藤牧義夫

『夏の行方―成田尚哉さんに』

このブログでは、私の親しい人達が実名で度々登場するが、映画の企画、制作、プロデュ―サ―をされている成田尚哉さんは、最も登場回数の多い内のお一人である。つまり、それだけ意識の内側に深く関わっているのだと思う。私のアトリエにも度々来られ、また成田さんの吉祥寺や現在の平井のご自宅にも伺って愉しい時間を過ごした。

 

ブログでは、昨年11月21日付けの『一葉に恋して/本郷編』に成田さんが登場する。……私はこの日の午前に成田さんと本郷三丁目駅で待ち合わせて、明治の面影が遺る菊坂下にある樋口一葉の旧宅跡や、その周辺を共に歩き、老舗の鰻屋『鮒兼』で鰻重と肝焼き、そしてビ―ルを飲み、私は成田さんに熱く、ひたすら熱く語った。樋口一葉の映画化の話をである。成田さんは、鮒兼の鰻重がたいそう気に入り、味に感動しながら話が進んでいった。「……例えば、女性の謎を追い求めた最期の絵師・あの上村一夫が最終的に辿り着いたのが樋口一葉です。成田さん、ここ大事です、樋口奈津(一葉の本名)には、追うと逃げ水のように消え去る不可解な謎があまりにも多い。天才にして、捕らえ難い実に面白い人物です。……」と語った。いつもそうであるが、この日も成田さんは終始聞く側に徹していた。ただ頭の中ではプロの映画の企画者としての感性が俊敏に動いている。そして、成田さんの語りから、気持ちが映画化の企画へと傾いている事が手応えとして伝わって来た。昨年の7月にアトリエに来られた際に、既に一葉の件は振ってあり資料も手渡してあったので、この日は、その続きなのであった。「確かに一葉は映画化しても面白いですね!」成田さんがそう言うので、私はなおも喋った。喋り続けた。……まさか今、目の前にいるこの親しき人が、半年後の9月に、もはや永遠に会う事が出来ない黄泉へと旅立ってしまう運命にある事など全く知らずに………………。

 

今年の2月、版画家、藤牧義夫が24才の若さで、版画家小野忠重の家に行った時点で忽然と消えてしまった謎を追って、私は追跡していたのであるが、ある日、その消えたといわれる向島小梅の現場に行く際に成田さんも誘おうと思って、「2月10日の正午に吾妻橋の中央の欄干で待ち合わせしませんか?」とメールを送信した事があったが、成田さんから来たメールには「最近、足がきついので、もし宜しかったら平井の拙宅は如何でしょうか?」という内容であった。……そして私は平井へと赴いた。奥様の可子さんもおられ、手作りのご馳走を美味しく頂きながら話が弾んだ。成田さんは、今秋開催予定の個展に向けて、制作の場になっている部屋の一角に進行中の作品が溢れていた。映画の企画の本業と共に成田さんはオブジェやコラ―ジュの制作も永くされており、その表現の深みは年毎に増して、完全に第一線級のプロの完成度を持つようになって来ている。昨年に開催した個展で、私は成田さんの作品が気に入り、購入させてもらい、次なる展開を本当に愉しみにしていた。…しかし、個展の開催は叶わず、成田さんは肝臓癌の転移により、この夏の終わりに旅立ってしまった。その日にお会いしたのが、結局は今生での最期となってしまったわけである。…そして私には、ひたすらの寂しさと共に多くの悔いが残る事となってしまった。

 

 

 

……成田尚哉さんとの出逢いは、20年以上前に遡る。渋谷の東急セミナ―から話があり、オブジェの講座を暫くやっていた事があった。ある日の講座で、私のアトリエに近い大倉山にある、大倉山精神文化研究所(現・大倉山記念館)なる建物で、私が23才の頃に目撃した、全裸の少年がその建物から飛び出して来た話や、その不穏な気配、謎の多い「精神文化研究所」なる物の来歴などについて話をした事があった。受講生の多くは、オブジェの技法でなく、そのような話ばかりする私に呆れていたようであるが、一人だけ、その話に興味深く食い込んで来てくれた人が、成田尚哉さんであった。そればかりか、成田さんは実に興味深い話をしてくれた。私はそこ(大倉山精神文化研究所)に行き、映画のロケをした事がありますよ、と切り出してくれたのである。メイクの女性が勘が実に鋭い人で、その現場に着くなり、成田さんに「ここはヤバイですよ、かなり危ない気が充ちていますよ!」と真顔で語ったという。果たしてその通りで、撮影の連日に事故がおき、あまりにも危険過ぎるので予定を早めに変更して撮影を切り上げたという。……成田さんがプロデュ―サ―を勤めた映画『1999年の夏休み』(原作・萩尾望都)がそれであり、当時は水原里絵の芸名だった、深津絵里が主演しスクリ―ンデビュ―して話題となった作品である。私は成田さんとは、初めてお会いしたその日に感性が合い、以来親しき友としての交流が始まった。

