マルセル・デュシャン

『湯島詣と、マルセル・デュシャン』

今夏の8月に求龍堂から刊行された私の作品集『危うさの角度』の特装本(限定100部)が完成し、それを記念した個展『狂った方位―幾何学の庭へ』が、東京の「ア―トギャラリ―884」で今日から12月1日(月曜のみ休み)まで開催中である。画廊の住所は、文京区本郷3―4―3 ヒルズ884お茶の水ビル1F TEL03―5615―8843。11時~18時30分・最終日は16時まで。ここは旧湯島で、近くには、湯島聖堂や神田明神などがあり、昔日の江戸の風情が透かし見える良き場所である。高島屋の個展が終わって、急きょ組まれた、いわば休む間もない個展であるが、作品集の刊行記念展ならば頑張らねばならない。……しかし、この地は東京でも私が最も好きな場所であり、あたかも湯島詣でのような気持ちで、会期中は通う日々が続きそうである。……アトリエに秘かに仕舞ってある、なかなかご覧になっていない珍しい作品も出品しているので、ご高覧頂けると有り難いです。

 

……さて先日、高島屋の個展が終了した数日後に、上野の国立博物館で開催中のマルセル・デュシャン展に行った事は書いたが、その後でまた観たくなり、もう一度行ってみた。行って改めて感心した事は、この展覧会の実に神経の行き届いた照明の見事さである。以前に観た運慶展でも感心したが、その照明の巧みさは、運慶解釈の、またデュシャン解釈の1つの提示と言っていいまでに巧みで行き届いた配慮があり、私をして酔わせるものが多分にあった。また、掲載した画像をご覧頂けるとお分かりかと思うが、作品の壁面に掛けられた高さの位置の絶妙さである。私も作品を高めに展示するが、その高さは、作品本来が持っている深部を把握している事であり、目線と水平に作品の中心が合えば、視覚から脳髄に直に伝わるものがあり、故に作品の深部と、観る側の感性が結び付く。しかるに、この国の大多数の画廊や作家は、その自明な重要点に配慮が至らず、結果いたずらに作品が低く掛けてあり、あたかも紐が緩んでずり落ちたパンツのごとき、だらしのない展示が実に多い。何故にあまりに低く掛けているのか?……その理由を実際に聴くと、(……皆さんそうですから)、(……最近は低いのが流行りですから)といった、素人ばりの返答に呆れるばかりである。二次元の作品は当然ながら正面性を併せ持つ。……故にもっと神経を使って、展示には細心の注意をするべきであろう。本展を観て、彼らが学ぶべき事、大である。……さて、今回のデュシャン展で最も大きな出品作品は、デュシャンが作ったオリジナルではなく、彼の死後に日本で制作された『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁さえも』(通称―大ガラス)という巨大なガラス作品であり、他は全てフィラデルフィア美術館から持って来た作品であるが、この大ガラス作品が、見た瞬間にわかるほど、アニマがなく貧弱な事は歴然としている事に多くの人が気づかれたかと思う。理由ははっきりしていて、デュシャンの大ガラスのレプリカであり、制作に当たったのは、瀧口修造監修、多摩美大の東野ゼミの学生に拠るものであり、その先頭に立って制作に燃えたのが、私の同級生のS君であった。(……Sよ、意味がないから止めておけ、あの大ガラスを意味ある物にしているのは、あのガラスに偶発的なアクシデントで入った扇情的な亀裂だよ!……その亀裂を欠いたレプリカは意味がなく、絶対に底浅い物になるから、Sよ止めておけ!!)と、当時、大学院生であった私は忠告したが、Sは耳を貸す事なく、東野芳明の間違った解釈をなぞるように没頭し、今、その結果が私の眼の前にあからさまに在る。芭蕉の俳句の言葉ではないが(……無惨やな!)である。「網膜の美より、観念の美の方に意味がある」と提唱したデュシャンであったが、彼はマチエ―ルの重要性を実質的に知っていた。だから、本展に於ける他の出品作品には巧みなマチエ―ルが配されていて観る者を惹き付けている。しかし眼前にある和製の大ガラスにはマチエ―ルの富が無く、まるで表象のペラペラなのを見て、学生時にSに語った自分の先見性が間違っていなかった事を私はあらためて確認したのであった。(表象の皮膚こそが最も重要であり、最も意味がある。……そう、誰もが知るように、表こそが最も深い。)という言葉があるように、網膜の美、観念の美の是非云々を問う以前に、マチエ―ルは表現の核にある必須である事をデュシャンは知っていた!!……それだけであり、私が先に書いたデュシャンのパラドックスの妙もそこに尽きるのである。……デュシャン展、そして私の個展。ぜひのご高覧をここにお薦めする次第である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『次なる未踏の表現の場へ』

