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『強烈な火花―棟方志功』

どうやら記憶にも遠近法というのがあるらしく、出会った順番ではなく、その人の放つ個性の強度や印象の強弱で、記憶の中に存在の韻を各々に放っているようである。その遠近感でいくと、私の場合最も鮮やかな最前列にいる人物が二人いる。……勝新太郎棟方志功である。勝新太郎との面白い出会いについては以前のブログで書いたので、今回は棟方志功さんとの出会いについて書こうと思う。

 

私が銅版画を独学で作り始めたのは、美大の二年生の19才の時であった。『Diary-Ⅱ』という表現主義的な作品を作ったのは翌年の20才の時である。作り始めて二作目の版画『微笑む家族』という作品を私が住む神奈川の美術展に出して、神奈川県立近代美術館館長の土方定一氏の眼に止まり、美術館に収蔵されたという流れもあって、翌年、再びこの美術展にその『Diary-Ⅱ』を出品したところ、今度は版画部門で受賞した。賞金は当時の十万円。貧乏な美大生にとっては救いの神の賞金である。授賞式は展覧会の会場の神奈川県民ホ―ルであった。会場に着くと、受付の人から仰々しく私の名前を書いた名札を渡されたのであるが、その人が私を見て「あなたが北川さんですか!いや、もう審査の時が大変だったんですから!」と言って、審査時の事を詳しく話してくれた。版画部門の審査員は三人で、その中に板画家の棟方志功さんがおられたのであるが、私の版画が審査員達の前に現れた瞬間、棟方さんは急に席を立って私の作品の所にやって来て、係員から額に入った版画を奪い取るようにして床の上に置き、額のガラスの上から私の作品を掌で撫でまわし、「凄いなぁ、凄いなぁ……」と、あの特徴的なだみ声で呟きながら延々とその動作を続けた為に、審査が30分近く完全に止まってしまったのだという。…………棟方志功。この20世紀の日本美術を代表する巨人の名前はもちろん知っていたが、私はこの美術展の審査員に棟方さんが入っている事など全く知らなかった。しかも、その棟方さんが私の作品を見るや、そういう行動に出た事など、係員から言われるまで私が知るはずがない。……私は話を聞きながら、あの棟方志功の顔が浮かんで来たが、私の作品とその顔が今一つ、どうも結び付かないでいた。式の会場の中に行こうとすると、その係員の人が「今日、棟方さんが来られますので」と告げてくれた。

 

……授賞式が進んでいったが、しかし棟方さんの姿は会場に無かった。「まぁ、そういうものだろう」、私がそう思ったまさにその瞬間、会場にざわめきが走り、紋付き袴姿の棟方志功さんが、頭のてっぺんにかんざしをグサリと突き刺した奥様と同伴で突然現れ、そのまま壇上に上がった。確かにもの凄いオ―ラをこの人は放っていた。……挨拶の第一声は、今でもありありと覚えているが、「夫婦の枕は長まくら!!」であった。……つまり、式に遅刻した言い訳を、先ほどまで夫婦の愛の営みをしていたのだから、まぁ、そこは……と天衣無縫の表情で笑いながら話して、会場の雰囲気を一瞬で自分の話術に引き込んでいく。棟方さんは最初は上機嫌で笑顔であったが、版画部門の審査の話になるや表情が一変して鋭い口調になり、激しい怒りの表情へとそれは変わった。会場は一変して静かになり、ただ棟方さんの言葉だけが響いてくる。棟方さんの話でわかったのであるが、今回の審査で絶対に納得いかない不正があり、それを糾弾し始めたのである。棟方さんは私の作品を版画部門の受賞だけでなく、大賞に値する作品として強く推したのであるが、大賞は既に審査の事前に内々で決まっていたらしく、その受賞者は県の教育委員会関係の御曹司らしい事が、棟方さんの口からズバズバと明らかになっていく。最近よく話題に上がる「忖度(そんたく)」である。「北川さんのあの作品が、どうして大賞にならずに、そんな作品が大賞に決まるわけですか!!……そんな馬鹿な話がありますか。私はこんな馬鹿げた美術展の審査はもう絶対に今後やりません!!」。……棟方さんの怒りを込めた熱い語りはさらに続いたが、私の名前が何度も棟方さんから出てくる事に、私は自信へと繋がる熱いものが湧いてくるのを覚えていた。大賞の賞金は当時の100万円とパリ一年間の留学であるが、私は大賞よりも、遥かにもっと大きな、作家としての今後に繋がる大切な物をこの時に棟方さんから貰ったのであった。駒井哲郎氏からは既に評価を受けており、その後に出会う池田満寿夫氏や浜田知明氏、そして、パリで一緒に展示された、国際的な作家のジム・ダイン氏から受けた評価とはまた別なものが、棟方志功という人にはあるのである。当時まだ20才そこそこであった私に、しかし、この出会いと作品への評価はあまりに大きく、いま思い出しても貴重なものがあった。……式場の帰りに、私は棟方さんと握手を交わし、一緒にエレベーターに乗ったのであるが、この時に棟方さんの本領が発揮された。……棟方さんは、突然このエレベーターが欲しい!!、どうしても家に持って帰りたい!!と子供のような駄々を本気でこね始めたのであった。私は笑いながら、同乗している棟方さんの奥様を見ると、(またいつもの癖が始まった!)と呆れ顔であり、横にいた土方定一氏も爆笑されていた。……棟方さんは、その二年後に亡くなられたのであるが、私の作家への過程における巨きな恩人であり、今もその特異な存在の記憶は昨日の事のように煌めいて在る。……あの日、棟方さんと別れた数日後に、土方定一氏から一通の葉書が届いた。その手紙には、君はもうあのようなレベルの美術展ではなく、もっと高みの上を目指せ!!……という内容の文面が綴られていた。土方氏は、死後もまだ無名だった松本俊介を世に出す契機を作るなど、信じられる慧眼の人である。私はそれに従い、立体や大きな平面に混じって版画は画面が小さいので審査の上で不利である事は承知の上で、当時最大の難関であった現代日本美術展に応募し、ブリヂストン美術館賞を受賞したが、その時の審査委員長であった土方定一氏の強力な推薦があったときく。……とまれ、私は折に触れて、棟方志功という稀代の才能が産み出した作品を観る度に、あの日の貴重な、そして不思議な導きに充ちた〈一期一会〉という人生の妙を覚えるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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