松本清張

「狂った空の下で書く徒然日記-2024年・狂夏」

災害級の猛暑に、ゲリラ雷雨…。そんな中を先日、馬場駿吉さん(元・名古屋ボストン美術館館長・俳人・美術評論家)と11月29日-12月14日まで開催予定の二人展の打ち合わせの為に、名古屋画廊に行って来た。ヴェネツィアを主題に、馬場さんの俳句と私のビジュアルで切り結ぶ迷宮の幻視行の為の打ち合わせである。馬場さん、画廊の中山真一さんとの久しぶりの再会。打ち合わせは皆さんプロなので、短時間でほぼ形が見えて来た。…後は、私のヴェネツィアを主題にした作品制作が待っている。

 

その前の10月2日-21日まで、日本橋高島屋の美術画廊Xで私の個展「狂った方位-レディ・パスカルの螺旋の庭へ」を開催する予定。今年の2月から新作オブジェの制作を開始して7月末でほぼ70点以上が完成した。6ケ月で70点以上という数は、1ヶ月で約12点作って来た計算になるが、その実感はまるで無い。私は作り出すと一気に集中し、没頭してしまうのである。…2.5日で1点作った計算だが、しかし上には上がいる。ゴッホは2日で1点、佐伯祐三は1日で2点から3点描いていたという証言がある。…二人とも狂死に近いが、私の場合はさて何だろう。

 

 
…そんな慌ただしい中を先日、月刊美術の編集部から電話があり、横須賀美術館で9月から開催する画家・瑛九展があるので、この機会に瑛九について書いてほしいという原稿依頼があった。…さすがに忙しくてとても無理である。…何故、瑛九論を私に依頼したのか?と訊いたら、私と同じく、画家、写真家、詩人、美術評論…と多面的に彼が先駆者として生きた事、そして瑛九と関係が深かった池田満寿夫さんと、私との関係からであるという。

 

…以前に私の写真集刊行の時に、版元の沖積舎の社主・沖山隆久さんが、印刷に入る3日前に、写真80点に各々80点の詩を入れる事を閃いたので、急きょ書いて欲しいという注文依頼があった。時間的に普通なら無理な話であるが、私は不可能といわれると燃える質である。3日で80点の詩を書き上げた。…その詩を沖山さんが気にいって私の第一詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』の刊行へと続き、また詩の分野の歴程特別賞まで受賞したのだから人生は面白い。

 

………(とても無理ですね)と最初はお断りしたのだが、今回も瑛九に関して次第に興味が湧いて来て、結局原稿を引き受ける事になり、一気に書き上げた。短い枚数なので逆に難しいのだが、誰も書き得なかった瑛九小論になったという自信はある。

 

 

…しかしそう多忙、多忙と言っていても人生はつまらない。忙中閑ありを信条とする私は、先日久しぶりに骨董市に行って来た。…今回はスコ-プ少年の異名を持つ、細密な作品を作り、このブログでも時々登場する桑原弘明君の為に行って来たのである。

 

…明治23年に建てられた異形の塔・浅草十二階の内部の部屋を、彼は細密な細工で作品として作りたいらしいのだが、外観の浅草十二階の写真は余多あるのに何故か、その塔の内部を撮した写真が一枚も存在しないのである。…先日は、その幻の写真を私が彼の為に見つけんとして出掛けていったのである。(彼とは今月末に、その浅草十二階について語り合う予定)。

 

 

………昔の家族や無名の人物写真、出征前に撮した、間もなくそれが遺影となったであろう、頭が丸刈りの青年の写真などが段ボールの中に何百、何千枚と入っている。…しかし、件の浅草十二階の内部を撮した写真など、見つかりそうな気配は全くない。

 

 

 

 

…私は、次から次と現れる知らない人達の写真を見ていて(…考えてみると、これは全部死者の肖像なのだな)…という自明の事に気づくと、炎天下ながら、背中にひんやりと来るものがあった。……そしてふと想った。…もしこの中に、紛れもない私の母親の、未だ見たことのない若い頃の写真が二枚続きで突然出て来たら、どうだろう。…そしてその横に私の全く知らない男性が仲好く笑顔で、…そしてもう1枚は、二人とも生真面目な顔で写っていたとしたら、さぁどうだろう⁉…と、まるで松本清張の小説のような事を想像したのであった。

