『ジャコメッティVS切り裂きジャック』PART③ 

前回の続き。……ロンドンのイ―ストエンド地区は、旅行ガイドブックには載っていない、今もなお不穏な気配のする危険区域である。ロンドン塔からさらに東に行ったその先が、5件の売春婦連続殺人事件の5つの現場がある地域―ホワイトチャペル界隈である。犯人の切り裂きジャックの事件と同時期に、デビット・リンチの映画『エレファントマン』の実際のモデルとなった人物―ジョゼフ・メリックもまた、このホワイトチャペルにある興行小屋で異形な見せ物として、観衆の好奇な視線に晒されていた。……つまり、そのエレファントマンを観る観衆の中に、切り裂きジャックが紛れ込んで観ていた可能性は充分にあるのである。……さて、事件から103年が経った1991年の夏の或る昼下がり、私は仁賀克雄氏の著書『ロンドンの恐怖・切り裂きジャックとその時代』(早川書房刊)1冊を持って、5件の現場全てを見て回っていた。最後の犠牲者となった売春婦メアリー・ジェ―ンは、「間違いなく次は私の番だわ!」と言い残してパブを出て数時間後に予言どおりに殺された。その彼女が最後に入ったパブに入り、私もまた喉を潤したが、出されたビ―ルは生温く、半分だけ飲んで、最後の現場―彼女の自宅跡のあるミラ―ズコ―トへと歩を進めたのであった。

 

〈切り裂きジャック〉という名前は、犯人が自らつけた名前である。びっくり箱の事をJack in the boxと言うが、深夜に闇の中からまさに突然ナイフを持って躍り出てくる犯人には、まさしくピッタリのネ―ミングかと思われる。……さて、ジャコメッティに話を戻すと、ここに、売春婦の喉を切り裂く犯人〈切り裂きジャック〉の行為と重なる異形なオブジェがジャコメッティに在るから面白い。『Woman with Her Throat Cut』(喉を切り裂かれた女)。画像を掲載したが、極めておぞましい戦慄きわまりない、この作品。見た瞬間に、喉を掻き切られたような触覚的な恐怖感覚に誰しもが襲われる。……このような加虐的なオブジェを作っていた前期は、父親の死を契機にピタリと終わり、一転して私達の知る、あの細く長い彫像へと一変する。……多くの論者は、ジャコメッティの前期と後期を分けて語る向きがあるが、私は前期、後期は表象の違いを越えて、その本質は変わらずに繋がっていると考えている。……その変わらない低奏音に流れているのは、彼に固有の呪われたオブセッション(固定された脅迫観念)とフェティシズム(性的倒錯・呪物崇拝)であろうかと思われる。その資質、感性の澱みの奥から突き上げて来る破壊衝動は、彼にあっては芸術という形而上学の衣裳を帯びた、しかし、その本質は犯罪者のそれ(破壊衝動)である。……今、私は自分がコレクションしているジャコメッティの銅版画『アトリエの光景』を前にして、この文章を書いている。アトリエの中の二点の彫像を表したその作品から静かに伝わってくるのは、3次元の空間への像(イマ―ジュ)の顕在化よりは、消し去りたいという、像の抹殺的な破壊衝動の方が、そのベクトルの引き合いに於て勝っているように思われる。

 

……オブセッションとフェティシズム。私はジャコメッティに沿って書いているが、しかしこの2つの云わば病める病巣は、突き詰めれば、実は芸術に関わる者には必須の資質であると思っている。……例を挙げれば、ゴッホ、ムンク、ベ―コン、ダリ、キリコ、ス―チン、クリムト、シ―レ……などと次々と浮かんで枚挙に暇がない。その過剰で強度な感性の突き上げの果てに、芸術という美の毒杯、ポエジ―という能う限りの危うい華が顕在化するのである。(この稿・終わり)

 

 

 

 

 

 

 

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