高島屋美術画廊Xでの個展『吊り下げられた衣裳哲学』が盛況の内に終了した。最初は人の入りもやや緩やかであったが、会期後半に入り、特に残り1週間になると沢山の方が入れ替わるように次々と来られ、最終的には前年の数を更に越える作品数が、人々のコレクションになっていき、またも記録を更新する事になった。そして、来年の10月中旬からの次なる個展(来年は連続11回目)の企画が早々と決まった。来年はかなり一新した展示内容を既に私は構想しているが、この画廊Xの大規模にして魅力ある空間を劇場に見立て、如何に変容させるかの様々な切り口が浮かんで来て、様々な意味で実に生産的な個展となったのであった。個展の度に更にハ―ドルの高さを上げていき、未開の内なる表現の引き出しを半ば強引にこじ開けていく。そして、実験性と完成度の高さを併せ持ち、現在と普遍に向けて作品を立ち上げていく。……プロフェッショナルの矜持とは、そこに尽きると私は思っている。全くぶれない作家と云われて久しいが、今回の個展で得た更なる自信は、これからの作品に艶の光彩を放っていくように思われる。

 

今回の個展では、旧知の親しいコレクタ―の方々に加えて、私の作品を愛する新たなコレクタ―の人達に出会えた事も大きな収穫であった。……例えば、コ―ネルの作品を日本人で最も多く個人所有し、また私の作品を高く評価したクリストとも親しいコレクタ―の人(この方は、今回の個展で私の作品を六点まとめて購入されたが、私とコ―ネルの作品の違い〈コ―ネルは一人称であるが、私の作品は各々に巧みな虚構の華がある事〉を実に的確な言葉で指摘された。また別な方は、クレーの水彩画やジャコメッティの彫刻・素描を所有し、また別な方は、広重のほぼ全作を持ち、次なる方は、やはりコ―ネルや北斎をコレクションし、仕事ではアングルの油彩画などを広く商うプロのディラ―の方であったりと、美の核心を見抜く確かな眼識を持つ慧眼の方々に作品がコレクションされていったのは大きな手応えであった。〈コレクタ―〉という言葉で一口に括っても、表現者と同じで様々な質の違いがある。今回の個展で、私の作品を評価する人達は、各々に自分の確かな眼と美意識を持つ最高な(ゆえに厳しい)人達であるというのを実感し、故に次回はもっと上をと、感性の熱い高まりを覚えるのである。

 

さて、今回の個展の半ば頃に、ミラノのデザイナ―で写真家のセルジオ・マリア・カラトロ―ニさんが、ギャラリ―サンカイビの平田さんと共に会場に来られた。平田さんは私が写真家としても表現していく契機をプロデュ―スされた恩人である。セルジオさんとは初めての出会いであった(ギャラリ―サンカイビの個展で写真の仕事は既に拝見済み)が、直ぐに親しくなり、私の作品への感想を実に詩的な美しい表現で語り、たちまち私を魅了した。……画廊が終了する時間に、私達三人は再び高島屋のレストランで待ち合わせて、食事をしながら今後の打ち合わせに入った。平田さんの企画で、私とセルジオさんとによる、写真を主とした、かつてないような知的感興とエスプリ、そして写真による光の魔性を刻印するような展覧会を、平田さんは構想しているのである。今後二回目の打ち合わせは、近々に、セルジオさんが住まれる、鎌倉建長寺内のご自宅でする事になっているが、生き急ぐ私達の打ち合わせは順調に進み、どうやら来年の早々に私はパリに撮影の為に行く事になるかと思われる。……他の写真家や美術家には絶対に出来ない私だけのメソッド―写真とオブジェの硬質な融合に拠る作品の顕在化。その実現の為に私はあえて待っていたのであるが、堅くて薄い凹凸のある石面に鮮明に画像を焼き付ける高い技術が、私の読みに合わせるように、今年に入って完成したのである。実にタイムリ―なこの切り口、ここ数年、私の写真発表は控えなものであったが、いよいよ動き出す時期が来ているように思われる。

