「……生と死はそっくり瓜二つであり、いまにも触れ合い同化しそうでいて、平行線のように交わることなくすれ違い続ける。最終的には、いつかはこの世は滅び、自分はあの世に行くだろう。百閒にとっては、それまでの遅延として営まれるのがこの生なのである。」……内田百閒の名作『冥途』について、わが種村季弘氏が評した言葉である。この遅延という倦怠的な言葉に沿った先には、例えば「遊びをせんとや生まれけん」(梁塵秘抄)のように、人はつまりは遊びを、戯れをするように生まれてきたのではないだろうか、その証拠に、子供の遊ぶ声を聞くと、自ら体が動いてしまうではないか。……という想いとなり、それを継ぐかのように、明治を生きた高等遊民達の気ままなデカダンス、つまりは唯美主義的な自在な生きざまが、このコロナウィルス騒動で萎縮し閉塞している時には、いっそう生の一つの意味ある生き方として羨ましく、かつ生き生きと見えてくるから面白い。
……さて、このような重苦しい日常の濁りを払拭するかのように、度々このブログでも登場の機会がある、ダンスの勅使川原三郎氏の『永遠の気晴らし』と題した公演が昨日から(6月20日まで)、荻窪の会場、氏の創作発表の拠点であるカラス・アパラタス(TEL.03―6276―9136)で始まった。『永遠の気晴らし』……今までの公演のかなり練られたタイトルと異なり、一見意外とあっさりしたタイトルに映るが、こういうタイトルの時にこそ、むしろ氏の才気は爆発し、美は御しがたい絢爛を呈する事を私は知っている。果たして、序はシュ―マンの緩やかな曲から始まり、次にハ―ドな現代の激しいテンポのサウンドへと転調し、更に展開する幾様にも異なる音のマチエ―ルと対峙して、変幻自在に異なる身体の妖しいまでの動きを呈し、遂には観客の五官を鷲掴みにして美の酩酊へと誘い、最後は鮮やかな幕切れの闇となって終幕した。デュオとして踊った佐東利穂子さんも凄みある動きを次々に見せて、この傑出した才人の無限の引き出しの多さをあらためて想わせた。正に二人による真剣勝負の美とポエジ―の屹立の競演である。
……ダンスにおいては、始まりも無ければ終わりも無い……というのが氏のダンスメソッドであるが、しかし毎回の演出における確かなフォルムの立ち上がりと完成度の高さは他に類が無いと言っていいだろう。分野を越えて昨今の表現者達の作品を見ると、この最も重要なフォルム化への強い意志がまるで無く、故に作品としての存在感を獲得していない。フォルムの獲得こそ、芸術の必須な骨格なのであり、全てだと言ってもいいものである。ではそのフォルムとは何か!についてはまた後日に詳しく書く機会もあるかと思うが、ともかく私はそれを美の規範として作品に向かっている。私が公演の度に時間を見つけて、荻窪のこのアパラタスの会場に足を運ぶのは、氏のダンス表現にそれを多分に視る事が叶うからである。フォルムの無い作品は、決まったように艶が無い。私が強く求めるのは、この艶というものである。……今回のコロナウィルス騒動で、私達の多くが、自分の人生の一回性というものをヒヤリと強く自覚した筈である。しかし、私達はやがて死ぬ。間違いなく死ぬ。……ならば冒頭に立ち返るが、美という、生命の根源に迫り、揺さぶり、私達の生を鼓舞してくれる表現に出来るだけ接して、その一回性の生に豊かな彩りを添えたいものである。……ダンスの分野を越境して既に久しい、このアパラタスでの公演。まだ氏のダンスをご覧になってない方にはぜひお薦めしたい、ポエジ―と直で触れ合える公演、それが今回の『永遠の気晴らし』である。
……さて、私は10月28日から11月16日の3週間に渡って開催される、日本橋高島屋本店・美術画廊Xでの個展に向けて制作を粛々と続行中である。既に50点近くが完成しているが、アトリエに入るとその度に感覚が張り詰めて来て、私の生の最も充実した空間で「今」を生きている。ほとんど籠った日々なので、今回の公演で外出したのは本当に久しぶりである。『永遠の気晴らし』……私は久しぶりに強い「気」をもらい、またアトリエに戻って来たのであった。