安土城

『占星術vs信長xダ・ヴィンチ』

…かつての春夏秋冬の気象体系はもはや壊れ、抒情的な夏のイメ-ジさえももはや失せ、激しい熱波が支配する、異常な気候となって既に久しい。狂いは加速的に増して来て、今月の後半からは40度越えも視野に入って来る可能性もあるだろう。……さて、今回は前回の後編である。前回は占星術師のSさんが登場したが、今回は安倍晴明、そして次に私が登場する。

 

 

………陰陽師の安倍晴明は幼い時から既にして非凡であったという。未だ少年であった晴明が、陰陽道の師・賀茂忠行の夜行に供をしている時、前方の夜道に鬼の姿を見て忠行に異変を言うと、師は(…お前にも視えるのか‼)と言って驚き、以後は少年の晴明を特訓して天文道を伝授したという。

 

 

…ことほど左様に視え過ぎる、或いは視えてしまう人間の例として、次に私自身について話そう。

 

 

 

 

…天才舞踏家の土方巽が亡くなって数年後の話。…土方巽の夫人で舞踏家の元藤燁子さんが『土方巽とともに』という本を筑摩書房から出す事になり、その装丁者に、種村季弘さんの推薦で私が担当する事になり、土方の遺品や資料を見に宇佐美にある別宅に元藤さんと一緒に訪れた事があった。…その時の事である。

 

元藤さんが玄関を開けて薄暗い中に入った瞬間、私の頭上高く、つまりは天井の暗がりに足を掛けて平蜘蛛のように這いつくばるような姿勢で鋭く突き刺すように私を見ている男の視線を私は敏感に感じ取ったのであった。男は間違いなく土方巽だと直感した。…直後、土方に心酔してこの家の遺品を守っている弟子の青年が奥から現れた。…元藤さんが私を紹介した時に私は青年にこう言った。「ここ、出るでしょ!!」と。…青年はよくぞ訊いてくれたとばかりにこう言った。「毎晩です。夜半になると決まって、この長い廊下を、もの凄い奇声をあげながら一瞬で駆け抜けていくのです‼」と。元藤さんはと見ると、この動じない人は既にこの現象を青年から聞いているようであった。

 

…その日の私は特に視えすぎるようであった。…奥の部屋で、土方巽の為に書いた三島由紀夫寺山修司たちの直筆の原稿を見せてもらっていると、ふと机の下に厚紙で包んであった分厚い物が見えた。私にはそれが何であるかが直感的にすぐ視えた。「鎌鼬(かまいたち)ですね」と私が一言言うと、元藤さんは低い声で(良かったら1冊持っていっていいわよ)と言ったので、遠慮なく頂いた。

 

 

 

 

 

…「鎌鼬」…土方巽を被写体とした、写真家・細江英公の代表的な写真集であり、三島由紀夫を被写体とした『薔薇刑』と共に、この国の写真集を代表する名作である。私が頂いた初版本は当時250万円くらいの評価があった。

 

…後日、細江英公さんにお会いした時に、金のサインペンで署名をして頂いたその写真集はアトリエの中に今もある。…これに絡めて面白い話があった。…澁澤龍彦三周忌の際に挨拶に立った詩人の吉岡実さんがこう言った。「澁澤の魂(霊)は見事に昇天しました。…しかし土方巽の霊は今もこの地上をさ迷っています」と。…また別な時に、美術家の加納光於さんと、横浜山手のカフェで話をしている時に、私が体験する、あまりにもたくさんの、もはや超常現象としか言えない話をすると、加納さんは静かにこう言った。「あなたが、そういう人である事は、最初にお会いした時から私は気づいていました」と。

 

 

…占星術、陰陽道、易学、果ては人相学に手相学と、人類の発展と共に、その道もまた歴史の変遷を歩んで来たかと思われる。…しかし知性の高い合理主義者、実証主義者達の中で名だたる人物達がこれに異義を唱えるように反論しているというのも面白い事実。先ずはダ・ヴィンチから。…彼は自筆の手稿の中で手相学についてこう反論している。「船が難破して砂浜に打ち上げられた死者達の手相を観るが良い、死者達の手相がみな違っていることを知るであろう」と。…私はダ・ヴィンチのこの短い文章を読んだ時、「確かに、実に説得力のある簡潔な喩え」だと感心したものであった。

