月別アーカイブ: 3月 2020

『富山にて個展開催中!!』

3月14日(土)から29日(日)まで、富山のぎゃらり―図南にてオブジェを中心とした個展を開催中である。今回で8回目、2年に1度というスパンで開催しているので、画廊のオ―ナ―の川端秀明さんとのお付き合いは、早いもので今年で16年になる。……16年前、川端さんが東京に来られて初めてお会いした時の事は今も鮮明に覚えている。私は極めて直感型の人間なので、お話しを伺う前の座席に座る瞬間に「あっ、私はこの人とは強いご縁があるな!」と直感した。果たしてお話しを伺うと、私の作品に対し強い評価を持って頂いている事、また美術界全体に関する考えや批評が一致する事、そして何よりも私の個展を開催したいという強い想いが熱く伝わって来て、私は嬉しかった。その熱意の強さは、70、80年代の美術界を画商としての切り口から牽引して来られ、今では伝説的な人物として語られる、故・佐谷和彦さんの強い「気」と重なるものがある。画商と作家という関係を越えて、気が合い、本音で語り合える人間としての関係を私は何よりも最優先にしているのである。……16年前と云えば、私は版画集を自分の企画で毎年刊行している時であり、また表現の幅が版画にとどまらず、オブジェ、コラ―ジュ、写真、執筆……と拡がりを見せ始めていた頃なので、正にタイムリ―な時にお付き合いが始まったのであった。……初日の早い午後に画廊に着くと、あいにくの雨にも関わらず、コレクタ―の人達が次々に来られ、気にいった作品を決めていかれる。或る女性の方は30点くらいの展示作品の中から僅か10秒足らずで作品を複数、コレクションに決められ私を驚かせた。……新型コロナウィルスの影響を懸念して人出が危ぶまれた今回の個展であったが、川端さんが言われた「本当に強い作品は、こういう時にあっても関係がなくぶれない。」という言葉を裏付けるような手応えを私は実感として強く覚えた。確かにこういう時こそ、作品の真価が問われ確かめられる時なのであると、私は実感したのである。翌日は、富山の医学の分野では著名な方で、私の作品を多数持っておられるコレクタ―の方が遠方から来られて、私が考案した独自な技法で制作した珍しい作品を即決で購入された。……その方は90歳になられるが、好奇心と行動力に富んだ方で、つい最近もタンザニアに行かれた話をされて私を驚かせた。その先生いわく、健康の秘訣は、尽きない好奇心とプラス思考、この二つに極まるという。私も全く同感である。……90歳のこの方から10代の学生の人までと、男女に関係なく私のコレクタ―の方は実に幅が広い。その全ての感性に向かって、私の作品が持っているイメ―ジを紡ぐ装置としての何物かがあまねく放射し、それを各々の人が、各々の感性に即したリアリティ―を持って享受されるのだと思う。……初日の夜、小説『螢川』の舞台になった河畔の瀟洒な小料理屋の座敷で、川端さんご夫妻のおもてなしを頂き、富山の冬の味覚を頂いた。川端さんご夫妻に感謝しながら、暫しの時間、話は八方に跳んで実に愉しい時間を過ごす事が出来、記憶に深く残っていく思い出を胸にして、翌日の夕方に私は横浜へと戻ったのであった。

 

……さて、今日はブログの余話として、私の作品について少し記そうと思う。先ずは作品の画像を何点か掲載しよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「行く春を近江の人と惜しみける」 ……よく知られた松尾芭蕉の句であるが、芭蕉の数ある中でも私が最も好きな作品である。……句意は、春光の麗らかに打ち霞む琵琶湖の湖上に、去りゆこうとする春の情緒がたゆとうている。自分はこの近江の国の人と共に、心ゆくばかりに惜しんだことだ。……という芭蕉が意図したイメ―ジが伝わって来て、自らの内にある「近江」➡「琵琶湖」➡「寂とした永遠の彼方への遠望と、そこに絡まる切ない記憶の断片のリアルな立ち上がり」……へとイメ―ジが自動記述的に拡がっていく。……行く春、近江、惜しむ の三つの言葉が連関作動して、人々が内実、豊かに誰もが持っている想像力に火がつくのである。この句の場合の骨頂は「近江」である。これが近江だからこそ、人は行く春に、蘆原に霞む琵琶湖が立ち上がって来て、内なる記憶、美しくも切ない既視感がその底から少し遅れながら相乗的に沸き上がってくるのである。……もし、これが近江でなく、例えば丹波、津軽、日高、佐世保……つまり、近江以外であったら、そこに何もイメ―ジは立ち上がって来ず、惜しむという感覚は沸き上がっては来ない。実にデリケ―トな線上に、この「近江」という言葉が在るのである。…………数多(それこそ無限に)ある言葉の中から瞬時に、必然的に「決め言葉」を引き出して来る営み、……このイメ―ジの紡ぎ方が、実は私のオブジェの制作メソッドと重なってくるのである。ただ、自分一人の良し悪し、好みに留まらずに、同時に観者の人々の普遍をも立ち上げる事が己に強いられており、私はその緊張のびしびしと迫りくる豊かな強度の中で、正しく瞬時にして、「人々の想像力を立ち上げる装置」としての様々な「物語の断片」を速攻で組み込んでいくのである。……そして、そこに「ポエジ―へと繋がる見立」と「マチエ―ル」と、「文脈の異なる組み合わせ故のバイブレ―ション」が合わさって、夢見のような感覚へと直に誘うのである。私の作品を観た人達が揃って口にする言葉―「何故か無性に懐かしいが、しかし今まで全く観た事がない不思議な世界」という一致した感想を聞く度に、私はさらに誰も分け入った事がない、観照としての次元に達した何物か、語り得ぬ表現の高みに更に達したいという強い想いが出てくるのである。もはや美術のジャンルを越境したと考えている私が、厳しくも範としているのは、「考えるは常住のこと/席に及びて間髪を入れず」と語った、芭蕉のこの言葉なのである。

