月別アーカイブ: 2月 2021

『巴里・モンマルトルの美しき姉妹』

……1月末に完成した私の第一詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』の反響が大きく、驚いている。今までも新潮社や求龍堂その他から著書は何冊か出しているが、今回はそれらとはまた違った手応えなのである。……私が詩も書いている事を知る人達は、なかば予想されていた事かもしれないが、しかし、まさか本格的な詩集を本当に出すとは!!…といった感が伝わって来て面白い。また、先のブログで詩集の購入法を詳しくお知らせした事もあり、未知の方々も含めて、アトリエに毎日、購入申込みを希望される人からの書留便が届き、銀色の手書きの署名を入れた詩集を梱包して発送する日々が続いている。……正に映画『郵便配達夫は二度ベルを鳴らす』の文藝版である。……また、詩集を献呈した方からも毎日のように手紙やメールでの感想が届き、正月の年賀状の如く既に束になって積み上がっている。何より嬉しいのは、献呈のお礼といった儀礼でなく、実際に詩集を丁寧に読まれており、その上での具体的な作品をあげて、その感想を書かれている事がなにより作者として嬉しいのである。

 

……頂いた感想の共通した点を挙げれば、私のオブジェと同じく、一瞬でその人工美の虚構の世界に引き込まれる事、そして言葉の転移がイメ―ジを連弾的に紡ぎ上げ、そこに酩酊を覚える、……といった意見が実に多い。この人達の感想は実に正鵠を射るものであり、他の詩人はいざ知らず、私の場合は、オブジェの方法と詩作の方法には通奏低音のように重なるものがある。沢山頂いた感想のお手紙の中で私がわけても意識したのは、30年以上の旧知であり、この国の最も優れた詩人の一人である阿部日奈子さんからの、具体的に好きな詩を五作列挙された内容であり、それらの五作は私もまた同感のものであった。……さすがの洞察という思いで阿部さんにお電話をした。……阿部さんは更に考えを述べられ、私の今回の詩集から連想する作品として、川端康成の『掌の小説』を挙げられた。『掌の小説』は川端が40年余りにわたって書き続けてきた、実に短い掌編小説122編を収録した作品集で、1篇づつがこの世の危うい断片世界を切り取って、鋭い方解石の結晶のように開示して視せた珠玉の小説集なのである。……私は実に手応えを覚えたのであるが、次なる第二詩集の為の詩作を強く意識したのは、この時であった。

 

……さて、今回のブログでは、詩集の中から1篇を選び、作者による自作解説をしてみようと思う。ポーはその『詩論』の中で、作者が自作解説をするのは意味のある試みであるが、多くの作家がそれをしないのは、内実の見栄であり気取りであると書いている。私は見栄とは無縁であり、一気に書き上げた詩を改めて分解して語る事に、今、自身で興味を覚えている。……今回、分解する詩は詩集の中の『ニジンスキ―頌』と題する詩である。

 

 

 

「ニジンスキ―頌」

 

作られた秘聞、ニジンスキ―の偽手。/弓なりに反った十本の指に二本のネジを固定し/小さなレンズを左右に配し/加乗して肖像を描けば軸足が動く。/指は鳥の趾足のままに細く/42と8の数字を穴に嵌め込み/オブジェをオブジェのままに/犯意と化せば/偽手は手鎖を解かれて本物となる。/ニジンスキ―、或いは擬人法、/モンマルトルの安息の夜に。/

 

 

 

 

……以上である。先ずは第1行から一気に虚構に入る(かなり強引に)。本来ならば「義手」であるが、ここでは私が作った「偽手」という造語が書かれる事で、ニジンスキ―という存在自体が実際のニジンスキ―から逸脱して擬人的に立ち上がる。2行から4行までは、私のオブジェ作品『ニジンスキ―の偽手』の、記憶による制作過程の記述である。加乗は過剰とニュアンスが重なり、「軸足が動く」の動詞形に転じて次の行に移る。「指は鳥の趾足のままに細く」の行は、ニジンスキ―に纏わる伝説の叙述➡ニジンスキ―の死後、高く宙に浮き、鳥人の異名のあった稀人のその遺体を解剖した時、彼の足の骨格は人のそれではなく、鳥の趾足(しそく)の形状に寧ろ近かったという興味深い伝説を記述。「犯意と化せば…………本物となる。」は、実作のオブジェに、ポエジ―と不穏なリアリティ―が入ったところで制作を完了するの意。「ニジンスキ―、或いは擬人法、」は、この詩の主題そのもの。