 

…しかし、今の私は少しく違う。「この喩えは確かに巧い。しかしダ・ヴィンチは言葉だけの比喩で、本当の実証はしていない筈であるし、そこまで遭難者の死体をチェックした者は他にいない筈である。あくまでも机上の論で、現場百回を旨とする刑事の如く、手相のチェックを目的として、砂浜の死体全てをチェックして、まさかまさかの、死者達全員がほぼ似たような手相であったとしたら、…さぁどうであろう。…ダ・ヴィンチの話から一転して、これはけっこうゾッとする話にはなるまいか。

 

 

 

さて次は、中世の常識や慣例を打ち破って近代への扉を押し開いた男…織田信長である。…当時、彼ら武将は己の生年月日を敵方に知られるのを最も警戒していたという。…敵方が行う呪詛への恐怖があったからである。しかし、徹底した知的合理主義者であった信長だけは違っていた。

 

…彼はそれより、産まれた年月日、更には産まれた時間によって運命が決まってしまうという、いわゆる占星学や易学に異義を唱えたばかりか、実際に自分と同じ年月日に産まれた人間が、自分とどれくらい重なるのか、或いは全く重ならないのかを見極めるべく、兵士を総動員して安土城の城下に住まう、その人物を探しだして、城に連れて来て、実際に検分したという。…唯一無比、己を神と思っている信長の事、或いは、城に連れて来られたその男を斬殺した可能性すら、この検分した話からは見えてくる。「信長公記」にはその顛末が記されてないが、ともかく信長という男は徹底した実証主義者であった事は間違いない。

 

 

……さて、ここからは私の物書きとしての想像力が紡ぐ話であるが、これはどうだろうか。……もし…安土城下に信長と同じ年月日産まれの男が他にもう一人いて、兵士達の捜索から逃げ切り、暗夜に安土を離れて、例えば堺に行き、そのセンスの良さ、人柄の順にして忠なるを気に入られ、茶人の嶋井宗室の弟子になったとしよう。…そして…天正10年6月1日、その男は師の宗室と一緒に本能寺へと行く。…翌2日に信長主催の茶会(別名・信長の名物狩り)が開催されるのである。

 

 

…2日の早朝、本能寺の周りに水色桔梗の家紋が突如たなびき、一万以上の明智光秀の兵士が取り囲む。…師匠の嶋井宗室はその動乱の中を空海筆の「千字文」を持ち出して素早く遁走。火柱がもうもうと立つ中を光秀の兵から逃れるようにして、男は奥深い一室へと逃げ込んだ。

 

…そしてそこに視たのは、正に自刃する直前の信長の姿。…一瞬見合う、信長と男。…同年月日、同じ時間に産まれた二人の男達が磁力に引かれるようにして、そこで遭遇する…という、本能寺異聞は如何であろうか。

 

 

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『冬のいそぎ/…個展を終えて』

個展が終わった翌日の夜、見事な皆既月食と天王星食を視た。この二つの現象が同時に起こるのは442年ぶりというから1580年・天正8年の安土桃山時代(本能寺の変の2年前)。この年の信長は、石山本願寺、加賀、能登攻略戦の真っ最中。しかし知的好奇心が強い信長の事、間違いなく安土城の天守閣か戦場の野にいて、この天上の月が消えて赤く染まるという異変に強い興味を示したであろう事は、想像に難くない。……太陽と地球と月が一直線に列び、地球の影が投影して月が翳るという事を知る、今日の夢なき知識だけの時代と違い、何を想うてか、ともかく鋭い眼をぎらぎらさせて刺すように確かに視ていたように思われる。その信長の肖像画は20近くあるが、その中で最も似ているといわれる、宣教師ジョバンニ・ニコラオが画いた写実的な肖像画(織田家の菩提寺・三宝寺所蔵)を掲載しておこう。……次にこの現象が起きるのは322年後の2344年との事。……かつて無かった規模の自然界の崩壊と、人類による大惨事の嵐が去った後の全くの静寂の夜に、天上を観る人の姿などはこの地球には存在せず、僅かに咲く野の花に、朧な月影は何かを落としてでもいるのであろうか。