 

 

 

 

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『もう1つの智恵子抄』

 

 

前々回に連載したブログを書く際に、私は向島に4回ばかり取材をしているが、その延長先にある玉ノ井(私娼街)の現在を見るべく足を延ばして訪れてみた事があった。ご存じ永井荷風の名作『墨東綺潭』の舞台になった所である。現在は、その時代の面影は気配としてしか残っていないが、迷宮のように狭く入り込んだその残夢の中に入りながら荷風の後ろ姿を追っていくと、そこに混じって玉の井を訪れた何人かの作家や芸術家の姿も透かし見えて来て面白い。その人物達の名前をあげると以下の通り。……徳田秋声、檀一雄、太宰治、高村光太郎、武田麟太郎、サトウハチロ―、尾崎士郎、高見順……と賑やかである。……これらの名前を見て、一瞬(!?)と意外さを感じる人物は、おそらく高村光太郎ではないだろうか。あの、運命的な愛と別れを切実と詠んだ智恵子抄の作者と玉の井は、いかにも似つかわしくないように思われる。……しかし光太郎は来た。それも頻繁に、詩までも残して。詩の題は、そのものズバリ『けもの』である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

けもののをんなよ/限りのない渇望に落ちふけるをんなよ/盲人のしつこさを以てのしかかるをんなよ/海蛇のやうにきたならしく/ぬかるみのようにいまはしいをんなよ/けれど、かなしや/お前をまたも見にゆくのは/さばかりお前がけものなるゆえ/いまはしいゆえ/  「けもの」

 

……この淫蕩な感覚は、留学先のパリで覚えたデカダンス故と光太郎は云うが、果たして……。

 

そんなにもあなたはレモンを待っていた/かなしく白くあかるい死の床で/わたしの手からとった一つのレモンを/あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ/トパァズいろの香気が立つ/その数滴の天のものなるレモンの汁は/ぱっとあなたの意識を正常にした/あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ/わたしの手を握るあなたの力の健康さよ/あなたの咽喉に嵐はあるが/かういふ命の瀬戸ぎはに/智恵子はもとの智恵子となり/生涯の愛を一瞬にかたむけた/それからひと時/昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして/あなたの機関はそれなり止まった/写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう/  「レモン哀歌・智恵子抄より」

 

 

……以前から気になっている事があった。それは智恵子が狂いへと至る原因である。資料や文献を読むとみな判で押したように、その原因が実家の破産と貧困がそれであると云う。そして、光太郎の淫蕩な生活ぶりが智恵子との出逢いでピタリと止んだと、これもまた判で押したように書いてある。しかしある時、智恵子が狂った大きな原因は光太郎のあいも変わらぬ女性遍歴にあるという話を聞いた事があった。また、光太郎の意のままに智恵子は型に嵌められていき、智恵子は自らが「人形」と化す事でそれに応えた観があるという興味深い話を先日、伺った。……女性の権利獲得を主張した「青鞜」の中心人物、平塚らいてうとの関わりも深かった高村智恵子と、もう一人の異なる智恵子の間に亀裂へと至る相克がここにある。……そうしてみると、「智恵子抄」は愛の刻印と喪失の絶唱から、悔恨、懺悔の唄へと一変して変貌を見せてくる。……光太郎の晩年は岩手の山口村に独居して、蛔虫と極寒の過酷な生活に入るが、「掘立小屋を作って住んだのは、自分が悪いことをしたから水牢に入るような気持ちであった」と告白している事をそこに重ねれば、私の疑問も解けてくる。……人はイメ―ジで一面的に他人を括りがちであるが、なかなかに複雑な屈折がそこに在り、本人ですら自らを御せないものがある。高村光太郎とは、その代表のような人物であるかと思われる。