 

個展が終わった二日後の午後、秋晴れの中、上野の博物館で開催中の『マルセル・デュシャンと日本美術』を観た。フィラデルフィア美術館から、『遺作』を除く主要な作品を持ってきただけに、なかなかに充実した見応えのある、近年稀な展覧会であった。マルセル・デュシャン。……日本では美術評論家の東野芳明が専売特許のようにデュシャンについて語り、多くの美大生がその明かに歪んだ解釈に乗せられて、浅いままに墜ちていった。まだ美大生であった私は東野のゼミに顔を出していたが、まだ作家としては卵でありながらも、東野の語るデュシャン像は〈絶対に違う!!〉と直感し、私はすぐに東野のゼミに見切りをつけて去った。……将来、自分の表現者としてのスタンスが確かなものになった時、デュシャンは知的に遊ぶものとして当時20才であった私は、関心の脇に置く事にしたのである。それから20年の時を経て、私は『停止する永遠の正午―カダケス』を文芸誌「新潮」に書き下ろしで発表し、その中でデュシャンとカダケスの関係について熱く語った。……「デュシャンの遺作は、カダケスのあの光から来ていると思う。」……デュシャン存命中にテ―トギャラリ―で実に見事なデュシャン展を企画開催した美術家のリチャ―ドハミルトンは、私と同じ視点で、『遺作』誕生の出自について語ったが、対談相手の東野芳明は、デュシャンの本質を突いたハミルトンのこの鋭い指摘に注視せず、話は別な方向に流れてしまった。ハミルトン、東野ではなく、私はここに、表現の舞台裏に終には入って来れない、評論家というものの総じての限界を観てとったのであった。……私は更に拙著『美の侵犯』の一章で再びデュシャンの謎多き『遺作』について言及しているが、とまれデュシャンの知的なパラドックスに充ちた作品は観ていて、今、最も面白いもののひとつである。かくして、私はこの展覧会場の中でかなりの時間を過ごしたのであった。まだ未見の方には、ぜひお薦めしたい見応えのある展覧会である。

 

……と、ここまで書いて今回のメッセ―ジを終えようとしたら、実にタイミングよく、個展の疲れを癒やしてくれる嬉しいメールが入って来た。……私の親しい知人に歌舞伎の関係者がおられるが、その方から、11月初旬に歌舞伎座のご招待を頂いたのである。毎年、季節の折々にご招待を頂いており、勉強と充電を兼ねて、歌舞伎は出来るだけ観る事にしているが、さて、さてその歌舞伎である。……デュシャンと日本美術に通低するものを一つだけ挙げれと問われたならば、それは「結果としての、見立ての美学」という表現に尽きるかと思うが、歌舞伎の場合はやはり形、つまりフォームの問題に指を折る。何れの表現にしてもその核にフォームが無ければ、そこに美は存在しないが、歌舞伎はその極に当たるかと思われる。…………ご招待頂いたのは夜の部で、『桜門五三桐』吉右衛門・菊五郎ほか、『文売り』雀右衛門、『隅田川続俤』は、珍しくも猿之助の法界坊である。今から楽しみである。……とまれ、個展が成功の内に無事終わり、今は達成感と同時に、少しだけ休みたいという想いがある。今年は、2月の雪の降る珍しい日に、工事現場からタイムスリップのように現れ出た浅草十二階の遺構との不思議な時間の交感を経て、十二階の赤煉瓦(完全な形のまま)の原物を奇跡的に入手した事から始まり、福島の美術館(CCGA現代グラフィックア―トセンタ―)での大きな版画の個展、そして作品集『危うさの角度』(求龍堂)の出版、歴程特別賞受賞(11月10日に授賞式)、そして、高島屋美術画廊Xでの個展……と、かなり多忙な日々が続いた一年である。……今少しで今年も終わるが、既に来年の個展企画も5つばかり既に入っている。…………やはり、今は暫しの休みの中に微睡んでいようと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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