『ジャコメッティVS切り裂きジャック』PART②

前回の続き。……さて、ジャコメッティ展の会場の中は、前期のシュルレアリスムに接点を持つと見ていいオブジェの展示から始まっていた。拙著『美の侵犯―蕪村X西洋美術』(求龍堂刊)でも言及しているが、殺意に充ちた白日夢のようなヴィジョンの開示に、会場の観客は息を潜めている感がある。更には僅か数センチの高さしかない女の全身像に観客は一瞬、息を呑む。人々はそこに実存主義的な概念を、或いはオブセッション(強迫観念)的な感覚の放射を絡め見るかもしれないが、これらの表現のオリジンは、顕かにエジプト美術に見る極小の呪詛的彫刻を範としたモダニスム的な変容である。…周知のように、ジャコメッティの着想の源は、フラ・アンジェリコやデュ―ラ―などの古典絵画から得ている事が多いが、そのオリジンを読み解く事もジャコメッティ展の1つの楽しみであろう。……さて、私は本展で気になる作品に出会った。それは折れたスプーンの先端を巨大化したブロンズの作品で、タイトルは女性の像とある。スプーンの反りが、見立てとして、つまりは女性の内臓を根こそぎえぐりとったイメ―ジと重ねているわけで、彼の内なる御し難い加虐的なサディズムの映しを、私は、前期のシュルレアリスム的傾向の強い時期のオブジェ群から変わらずに在るものとして、そこに見て取った。僅かな距離の絶対視、存在、出現、消滅……といった正面性(フロンタリティ―)からの論点のみジャコメッティは語られる観があるが、かつてピカソがジャコメッティ論の白眉として高く評価した、ジャン・ジュネの著した『ジャコメッティのアトリエ』の中の1節「ジャコメッティは同時代の人々のために仕事をするのでもなければ、来たるべき世代のためでもない。彼は死者たちをついに恍惚たらしめる立像を作るのだ。」という記述にもっと注視すべきであろう。……〈死者たちをついに恍惚たらしめる立像〉。この一行の中に、あまりに美しい表現としてのエロスとタナトスが孕まれているのである。……そう、彼の内なるエロスへの傾きは、顕かに至近的にタナトス(死神、死への誘惑)へと直結しており、その強度な濁りの内から、彼の特異なヴィジョンは立ち上がっているのである。……その知られざる一例として、彼は「売春婦」という言葉と存在に病的なまでの拘りと執着があり、そこに過剰な破壊的衝動、つまりは死に至らしめたいという、自身の闇のフェティシズムについて、密かに告白してもいるのである。逸話を話そう。……ジャコメッティの妻はアネットであるが、カロリ―ヌという名の愛人がいた。彼女の職業は高級娼婦である。ジャコメッティは、前回のブログでも記したが、自身は清貧に甘んじながら、愛人の娼婦には莫大な金を与え、その娼婦は真っ赤な巨大な外車を乗り回して、深夜のパリを絶叫しながら走り回っていたという。この話から私が連想するのは、パリを巨大な鳥籠に見立て、その中で羽ばたく下品な声を放つ真っ赤な鳥のイメ―ジである。その鳥は自由に放たれて見えるが、パリという巨大な鳥籠の檻から遂に逃れる事は出来ない、詰まりは飼い殺しの、ジャコメッティの視線の内に常に在る。……閑話休題、そのような事を想いながら、更に展示会場を進むと、ジャコメッティのアトリエを中心とした付近の地図が掲示してあった。……それを見て、私の中に推理の閃きが走った。ジャコメッティのアトリエの近くに娼婦街がある事を知ったのである。……ジャコメッティが、ここモンパルナスのその地にアトリエを構えた、もうひとつの秘めた意味が、夜のパリの闇のイメ―ジの内にうっすらと見えて来たのである。……誰も書かない、もうひとつのジャコメッティの病巣、そこからインスパイア(つまりはインスピレ―ションの動詞形)する強度なまでの彼の表現。……私はそんな事を想いながら再び地図を眺め見た。先ほど記したジャコメッティの娼婦への拘り、そして、内臓を根こそぎえぐり取ったその加虐的なイメ―ジの女の彫像。…………するとパリのその地図は一転して、ロンドン・イ―ストエンド地区、ホワイトチャペル界隈の地図と重なって見えて来た。…………1991年の7月の或る日、私は、そのホワイトチャペル・バックスロ―界隈の中にいて、ヴィクトリア時代の霧の中に消えた一人の男の影を追っていた。……1888年の春から晩秋にかけて、この界隈で一人の男が疾風の如く駆け抜けて五人の娼婦を殺害した。世にいう〈切り裂きジャック〉である。……そしてその被害者の内臓は鮮やかな刄の捌きによって、全てえぐり取られていた。……あろうことか、ジャコメッティと切り裂きジャックの二人の暗いシルエットが、私の内で最も近似的な存在として重なって来たのであった。 (……続く)

 

 

 

 

 

 

 


 


 

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