 

福永武彦の『高村さんのこと』というエッセーに「……高村さんが彫刻家を以て任じておられるのは明らかだった。ロダンのことが話に出るたびに、日本の芸術家は伝統がないために、三十年は遅れている……と言はれた。」とある。また壺井繁治は「彼(光太郎)の魂を、パリは近代的な魂に入れかえてくれたのである。彼がロダンに傾倒し、ロダンを通じて彫刻の真髄を悟ったというのもパリであり、……」という一文があるように、高村光太郎はロダンに心酔し、会う為に父親の高村光雲が旅費を出し、パリへと留学させている。……しかし光太郎は、ロダンに会うのを目的としながら、何故かロダンに会っていないのが気にかかる。……光太郎はしかし詩の中で「やがてロダンは静かに言った、カリエエルさん、あそこにいる娘さんのうなじはまるでマリアのやうですね」と。……また後庭のロダンをしのんで作った詩句として「悪魔に盗まれさうなこの幸福を/明日の朝まで何処に埋めて置こう。」……といった言葉の刻みがあるなど、まるでロダンに会ったかのやうで紛らわしい。ロダンに会ったのは、その時にパリに留学していた、夭折した友人の彫刻家・荻原守衛だけである。……光太郎はロダンの後ろにあるルネサンス、ゴシック、近代の法則を洪水のように一気に受容する事で、自分の背後にあった日本の彫刻の伝統が一度に瓦解する恐れを抱いて臆したのであろうか?……ともあれ、ブロンズにおいては光太郎以後もこの国に傑作が登場する事は遂に無く、光太郎に於いての傑作は木彫の小品「蝉」「蓮根」「白文鳥」「鯰」「桃」であり、ブロンズの「手」はロダンに遠く及ばず、ロダン以後の正統は残念ながらブランク―シに指を折る。……高村光太郎がもしロダンに会っていたなら、以後のこの国の分野に面白い可能性もあったかと思われるが、光太郎という分水嶺、或いは胚種は、成果をあげる事なく奇妙な立ち位置のまま、囚われたイメ―ジのままの一面性を背負っているのである。

 

……さて、玉ノ井を一巡した後、私は文人達が愛でた向島の百花園、白髭神社を経て、玉ノ井から私娼街が移った「鳩の街」(120軒以上の娼家があった)を訪れた。ここの一廓はまだ建物にその名残があるが、開発の為に正に壊されて消えていく直前に私は出くわした。……何と、私の目の前に在るその貴重な時代の証言とも云える建物のタイルが職人達によって運ばれていく現場に遭遇したのである。……以前のブログで浅草十二階の煉瓦(画像掲載)を入手した時は現場工事の親方に「すいません、文化財の仕事に関わっている者ですが!」と言って、十二階の遺構の前に立ち、大きな煉瓦の塊を二つ入手したが、今回は、「すいませんが、昭和史の建築を研究している者ですが!」というと、解体工事の、一見こわもての監督はあっさり「あぁ、いいよ持っていっても」と言ってくれたので、永井荷風『春情鳩の街』や吉行淳之介『原色の街』の舞台となった私娼館のタイルの貴重な塊をまたしても入手出来たのであった。言ってみるものである。……浅草十二階の煉瓦は、江戸川乱歩ファンや十二階の建築愛好家にとって垂涎の遺物であるが、早晩、この私娼館のタイルは昭和史を語る遺物として価値が上がるのは必至かと思われる。……かくして、美術家にして時空探偵でもある私のアトリエに、またしても不思議な「物」が加わったのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『高村光太郎の、……その前に』

前回のブログの反響はかなり大きく、たくさんの読者の方から「面白かった!!……もっと続きが読みたい!」といった内容のメールが続々と届いて嬉しかった。自分でも久しぶりに書いた連載であったが、まぁあれで、あの実録に基づいたミステリ―は書き尽くしたかなという感がある。書けばもっと続くのであるが、そうしていては切りがない。何しろ書きたい話が他にもたくさんあるのである。……想えば、このブログも10年以上書き続けて来たが、幾つか思い出すブログとしては、……砧の撮影所でふとした成り行きで出会い、最後には私を役者志望の貧乏学生と勘違いして延々と役者の心得を熱く説教してくれた名優・勝新太郎との数奇な出会いを書いた『勝新太郎登場』、また、未亡人下宿で聴いた森進一の歌「襟裳岬」から始まり、次第に新古今和歌集の藤原定家へと話が移っていった『未亡人下宿で学んだ事』の2話に続く渾身の作であったかと思う。……さて今回は、予告では『もう1つの智恵子抄』であったが、不気味なコロナウィルスについて、先にちょっと書こうと思う。