 

成田さんは慶應大学の美学美術史を専攻し、当時全盛を極めていた日活に入って、数百本以上のロマンポルノの企画を担当(わけても全ての石井隆原作のシナリオを企画)。日活から移籍後、2003年以降は自身の映像プロダクション『アルチンボルド』を立ち上げ、『ひぐらしのなく頃に』『海を感じる時』『花芯』……などの名作を連発していった。……私が(そして成田さん自身にとっても)残念だったのは、芥川賞受賞作の松浦寿輝『花腐し』の映画化を企画して、既に脚本までも完成しながら実現しなかった事である。この企画の話はかなり早い段階から伺っていて、幾つか私なりの考えも話した事があった。……実現していれば映画史に残る可能性があっただけに残念である。

 

……私が成田さん宅を訪れた2ヶ月後の6月、突然、成田さんから電話が入り、肝臓癌で余命が半年である事を告げられた。……私は自身が思っている人生の意味を語り、そして、その生において最も幸運な事は、自分を活かす生き甲斐のある仕事を見出だす事が出来、自らの可能性の引き出しをあまねく全開し、達成出来たか否かではないかと思う……という話をし、成田さん、貴方は全的に達成した人だと思う、と私は話した。……そして、映画の企画だけでなく、コラ―ジュなどの美術表現においても、成田さんの表現の域は、かなりの高みに在るという私見、確信を話した。……そして、私は死とは終わりに非ず、新たなる生の始まりであり、転生があると確信しており、私は今生の生が終る直前に、明治26年の9月6日の朝未だ来の浅草、花川戸に魂を翔ばし、まだ名作『たけくらべ』を書く直前の極貧の樋口一葉の横をかすめて、浅草十二階(凌雲閣)の螺旋階段を昇って上昇し、その高みに自分の魂を本気で翔ばすつもりですよ!と話した。普通の人なら私の考えを唯の夢想と片付けてしまうが、私に度々起きる様々な不思議な現象のある事を知っている成田さんは「……北川さんは陰陽師ですからね」と優しく言ってくれた。……それが今生で交わした成田さんとの最期の会話になってしまった。

 

まことに成田さんが作り出す作品はその初期から、完成度が高く、イメ―ジに艶があり、エスプリがあり、強度な毒と妖しさがあり、つまり、表現世界に既に確かなる芯があった。だから、渋谷の画廊から始まり、銀座、下北沢の画廊も結び付けて成田さんにご紹介し、画廊企画での個展開催に微力ながら尽力出来た事は、今思えば本当に良かったと思う。成田さんの表現力は瞬く間にその密度を増して、昨年の個展での作品の素晴らしさは私を感動へと導き、また驚かせた。4月に平井のご自宅の制作現場で見た新作への意欲は、美術作品の制作が成田さんの生き甲斐の強い手応えとなっている事を映していたと今にして思う。9月16日、斎場には映画の関係者を始め沢山の方が来られ、成田さんとの別れを惜しんでいた。……その中に在って、私は今、この時の成田さんの魂の行方について考えていた。願わくば、何らかの形で幽かな信号を送って欲しかったのである。

 

 

 

 

 

 

人間の死には2つの段階があると思っている。或る人が逝去したとしよう。しかし、その人の事を覚えている人がいる限り、その人は亡くなってはいない。そして、その人を知る最期の人が遂に亡くなった時、その人の生が終わり、初めてその死は完結するのである。しかし、魂の行方はまた別である。……これは私の持論であるが、永六輔さんが全く同じ事を言っていたのは興味深い。……私は携帯電話に記してある知人が故人となっても、その電話番号を消さないでいる。何かの弾みで、かかってくるような気もあり、またこちらからかけてみたいという気持ちも、あるのである。成田尚哉さん、またいつか再び逢いましょう。……そして昔、話をした……「成田さんが作り出す映画も、また私が作る作品も、詰まりは同じ〈夢の結晶〉、光を当てれば忽ちに消え去る泡沫のような淡い夢かもしれない」という、あの話の続きをしましょう。