 

 

……さて、問題は、何故この最終行で唐突にモンマルトルの地名が出て来るか?……である。モンマルトル、この場合は直にモンマルトル墓地を指すが、ニジンスキ―の墓がモンマルトル墓地に在る事を知る人は或いは少ないかと思う。しかし、たとえ知らなくても、読者は私の気持ちが入った息の発語から、何かの暗示をそこに覚えると思う。意味の叙述ならば散文に任せれば良いのであるが、詩の本意と醍醐味は、暗示とその享受の様々な拡がり―多様性にあると私は思っている。……つまり詩は意味で読むのでなく、アクロバティックな直感の織りで読むのである。正しい解釈などなく、読者の数だけ、詩は想像力を立ち上がる言葉の装置として在ると私は思っている。他の詩人はいざ知らず、少なくとも私の詩は、そこに自作のオブジェとの近似値を視るのである。

 

 

 

 

 

 

 

……さて、モンマルトル墓地が出たので、今回のブログの最後は、かつて体験した或る日の出来事を書いて終わろうと思う。

 

 

…………あれは、いつの年であったか定かではないが、たしか季節が春へと向かう頃、その日、私はサクレ・ク―ル寺院の人混みを離れて坂道を下り、次第に人影が絶えていく方へと進み、ラシェル通りという所の緩やかな階段を上がって、モンマルトル墓地の中央入り口へと辿り着いた。……パリの墓地は訪れる人が少ないため、殺人や強姦、窃盗などが最も多い危険区域であるが、それをおしてもこの墓地に来たのは、敬愛するドガや、モロ―、フ―コ―、ハイネ、……そしてニジンスキ―の墓を観る為であった。……しかし、薄日のさす遅い午後のこの墓地は、全く人気というものが絶えたように無人であった。驚いた事に、ニジンスキ―の隣の墓が深さ3m以上も掘られていて、ぽっかりと巨大な暗い穴がそのままで、墓掘り人夫の影さえも無かった。。……ドガの墓を視ようと思い、地図を頼りに歩いていくと、急に背後で少女の悲鳴に近い声が一瞬した。振り向くと、しかしそこに人影はなく、ただしんとした墓地の静まりがあるだけであった。空耳か……と思った瞬間、苔むした低い墓石の影から一人の少女が突然のように躍り出た。少女と見えたのは間違いで、……身長が1mくらいのその人は、かなり歳を重ねた小人の老婆であった。しかも、歪な面相を帯びていて、まるでゴヤの絵にでも出て来そうな「グロテスク」で奇怪な人形のような造りであった。娼婦のような真っ赤な短いスカ―トがアンバランスに生々しい。……しかし驚きはまだあった。……暗い墓の陰から、今一人の同じ面相の小人が躍り出て来たのであった。……二人は小人の双子だったのである。そして、先ほどの悲鳴はその一人が、ぬかるみの為に転倒したものと想われた。……まるでシャ―ロック・ホ―ムズの映画の冒頭にでも出て来そうな、しかも、シンメトリー(対称性)を愛する私の作品の構図そのままに二人は並んで、私の方をじっと見つめ、恥じらいと、妙な誘いの表情を浮かべたままにじっとそこにいるのであった。

 

 

