『死にかけた話』

 

文久三年に坂本龍馬が姉の乙女へあてた手紙の一文で「人間の一生は合点の行かぬは元よりの事、運の悪い者は風呂より出んとして、金玉をつめわりて死ぬる者もあり。それと比べて私などは運が良く、なにほど死ぬる場へ出ても死なず…云々」というのがある。結局その四年後に暗殺されるわけだが、まことに人の死といったものはいつ訪れるかわからない。昨今の通り魔殺人などをみても、隣りに死が居座った不条理に、この世は充ちている。

 

 

多いか少ないかはわからないが、自分の過去を振り返っても、死に隣した時が何回かあった。先ずは2歳の時に百日咳をこじらせて痙攣状態に陥り、現世と縁の薄かった私の為に、両親は棺の中に何を入れてやろうかと話し合ったという。この時は、最後の手段として、当時開発されて間もない高価な新薬を注射して何とか命を取り留めた。次は7歳の頃に福井城址の高い石垣を登っていて足を滑らせて落下。落ちて行く時にスローモーションになるのを初めて体験するが、もし下が草場ではなく、そこかしこに在った石垣の石であったら即死していたであろう。16歳の時には水に溺れて水死しかけ、ほとんど臨死体験に近い状態にまでいき、26際の時はアトリエ内のガス漏れ。27歳の時が東京芸大の写真センターで撮影をしていた時に、天井に掛けてあったスクリーンの布幕の芯であった鉄柱が落下して頭を直撃。頭部からの出血が激しく顔面が血だらけ。この時、私が考えたのは「熊」の事であった。熊は怪我をしても病院に行かず、何とか自分で治しているではないか・・・。ならば病院に行かなくても治るであろう。金が無かった事も関係しているが、当時は本気でそう思い高を括っていた。しかし翌日、次第に身体が寒気を覚え、吐き気が出始めた。見ると傷口はぐちゅぐちゅと妙な色を呈しており、元気になった熊のイメージとは程遠い。焦った私はタクシーで病院に駆け込んだ。

 

「バカ者!!」– 医者が私を見て一喝し、続けて「脳が腐りはじめているわい!!」と云われたのには驚いた。「私が腐っていく・・・!?」– そう云われて、私は自分が生き物と同時に生物(なまもの)でもある事を知ったのであった。生死には運も関わってくる。この時に見てもらったのが名医であったのか、ギリギリの所で私は救われた。もう少し来院が遅ければ、間違いなく手遅れであったと云う。私は頭髪を剃られ、ぐるぐるに包帯を巻かれ、まるで耳を切った後に描いたゴッホの自画像と同じであった。抗生物質で脳内に土手を作ったのが効を奏し吐き気は次第に治まった。病院を出た私に待っていたのは、通りの向こうから指を差して笑う子供の無邪気な残酷さであった。頭部を巻いた包帯の量がよほど多かったのか・・・。その子供を制して、連れの母親が「いけません!!」とたしなめる。それを見て私は「強く生きていこう!!」と心に誓ったのであった。数えてみると5回、死が隣りに座ったわけであるが、実は一昨日も危うい体験をし、今日へと生は続いている。

 

さて、このメッセージをアトリエの前の図書館で書いているのであるが、先程から上空をヘリコプターが飛んでいる。逃亡している高橋の事を市民に呼びかけ注意を促しているのであるが、今一つは、声による包囲網によって高橋自身にそれが伝わり、自首へと向かわせる作戦かと思われる。禁門の変の後、京都から逃げる長州藩士を追って幕府の徹底的な捜査が行われたが、その最大のターゲットであった桂小五郎は、捜査の裏をかいて京の中心、三条河原の橋の下で乞食姿に扮して遂に逃げ延びた。桂と高橋某(なにがし)。比べるにはあまりにも対極な、価値と無価値の比較で桂には申し訳ないが・・・・・まぁ、心理としては参考になる例である。おそらく高橋は事前に第二の潜伏先を神奈川近辺に確保しているか、或は報道写真とは一変してホームレスのような姿に扮している事も考えられる。最近購入したキャリーバックは、かなり目立つ青が入っており、ダミーの為かとも思われる。図書館の窓の外を続けて二台のパトカーが走って行き、不穏な気配が続いている。さぁ、私も早く体調を戻して作品に立ち向かおうと思う。

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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