マルセル・デュシャン

『次なる未踏の表現の場へ』

高島屋美術画廊Xでの個展『吊り下げられた衣裳哲学』が盛況の内に終了した。最初は人の入りもやや緩やかであったが、会期後半に入り、特に残り1週間になると沢山の方が入れ替わるように次々と来られ、最終的には前年の数を更に越える作品数が、人々のコレクションになっていき、またも記録を更新する事になった。そして、来年の10月中旬からの次なる個展(来年は連続11回目)の企画が早々と決まった。来年はかなり一新した展示内容を既に私は構想しているが、この画廊Xの大規模にして魅力ある空間を劇場に見立て、如何に変容させるかの様々な切り口が浮かんで来て、様々な意味で実に生産的な個展となったのであった。個展の度に更にハ―ドルの高さを上げていき、未開の内なる表現の引き出しを半ば強引にこじ開けていく。そして、実験性と完成度の高さを併せ持ち、現在と普遍に向けて作品を立ち上げていく。……プロフェッショナルの矜持とは、そこに尽きると私は思っている。全くぶれない作家と云われて久しいが、今回の個展で得た更なる自信は、これからの作品に艶の光彩を放っていくように思われる。

 

今回の個展では、旧知の親しいコレクタ―の方々に加えて、私の作品を愛する新たなコレクタ―の人達に出会えた事も大きな収穫であった。……例えば、コ―ネルの作品を日本人で最も多く個人所有し、また私の作品を高く評価したクリストとも親しいコレクタ―の人(この方は、今回の個展で私の作品を六点まとめて購入されたが、私とコ―ネルの作品の違い〈コ―ネルは一人称であるが、私の作品は各々に巧みな虚構の華がある事〉を実に的確な言葉で指摘された。また別な方は、クレーの水彩画やジャコメッティの彫刻・素描を所有し、また別な方は、広重のほぼ全作を持ち、次なる方は、やはりコ―ネルや北斎をコレクションし、仕事ではアングルの油彩画などを広く商うプロのディラ―の方であったりと、美の核心を見抜く確かな眼識を持つ慧眼の方々に作品がコレクションされていったのは大きな手応えであった。〈コレクタ―〉という言葉で一口に括っても、表現者と同じで様々な質の違いがある。今回の個展で、私の作品を評価する人達は、各々に自分の確かな眼と美意識を持つ最高な(ゆえに厳しい)人達であるというのを実感し、故に次回はもっと上をと、感性の熱い高まりを覚えるのである。

 

さて、今回の個展の半ば頃に、ミラノのデザイナ―で写真家のセルジオ・マリア・カラトロ―ニさんが、ギャラリ―サンカイビの平田さんと共に会場に来られた。平田さんは私が写真家としても表現していく契機をプロデュ―スされた恩人である。セルジオさんとは初めての出会いであった(ギャラリ―サンカイビの個展で写真の仕事は既に拝見済み)が、直ぐに親しくなり、私の作品への感想を実に詩的な美しい表現で語り、たちまち私を魅了した。……画廊が終了する時間に、私達三人は再び高島屋のレストランで待ち合わせて、食事をしながら今後の打ち合わせに入った。平田さんの企画で、私とセルジオさんとによる、写真を主とした、かつてないような知的感興とエスプリ、そして写真による光の魔性を刻印するような展覧会を、平田さんは構想しているのである。今後二回目の打ち合わせは、近々に、セルジオさんが住まれる、鎌倉建長寺内のご自宅でする事になっているが、生き急ぐ私達の打ち合わせは順調に進み、どうやら来年の早々に私はパリに撮影の為に行く事になるかと思われる。……他の写真家や美術家には絶対に出来ない私だけのメソッド―写真とオブジェの硬質な融合に拠る作品の顕在化。その実現の為に私はあえて待っていたのであるが、堅くて薄い凹凸のある石面に鮮明に画像を焼き付ける高い技術が、私の読みに合わせるように、今年に入って完成したのである。実にタイムリ―なこの切り口、ここ数年、私の写真発表は控えなものであったが、いよいよ動き出す時期が来ているように思われる。

