『写楽を追った人物』

フランキー堺という人物のことを憶えておられるであろうか!? 役者にしてドラムの名手。しかし、この人物が亡くなってから、彼が生涯をかけて、浮世絵師の写楽の謎を追い求めた研究者であった事を初めて知った人は少なくないようである。彗星のごとく突然現れてわずか十ヶ月で消えた写楽に取り憑かれた人は、このフランキー堺をはじめとして実に多く、研究書も数百冊を軽く越えてしまう。

 

その東洲斎写楽であるが、1794〜95年の短期間に160点の役者絵を残したが経歴は不明。近代に入って外国の研究者によってレンブラントと並ぶ肖像画家と評価され、いちやく人気が出たために、その消え方までもが謎めいて映るようになった。はたして写楽とは何者であったのか!?歌麿説、北斎説、豊国説、果ては版元の蔦屋重三郎(1750〜97年)説まで出て、まさにミステリー合戦である。売らんかなの出版物が多く出る中で、しかし写楽が誰であったのかは、実はずいぶん以前から識者の間では判明していたのであった。その人物は、阿波(徳島)の能楽師斎藤十郎兵衛である。その彼を写楽と断定する根拠は、彼の墓がある徳島の寺に残る過去帳にあった。斎藤十郎兵衛が亡くなった直後に記された過去帳にはっきりと「一時、写楽と称した。」と、あるのである。ミステリーも、売らんかなの思惑も、写楽が〈謎の人物〉として語られる遥か以前に記された過去帳という動かざる記述(証拠)にはかなわない。写楽はしかし、この能楽師と版元の蔦屋とのコラボが生んだ投影された虚像であったと云えるかもしれない。写楽の代名詞である名作の大首絵の背景にある、雲母を混ぜたベタ刷り — 通称、雲母摺り(きらずり)は、蔦屋の考案だからである。この刷り方によって役者の表情はクローズアップされ、役者の内面までもが浮き上がって、表現にいっそうの深みを加えたのである。

 

さて、前述したフランキー堺であるが、多くの権威ある研究者たちを抜いて唯一人、真相に迫り、誰よりも早く写楽の謎を解明した人物が、実は彼であったのである。多忙な役者業の合い間をぬって、取り憑かれたように写楽の影を追い求めたこの人物は、写楽の生涯の哀感の中に、シニカルな自写像の投影を、醒めたように冷静なる熱狂をもって重ね見ていたのかもしれない。因みに、彼の研究の成果は、1995年に映画『写楽』(監督・篠田正浩/主演・真田広行)として結実。自らも蔦屋重三郎として出演し、企画総指揮・脚色を行った。フランキー堺は、その完成後にまもなく亡くなった。今も重く記憶に残るリアリティーを持った作品である。

 

 

 

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