……好奇心が強く、不穏な方に傾き易い私は、一瞬妄想した。……この双子の老婆の誘われるままに、もしついて行ったならば、間違いなく明日は無いな……と。『浴槽の花嫁』など「世界怪奇残酷実話」の著者で知られる牧逸馬の熱心な読者であった私は、巴里に実際に起きた不気味な奇譚を数多く知っている。……私は、なおも見ている二人を背にそこを離れて、墓地の出口へと歩き始めた。……振り向くと、二人の姿は墓石の並びに隠れたのか、もはや姿は掻き消えていた。……坂を下り石段を踏みながら、私は彼女達の家は何処なのかを推理した。……そして想った。あの双子の小人の家は、最初に現れた、あの墓石の湿った暗い底なのだと。………………風が湿りを帯びて来た。どうやら雨気が流れてくるらしい。……ふと気がつくと、ゴッホの弟のテオが住んでいた建物を示すプレ―トが目に入った。ゴッホはパリの最後をこの場所で過ごし、死地のオ―ヴェルへと向かっていった。……そう想った瞬間、何故か背筋が一瞬寒くなった。

 

 

 

 

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『サン・ジェルマンの2つの話―Paris』

…昨日、二つの見応えのある写真展を観た。渋谷の文化村ザ・ミュ―ジアムで開催中の『写真家ドアノ―/ 音楽/パリ/』展と、東麻布のPGIで開催中の『川田喜久治/エンドレスマップ』展である。川田喜久治さんの写真について語るのはかなりな力業が要るので、近いうちにブログでじっくり書くとして、今日はドアノ―から、このブログは始まる。ドアノ―は大戦後のパリを撮した「記録」の人である。記録は、その記録の域を出る事は難しいが、時として記録の域を越えた「奇跡的な瞬間」を結晶のように撮してしまう事がある。

 

 

 

 

 

…………ここに1枚の写真(1947年撮影)がある。パリ6区、サンジェルマン・デ・プレ教会を背に、無心に犬と戯れる一人の若い女性(二十歳前後か)。繊細さと、ぶれない矜持を内に秘めた、なんとも魅力的な姿である。ドアノ―は、この光景が放つ「何か」に惹かれてシャッタ―を押した。無名の若い女性と、通りすがりの写真家の一瞬の交差が、この瞬間を奇跡に変えた。……まだ無名のこの若い女性は、数年後にその才能を一気に開花させて、世界的にも最高峰のシャンソン歌手ジュリエット・グレコへと羽化していく。……そして昨年の10月に93歳でその栄光に充ちた生涯を終え、背景に写っているサンジェルマン・デ・プレ教会で葬儀が行われた。……しかし、この写真に撮られた瞬間、この女性は自分の運命をもちろん知らず、撮したドアノ―自身も知る由もない。ただ、カメラのレンズだけが、この一瞬を定着させ、グレコの生涯の時間と運命を凝縮して刻印したのである。……パリは、このような伝説とその名残が、物語りを綴るように至る所に息づいている所なのである。次の話も、同じくサンジェルマン・デ・プレ地区に纏わる話である。

 

……前回のブログで、30年前に、イギリスに拠点を移す前の半年間、パリに滞在していた事を書いた。その時の私の宿は、12 rue Guizard(パリ6区・ギザルド通り12番地)の6階の屋根裏部屋であった。サンジェルマン・デ・プレ教会からも近く、リュクサンブ―ル公園も近い場所に在る、数百年はゆうに経つ古い建物。まるで蜥蜴の舌先のように歪に摩滅した螺旋の石の階段を息を切らして昇っていった最上階に、私の部屋があるのである。しかし、天窓からはサンシュルピス教会の鐘楼が間近に見え、時おり、重く響く鐘の音が、飛翔する天使の羽根を想わせて響いてくるのであった。

 