 

 

…考えてみると、両親の歩んで来た物語りなど、実は殆んど知らないままに両親は逝き、今の私が連面と続く先祖達のあまたの物語りの偶然の一滴としてたまたま存在しているにすぎないのである。

 

 

 

 

 

 

…ここまで書いて、初めてアトリエの外で油蝉がかまびすしい声で鳴いているのに気がついた。………今は外は炎天下であるが、やがて日が落ちる頃に俄に空が暗転し、また容赦の無い雨が激しく降って来るのであろう。…

 

 

 

 

 

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『裏番・中原中也』

敗戦記念日の8月15日になると、毎年その頃に大戦時の悲惨な映像が流れ、幾つかの特集番組がテレビで流される。先日たまたま観たNHKの朝の番組もその1つであった。(観られた方はかなり多いと思われる)……先ず映し出されたのは、レイテ戦で日本兵が突撃し、銃火や火炎放射器で焼かれて次々と戦死していく映像であった。

 

……次に作家・大岡昇平『レイテ戦記』の一節が朗読で流された。……それは、ある上官の事を書いた文章であるが、その上官の事を実に卑怯な男で、部下からの信頼もなく、いかに惨めな姿で死んでいったかを、その上官の実名を挙げて書いたものであった。……(ちなみに、この『レイテ戦記』は詳細な資料調査に基づいたものと評価され、反戦文学の代表作と評されている)。当然多くの読者は、実名で書かれたこの上官の事を事実とし、卑怯で惨めな男と記憶してしまう。……しかし大岡昇平の『レイテ戦記』が発表(1967年から連載開始)されていらい、この事で、実に50年以上もの間、屈辱に耐えて来た人達がいた。大岡に卑怯な男と実名で書かれた上官の遺族の人達である。

 

……番組では、当時5歳くらいであった上官のお嬢さん(現在は90歳くらい)が登場し、「記憶の中の父は絶対にそのような卑怯な人ではなかった。戦地での父の真実の姿を知りたい」と話す映像が映し出された。…………しかし番組製作時に、お嬢さんの長年の無念を晴らす奇跡が起きる。……お嬢さんは、偶然或る番組でレイテ戦の生存者(現在100歳くらい)が未だ生きている事を知り、テレビ局のスタッフとその人の住居へと赴いた。……「ひょっとして、その方は父と接点があった方かもしれない」……藁をもすがる想いで、その人と面会した。(画面に映るその人は100歳に達しているとは言え、矍鑠としていて、記憶の冴えがしっかりとした人であった)。

 

……レイテ島には当時84000人の兵隊がおり(その内80000人が戦死)、配属された部隊の数もたくさん在り、両者に接点がある方が難しい。……しかし驚いた事に、その人と上官は同じ部隊であり、上官の人となりは未だしっかりと記憶に焼き付いているという。そして画面は、上官とその人、そして部隊の全員が写っている集合写真のアップとなった。(写真から、上官の温厚さの中に秘めた信念の芯の強さが伝わって来る)。……その人は語り始めた。……「上官は実に立派な方で部隊の部下からも慕われていました」「私が生きて帰れたのも上官のおかげです。上官は(私はここで死ぬが、お前は生きろ!生きて日本に帰れ!!)そう言って亡くなられました。この本の中に書かれているような卑怯な人ではありません」と、はっきりと断言したのであった。

 

……私はここに2つの奇跡を観て感動した。1つは、この生存者にまるで導きのように上官の遺族が存命中にギリギリで会えた事、もう1つは、上官がこの一兵卒の部下を日本に帰した事で、80年後に自分の汚名を晴らす事が出来、お嬢さんに、自分の戦地での実像を伝えられようとは想像していなかったに違いない、何という運命の、しかし不思議な糸の結び付きかと、私は感動したのであった。

 