 

 

カテゴリー: Words | タグ: , , , | コメントは受け付けていません。

『墨堤奇譚―隅田川の濁流の中に消えた男④』 – 完結編

………さて、ここに一枚の地図がある。藤牧義夫が消える運命の日となった、昭和10年9月2日の藤牧の足取りを時系列順に追って記した地図である。画面最左(D)の自分の下宿を出発した藤牧は、画面最右(A)に住む姉の太田みさおの家に行き、俄に降り始めた雨の中を画面左下(C)に住む、もう一人の姉、中村ていの家に向かうと言って、みさおの家を出た。そしてAからCの途上にある小野忠重の家(B)に立ち寄ったところで、藤牧義夫の姿は完全に消滅してしまい、以後その姿を見た者は誰もいない。……その距離を地図から計算すると下宿を出て姉の太田みさお宅(A )を経て小野の家までがおよそ4600m、藤牧がこの日の最後に行こうと考えていた姉の中村ていの家までの距離は約6000mとなる。……小野が語っている藤牧の姿、「飲まず食わずの苦行僧の狂熱におそわれて、小柄な彼の頬骨は高くなるばかりだった。それ以来、私たちの視界から失われた。おそらく、どす黒い隅田の水底に、藤牧の骨は横たわっていると、いまも友人たちは信じている。」という言葉からは真逆の、藤牧義夫の壮健な姿が、この距離の数字から見えてくる。

 

 

 

 

……小野の言葉は更に続く。「……しかし私には、最後の別れがしみついている。昭和10年の9月に入る早々だった。藤牧が現れて、浅草の部屋を引き払った、といい、大きな風呂敷包みを二つ、ドサリおいて、これを預かってくれという。それまで身辺にあった版画の一やまと、あまり多くもない彼の読み物、どれの図版の裏にも彼の鉛筆画の残る、村山知義の表現派やダダの本、「アトリエ」誌のプロ美術特集号などをぶちまけた。そして聞き取りにくい小声で、私や新版画集団の友人に対してすまなかったとか、有り難かったとか、繰り返す。気がつくと頬に光るものが見えたが、それが胸にこたえるほどの、こちらの年でなかった。彼が去って、しばらくして、これから行くと言っていた浅草の姉の家から「来ない」と知らせがあって、ハッと気がついたのである。……(中略)……捜査願いも空しかったという言葉で、仏壇を見ると、位牌には、彼の法号と命日が、私の家から消えたその日をのこしていた。」

 

……小野は、藤牧がいかに自分を信頼していたかを強調したかったのであろうが、この文で大きな墓穴を掘っている。藤牧義夫は尊敬していた父親の影響で、宮沢賢治や高山樗牛、創作版画の先達だった山本鼎らも会員であった国柱会(満州事変の指揮をとった石原莞爾を擁する)―つまりは右傾化した思想の持ち主であったが故に、小野が(藤牧が最後に置いて行ったと)語ったような、云わば左翼青年が読むような表現派やダダの本を読む筈がない。逆にこれは後に判明するのであるが、小野は、自分が一時はプロレタリア運動に挺身した過去を持つと語り、偽装した経歴を積もらせていくのであるが、彼自身の自宅の本棚にあったのを安直に書き並べた事は想像に難くない。〈小野は藤牧義夫の下宿を訪れるような親しい仲で無かった事が、ここから透かし見えて来よう。〉……小野が語る、自分はかつての左翼の闘士であったという経歴の嘘を見破ったのは、自身が一時は左翼の闘士であった実際の過去を持つ州之内徹氏である。小野証言に疑いの眼を深めていった州之内氏は推論する。「どちらが正しいか。(中略)いずれにしても、どちらの記述も彼(藤牧義夫)のノイローゼを強調しているのは、その後に来る彼の失踪(自殺)の理由をそこに求めようとするからではあるまいか」。……小野は記す。「…………それ以来、私たちの視界から失われた。おそらく、どす黒い隅田の水底に、藤牧の骨は横たわっていると、いまも友人たちは信じている」と。

 

