月別アーカイブ: 1月 2023

『京七条・油小路に雪が降る』

……あれは今から何年前であったか、パリで知り合った、国際芸術祭BIWAKOビエンナ―レの主催者の中田洋子さんという人から招待作家として出品を依頼された事があったので「いいですよ」と快諾し、その打ち合わせで会場予定の近江八幡に行く事になった。東京の作家4人が新宿で合流し1台の車で向かうわけであるが、その日の夜は、西から数年に1度という大型の台風が直に襲ってくるという最悪の日であった。かなり強い台風なので気にはなったが、「面白いではないか」という事で夜の9時過ぎに出発した。……浜松に近づいた辺りから車が揺れるくらいに嵐が激しく吹き荒れて来た。高速道路の脇から海水の飛沫が飛び散り、なおも行くと、何台かの車が横転したまま打ち捨ててあり、不思議な事に前も後にも先ほどまで見えていた車の姿が全く消え去り、ただ私達を乗せた車だけが、暗闇の中を不気味なくらい静かに走り続けている。あれほど吹き荒れていた風もいつしか止み、外に視る闇は全く静か、車内の4人もみな息を詰めたように無言である。……口火を切ったのは私であった。「ひょっとすると、我々はもう死んでいるのかも知れないね。……さっきの何処かで車が衝突し、今、冥土に向かって我々を乗せた車が静かに走っているのかも知れないねぇ」……その言葉にホッと安堵したのか、皆が一斉に笑った。

 

 

……先日の25、26日は名古屋~京都に行く事で予定が入っていた。25日のお昼に馬場駿吉さん(元名古屋ボストン美術館館長・俳人)と名古屋画廊で待ち合わせをして、画廊の中山真一さんと三人でお話しをしてから夕方に京都に行く予定であった。しかし、24日の夜半に中山さんから連絡があり、10年に1度という豪雪と寒波が明日来るので2月13日に延期しましょうというご提案があった。了解し、私は25日午前に直行で京都に入った。途中の米原辺りから新幹線の外はホワイトアウトで何も見えない。まるで映画「八甲田山」のようであり、京都もさぞやと思ったが、駅に着くと吹雪が去った後で雪は止んでいた。

 

 

 

京都では4人の人に会う予定で約束済みであった。その中のお一人が京都精華大学で教授をしている生駒泰充さん(画家)。生駒さんは旧知の友で、以前に私が『モナリザミステリ―』(新潮社)を刊行した際に、精華大で講演を企画してくれて喋った事がある。ドイツ在住の造形作家.塩田千春など沢山の人材を育てているが、生駒さんの感性と直感力は私と何故か重なるので話題が尽きないのが嬉しい。……10年ぶりに到来した寒波で大学が休校になった為に生駒さんの授業がなくなり、京都駅で私達は早く待ち合わせが叶い、先ずは三十三間堂に一緒に行く事になった。

 

……生駒さんが面白い話を切り出した。アンディ・ウォ―ホルの代表作のマリリン・モンロ―のあの作品の着想は、彼が1956年に来日した際に京都に来て三十三間堂の1001体の千手観音仏像を視たときに閃いたのでは!?という興味深い仮説を語ってくれた時に、私の直感が激しく揺れた

そして頭の中で1001体の(顔の表情が各々微妙に異なる)仏像と、マリリンの顔(しかし意図的な刷りの変化で顔の表情は各々に異なる)が、例えるならば完璧だったアリバイが一気に崩れるようにそれらはピタリと重なった。

 

 

……以前に私が拙著『美の侵犯―蕪村x西洋美術』(求龍堂)の中で見破ったキリコが隠している、あのキリコ絵画の特徴である異なった多焦点が、実は後期ルネサンスの建築家パラディオの作品『オリンピコ劇場』の多焦点の効果と遠近法の崩しから着想している!という着眼法と正に重なったのである。……机上で考えている評論家にはおよそ閃かない、私たち実作者だけに視えて来る舞台裏、現場主義の視線があるのである。私が前回のブログの最後に書いた「過去は常に今よりも新しい」という言葉の真意が正にそこにあるのである。