……「これで長年の辛かった思いが晴れました。有難うございました」とそのお嬢さんは語ったが、最後に「死人に口はありませんからね」とも静かに語った。……それは大岡昇平に、「卑怯者で惨めな姿で死んでいった」と書かれた事に、既に死者となってしまった父は何も言い返せない事への無念を語る言葉であり、悔しさであった。この遺族の方の秘めた本心には、明らかにされたこの部下の証言を大岡に見せて、何故あのような根拠のない、悪意とも取れる文章を書いたのかを抗議文か何かをしたためるか、或いは直接会って問う事にあった事は想像に難くない。……しかし大岡は35年前の1988年に亡くなっており、この無念はもはや届かない。

 

 

……しかしここに、大岡昇平が未だ存命中に、手紙で強烈な抗議文を書いて大岡に送った当時26才の若僧がいた。……誰あろう、私である。

 

……昔、角川書店から電話が入り、大岡昇平の『中原中也』を文庫で出すので、その挿画を表紙に描いて欲しいという依頼があった。私はその本の事は知っていた。先達の、銅版画の詩人と言われた駒井哲郎さんの版画『笑う赤ん坊』を大岡の『中原中也』の単行本の表紙にしたのを覚えていたのである。中原中也の無垢さの内の御しがたい突き上げを、この版画の選択は実にピタリと合っており、表紙の挿画として突出した素晴らしい出来だと記憶していた。だから、その駒井さんと勝負しようと思い、編集者との打ち合わせを楽しみにしていたのであった。

 

……後日担当の編集者に会うと、浮かぬ顔で「実は大岡先生が、文庫の時にはこの写真を使って欲しいと言って、これを指定してきたのです」と言う。……それは中原中也が確か就職活動の必要を覚えて撮った書類に貼る為の写真で、よく知られたあの写真と違い凡庸な面相で写っている。

 

……私は「人は表紙のセンスの妙で購買を決める場合が多いので、これじゃ売れませんよ」と言った。そして「既存の写真をただ印刷するだけなら、何もあえて私がやる必要はないでしょ」とも言った。実はこの配慮は大岡自身の為でもある。どれだけ売れるか、内実、印税は大岡に限らずどの作家にとっても生命線なのである。これではすぐに絶版は必至と見た。話してみると、……編集者も本音は、この中原ではなく、あの写真を使いたいらしい。

 

まぁしかし私も生活がある。……その頃に芥川賞をとった池田満寿夫さんが、当時20代の私が画廊契約でも大変なのを心配してくれて、角川書店での挿画の仕事を前から私に紹介してくれていたのであった。だから、まぁやるしかない。

 

 

 

……とまれ大岡昇平の指定した写真を採用せず、私は、あのよく知られた写真を製版屋にまわして写真製版で作らせ、濃いセピアのインクを刷ってレイアウトをし、編集者に渡して文庫本が出来上がった(画像掲載)。……この仕事において、当然、私の中原中也への私的解釈など何も入らず、既存のままの昔からの中原中也の顔がそこに刷りあがっていた。

 

 

………それから半年くらい経った頃であったか。雑誌の『太陽』の中原中也特集号が出た。本屋で立ち読みをしていると末尾辺りに、大岡昇平の『中原中也像の変遷』と題する一文が載っていた。中也像の変遷?とは何だ?意味がピンと来ないまま、一読して私は大岡昇平に失望した。そして、大岡、呆けたか!!?とも思った。

 

その文章は実に馬鹿げた論旨で、一言で言えば、私(大岡)が身近にいてよく知っている中原中也の実像と違い、中原を知らぬ次々の世代の読者は、彼のイメ―ジを女性的な弱い像として捕らえている傾向がある。具体的な例を挙げれば、以前に私の『中原中也』の表紙画を担当した北川健次がそれである。実像を知らない甘いイメ―ジで中原中也像を作り上げた北川はまがい物である!と断じているのであった。

 