 

……言葉には、言霊(言葉に内在する霊力)というものが必ず宿る。これは不思議な、しかし確かな事である。言霊という言葉は和歌などの調べを想わせる美しい響きがあるが、一方で〈内なる邪〉も宿す。今一度、小野の文を読むと、そこから伝わって来るのは、失った友への哀悼の情では決して無く、ギラリと光る、それこそ濁った情念のようなものがある。……仮に親友が隅田川に投身したとするならば、友が迷うことなく成仏する事を願い、水底に沈む友のイメ―ジに清冽なものを覆って黄泉へと送るのが、当然の心情ではあるまいか。間違っても、「どす黒い水底」、「藤牧の骨」と云った死者を汚すような言葉は使わない。………………とまれ、藤牧義夫の姿はその夜をもって消失し、また下宿からは、彼の版画の貴重な版木がことごとく一夜にして消えた。……藤牧義夫の版画の明らかな贋作が、あたかも秘かに生産工場が在るかのようにして続々と出てくるのは、藤牧義夫の姿が消えてからおよそ40年後の事である。」

 

 

 

近代版画の歴史から次第に藤牧義夫は忘れ去られていったが、その作品が持つ表現力の素晴らしさに最初に注目したのは、画廊かんらん舎の社主・大谷芳久氏(当時まだ20代後半)であった。前述したが大谷氏はまだ日本で注目されていなかったヨ―ゼフ・ボイスの個展を開催し、また青木繁の素描展を開催するなど、慧眼にして行動の人である。藤牧義夫版画の素晴らしさを何とか世に知らせたいという大谷氏の真摯な情熱に対し、当時、藤牧義夫に関する唯一の窓口であり、あまつさえ藤牧の師匠とさえ、いつの間にか呼ばれるようになっていた小野が「個展を開催するならば」として渡した数多の藤牧版画は、そのことごとくが贋作(それも明らかに失くなった筈の実際の藤牧義夫の版木に加筆彫り込みをしたという異常さ)であった。それが一括購入した先の東京国立近代美術館からの指摘で判明する事となり、以来、大谷氏は10年以上の歳月を要して『藤牧義夫眞偽』(学藝書院刊行)と題する、真作と贋作の違いを完璧に精査した文献を出版し、この国の主たる美術館に収蔵されている。……その慧眼の大谷芳久氏と州之内徹氏が時に強力な連携を組み、事件の真相に迫っていく白熱する過程は、前述した駒村吉重氏の著書『君は隅田川に消えたのか―藤牧義夫と版画の虚実』(講談社刊行)に詳しい。そして、私のこのブログの詳細な記述も、駒村氏、大谷芳久氏、州之内徹氏の著書、更には大谷氏からの直接の聞き取りに依り書かれている。

 

……このブログで連載の形を取るのは、以前に書いたジャコメッティの件以来であろうか。そして長きに渡った藤牧義夫に関するこの連載もようやく終わろうとしている。しかし、ここに至って私は自問する。……かくも情熱を持って(しかも、向島、浅草の各々の現場跡に何度も取材し)書かしめているのは、果たして何であるのかと。駒村氏の実にスリリングな著書を読み、その詳細を知った事の驚き。或は、この事件の謎を人生の最後に取り組み、かなり追い詰めながらも不慮の急死により、その執筆が途絶えてしまった州之内徹氏の無念への想い……。そして藤牧義夫の更なる評価を希求し、逆に不実なものを徹底して断じようとする大谷芳久氏の真摯な情熱。……その全てから発して、このブログは書かれたのであるが、……私自身が40年以上前の美大の学生の時に、実際に小野忠重に会っていたという事実が、やはり大きいかと思う。

 