 

……私達の様々な話題は尽きなく、次に四条木屋町の老舗喫茶「フランソワ」でも熱く語り合い、次にお会いする約束の京都高島屋美術画廊の福田朋秋さん(福田さんは、このブログでも度々登場されている)に生駒さんをご紹介した後、3人で一緒に先斗町のおばんざい老舗『うしのほね』本店に席を移し、福田さんも交えて更に尽きない話の井戸の底へと私達は落ちていった。……先斗町のその店の窓外に見える夜の鴨川がいかにも情緒的であった。……恋人同士ならば柔らかな話の間もあるのだろうが、私達は、今話しておかねば後悔するという感じで様々な話に耽ったのであった。……なので、お二人と別れた後で、祗園一力の隣に予約していた宿に帰った時は、喉が乾いて水ばかり呑んでいた。

 

 

翌26日は3つの目的があった。……先ずは、美術.写真集などを数々出版している青幻舎の編集長、田中壮介さんに久しぶりにお会いする約束が午前10時からあるので、祗園から河原町を歩いて会社のある三条烏丸御池へと向かった。……途中で老舗旅館の俵屋、柊家が目に入ったので、柊家の方の古風な造りを眺めていた。文政元年(1818年)からの老舗であり、文豪川端康成の常宿としても知られている。……ここは文人墨客の店。……逆光で映った私の姿風情にオ―ラでも感じ取ったのか、中から「もしよろしかったら、中へお入りになりませんか?」という柔らかい声が。……では、と言って中へ入り、宿の人と暫く川端康成の逸話などをお聞きしながら時が過ぎていった。…………おっ、こうしてはいけない、田中さんとの約束の時間が……と思い、青幻舎の場所を訊くと、ご丁寧に詳しく書いた地図を渡してくれたのには更に感謝であった。「次回、京都に来た時はお世話になります」と言って旅館を出、目的地へと向かった。

 

 

青幻舎の中で田中さんとお話しをした後で席を移し、近くにある趣のあるカフェで続きのお話しを交わした。田中さんとの会話はいつも話が弾んで面白い。……しかし、私は予定を詰め過ぎていた。……次に会う約束をしている平尾和洋さん(立命館大学教授・建築家)と12時に近くの烏丸御池のカフェで待ち合わせなのである。田中さんとお別れした後で、カフェで平尾さんと10年ぶりくらいの再会。以前は立命館大学の工学部で私がダ・ヴィンチの建築家としての視点から講演をして以来かと思うが、気の合う同士なので、すぐに話は本題に。……しかし、私の京都行の目的がもう1つ残っていた。……京都七条.油小路にある、新撰組伊東甲子太郎ほか数名が暗殺された現場を訪ねる事が残っていたのである。……平尾さんにその話をすると好奇心の強い平尾さん、では一緒に行きますよ!との事。二人でタクシ―に乗り、現場である本光寺へと向かった。

 

現場に着いてみると既に先客の幕末史ファンがいた。若い男性、外人の二人組。……以前は赤穂浪士の忠臣蔵は海外で知られていたが、新撰組もそこそこ知られ始めているのであろうか。とまれ皆さん熱心である。……男性が持っているタブレットを見せてもらうと、伊東暗殺直後に駆けつけた伊東の門下生(かつては新撰組)達が惨殺された詳しい現場跡がわかって、私の興奮はしきりである。

 

伊東甲子太郎は容姿端麗、人望が高く、既にして名士。……元治元年(1864年)に新撰組に加盟する。参謀としていきなり要職に就くが、佐幕派の新撰組と伊東の倒幕の異なる方針をめぐって次第に対立、やがて脱隊して、薩摩藩の支援で東山高台寺の月真院に「御陵衛士」として本拠を置く。この時に新撰組発足以来の藤堂平助ほか多くの隊士が伊東を慕って新撰組から去った。

