『「指」』

いささか今回のタイトルは松本清張の小説のタイトルのようで凶々しいが、まぁ、その「指」について書こう。それも、歴史上のミステリーに関わる内容であるが・・・・。

 

脚本家の三谷幸喜氏の小説『清洲会議(きよすかいぎ)』〈幻冬舎刊〉を、たいそう面白く読んだ。「清洲会議」とは御存知のとおり、織田信長が本能寺で死去した後の、織田家の相続者を決める会議であるが、そこに登場する人物群(羽柴秀吉柴田勝家丹羽長秀前田利家織田信雄お市・・・・)の心理のかけひきや逆転劇の面白さが凝縮した史実を元に、各々の人間像をコミカルに、かつ哀しく活写していて、私は一気に読んでしまった。その中に秀吉の妻の寧の日記なるものが出てくるが、その中にオヤッ?と思わせる記述がある。

 

「・・・・夫(秀吉の事)は本来暗い人間である。生まれながらに右手に障害を持っていたこともあり、本人の話では、子供の時は、人と交わるのが苦手だったそうだ。・・・・云々」とある。この文中の「生まれながらに右手に障害を持っていた」という記述を読んで、さすがによく調べているなぁと、私はこの三谷氏のこだわりの視点に注目したのであった。

 

歴史の表にはあまり出てこない話であるが、信長は秀吉の事をサル・ハゲねずみ・以外にもう一つ「六ッ」と呼んでいた事は案外知られていない。又、宣教師のルイス・フロイスが記した「日本史」の文中には、秀吉の事を評して「彼は身長が低く、また醜悪な容貌の持主で、片手には六本の指があった。眼が飛び出ており、支那人のように髭(ひげ)が少なかった。男児にも女児にも恵まれず、抜け目なき策略家であった・・・・」とある。又、秀吉が最も信頼していた前田利家の談話集「国祖遺言」にも、秀吉の指の異形性への言及があり、「・・・上様ほどの御人成りか御若き時六ッゆひを御きりすて候 ハん事にて候ヲ左なく事ニ候 信長公大こう様ヲ異名に六ッめかなと・・・・」とある。現代語に訳せば「上様ほどのお人なら、若いときに六本目の指をお切りになればよかったのに、そうされないので信長公は「六ッめ」と呼ばれていたのだ」となる。・・・・・・・・そう、つまり秀吉の右手には六本の指があったのである。

 

私は医学の専門ではないので、その病名を知らないが、おそらく「多指症」とでも呼ぶのであろうか。この病気は稀ではあるが実際に存在するようであり、そのハンディキャップ故に古くからそういう人達は幼少期に切断していたようである。私が興味を持つのは、それをあえて切らずに貫いた秀吉のタフな神経についてである。一説によると、日本では差別的にしか言わないこの病気を、フィリピンなどでは「神の使い」と呼んでいるようであるが、プラス志向の秀吉が切らなかった理由もそこに関わっているように思われる。当時ルソンとの交流は盛んであったが、秀吉の若い頃にその商人あたりから、「神の使い」という考えがある事を知り、災い転じて福に成していったのではあるまいか!?まさに「異形の王」にふさわしい逸話ではあろう。

 

作家の故・松永伍一さんと安土・桃山時代の裏話について話をしていた折り、松永さんは実に興味ある、そしてほとんどの人が気付いていない或る史実について語ってくれた事があった。それによると、実は秀吉は、信長の命を受けて毛利氏を平定しにいく際に、下層階級出身の自らの出自を隠すために、自分のルーツに関わる一族を皆殺しにしてから向かったというのである。つまり、それが暗示する事として考えられるのは、信長亡き後の次の覇者(はしゃ)としてのヴィジョンを、信長がまだ存命中に抱いていたという事に繋がるのである。それが事実であるならば、本能寺の変の真相も、もっと深いところにあるという事になってくるのである。まさに「事実は小説よりも奇なり」である。秀吉が六本の指を持っていた事は、信長、フロイス、利家という立場の異なる人物たちが一致した内容を、時間軸を異にして語っているのであるから、おそらく史実とみて間違いはないであろう。しかし、私たちが知っているつもりの歴史とは、勝者の都合で脚色されたものである。つまり、歴史の真相はほとんど解明されておらず、全てはあくまでも仮説にしかすぎないといってもいいのである。故に、歴史を推理するという事は、出口のないブラックホールに入っていくようなもの。しかし、それ故の醍醐味というのが又、そこには在るようにも思われるのである。

 

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