……先述した通り、私はこの中原中也の写真を全く私的解釈などで変化せず、角川の編集者に用意してもらった写真をそのまま製版屋に回し、編集者がせめてセピアの古色でと言うので、そのまま刷っただけの、昔と何ら変わらない中原中也のままである。……自分の言う事を無視した若僧と私の事が映ったのか、とにかく久しぶりに来た原稿依頼で高ぶったのか、あろう事か、昨今の誰も抱いていない女性的な中原中也のイメ―ジに変化した幻をそこに見て、私が作った表紙に、大岡は怒りのままに長いまつ毛を生えさせてしまったらしい。

 

……私は、この文章を書くに至った大岡の内面を透かし見た。……誰もが平伏する私に対し、この北川という生意気な若僧は……という想いと同時に、中原中也をよく知っているのは身近にいた私だけであるという念が日増しに増して来ており、それをこの駄文に込めたのであろう、そう思った。しかし、まがい物と活字でしっかりと書かれた事は、さすがに許しがたいものがある。呆けた相手とは言え、売られた喧嘩は、矜持として買うのが私の流儀である。さっそく私は抗議文を書く事にした。編集者から大岡の住所を訊き、便箋5枚ばかり書いて、「くらえ!!」とばかりに投函した。

 

「貴殿が小心者でないならば、また自分の書いた文章にプロの作家として自責を負う自覚があるならば、この手紙を途中で破る事なく最後まで読まれたし。この手紙文は先日書いた中原中也に関する貴殿の明らかな間違いを理路整然と正す文章である。…………」から始まる文は、最後に「私は中原中也の詩や文章の熱心な読者の一人であるが、その彼の文章の中に貴殿について書かれた文章は、小林秀雄と違い僅かしか無い事もまた事実です。最後になりますが、貴殿の小説について何か書く事は礼儀かもしれません。しかし、多くの読者がそうであるように、私は三島由紀夫松本清張の熱心な読者であり、彼らの作品や生き方から多大な影響を受けています。しかし、多くの人達がそうであるように、貴殿の小説は全く読んでいないので、何も書く事はありません。……定家卿曰く、芸道の極意は身養生に極まれりと。御身お大事に。北川健次」………………今、記憶の限りに書いているが、まぁこんな内容であった。

 

…………しばらくして、反応があったが、それは私の予期した通りの事であった。私でなく角川の編集者に怒りの矛先が行き、以来、私の挿画の仕事は無くなった。しかし良くしたものでその後に他の出版社から挿画の依頼が来た。またまがい物と書かれた雑誌『太陽』ともその後で何故か縁があり、エッセイを書いたり、また編集長から企画の相談を依頼されるようになるから、人生はわからない。

 

……さて、抗議文の中で松本清張の名前が出て来たが、これには理由がある。……大岡昇平は松本清張の文学を否定し、「彼の作品は純文学でないから認めない」と発言しているのであるが、彼はいつから純文学の裁き手になったのであろうか?……文壇では小林秀雄を我が身の借景としている事から来る、この増長とも取れる発言は、如何にも不可解であり、如何にも小さい。

 

……松本清張は『或る小倉日記伝』で芥川賞を授賞した後、周知の通り、社会派推理小説という新分野を切り開き、その分野の越境の様は拡がりを見せながらとどまる事を知らない生涯であった。純文学などという狭い意識にこだわっていては果たせないスケ―ルの幅であり、私は20代から大きな影響を受けている。……「純文学ではないから認めない」という大岡の発言を嫉妬だと断ずる人もいるが、底辺から這い上がって、一気に小説家の水準を超える作家へと上がっていった松本清張への蔑視もあるように思われる。『神聖喜劇』などの著作で知られる小説家の大西巨人氏は、大岡の発言の中に矛盾や屈折を早々と看破しているが、やはりと思わせるものがある。

 

……最後に、『レイテ戦記』に戻るが、詳細な調査として評価された面があるこの作品。実は正確な戦史でなく、実質は小説であるが、この点にそもそもの構造的な無理がある。戦史で言うなら、吉田満氏の『戦艦大和ノ最期』の方が遥かに正確さと密度において優れており、吉村昭氏の『関東大震災』の方がその詳細な調査の深さにおいて群を抜いている。この度の番組で明らかになった『レイテ戦記』の虚実のほころび。……今、もし大岡昇平の研究家なる者が存在するとしたならば、このレイテ戦記の虚の部分を徹底調査して洗い直す必要があると、私は汚名を受けた遺族の方々に代わって考えるのである。

