味での写真が持つ権能と力に対峙した思いがした。タイトルにあるPhenomenaとは〈現象〉の複数形。ここは森羅万象と解すべきか。ともあれ、川田喜久治氏の表現世界にこの世の万象が引き寄せられている。そんな印象を抱きながら、耽美と凶事の気配が濃密に詰まった氏の世界を、畏怖を覚えながら堪能したのであった。

 

ゴヤ『砂に埋もれる犬』

アンドレ・マルローの『ゴヤ論』の最終行は「・・・・かくして近代はここから始まる。」という文で終っている。この言葉はある意味で正しく、例えばそれを受け継いだのがマネであり、そこから近代絵画の幅が広がった。しかしゴヤの目は、私に言わせればむしろ近代を超えて現代の実相までも遍く照射しているのではあるまいか。私は昨日の川田氏の個展会場でそこまでも考えてみた。そう思ったのは、その場で見た氏の或る写真(それは太陽と、今一つのどす黒い太陽の巨大なシルエットが共存しているという凄みのあるもの)を見た時の印象が、かつてプラドで見たゴヤの『黒い絵』中の名作『砂に埋もれる犬』と卒然と重なったからである。つまりゴヤの眼差しは、時を経て、絵画ではなく写真の領域の上に —-  川田喜久治氏に受け継がれていると思ったのである。かつてベンヤミンは写真におけるアニマの可能性を否定したが、それは凡百の写真に対してであり、こと川田氏の写真を見る限り、それが間違いである事を観者はその場で体感し首肯するであろう。

 

私のアトリエには、ルドンゴヤ(妄のシリーズ)、ヴォルスベルメールホックニーレンブラント・・・・などの版画が掛かっている。そして私はあえてゴヤの横に川田氏の名作「ボマルツォの奇顔」の写真を掛けているのであるが、その写真が持つ強度な波動は、表現者として生きている私を鼓舞してくれている。ここに掲載した画像は川田氏の巨大な写真集「ラスト・コスモロジー」の中の「太陽黒点とヘリコプター」である。鮮明に掲載出来ないのが残念であるが、太陽の黒点と不気味に飛翔するヘリコプター、そして夢魔のような暗雲と、日付が写っている。したたかなまでに完璧であって、付け足すものは何もない、妖かしの瞬間定着術!!これを見ると、写真家というよりは写真術師と呼びたい衝動に駆られてくる。写真が未だ光線魔術と呼ばれていた頃の手を、川田氏は間違いなく掌中に隠し持っている。(想定外・・・・)などと言い逃れている現代人の盲目を突き刺してくる、これは現象の奥に不気味に息づく「気」を捕えた紛れもない名作であろう。川田氏の写真展は始まったばかり。しかし暑い中を汗を流しても訪れて見るだけの価値は充分にある。ぜひ御覧になられる事をお薦めしたい写真展である。

 

写真集「ラスト・コスモロジー」より見開き(部分)

 

「ラスト・コスモロジー」より見開き(上の写真の更なる部分アップ)

 

 

川田喜久治写真展「2011年-Phenomena」

2012年9月4日(火)~10月31日(水)
フォト・ギャラリー・インターナショナル
東京都港区芝浦4-12-32/TEL.03-3455-7827

月~金 11:00 – 19:00
土   11:00 – 18:00
日・祝日休館 入場無料

JR田町駅・芝浦側(東口)より徒歩10分

 

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『謎の少女 – 上野に来たる!!』

東京都美術館で開催中の『マウリッツハイス美術館展』が盛況のようである。もちろん目玉作品はフェルメールの『真珠の耳飾りの少女』。時を隔てて語りかけてくる少女の物言いたげな視線の謎に引かれて長蛇の列が続いている。しかし会場を訪れた友人の話によると、絵の前で止まってはいけないために、その少女を眺められるのはほんの一瞬でしかないとの事。40年前の『モナ・リザ展』の時と同じである。『モナ・リザ展』の時も見れるのは約3秒。しかしその時私は15分くらい見続ける事が出来た。何故出来たのか?それは列から一歩下がってそこに立ち止まって見たのである。しかしそこには警備員がいて注意を促しているのであるが、彼はそれを私にしなかった。〈北川の、あの刺すような目は、この世を見ている目ではない〉- そう陰口を言われた私の眼差しが警備員を静かにさせたのである。しかしさすがに今回は通じないであろう。人間的に丸くなってしまったために目つきも優しくなってしまったように思われるのである。まぁそれは冗談として、私は今回は行かない事に決めた。昔日にハーグで見た時の、夢見のような記憶を大切にしたかったのである。

 

今日のフェルメールの異常な人気に火がついたのは、1996年にハーグのマウリッツハイス美術館で開催された「ヨハネス・フェルメール展」が契機である。フェルメールの全作品(三十六点ぐらい)の内、二十三点が一堂に展示され、実に45万人が訪れた。一日に計算して約5000人、それが世界中から巡礼のように訪れた事になる。私がハーグの美術館を訪れたのはその5年前。その頃はフェルメールは全くブームになっていなかった為に、今では信じ難い事であるが、私は『真珠の耳飾りの少女』と『デルフトの眺望』のある部屋で、まるでそれらを私物化するようにしてじっくりと間近で見ながら、午前の静かな時を恩籠のように過ごす事が出来たのであった。

 

その時の体験は三月に刊行した拙著『絵画の迷宮』の中のフェルメール論『デルフトの暗い部屋』に詳しく書いたが、私が画家の生地であるデルフトやハーグ行きを思い立ったのには一つの理由(旅のテーマ)があった。それは、レンブラントフェルメールゴッホモンドリアンエッシャー等オランダの画家が何故に時代や様式を超えて〈光への過剰反応〉を共に呈しているのであるか!? –  その自問を解いてみたかったのである。そして、そのキーワード的存在としてフェルメールが要に在ったのである。

 

マルセル・プルーストが〈世界で最も美しい絵画〉と評した『デルフトの眺望』、そして『真珠の耳飾りの少女』。それは確かに顔料を亜麻仁油で溶いた絵具にしかすぎない〈物〉ではあるが、かくも視覚のマジックを通して、そこに永遠性の確かな宿りが現実に在るのを見るに及んで、私の表現者としての覚悟は、そのフェルメールの部屋で固まったといえるであろう。マチスの言葉 – 視覚を通した豪奢・静謐・逸楽の顕在化を自らの作品に課す事を、私はそのフェルメールの部屋で決めたのである。その部屋で、「美とは、毒の一様態としての表象である。」「二元論」「矛盾した二相の重なり」「物象としての光」「神性を帯びた光」・・・・などとブツブツつぶやきながら、次第にフェルメールに最も近い存在として浮かんで来たのは「エチカ」の著者であるスピノザであった。スピノザの「遍在して神は宿る」の考えを視覚的に表現したのがフェルメールの絵画の実質である。私は、そう結論づけ、そして私はフェルメールの絵を評するものとして、「汎神論的絵画」という言葉を思い立ち、私の自問はその時に全て解いたのであった。その意味でも私のオランダ行の旅は表現者として得る物の多い旅であったといえよう。本物の絵画に触れる事は一種の聖地巡礼のようなものである。会するのは、絵を通してのもう一人の自分である。そこに介する作品はカノンであり、澄んだ鏡である。だから、ことフェルメールに限っては少なくとも私は、喧噪の中で見ようとは思わないのである。

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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