『……どんでん返しは無いのか!?』

ある日、TVの画面に映った歌手の平井堅の顔を観ていたら、ふと画家の中村彝(なかむらつね)が描いた、ロシアの盲目の詩人・エロシェンコ氏に似ていると思い気になって調べてみたら、実際のところあまり似ていなかったのは意外であった。また、昨日、TVの画面に映る自称「紀州のドンファン」こと野崎幸助氏の顔を観ていたら、今度はふと、ジャパネットたかたの前社長の顔とダブったので画像を比べてみたら、またしても似ていなかった。二連敗である。……どうもその事が気にかかり、何人かの友人に電話で聞いてみると、やはり彼らも、言われてみると確かに、この組み合わせは似ているという。……しかし、実際はかなり違っている。脳の記憶力などは、ことほどさようにいい加減で記号的なもので、あまり当てにはならないものだと実感した。そこから浮かぶのは、マジックミラー越しに、複数の人間の中から、目撃者が犯人を指し示す「目撃者証言」の捜査方法の怖さである。……目撃証言者のその日の気分や体調、はたまた単にその面(つら)が気にくわないという気紛れな主観や無意識が作用して誤認逮捕、冤罪の可能性すら見えてくる。……とまれ、「紀州のドンファン」から話がずれて、最初に考えていた内容を少し逸脱してしまったようである。…………さて、「紀州のドンファン」。おぉ、遂に出た御三家の登場であるが、拝顔したところ、故人には失礼ながら身の丈が合わず、せいぜい「和歌山のドンファン」あたりが相応しい。この人物はドンファンを自称するには残念ながら大きな艶ある華がない。ドンファンとは、周知のようにスペインの伝説上の放蕩者であるが、色事師かつ美男子であり、実力を持って恋の駆け引きを楽しんでいる。私は思うのだが、ドンファンよりもむしろ、井原西鶴の『好色一代男』の主人公こと世之助に故人は近いように思われる。しかし「紀州の世之助」という言葉の響きは、全く紀州と世之助の釣り合いが合うようで合わず、まぁここはドンファンに指を折るのか。……さて、人生第一義の拝金主義に染まった氏の映像を観て、その人生に羨ましさよりも、何やら薄ら寒い孤独な寂しい影を覚えたのは私だけではないだろう。確かに、有り余る使いきれない金は、その実無きに等しいという言葉は至言である。……さて、今回のこの事件、絵に描いたように構図がはっきりしていて、脚本家がこういうミステリ―の案を出したら即却下されるような単純さであるが、この先にアッと驚くようなどんでん返しは仕掛けられてないのであろうか!!。もしそうでなかったら、あまりにもこの事件は実がなく、底の浅い顛末に終わってしまって、あまりにも哀しい。………………さて、毎日様々な事件が起きて、世相は本当にかしましい。そのメディアの喧騒、人々の関心の移り、……その推移が目まぐるしく移っていくのを、藪の中の暗がりのような心中を持って、じいっと待ち望んでいる人物が、少なくとも、そして確かに二人(もちろん男性!!)いる、という事を私達は忘れてはならない。……藪の中に潜み、隙あらば更に奥の葉群らの闇に、自身のその存在を消し去ろうと目論んでいる人物が、少なくとも二人いる事を私達は忘れてはならない。

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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