 

慶応3年(1867年12月13日―旧暦で坂本龍馬が暗殺された3日後。ちなみに伊東は近江屋に潜伏していた龍馬と、同席していた中岡慎太郎に、暗殺の動きがあることを告げて警告をしている)の夜に、伊東は新撰組局長の近藤勇から呼ばれ、近藤の妾宅で接待を受ける。酔った伊東はその帰途は上機嫌であったらしい。伊東は思ったであろう(…そういえば、先ほどの席に近藤はいたが、副長の土方(歳三)はいなかった。…おそらくあの男は私に臆したのであろう。新撰組の屋台も私によってほぼ分裂し瓦解した。…土方、…新撰組を作り上げたあの策士も、もう終わりだな……)

 

……その時、はたして土方は何処にいたか。……伊東甲子太郎が歩いて来る先の暗闇、七条油小路の民家の暗闇にいて、その切れ長の鋭い目を光らせていた。……そして数十名の新撰組もまた民家の陰で息を潜めながら、その時を待っていたのである。……一瞬、闇に光が走り、鋭い槍の切っ先が伊東の首を貫いた瞬間、北辰一刀流の剣客であった伊東の体はくるりと一閃し、自分を突き刺した男を切り下げて、絶命した。「奸賊ばら!」……闇に響いたこれが、伊東の最期の言葉であったという。

 

土方の作戦はこれに止まらず、伊東一派の粛清にあった。寒さで忽ち凍てついた伊東の遺体を路上に放置し、番所の役人を月真院に走らせて、これから遺体を収容しに来る伊東一派を誘い出す囮としたのであった。そして土方の読みどうりの乱闘となって三名が戦死。他は逃げ去り明治まで生き残る。……その乱戦の現場を、その場にいた幕末史ファンの男性のタブレットで知り、私と平尾さんは移動してその場所に立った。……その乱闘の様子を民家の中で秘かに目撃していた老婆の証言が資料として残っていて、私はそれを想いながら、京都行最後の目的を果たしたのであった。……ふと平尾さんを見ると、先ほどから寺の庭に出来ている大きな蜜柑に関心が移っているようである。……冷たい風が吹いて来た。小雪がその風に乗って京都がまた白くなって来た。京七条・油小路に今し雪が舞っている。…………平尾さんと再会を約しながら京都駅前で別れ、私は帰途についたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『兎は何処に跳ねるのか―2023年初春』

……大晦日の夜は、永井荷風の『日和下駄』を読みながら夜の9時半頃に寝床に入り、いつしか眠ってしまった。だから除夜の鐘を聴く事もなく、翌朝に目を醒ましたら、世間が2023年になっていたので、どうも年を越して新年を迎えたという感じが今一つない。むしろ何時もと同じく、地球がただ一回りしたというだけの自然な感じである。……

 

作品の制作は、次の展開に向けて常に始まっているので、年末も新年もない。12月末は、オブジェに使う硝子瓶の上辺を正確に平らにする為に、浅草の吾妻橋を渡った先にある硝子工房の八木原製作所に行き、八木原敏夫さんにお願いして1000度以上の高熱の火で硝子瓶を加工して頂いた。その熱する為の機械(装置)がまた面白く、感心する事しきりである。……八木原さんは医大の医療器具などの精密な硝子製品も含めて幅広く作っておられる超絶な技術の持ち主なので、その仕上がりは見事なものである。……6年前に知人の硝子作家の方から八木原さんをご紹介されて以来、私の中に眠っていた硝子への想いが一気に開いて、今はオブジェの中に、硝子がイメ―ジの変容の為に参入してくる事が多くなって来た。錬金術師の家のような工房の中で毎回交わす八木原さんとの会話から、次のイメ―ジへの閃きが出てくる事も多く、幸運な導きに充ちた八木原さんとの出会いは本当に有り難いものがある。

 

 

