ずいぶん間が開いた久しぶりのブログ掲載になってしまった。あまり途切れるのが長いと「遂に北川もコロナでは……!?」と思われた方も或いは……。しかし、どっこい、私はまだ元気に生きています。とは言え、今後さすがに2ヶ月近くブログの更新がなかったら、まぁその時は私が昇天したと思って下さって間違いないでしょう。……しばらく更新が無かったのは、来年早々に刊行される予定の詩集の為に、詩の原稿を専らに書いていたからである。毎年12月は、さすがに来年の新しい作品展開に向けての、頭の切り替え、充電に使われるのであるが、今年の年末は詩作に耽る日々。いささか生き急ぎの感があるかもしれない。版画、オブジェ、コラ―ジュ、写真、評論……と螺旋状に切り開いてやって来たが、私がまだ集中して開けていない自分の可能性の引き出しは、純粋の言葉だけによる「詩」の領域、……そして1冊の詩集の刊行なのである。今までは小だしに書いて、写真集『サン・ラザ―ルの着色された夜のために』(沖積舎刊)の掲載した各々の写真の横に、写真作品と併せて載せる為に、90点の詩を3日間(つまり1日に30点の速度で詩を書き上げていく!)で書き上げたり、作品集『危うさの角度』(求龍堂刊)の中に入れる詩を書いては来たが、まとまった1冊全てが詩文で構成された詩集というのは初めての挑戦なので、また別な力が入るというものである。2年前に詩の分野の賞―歴程特別賞なるものは頂いたが、この受賞理由は、私の今までの全業績に対して……というものだったので、今回の詩集刊行への挑戦は、とにかく別物なのである。その詩作に没頭している間にふと世間を見やると、世界はコロナウィルスの凄まじい感染によって、まるで泥の舟、……あり得ない、しかし沈まないという予見の裏付けが無い様相を呈している。……18世紀中葉からイギリスで起きた産業革命は、加速的かつ致命的に自然を破壊して、今や人心までも荒んだものに変え、地球は断末魔の様相を呈しているが、地球サイド、豊かだった自然界、動物界から見れば、地球にとっての破壊的なウィルスは、私たち人類に他ならない。……聞いた話であるが、もし人類が絶滅しても地球にとって全く損失はないが、仮に蜜蜂が全て死滅したなら、地球の生態系がかなり壊滅的に狂う……という話は、なんとも暗示的である。今年の春に、人々が行動を控えた時、例えばヴェネツィアの濁ったアドリアの海が透明度をいや増して、魚が元気に泳ぐ姿を見たが、何やら近未来的な人類消滅後の地球の清んだ光景を透かし視るような思いであった。
……さて今回は、私の友人の一人である久留一郎君について書こうと思う。久留君はデザインの分野ではかなり知られた実績のある人であるが、その美的な感性を、彼がかつて住んでいた神保町の部屋で、私はありありと目撃した事があった。古い面影を漂わせた神保町の街の佇まいはそれだけで惹かれるものがあるが、その街の闇に溶け込むようにして、ある黄昏時に彼の部屋を訪れた事があった。……下町の何処にでもありそうな小暗い印刷工場(だったか?)の中に入り、暗い階段を彼に導かれるままに上がって行くと、突然目の前に広がっていたのは、完全なる美意識の映し、喩えるならば、そこだけがパリの一室、例えばリラダン男爵の舘の一室ではないかと見紛うような眩惑の気配をその部屋は漂わせていた。洗練された調度品といい、積まれた書籍の内容といい、何かの魔法にかかったような気持ちであった。そのダンディズムの薫り漂う部屋に私のオブジェ作品『ヴェネツィア滞在時におけるアルブレヒト・デュ―ラ―に関する五つの謎』(作品画像は、拙著『危うさの角度』に掲載)が掛かっていて、実に調和していたのを思い出す。……しかし、3・11の激しい地震の揺れをもろに受けて部屋は倒壊し、その部屋の耽美に充ちた印象の記憶は、残念ながら私の記憶の中に今も消えない鮮やかな眩惑性を帯びて、ひっそりと息づいている。(後で聴くと、彼は私の作品を抱えてその部屋から避難したようである。)閑話休題、今、私はリラダン男爵の名前を挙げたが、その夢幻の世界と近似値的に近いポーの世界を彼は幼年の時から熱愛している一人である。……そしてコロナ禍の今、彼は一念発起してネットによる画像配信によるポーの世界への頌(オマ―ジュ)の開示を立ち上げた。……それに関して私も協力する事となり、ゲストクリエイタ―としてコラ―ジュ『モ―リアックの視えない鳥籠』という作品を提供した。その私の作品の中には一見してポーらしきものは無い。しかし、作家にして名書評家でもあった故・倉本四郎氏(『鬼の宇宙誌』『妖怪の肖像』などの名著多数)は、私の作品を評して、私を「ポーの末裔」と呼んだ事があり、私を面白がらせた。今では伝説的な画商として語られる故・佐谷和彦さんも私を同じように評した事があり、偶然とはいえ面白い。その倉本さんは一言にして本質を語る卓見の人であった。…………これは私見であるが、オマ―ジュにポーの肖像を画く事はむしろ容易(たやす)いし、ある意味、それは既存のポーのイメ―ジに寄り掛かった借景であり、安直であると私は視る。……ポーの世界とは、その表裏に於いて繋がり、或いは地下で通底し密接しておれば良いので、私は彼にそのような作品を提供した。彼の今回の試みにはフランス文学者にして、日本におけるシュルレアリスム研究の第一人者、巌谷國士氏も久留一郎君の為に長文を書いている。今回のコロナ禍の中にあって久留君は最も精力的にポーに挑んでいるが、その姿はなかなかに考えさせられるものがある。一つの試みとして私はこの挑戦の行く末に密かな興味を持っているのである。……ご興味のある方は、ぜひ彼のサイトを開かれて、ご覧になる事をお薦めする次第である。