 

 

 

……先日、体が少し鈍って来たのでジムに行こうと思ったが、ふと「密閉してあるジムこそ危ないな!」と、頭のセンサ―が作動したので行くのを止めた。するとさっそく翌日の午後に「千葉のジムからコロナウィルスの患者が連鎖発症」の報道がありホッとした。世はあげてコロナウィルスで、もはや世界がパニックである。今までにない不気味な猛威を見せているというが、はたしてそうか!?…………調べてみるとかなり上手の先輩がいた。1918年から1919年にかけて世界的に流行したご存知の「スペイン風邪」がそれである。なんと感染者5憶人、死者5000万~1憶という桁違いの猛威であり、当時は第一次世界大戦の最中であったが、徴兵できる成人男性が減った為に、世界大戦の終結が早まったというから凄まじい。日本だけでも死者は39万人、アメリカで50万人以上が亡くなっている。このスペイン風邪は約1年間の長期に渡り世界的に猛威を振るったというから、今回のコロナウィルスの終息もまだまだ先が読めないのが現状である。……このスペイン風邪で、画家のエゴン・シ―レやクリムト、またアポリネ―ル、日本では劇作家の島村抱月、画家の村山塊多などが亡くなっている。(ちなみに、私が好きな松井須磨子は島村抱月の後を追って自殺)。………………

スペイン風邪以前の日本の話では、1858年(安政5年)に流行ったコレラ(短期間でアッという間に逝くので別名コロリと言われた)も凄まじく、江戸だけでも死者が10万人(一説によると23万人ともいう)を越え、浮世絵師の歌川広重はこれで亡くなっている。その後にもコレラは度々流行ったのであるが、歴史の逸話としては、もし文久2年(1862年)に第3期のコレラが流行らなかったら、かの「新撰組」は生まれなかった可能性が高いという説がある。……江戸の試衛館(天然理心流の剣術道場で道場主は近藤勇、他に食客で土方歳三・沖田総司・永倉新八・斎籐一・藤堂平助……たち猛者がいた)が、流行りのコレラで入門者が激減し、今回と似た黒字倒産の危機に瀕していた。そこに同じ食客の山南敬助が、幕府の官費による浪士組設立の話を持って来た。江戸で浪士を募り、彼らを使って不穏な京都の治安を守るのが目的という。……この案を幕閣に仕掛けたのは庄内藩の志士・清河八郎。しかし清河は稀代の仕掛人、……実は幕府の官費で集めた浪士をもって幕府を倒す浪士隊を作るというのが、その考えの底にあった。浪士は300名ばかり集まり京都に行くのであるが、近藤勇達はこの話に応じて道場を閉鎖し、第2の転職人生を託す事になる。文久2年のコレラの流行が無ければ、近藤達は江戸と多摩の道場暮らしで平凡に人生を終えた可能性が高いから人生は面白い。彼等に元々の政治的な思想などは無く、まぁ時代の流れに後ろからやむなく押されたにすぎない。……清河八郎のような山師は私は好きであるが、少しやり過ぎた感がある。……京都に着くや、壬生の宿舎で本来の目論見を演説でぶちまけたのであるが、同席した幕府の役人や浪士の殆どがパニックのまま解散して江戸に戻る。そして近藤勇たち試衛館の連中と、何故か芹沢鴨の一派だけが京に残り、会津藩から資金を得て、京の治安を守る新撰組が俄に少人数から誕生した次第。……一方の清河は江戸に戻るが、佐々木只三郎(後の龍馬暗殺の実行犯)によって、赤羽橋近くの路上で白昼に暗殺されてしまう。……(ふと気がつくと、私はコロナの話から幕末の逸話に話が移ってしまっているので、軌道を戻そう。)……つまり、コロナウィルスはスペイン風邪に比べると規模は全く小さいのに、世はあげて人類死滅のごとき騒ぎであるが、この原因は、ネットやSNSの普及、そして世界経済の連鎖性により、明らかに世界が狭くなっている事、また同じ情報の反復受信や、様々な意見の洪水で、脳がそのCapacityを越えて、情報パニックともいうべき一種の集団ヒステリーが連鎖的に起きているのは明らかである。……全く知らないという事もある意味恐いものがあるが、映像を通して見えすぎてしまう……というのも、実体の原寸を越えて投影された暗すぎる巨大な幻想を生んでしまう。……とまれ、もしこのブログが前置きなく突然発信が途絶えた時は、私が不運にもコロナウィルスに罹ってしまったと思って頂けると有り難い。……無事な場合、次のブログは『もう1つの智恵子抄』、更には『阿部定異聞』etcなどと続く予定です。……引き続き乞うご期待。

 

 

 

 

 

 

 

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