昨年末に福井県立美術館で開催された個展のために、私は20日間ばかり福井に滞在していた。その折、中学時代の同級生が発起人となり同窓会を開いてくれた。実に45年ぶりの再会である。生き方や性格によって歳のとり方もバラバラになるのか、すぐに思い出す顔もあれば、なかなか記憶と結び付かない顔もあってもどかしい。そのもどかしさの中で、記憶に直結しないまま酒をついでくれる一人の同級生の顔を観察していると、或る瞬間の記憶が立ち上がってきて、同時に名前もありありと思い出された。「○○君!!」- そう私が呼ぶと、彼も満面の笑みを浮かべて私の顔を直視した。判断の決め手は、やはり「眼」である。しわが寄り、顔の輪郭が変わっても、眼だけは変わらずにそのままである。「眼は嘘をつかない」- 長い間、そう思っていた。
地下鉄サリン事件から17年。逃亡犯の一人、菊地直子が逮捕されたというニュースが深夜に流れた。しかし、歳を経たその顔はまだ公にされぬまま翌日が待たれた。そしてTVで公開された現在の顔を見て驚いた。全くの別人と化し、眼までも一変していたのである。その顔相は菊地ではなく、変名としていた「櫻井千鶴子」になっていた。眼だけは、そう簡単に変わる事はない。そう思っていた云はば常識が崩れ去ったのである。
20年前に留学する時に習っていたスペイン語のクラスの人の妹さんも、サリン事件によって命を奪われた。13人が亡くなり、6000人近くが今も後遺症に苦しんでいるあの事件は記憶に生々しい。公開モンタージュ写真の昔の菊地の顔と共に17年後の推定される顔のイメージデッサンも公表されていたが実際の顔は全くの別人であった為に、私だけでなく世間もまた驚き、かつとまどったに相違ない、「菊地に似ている」という匿名者からの一本の電話が逮捕につながったと云うが、私はその通報者に疑問を抱いた。絶対に菊地の過去と現在の相違から「似ている」という着想は浮かばない筈である。(・・・・唯一人を除いては)。推察するにその通報者とは、犯人蔵匿の罪で逮捕された同居人の男であるだろう。
高村光太郎の詩の中に、粘土で父の肖像を作っていると、何かのはずみで粘土の表情が歪んで自分の顔に似てしまい、それに反発するという内容のものがある。又、寺田寅彦のエッセイの中にも、油彩画で自画像を描いていると、描画の途中にそれが父になり、母にも似てきて不思議な感覚を覚えたという内容のものがある。高村、寺田共に、遺伝子の不思議さとその呪縛的なものに言及しているのである。それ程までに、本来、顔相は決定的なものがあり、特に眼は刻印にも似て不変なものがあるのである。
しかし菊地の顔が、かくまで一変してしまった、その背景とは何なのか?犯した事への心の負い目がそうさせたのか!?発見された菊地のメモの中に「もう出たい」という、心の逡巡を記した内容の物があったが、さぁ、その真意は分からない。裁判をにらんでの刑の軽減の為の偽装とも、或は真意とも如何様にもとれるからである。・・・・ふと、私がアトリエ内を眺めて、「これだ!!」と思うものが目に入った。「コノハムシ」という、昆虫標本の擬態した姿である。目立たぬように個としての主張する特徴を消し去り、周囲の姿(木や葉っぱ)に同化するという、このひたむきな知恵と努力。逃亡犯も同じ心理であろう。群衆に溶け込み、雑踏に紛れ込んだ集団の中に自分を同化させたい。この願望を江戸川乱歩は「隠れ蓑願望」と表したが、この必死な思いの集中が、菊地をして、あのような一変へと化えたのであろう。捕まりたくないと云う願望に、過去に犯した取り返しのつかない事への鬱屈が加乗したその強度は、まことに遺伝の法則をも変える事を、私はこの度の事で知ったのであった。女性の本質には、男よりも強い変身願望がある。願望は能力とも言い換えが可能であり、事実、菊地は見事に別人と化した。残る最後の逃亡犯の高橋克也は、不器用なままにあの特徴的な眼を引きずって、川崎周辺の工場地帯辺りに息を潜めているのであろう・・・・か。それとも一変した顔相と共に何処かへ・・・・!?ともあれ、逮捕される日は間近であろう。