……スペインから引っ越して来たのは、1990年12月の28日, ……パリは薄雪に覆われていた。私は灰白色の厳寒の街を毎日歩きながら、高揚した気分の中で、美術や文藝に向かっていく自分の為にイメ―ジの充電に励んでいた。……しかし、疲労が祟ったのか、ある日、急に重度の風邪をひき、薬局に行く体力もなく、部屋でただひたすら寝込み、空腹と衰弱の中でかなり危ない数日を過ごしていた。「ひょっとして……死ぬのか?」…そんな想いさえ真剣に過るようになっていた。……そんなある時、ふと寝床の先を見ると、天窓から射し込む四角い光の面が床に突き刺さるように鋭く映り、それが次第に寝ている私の方に移動して来るのが見えた。……唯の光であるのに、私にはその光が何やら魔的な「何物か」の化身のように思われ、私は初めて光というものに恐怖した。……そのくっきりと映えた光の面は次第に近づいて来て、遂に寝ている私の頭から腹部迄を鋭く照射し、部屋の奥へと移って、やがて消えた。光を全神経で、正に犯されるようにまともに浴びる。その間、私は何か得体の知れないものと明らかに交感しているのを感じとっていた。……そして信じられない奇跡が起きた。光をまともに浴びたその日の午後から、嘘のように熱が引き始め、気力が次第に戻って、私は階段を伝って外に出て、とりあえずの食事をした。正に生き返る心地であった。……その翌日であったか、私は何故か急に本格的に写真が撮りたくなり、セ―ヌの岸辺やル―ヴルに行き、彫刻を撮影するなどして、次第に写真という世界の妙に惹かれていった。誇張なく言えば、写真家としての私の出発は、正にあの時の光の受容から導きのようにして始まったのであった。……(この辺りの私の体験は、後日、写真評論家の飯沢耕太郎さんが詳しくテクストに書いている。)

 

 

 

 

 

……私が住んでいたギザルド通りは、僅か50m近い短い通りである。小さな古い店だが、ミシュランに載るム―ル貝の美味しい店があり、前の黒塗りの店は、男子禁制のレスビアン嬢達が深夜に集う妖しい店である。このラテン地区に近いエリアはリルケやマンレイ等が住んだ場所であり、亡くなると建物の所にそれを記したプレ―トが掛けられる。……「番地は忘れたけれど、写真家のエルスケンが、確かこのギザルド通りに住んでいた筈」……そう教えてくれたのは、パリで知り合ったマガジンハウスの元編集者のS女史であった。編集者だけになかなかに詳しい。……しかし、この通りにそれを示すプレ―トは無かった。……何かの間違いだろう。写真集の名作『セ―ヌ左岸の恋』はもちろん私も知っていた。しかし、その内にその事は忘れていき、半年後の夏に、私は拠点をロンドンに移す為にパリを去り、その年の暮れに日本へと戻った。

 

 

 

 

 

 

 

……帰国すると、そのエルスケンが度々私の前に現れる事となった。……帰国して間もなく何気なくテレビ を観ていると、エルスケンを特集したドキュメンタリ―が流れていて、病(確か癌であったか)で死にいく病室のエルスケンの姿がそこにあった。……それから2年後の春に、渋谷の文化村のザ・ミュ―ジアムで『エルスケン写真展』が開催されたので観に行った。どういう訳かエルスケン続きである。……会場内に貼られたエルスケンの詳しい略歴を見て、私は驚いた。……そこに記されていた住所は、12 rue Guizard、私が住んでいた、あの同じ建物であった。オランダから無銭旅行でパリに着いたエルスケンに余裕のある金はない筈。ならば住むのは一番安い、あの屋根裏の部屋では?……興味を持った私は、会場内にあった図録にそれを追った。……それとは、エルスケンが自写像で、ひょっとして部屋も撮しているのでは……と思ったのである。はたして予感は当たり、図録最後のエルスケンの自写像に写っていた背後には、私が慣れ親しんだ、そして死にかけもし、後に写真へと導かれた、(屋根の傾斜の為に奧に行くにしたがって高さが低くなる)、あの思い出のある部屋に、私は数年ぶりに導かれるままに再会したのであった。……『セ―ヌ左岸の恋』の名作がプリントされ、エルスケンの主要な人生を彩った、あの部屋に私もまた住んでいたのか!その想いは何故か切ない感慨となって溢れて来た。…………そして、図録に書いてあったエルスケンの亡くなった日を知って、また私は驚いた。……〈死亡日.1990年12月28日。〉……私がパリに着き、初めてあの屋根裏部屋に入った、正にその日に、エルスケンが亡くなっていたのであった。

 