 

 

 

 

 

 

……個展の間は懸念していた台風もなく、連日晴天の3週間が無事に過ぎた。昨年もそうであったが、個展が始まる1ヶ月前辺りからコロナの感染者が次第に減り始め、故に来廊される方は多く、個展は盛況の内に終わったのであるが、今回も個展が終わるや正にその翌日から、感染者の数が急上昇を見せ始め、今月の20日頃はかなりの数に達しているように思われる。……個展が無事に終わった今想うのは、確かに私の運気は強く、何かのバリアにいつも守られているように思われて仕方がない。……思い出すのは3年前の3月初旬の事。……1月にこの国にも最初のコロナ感染者が出て以来、もの凄い勢いで全国的に感染が拡がって来た時に、富山のぎゃらり―図南で私の個展が開催された事があった。ほとんどの県は感染者が続々と出ていたが、何故か富山や山形はその時はまだ感染者がゼロであった。しかし、全国的に感染の包囲網が加速的に拡がり、富山にも明日か明後日に……と迫っているように思われた。私は初日に画廊を訪れ、画廊のオ―ナ―である川端さんご夫妻と再会し、翌日の夕方に横浜に戻った。その日、富山駅で列車に乗る前に私は強く「2週間の会期中は絶体に富山に感染者は出るな!!」と念じて、富山を去った。……連日、全国的に感染者が更に続出しているという危機の中、しかし富山はゼロの日が続き、私の念は効いているように思われた。……そして、2週間の個展の会期中は感染者ゼロが続き、会期が終わったまさに翌日、「会期中は出るな!」という私の念の有効力が閉じるように、富山に最初の感染者が出た時は、さすがに自分の念の強さは正に「陰陽師」並みだと思ったのであった。……川端さんには私が富山を去る時に「個展開催中は絶体に出るな!」と念じていた事をメールで伝えてあったので、それが叶った事を電話でお話したら、興味深く笑っておられたのを、今も懐かしく覚えている。

 

 

個展会期中の10月29日に韓国・ソウルの繁華街、梨泰院で156人が圧死したというニュ―スはリアルな事故として伝わって来た。なぜリアルかというと、あの事故と似た経験を昔、私も体験しているからである。……中学時代、学校の講堂で全校生徒が集まって何かの式典をやっていた時と記憶する。……式典が終わり、1つの狭い出口から生徒が次々と出る時に、前方と後ろから生徒が倒れでもしたのか、突然ねじれた人のうねる波が一斉に襲って来て、何層にも重なった耐えられない程の重さの生徒の山が出来、息が詰まる苦しさと痛さと叫び声の中、正に阿鼻叫喚と化したのであった。他人の体が予期しない凶器となり、叫びがいっそうのパニックと化すのである。……私が体験したそれは、韓国の事故の規模からすれば人数は遥かに少ないが、それでもその時の「死」を一瞬垣間見た恐怖は、今もトラウマとして残っているから、韓国のその現場の地獄絵図と化した様はリアルに想像出来るのである。……事故後、兎の長い耳を付けた数人が「押せ」「押せ」と言っていたのを聞いたという目撃談らしき話が出たが、政府と警察が事故の責任を散らす為の作られた談話とも思われる。ともあれ日常の中に「死」は、影を隠して潜んでいるのである。

 

 

……73点の新作オブジェの個展が終了した翌朝、私の頭の中は早くも切り替わって、次なる言葉による美の顕在化、……すなわち詩集の制作へと向かっているようである。……個展の最終日に画廊から戻った夜は、たまっていた疲れもあり、さすがに早く寝た。しかし、その翌朝、目覚めの時に、頭の中はひんやりとしていて、いつの間にか寝ている間に「水を包む話―ブル―ジュ」という言葉が立ち上がっていて、起きた時に、自分が既に詩集へと意識が向かっているのを実感した。……個展の会期中に出版者の人と画廊で詩集の打ち合わせをしたが、今はそこに集中する時である。第二詩集『自動人形の夜に』、言葉による新しい試みと挑戦が待っているのである。

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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