…………あれは確か22才の頃であったか。……その部屋には、銅版画の詩人と云われた駒井哲郎氏と私、……そして小野忠重と他に何人かがいた。私は自作の銅版画を卓上に並べ、駒井氏との貴重な話に熱中し、傍の小野には申し訳ないが全く無関心であった。それを敏感に察したのか、小野は次第に肩を震わせ始め、苛立っているのがあからさまに伝わって来た。……どういう経緯でそう言ったのかわからないが、突然私の口から「浅草に叔母がいる」という言葉が口に出た。……正にその瞬間であった。「俺ぁ、お前の作品が嫌いだな!!!」と小野は私に鋭い怒声を浴びせたのであった。卓上に並べた私の作品は、駒井哲郎棟方志功土方定一、そして坂崎乙郎……といった美術の分野を代表する先達たちから既に高い評価を受けていた作品であり、22才の若僧に過ぎないとはいえ、私にも強い自信と当然の自負があった。小野の怒声に私もまた怒りを持って鋭い声で返し、その場に異常な緊張が走った。正に殴り合いの寸前であった。見ると、無頼できこえた駒井氏でさえも驚きの顔を呈していたのを今もって覚えている。〈……その時に私は見てしまったのである。〉―もし駒井氏や余人が傍にいなかったならば、間違いなく私に飛び掛かって来たに相違ない、あの男の自分でも御し難いような内なる獣性を帯びた、その瞳孔の奥に光るもう一つの異様な〈気〉を。〈浅草に……叔母がいる〉……私は何かに促されるようにして、どうしてその言葉を発してしまったのであろうか、今もってそれはわからない。しかし、その言葉を発した瞬間に小野が速攻で切れた事は間違いのない事である。そして、この〈浅草〉〈叔母〉という2つの言葉は、駒村吉重氏の著書『君は隅田川に消えたのか』に何度か出てくる言葉でもあったが、小野が私に示したあからさまな敵意の真因が何に依るものであるのかは、今もってそれはわからない。……ただ、年月を経ても私の記憶の内に、あの小野が瞬間に見せた敵意を孕んだ私への、刺すような眼孔の鈍い光だけはありありと今も覚えている。……人は、一体どうなればあのような〈眼〉が出来るのであろうか。

 

……その謎を解くべく、今回のブログは綴られて来たように今は思う。……後の版画の歴史に鮮やかな一頁を間違いなく残したに違いない藤牧義夫。その彼が24才の若さでその生を終える瞬間に、脳裡に去来したものは果たして何であったのか。……そして、いや、だからこそ私は結論として今想う事がある。州之内徹氏が死の直前に綴った最後の文章「……失踪した藤牧義夫がこの水の底に沈んでいるという説もあるが、私は信じたくない。」と書いて、小野忠重が引っ張ろうとしている「隅田川に自死して消えた」という方向への強い懐疑を示したが、この一点だけが州之内氏と私の推理が異なる点である。……私は断言するが、藤牧義夫は、間違いなくこの隅田川の水底に沈んでいると。そして、その現場は、藤牧義夫が故郷の館林に帰る度に乗っていた東武伊勢崎線が隅田川を通過して、北十間川と接する水門の真下近く、……前回のブログで永井荷風と交差した不気味な黒い影、『断腸亭日乗異聞』に登場したその暗い男が向かった隅田川河畔の向島寄りの水底に藤牧義夫は眠っていると私は想う。

 

 

最後に後日譚を記そう。……藤牧義夫の墓は館林の故郷に在るが、当然ながらその墓の中に藤牧の遺骨は無い。……一方、小野忠重は今、何処にいるのであるか。……小野は小梅の自宅が空襲で焼かれた後に杉並の方に移ったと聴くが詳しくは知らない。……では今は何処に!?小野は1990年の10月に81才で亡くなっている。そして、その墓は浅草の慶養寺という寺に在る。私はその寺を訪れた事があった。今でこそスポ―ツセンタ―の巨大な建物によって隅田川の景観は全く見えないが、かつてはその寺からは、そして墓地からは隅田川の流れが見えた事と想われる。……その寺の在る場所は対岸に向島が、そして、丁度右斜め45度の対岸には、今し書いた東武伊勢崎線の鉄橋と、その下の水門とその水の面が見えるのである。樋口一葉、幸田露伴、永井荷風たち文人が……鮮やかな美文で綴ってきた隅田川の景観は、今は無い。ただ、隅田川の流れだけが今も、とうとうと流れているのである。(終)

 

 