昨日(1月10日)は、鉄の作品の打ち合わせの為に、金属加工の超絶な技術を持っておられる田代富蔵さんと日暮里でお会いして二時間ばかりお話をした。田代さんはご自身がオブジェの作品を作って発表しておられファンも多く、私とはイメ―ジで交差する点もあるので、話がいつも具体的である。富蔵さんは昨年の秋からパリの坂道を主題にした連作を制作中で、話を伺っていて煽られたらしく、今、私の頭の中はモンマルトルの坂道を上がり下りしている次第である。

 

……荷風は名作『日和下駄』の中で、「坂は即ち地上に生じた波瀾である」と書いているが、誠に坂という作りはミステリアスな物語性を多分に秘めて静かに沈黙しているのである。

富蔵さんと、日暮里の御殿坂で別れた後、私はタモリの書いた『タモリのtokyo坂道美学入門』にも登場する富士見坂に行くべく、先ずはその手前にある諏方神社に立ち寄った。

 

 

……この辺りは高村光太郎古今亭しん生靉光幸田露伴北原白秋長谷川利行……等々、文人墨客が数多く住んだエリアで昔日の風情がまだ残っている。諏方神社に入って行くと、ふと気になる物があり、私の目はそこに注がれた。……神霊が依り憑く対象物として神社の至る所に下がっている、白い和紙で出来たあの物である。……今までさほど気にならなかった、あの白い和紙の作り物に何故か目がいったのである。

 

ご存じの方もおありかと思うが、この物は依代(よりしろ)と言い、神道に関する用語で、神霊がそこに寄り着く物を意味するらしい。日本では古代からあらゆる物に神や精霊、魂が宿ると考えられており、依代の最古のものは縄文時代の土偶に始まり、人々はその依代の形(かたしろとも云う)から、信仰と畏怖の念を直感するという。……「様々な物象に神が宿るという点では、以前に私が書いたフェルメ―ル論『デルフトの暗い部屋』(単行本『モナリザミステリ―』に所収』)に登場したスピノザの『エチカ』における汎神論(神は世界に偏在しており、神と自然は一体であるという考え)に或いは近いかと思う。」

 

 

 

私は既存の宗教とは一切無縁の人間であるが、その私をして、この依代なる物の一瞬にして崇高さ、さらには畏怖の念さえ立ち上がらせるこの造形センスの完成度の高さは凄いものが在る!と、その時につくづく感心したのであった。……この造形センスの上手さに比べたら、例えば70年代に流行り病のように美術界を席巻し消え去っていった、あの「コンセプチュアルア―ト」なるものの作家達の造形センスの無さ、更には、その自分の作品の意味付けを(表現力不足を補うかのように)喉を枯らしながら必死で喋っている往時の姿が一瞬過って、忽ち去っていったのであった。……彼らは必死で喋って、なおも何も立ち上がっては来なかった。意味を計り知ろうと真面目に絞る人もいたが、その姿には苦しいものが見てとれた。

 

……しかし、眼前に視る依代は無言にして神聖感を伝えて来る。……この明らかな差。私たち人間の内部に沈潜している、それはアニミズム的な原初性との共振なのか。……縄文時代に既にその造形の原形が出来ていたという話を知って、私は想像した。遥かに遠いその昔、ある人物が依代なる物を作るべく、その形象作りに挑戦している、その姿を。

 

…………現代の美術では、作品に意味付けをせんとして関係項、関係項(意味を解放し、人ともの、もの同士の相互関係を重要視する)とかまびすしいが、例えば、竜安寺の石庭は、遥か昔にそれを無言で現してなおも気品に充ちている。白砂に15個の石を置いて、洋々たる海原に浮かぶ小島を象徴したと云うが、その意味を越えて、私たちの内心と静かに観照し合う力がそこには在る。……何よりも先ずは、視た瞬間に観者の心を鷲掴みにしてしまう超越的な力がそこには在るのである。そして芸術表現とは、そのようなものであらねばならないと私は思っている。……「過去は常に今よりも新しい」…… 私は今、この言葉が一番気に入っているのである。

 

 

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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