月別アーカイブ: 5月 2011

『完成度の高さを求めて』

 

私の作品を取り扱われる画廊は幾つかあるが、専属の画廊というものは存在しない。幾つかの画廊から専属契約の申し入れもあったが、私は丁重にご辞退した。その理由は、作家としての私を自分自身でプロデュースしていきたいからである。逆を言えば、現在関わりを持っている画廊とは、私が自由な立場であったからこそ出会うことが出来たのだということも言えるであろう。そして、その結果、私の作品をコレクションされる方々との幸福な出会いが数多く在り、それはさらに展覧会を開催する度に拡がりを見せている。積極性が産んだ幸福な関係だと思うし、私はこれを大切にしていきたい。

 

作家の多くは一つの表現手段に拠っている。しかし、私はオブジェ・銅版画・コラージュ・油彩画・そして詩や美術評論も手掛け、三年前からは、重要な表現手段として「写真」が新たに加わった。私は自分の中の様々な可能性の引き出しを開いて、そこに果敢に挑戦し、多面的な角度から〈北川健次〉という個の独自な形を、生涯をかけて築き上げたいのである。

 

このように様々な分野に手を拡めると「作家としてのイメージが固まらないから損になるのでは・・・」とアドバイスをくれた画商がいた。しかし、一方では「君のような才能は稀なのだから、大いに可能性の幅を拡げていくべきだ。そうすると、振り返って見た時に誰も追いつく事の出来ない形が出来上がっている!!」とアドバイスしてくれた人物がいた。———作家で演出家の久世光彦氏である。勿論、私は久世氏の言葉の方を取る。表現の幅を拡げると、そこに待っているのは表現の浅さという問題である。しかし、ドイツ文学者の種村季弘氏も、久世光彦氏も、共に評価して頂いたのは、私の作品が持っている「完成度の高さ」についてであった。様々なジャンルに挑戦しつつも、私が自信としているのは、まさにそれである。「あなたの作品は既にして完成している」———24歳の時に、私の作品を見てそう評したのは池田満寿夫氏であった。多くの方々が現代の美術表現を見て思われるのは、フォルムが立ち上がっていない事の軟弱さ———つまり、この完成度の高さに、作家は自らを追い込んでいない事だと思う。ケネス・クラークが語るように、名作の条件と完成度の高さとは連関して結び付いているのである。そして、それは本当に厳しい事なのである。

 

三年前から集中して制作を始めた〈写真の分野〉を見ると、やはり完成度の高さを追い求めた写真家が実に少ない事に気がつく。〈現在〉の病理を切り取ったもの、アイデア先行のもの等々。それらは写真集という形になると意味を持ってくるが、一点自立性で見ると、そこに世界が結晶化していない。更に言えば、或るテーマの断片でしかない。そこが例えばマン・レイベルメール達、つまりは不思議な導き——運命・必然と云えるものによって写真と出会った人達と、一線が画されているのである。

 

昨年の秋に写真家の川田喜久治氏から一通の御手紙が突然、届いた。封を開けてみると、私の写真について書かれたテクストであった。詩の形の中で評された文章には、日本の写真界をリードして来た人でなければ書けない、実に美しくも深みのある文章であった。私は川田氏から頂いた望外のテクスト原稿を額装してアトリエに掛け、常の励みとしている。そして昨日は、写真評論家の飯沢耕太郎氏から、私の写真について書かれたテクストを頂いた。以前に私はブログで、飯沢氏のような複眼的思考と視座の持ち主を、美術界の評論の分野が一人も持っていない事の貧しさについて書いた事があった。それ程に、私は飯沢氏の眼差しを高く評価しているのである。新しく挑戦が始まった写真の仕事。それに対し、川田喜久治氏、飯沢耕太郎氏という、これ以上はない方々からテクストを頂いたという事は、自分の自信となると共に、課せられた意味も大きいと思う。完成度の高さ———私はそれを写真の仕事でも、光のアニマ、闇の魔的なるものと共に追い求めていきたいと思う。

 

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『写楽を追った人物』

フランキー堺という人物のことを憶えておられるであろうか!? 役者にしてドラムの名手。しかし、この人物が亡くなってから、彼が生涯をかけて、浮世絵師の写楽の謎を追い求めた研究者であった事を初めて知った人は少なくないようである。彗星のごとく突然現れてわずか十ヶ月で消えた写楽に取り憑かれた人は、このフランキー堺をはじめとして実に多く、研究書も数百冊を軽く越えてしまう。

 

その東洲斎写楽であるが、1794〜95年の短期間に160点の役者絵を残したが経歴は不明。近代に入って外国の研究者によってレンブラントと並ぶ肖像画家と評価され、いちやく人気が出たために、その消え方までもが謎めいて映るようになった。はたして写楽とは何者であったのか!?歌麿説、北斎説、豊国説、果ては版元の蔦屋重三郎(1750〜97年)説まで出て、まさにミステリー合戦である。売らんかなの出版物が多く出る中で、しかし写楽が誰であったのかは、実はずいぶん以前から識者の間では判明していたのであった。その人物は、阿波(徳島)の能楽師斎藤十郎兵衛である。その彼を写楽と断定する根拠は、彼の墓がある徳島の寺に残る過去帳にあった。斎藤十郎兵衛が亡くなった直後に記された過去帳にはっきりと「一時、写楽と称した。」と、あるのである。ミステリーも、売らんかなの思惑も、写楽が〈謎の人物〉として語られる遥か以前に記された過去帳という動かざる記述(証拠)にはかなわない。写楽はしかし、この能楽師と版元の蔦屋とのコラボが生んだ投影された虚像であったと云えるかもしれない。写楽の代名詞である名作の大首絵の背景にある、雲母を混ぜたベタ刷り — 通称、雲母摺り(きらずり)は、蔦屋の考案だからである。この刷り方によって役者の表情はクローズアップされ、役者の内面までもが浮き上がって、表現にいっそうの深みを加えたのである。

 

さて、前述したフランキー堺であるが、多くの権威ある研究者たちを抜いて唯一人、真相に迫り、誰よりも早く写楽の謎を解明した人物が、実は彼であったのである。多忙な役者業の合い間をぬって、取り憑かれたように写楽の影を追い求めたこの人物は、写楽の生涯の哀感の中に、シニカルな自写像の投影を、醒めたように冷静なる熱狂をもって重ね見ていたのかもしれない。因みに、彼の研究の成果は、1995年に映画『写楽』(監督・篠田正浩/主演・真田広行)として結実。自らも蔦屋重三郎として出演し、企画総指揮・脚色を行った。フランキー堺は、その完成後にまもなく亡くなった。今も重く記憶に残るリアリティーを持った作品である。

 

 

 

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