追記.……私が関心を持つと少し遅れてメディアが、その主題を取り上げるという現象は度々このブログでも書いて来た。近い例では前述したジャコメッティの話がそうである。私はブログで、今迄のジャコメッティのイメ―ジを取り除き、娼婦に翻弄される、およそ今迄のストイックな巨匠の姿を覆して書いた。するとその半年後に『ジャコメッティ最後の肖像』という映画がジャコメッティ財団の監修で日本でも上映されたが、それは私のブログを台本にしたかのように、私が記した正にそのままのジャコメッティの姿の提示であり、矢内原伊作で築かれたイメ―ジはあっけなく覆った。創造の舞台裏、それを私は直観的に視てしまうらしい。……そして今回の藤牧義夫に関しても同じような現象が起きた。駒村氏の著書に登場する藤牧義夫研究家の和田みどりさんから先日連絡が入り、今月の29日(土曜)の『美の巨人たち』(テレビ東京・夜10時~)で藤牧義夫を取り上げるという。〈大谷芳久氏が出演される由である。〉何というリアルタイムであろうか。……この番組のプロデュ―サ―が、ある程度掘り下げて、藤牧義夫の実像とその作品の独自性を観せてくれるのを今は祈るのみである。なお、次回のブログは『もう一つの智恵子抄』を書く予定。知られざる高村光太郎と智恵子の実像が鮮やかに、そしてショッキングに立ち上がります。……乞うご期待。

 

 

カテゴリー: Words | タグ: , , , | コメントは受け付けていません。

『墨堤奇譚―隅田川の濁流の中に消えた男③』

②からの続き。………………すみだ郷土文化資料館で、昭和10年頃に「本所小梅1―7」であった場所の現在の住所を問うと、「向島1丁目―30」がその番地である事がわかった。地図を見ると約800mくらい先か。とすれば徒歩だと10分くらいの距離である。………そして私は目指すその場所へと辿り着いた。小野忠重の家(すなわち藤牧義夫がこの世から姿を消した最後の地点)の区域は、空襲で様相を変えてしまっているが、当時の面影は何となく伝わってくる。そしてかつてのその現場に私はピンポイントで立った。見ると、先の高みにはスカイツリーが寒々とした姿で立っている。少し行けば隅田川と交わる北十間川、振り向けば隅田川が意外に近い。 ……私は今までこのブログで、藤牧義夫が「失踪した」或は「消えた」という能動態で表して来たが、その語法は藤牧義夫の姿が消えた後で語り始めた小野忠重の発言に依っている。しかし、ロジェ・カイヨワの言を引くまでもなく、世界の本質は対称的な関係で成り立っている。ならば自らの意思によって「消えた」だけでなく、受動態の、「消された」という考えも当然湧き上がって来よう。そうでなければ、推理は在ってはならない片手落ちになってしまう。 ……ここに藤牧義夫をモデルにした野口富士男著の『相生橋煙雨』という小説が登場する。野口は小野が繰り返し書いてきた「晩年(まだ24才)の藤牧義夫は、前後の事情から考えて貧窮による栄養の絶対量の極限にちかい不足と胸部疾患でひどい健康状態だったはず」・「……藤牧は終日川岸を去らなかった。わずか寝るだけに帰る浅草の裏街の部屋に入るとパッタリ倒れる。飲まず食わずの苦行僧の狂熱におそわれて、小柄な彼の頬骨は高くなるばかりだった。それいらい、私たちの視界から失われた。おそらく、どす黒い隅田の水底に藤牧の骨は横たわっていると、いまも友人たちは信じている。」という、どうしても自殺―隅田川からの投身に持って行きたい言葉を真に受けたのか、野口は妄想を膨らませて、9月2日の夜、小野の自宅に立ち寄った藤牧義夫を、実は小野が見た幽霊のように書き、文意の繋がりのかなり不明な奇妙な小説を書いている。(しかし、実際の藤牧義夫を撮った写真が駒村吉重氏の小説の最後に載っているが、姿が見えなくなる半年前に撮られたその姿は、藤牧が小柄ながらも服装はきちんと整い、その顔は気概に満ちて健康そのものである)。私はあきれながらも、その小説に出てきた幽霊の登場を面白いと思った。これからは、このブログから小野はしばらく退場してもらい、……これからは、幽霊……すなわち、夜半に揺れる何者かの黒い影をここに登場させて、狂言回しのように書いていこう。

 

 

 

 