……日本では無計画に次々と旧居を壊し、その跡形も無くしてしまう。そこに人と人とのドラマを繋ぐ時間の繋がりは何も無い。しかし、石で出来た街―パリは、建物だけは残り、ただそこに住んだ人々が次々と人生のドラマを綴って消えていくのである。あのジュリエット・グレコが佇んだ場所に写っている石段は今も在り、教会も在り、そしてエルスケンが住み、その40年後に私が住み写真に目覚め、そして今は誰か別な住人が住み、皆、次々と死んでいき、ただ石の硬い建物だけが人生のドラマを紡ぐ舞台のようにして、次なる人を静かに待ち受けている。……このようにブログを書いていると、また写真を撮りに異邦の地へと旅立ってみたくなる。……今、このアトリエにはジュリエット・グレコの歌声が響いている。その声を聴きながら、しばし昔日の想いに酔ってみようと思うのである。

 

 

(前回のブログでご紹介した私の第一詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』の反響が大きく、読まれた方々から連日、お手紙やメールで実に嬉しい感想を頂いている。また、前回のブログを読まれた方々から詩集を購入されたいという申込みが連日アトリエに届き、以来毎日、購入された方々への署名書きと詩集の発送に追われていて、作者として大きな手応えを覚えている。

……前回のブログで予告したモンマルトルの不気味な話は、今回、紙数の関係で次回のブログに延期する事になってしまったが、次回は、私の詩集の中からニジンスキ―について書いた詩を自作分析する試みからブログを始めたいと思っている。……また限定出版の為に詩集の在庫が少なくなって来ているので、購読をご希望される方は、前回のブログの購入方法をお読み頂けると有り難いです。……次回のブログのタイトルは『モンマルトルの美しき姉妹―Paris』。乞うご期待です。

 

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『Isola Bellaの白い孔雀』

この度のコロナ騒動で具体的に判明した事が一つある。それは、世界とはすなわち私達個々の内なる幻想・幻影の映しに他ならず、世界はあたかも回り舞台に描かれた下手くそな書き割りの絵、茶番、虚像で成り立っているという事である。世界はかくも脆く、故に夢見のように儚い悲喜劇とせつなさに充ちている。このせつなさの先に、詩人の西脇順三郎が云ったポエジ―と諧謔が在り、この世を全て移動サ―カスと見れば、フェリ―ニの詩情に充ちた映像のように俯瞰的に面白く、妙味を持って世界が裏側(繕いだらけの張りぼて)から見えて来る。……少なくとも世界とはそのように私には映っている。……ならば、窮屈な今を離れて、少し前の旅の記憶について今日は書こうと思い立った。

 

……今から30年前、1年間の間であったが、ゆっくりとヨ―ロッパを巡る旅に出た事があった。旅の前半の拠点はパリであったが、その間にスペイン、イタリア、オランダ、ベルギ―……と廻り、後半は拠点をロンドンに移し、ミステリ―の生まれた舞台…暗い霧の中に在って、ひたすらイメ―ジの充電に浸る日々であった。……その様々な旅の記憶の中で、今日のブログに書きたいのは、ミラノからスイスへと行く途中にあるマジョ―レ湖の事である。今の渇いた殺風景な日本から、せめてイメ―ジを翔ばすには、たっぷりと水気を含んだ広大な湖こそ相応しい。

 

 

 

 

マジョ―レ湖へと私を導いたのは2冊の本(ゲ―テの『イタリア紀行』と澁澤龍彦の『ヨ―ロッパの乳房』)であった。ミラノからスイスに向かう列車に一時間ばかり乗り、ストレ―ザという駅で下車。緩い坂道を下って行くと正面に「珠玉の美しさ」と云われた広大な湖が見えて来る。その湖畔には、夢の中にでも出てきそうな巨大なホテル「グランドホテル・ディ・イル・ボロメ」(画像掲載)が在る。ヘミングウェイがこのホテルに泊まり『武器よさらば』を執筆した場所としても、ここは知られている。

 

 

 

 