 

個展が終わった二日後の午後、秋晴れの中、上野の博物館で開催中の『マルセル・デュシャンと日本美術』を観た。フィラデルフィア美術館から、『遺作』を除く主要な作品を持ってきただけに、なかなかに充実した見応えのある、近年稀な展覧会であった。マルセル・デュシャン。……日本では美術評論家の東野芳明が専売特許のようにデュシャンについて語り、多くの美大生がその明かに歪んだ解釈に乗せられて、浅いままに墜ちていった。まだ美大生であった私は東野のゼミに顔を出していたが、まだ作家としては卵でありながらも、東野の語るデュシャン像は〈絶対に違う!!〉と直感し、私はすぐに東野のゼミに見切りをつけて去った。……将来、自分の表現者としてのスタンスが確かなものになった時、デュシャンは知的に遊ぶものとして当時20才であった私は、関心の脇に置く事にしたのである。それから20年の時を経て、私は『停止する永遠の正午―カダケス』を文芸誌「新潮」に書き下ろしで発表し、その中でデュシャンとカダケスの関係について熱く語った。……「デュシャンの遺作は、カダケスのあの光から来ていると思う。」……デュシャン存命中にテ―トギャラリ―で実に見事なデュシャン展を企画開催した美術家のリチャ―ドハミルトンは、私と同じ視点で、『遺作』誕生の出自について語ったが、対談相手の東野芳明は、デュシャンの本質を突いたハミルトンのこの鋭い指摘に注視せず、話は別な方向に流れてしまった。ハミルトン、東野ではなく、私はここに、表現の舞台裏に終には入って来れない、評論家というものの総じての限界を観てとったのであった。……私は更に拙著『美の侵犯』の一章で再びデュシャンの謎多き『遺作』について言及しているが、とまれデュシャンの知的なパラドックスに充ちた作品は観ていて、今、最も面白いもののひとつである。かくして、私はこの展覧会場の中でかなりの時間を過ごしたのであった。まだ未見の方には、ぜひお薦めしたい見応えのある展覧会である。

 

……と、ここまで書いて今回のメッセ―ジを終えようとしたら、実にタイミングよく、個展の疲れを癒やしてくれる嬉しいメールが入って来た。……私の親しい知人に歌舞伎の関係者がおられるが、その方から、11月初旬に歌舞伎座のご招待を頂いたのである。毎年、季節の折々にご招待を頂いており、勉強と充電を兼ねて、歌舞伎は出来るだけ観る事にしているが、さて、さてその歌舞伎である。……デュシャンと日本美術に通低するものを一つだけ挙げれと問われたならば、それは「結果としての、見立ての美学」という表現に尽きるかと思うが、歌舞伎の場合はやはり形、つまりフォームの問題に指を折る。何れの表現にしてもその核にフォームが無ければ、そこに美は存在しないが、歌舞伎はその極に当たるかと思われる。…………ご招待頂いたのは夜の部で、『桜門五三桐』吉右衛門・菊五郎ほか、『文売り』雀右衛門、『隅田川続俤』は、珍しくも猿之助の法界坊である。今から楽しみである。……とまれ、個展が成功の内に無事終わり、今は達成感と同時に、少しだけ休みたいという想いがある。今年は、2月の雪の降る珍しい日に、工事現場からタイムスリップのように現れ出た浅草十二階の遺構との不思議な時間の交感を経て、十二階の赤煉瓦(完全な形のまま)の原物を奇跡的に入手した事から始まり、福島の美術館(CCGA現代グラフィックア―トセンタ―)での大きな版画の個展、そして作品集『危うさの角度』(求龍堂)の出版、歴程特別賞受賞(11月10日に授賞式)、そして、高島屋美術画廊Xでの個展……と、かなり多忙な日々が続いた一年である。……今少しで今年も終わるが、既に来年の個展企画も5つばかり既に入っている。…………やはり、今は暫しの休みの中に微睡んでいようと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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