……私が今いるこの舞台、すなわち向島にはかつて、文人の幸田露伴が永い間住んでいた。その露伴が書いた「墨堤」という一篇に「……裏道づたひいづくへとも無く行くに、いけがきのさま、折戸のかかりもいやしげならず、また物々しくもあらぬ一構の奥に物の音のしたる。……」という、確かそのような文章があったのを私は何故かふと思い出した。その「……一構の奥に物の音のしたる」という文が、何故か、ここ(現場)にいてふと浮かんだのである。……奥に物の音のしたる。その連想が膨らんで、何者かの暗い影が奥戸からぞぞと現れ出で、何事かをするその影が揺らめいて見えた。……突然「リアカ―か!?」という唐突な閃きが、野口富士男が書いた幽霊に倣って俄に浮かんだ。……すると、あろう事か、妄想が現実を凌駕して、ここ向島1丁目―30のかつての藤牧義夫が消失した、正にその現場の私の眼前に、一台のリアカ―が立て掛けてあるのが目に映ったのであった。(注・画像掲載)

 

 

 

 

……幸田露伴から転じて、ここから永井荷風の登場となる。……私はふと、藤牧義夫がこの世から突然その姿を消失した昭和10年9月2日の夕刻に(駒村吉重氏の小説はその時、気象は雨)、では永井荷風は、どうしていたのかがふと気になり、彼の日記『断腸亭日乗』にその日付を追った。……あった。……荷風は著す。「昭和10(1935)年九月初二。雨降りては止む。『すみだ川』改刻本の序を草す。晩間雨の晴れ間を窺ひ銀座に行き竹葉亭に食し、茶店きゆぅぺるに小憩してかへる。」と。……そうか、正にその時、荷風は銀座にいたのか!。なかなかリアルである。……しかし、ご存知のように日記に全てが書かれているわけではない。樋口一葉は行間にもう一つの、いわゆる裏日誌の秘めた記述があり、荷風はその余白に(後の世に知られたくない)秘めた行動がある。……名作『墨東綺譚』には次のような、気になる文がある。「……柳橋の妓にして、向島小梅の里に囲われていた女の古い手紙を見た。」……小梅!……正に私がいるその現場がそれである。荷風の記述はさらに続いて、その女が荷風に会いたいという、女から届いた手紙(……少々お目もじの上申上たき事御ざ候間、何とぞ御都合なし下されて、あなた様のよろしき折御立より下されたく幾重にも御待ち申上候。一日も早く起越しのほど、……)が彼の人生に於ける正直な開示として記してある。『墨東綺譚』が書き始られたのは昭和11年9月21日からなので、実際の物語りはそれ以前、つまり、藤牧義夫がこの世から突然姿を消失した昭和10年9月2日の頃と重なってくる。……ならば『断腸亭日乗』のその日の書かれなかった部分に、荷風が銀座を出ようとして、降りだして来た雨の湿りの内に恋情が湧き上がり、女(仮にその名をお元としよう)の待つ本所小梅に円タクで向かったとしたら……という連想を、あったかもしれない可能性の内にここに書いてみよう。「……銀座より円タクを拾いて、枕橋にて下りる。雨、その降りを少し増し北十間川の流れ早し。余お元の待つ本所小梅へと向かう。ふと視る、小梅の方より重いリアカ―を引きし男の在るを。この雨の内に何を何処へ運ばんや。男、余の横を俯きて過ぐ。その気配、覆われた荷の歪な様、いかにも奇妙なり。そは何者ぞ。余は興味ありを以て幅をとりその後を少し尾う。男、暗き隅田の川岸へと消える。余お元の待つ小梅へと向かう。雨、夜半にいりても遂にその止む事を知らず。」……紡いだ荷風の幻はそこで消え、私は向島1丁目30の場から北十間川に沿って枕橋に至り、見番通りを渡って隅田公園に入った。その先はもう隅田川である。……すると、公園の中に一枚のプレ―トが立っているのが目に入った。近づいて見ると昔日の写真とその説明が書いてあった。……それを見て私は唖然とした。そのプレ―トの写真は、私が荷風に成り替わって書いた『断腸亭日乗異聞』のままに、リアカ―を引いて正に隅田川へと向かう一人の男の後ろ姿の写真が、そこに写っていたのである。しかも写真の年代の説明文を読むと〈昭和10年頃に撮影〉と記されていた。正に藤牧義夫が突然この世から消失した、その当時の写真なのであった。……写真に撮された電信柱に書かれた(花柳病専門病院)の白い文字が、時代を物語っている。

……④の完結編へと続く。

 

 

 

 

 

 

カテゴリー: Words | タグ: , , , , , , | コメントは受け付けていません。

商品カテゴリー

作品のある風景

問い合わせフォーム | 特定商取引に関する法律