『三ノ輪・逍遥』

面影橋駅から都電の荒川線に乗り、終点の三ノ輪駅に初めて降り立ったのは、今から30年ばかり前になるだろうか。… ホ-ムから紫陽花の青が美しく見えたのを眩しく覚えているから、たぶん梅雨晴れの某日であったかと思われる。…目的は小塚原の刑場跡を観る事であった。吉田松陰、橋本左内、2.26事件の磯部将校、鼠小僧、毒婦と呼ばれた高橋お伝…等、江戸から明治初期迄に処刑されたその数、およそ20万体以上という、その場所を見たかったのである。その後で何度も三ノ輪は訪れているが、何故か二ヵ所の寺だけは訪れないままに年月が過ぎ、先日ようやく各々の寺を訪れる事が出来た。…その寺とは、浄閑寺と、円通寺である。

 

浄閑寺は、天明の大火で焼死したり、病死した遊女の〈投げ込み寺〉として知られているが、永井荷風が度々訪れた寺でもあり、遊女を慰霊する古い石像の前には、永井荷風が詠んだ、この世の無情と、森鴎外を始めとして逝った人々を追想する詠嘆の見事な文を刻んだ石碑もあり、永井の文学を愛する私の気を引いた。… 私の趣味は、古い墓に刻まれた墓碑銘を見て廻る事であるが、たしかココシャネルもパリのペ-ルラシェ-ズ墓地を、そうして散歩するのを好んだという。死者と語り合い、かつての失せし様々な物語の断片を立ち上げる事には妙に魂の平安が訪れてくるのである。そうして墓地内を歩いていると「荒木家先祖代々之墓」というのが、首投げ井戸の隣に見えた。…おそらく…と思って墓碑銘を読むと、やはりそうであった。写真家の荒木経惟氏の奥さんの陽子さんの名前が細い文字で刻まれていた。そう、この三ノ輪は天才アラ-キ-の生まれた原風景の町なのである。

 

円通寺は、上野の彰義隊と、西郷が指揮する薩摩軍とが壮絶な死闘を演じた黒門の遺構が移された寺として知られているが、その黒門に刻まれた夥しい数の貫通した弾痕を見ていると、当時の激戦の凄まじさがリアルに見えて来る。…その横には、三島由紀夫の先祖にあたる、幕閣きっての秀才—永井尚志(玄蕃頭)や、函館戦争に加わった松平太郎、そして彰義隊の墓や碑が…つまり幕府側の遺構が数多くあり、私の気を強く引いた。が、しかしこの円通寺は其れだけではなくて、昭和の事件を代表する一つ「吉展ちゃん事件」で、犯人の小原保が夜陰に乗じて、吉展ちゃんの遺体を、この裏の墓地に隠した地としてもまた知られている。…私はこの三ノ輪の土地特有の物語の相を透かし見ながら、しばしの時間、この町を歩いた。 ……またアトリエに戻れば、長い制作の日々が待っている。時は五月、1年の内で最もよい気候の頃か。庭の草木の緑が鋭いまでに鮮やかである。窓の外を伝う蔦も、かなり延びてきたが、もはや切るのは止めて、いっそ延びるにまかせようか。……まもなく、またあの夏の日が訪れるのであるから。

 

カテゴリー: Words   パーマリンク

コメントは受け付けていません。

商品カテゴリー

北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
Web 展覧会
作品のある風景

問い合わせフォーム | 特定商取引に関する法律