湖畔に来ると数艘のモ―タ―ボ―トがあり、中央に見えるイゾラ・ベッラ島、また近くの島を廻る旅人の為に漁師たちが舟を動かすのである。……メインであるイゾラ・ベッラ島は、今もミラノに住む貴族・ボッロメオ家の所有であるが、かつてナポレオンも泊まったという巨大な宮殿は見学が可能であり、夥しい数の貝殻で造られたグロッタの部屋や、庭に出ると真昼時の光を浴びた広大なバロックの庭園や、頂上の高みに白い一角獣を配した彫像群が在り、雪をいだいた連峰を遠くにみるマジョ―レの湖面に映えて美しい。

 

……私は、この島のレストランから郵便が出せる事を知り、澁澤龍彦夫人の龍子さんに昔のマジョ―レ湖を撮した葉書に感動のままに文字を書いた。……「澁澤氏の『ヨ―ロッパの乳房』の描写のままに実景もまたあまりに美しく、氏の文が誇張なく綴られた、誠に1篇の詩である事を痛感しました。私はここに来て、実景と文章における距離の計り方を知り、何かを掴んだように思います。この経験は得難いものとなりました。必ずや帰国してから活きると思います。明日、またミラノに戻ります。」……記憶では、およそ、そのような内容の手紙であったかと思う。……帰国してから活きる、この予感は当たり、文藝誌の『新潮』に書いた、フェルメ―ル論やピカソ・ダリ・デュシャンを絡めた書き下ろしの中編をはじめ、文章を書く機会が多くなっていくのであるが、私はこの島での僅かな滞在ではあったが、何かエスプリと艶のごときものを掌中に収め獲た旅となった。

 

……さて、このイゾラ・ベッラ島には、この島の美しさを具現化したような白い孔雀がバロックの庭に優雅に遊び、私をして非現実の世界へと軽やかに誘った。……今、この孔雀の事を思い出しながら、このブログを書いているのであるが、その意識とは別に、先ほどから脳の中の何処からか突き上げてくるものがあり、たちまちそれは四行の短い詩文となったので、忘れないうちにこのブログの中に記しておこう。

「イゾラベッラの白い孔雀は/真夜中にその羽を広げる。/マジョ―レの湖面に/幻の満月を映すように。」

……オブジェの制作の時も同じであるが、それ(イメ―ジの胚種)は、向こうから突然やって来て、私はそれをあたかも釣り上げるようにして立ちあげるのである。今、マジョ―レ湖の旅の記憶を思い出すままに書いていると、突然、詩が出来上がったのであるが、〈旅人〉〈その記憶〉という立ち位置は、何か自在に表現へと向かわせるものがあるようである。とまれ、この度のコロナ騒動が収まったら、このマジョ―レ湖とイゾラ・ベッラ島への旅は、ぜひお薦めしたい旅なのである。……次回は、パリ編のモンマルトル墓地で私が体験した非現実的な話を書きたいと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

……さて、以前から予告していた私の第一詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』が沖積舎から刊行された。11月の高島屋の美術画廊Xでの個展が好評のうちに終わるや、すぐに頭を切り換えて、オブジェの作り手から言葉の人となり、12月の末には最後の詩の原稿を書き上げた。1月初めに社主の沖山隆久さんに原稿を渡し、その月末に詩集は完成したのである。恐るべきその速さ!……私も沖山さんも生き急いでいるのである。詩集は550部の限定出版であり、既に多くの詩人や、また私の関係者の方に献呈した為に、詩集の残部は早くも残り90冊を切ってしまった。

 

……かつての中原中也や宮沢賢治が行った詩集の販売方法を受け継ぐわけではないが、購入をご希望される方は、3000円(内訳・詩集価格2750円〈税込み)+送料込み)を、現金書留で下記の私の住所にお送り頂けると、詩集の見開き頁にその方のお名前を銀で直筆して日付を書き込み、お手元にお送りします。……なお、安全と確実さを期したいので、文字は崩し書きでなく読める形、また万が一の不明文字の確認の為に電話番号の記載をよろしくお願いいたします。

 

現金書留の送り先: 〒222―0023 横浜市港北区仲手原1―21―17 北川健次
なお、販売部数が少ない為に完売・絶版になりましたら現金書留は返却致します。また、完売のお知らせは、すぐにこのブログでお知らせします。

 

 

 

 

 

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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