『日本語の不毛なる行方』

私はいちおう美術家であるから、毎回書くこのメッセージ欄は、どうしても美術、あるいは芸術全般について書く事が多い。しかし、時としてどうしてもこの人間は如何かな!?……と思う場合は、時事的な内容についても書いている。近い記憶にあるのでは、かつて元総理だった菅直人について書いたことがあった。この男もまた「権力は内から腐る」の言葉通り情けなくも変わっていったのを目の当たりにして、またこの男の零落ぶりに唖然として、私は冷ややかな視点で書いたのであった。そして実のない、ただパフォーマンス好きなこの男が、人目を引くために、おそらくは後にやるであろう〈お遍路姿〉がふと目に浮かび、私は予言的に『君はお遍路に行くのか!?』というタイトルで書いたら、それから半年もしない内に、菅直人は頭を剃り、私の予言通りに、杖を持ってお遍路に出掛けた時は笑ってしまった。

 

さて今回は、日大アメフト部の前監督と、前コ―チについてさすがに若干言及したいと思う。……〈責任は私がすべて負う〉という発言とは裏腹に〈私は何も指示していない〉という矛盾した発言を繰り返す前監督。また日大の人事権を握るその男の傍で監督の伝令役として生きる前コ―チ。……先日この二人は、自らを火に油を注ぐような明らかな虚偽に充ちた記者会見をして更に世論の反感をかい墓穴を掘ったが、今朝、実にタイミンゲよく公表された文春デジタルの、前監督の生々しい肉声を捕らえた音声記録は、刑事告訴された場合に動かざる証拠になる事は必至であるが、しかし、さすがにここに至って文科省がやるべき事はあるであろう。前監督は理事として大学の人事権を握っているというが、監督は辞任しても人事権を握るこの理事という要職には頑なに固執している観がある。しかし、世論の怒りが収まるのは、この前監督が自らの意思で大学を去るという最終章を見ない限りは、おそらく鎮まらないであろう。日大の広報課の、まるで子供の使いのような話し方には失笑を禁じえないが、いまここに来て、実質的に問われているのは日大の教職員諸氏の変革への動きであろう。もし、ここで彼らによる何らかの動きが無い場合は、この日大という教育機関(?)は、根底からその存在の意味を失墜するであろう。「国家の根幹は教育である」と語った初代文部大臣の森有礼の言葉から、もはやかなり遠い所に日大の現在は来てしまったように思われるが如何であろうか。

 

話は変わるが、「責任を取る!!」……この言葉からどうしても思い出してしまうのは、1968年に京都国立近代美術館でロ―トレック展の開催中に起きた、名作『マルセル』盗難事件である。日本で起きた史上最大の名作盗難事件というのもショッキングであったが、何よりショッキングであったのは、その責任が事件発覚前夜から当直であった守衛に向けられ、追い込まれたその守衛が割腹自殺して果てた事である。……何もそこまでやる事はないであろうと、当時の私は思ったものであるが、その直後に痛々しい戦慄が日本中に駆け巡ったのを今もありありと覚えている。……この守衛の人生について思う時、真逆の連想として浮かぶのは、戦時中に多くの前途ある若者を「特攻隊」として無惨に死地に送り込み、特攻の日にその若者達に向かって「後ですぐに俺も行くから!!」と言いながら、自らは決して飛び立つ事なく終戦を迎え、なおも戦後を生き延びた上官達の事である。……彼らの姑息な振る舞いを主題にして追い詰めたドキュメンタリーが放送されたのをテレビで観た事があるが、年老いた、かつてのその上官は「顔だけはどうか映さないで下さい」と震えるように懇願しながら、演技か本心か定かではないが、忸怩(じくじ)たる想いを語りながら、声を震わせていたのであった。これも一つの人生とはいえ、観ていて何とも後味の悪い番組であったのを、これまたありありと覚えている。……とまれ、昨今の世情(特に政界)に多分に見られるのは、凛とした責任を取らずに詭弁を弄してなんとか逃げようとする傾向である。英文は構造が論理的に緻密な為に意味の方向性に拡大解釈が作用する事はないが、この点、日本語は曖昧で、解釈に主観という幅が入り、何とも絞り込めないものがある。文芸の分野ではそこに可能性があるのであるが、こと現実に於ては、その逃げが、その人間の人生を寂しく、ひたすら寒いものに染め上げていく。……なんだか昨今の日本は、そして日本語は、豊かだった嘗ての抒情からは遠く、無機的な不毛な方向に堕ちていっているように感じるのは、私だけなのであろうか。

 

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