 

 

……今回のブログはマチスについて書く予定でいたが、思いがけずテレビ番組で、著者の無責任さを知ってしまい、このブログを書く事になってしまった。……さぁ次は何を書こうか、ともかくご期待頂けると有り難いです。

 

 

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『……最近、妙に気になる三岸好太郎の話』

少し前になるが、二つの展覧会を観に行った。ア―ティゾン美術館の『生誕140年ふたつの旅  青木繁X坂本繁二郎』と、東京国立近代美術館の『ゲルハルト・リヒタ―展』である。

 

先ずはア―ティゾン美術館であるが、ここに来ると18才の頃の高校生であった自分の姿を思い出す事がある。(当時、この美術館の名前はブリヂストン美術館であった。)……美大の受験で上京したその足で、私が先ず行ったのは、このブリヂストン美術館であった。目当ては、中学時代から佐伯祐三と共に好きだった画家・青木繁の代表作『海の幸』を観る為である。薄暗い館内を入って行くと、目指す『海の幸』が強い存在感のアニマを放ちながら見えて来た。たくさんの熱心な観客がこの絵の前にいた。それを夢中で掻き分けて最前列に立った時の感動は今もありありと覚えている。「芸術の世界で自分はアレキサンダ―大王になる」と豪語していた青木の覇気が好きであったが、この御しがたい才気と、僅か29歳で死が訪れるという、早すぎる落日の悲劇にも強く惹かれていた

 

私は明日に控えている受験の事などすっかり忘れて、この美術館に展示されている数々の泰西名画に感動しながら、結局また戻って来て熱く観るのは、青木繁のこの『海の幸』であった。「ここに青木の短かった生の全てが凝縮されている」……そう思いながら、自分もそのような作品をいつか遺したい、そう思ったのである。……時間があっという間に経ち、やがて立ち去り難い想いでこの館を出たのであったが、いつしか頭の中に芽生えていたのは或る夢想であった。「……いつか、今観た美術館に自分の作品が収蔵され、昼も夜も、あの〈海の幸〉の傍で共に在りたい!」という、青年時にありがちな非現実的な夢想であった。「まぁしかし夢、夢だな!…」その夢想をかき消すように現実の雑踏の中に消えて行った、未だ高校の学生服姿の青い18才の私を、この美術館に来ると時おり思い出すのである。

 

……それから数年が経ち、23才の時に、現代日本美術展でブリヂストン美術館賞を受賞して、この美術館に銅版画作品三点が収蔵された時は嬉しかった。収蔵されるに至った審査経過は、当時、この美術館の館長であった嘉門安雄氏から詳しく伺ったが、審査委員長だった土方定一氏の即決で私に美術館賞が決まり、嘉門氏が、この作品は自分の美術館で頂きたいという流れで決まったのだという。…その前の20才の時に銅版画の処女作が既に他の美術館には収蔵されており、その後も20以上の美術館に作品が収蔵されているが、この時に覚えた感慨以上のものはない。むしろ今は、作品が直接コレクタ―の人達に所蔵され、日々大事にされている事の方が意味は大きいと思うようになっている。しかし、その時にはまだ美大の学生であったが、プロの作家一本で自分は生きていけるのではないか!……希望が確信に変わっていく転機となった事は確かである。

 

 

……さて私事が長くなってしまったので、展覧会に話を戻すが、この展覧会は、青木と運命的としか云えない盟友の画家・坂本繁二郎との対照的な個性のぶつかり合いと、実に稀な友情をその初期から実に丁寧に立ち上げ、最終展示コ―ナ―では、各々の絶筆(遺作)を並べて、実に感慨深い展覧会になっている。青木、坂本、ともに私はたくさんの作品を観て来たつもりではあったが、それでも青木の能面の素描は実見した事がなく私はずいぶんと観入ってしまったのであった。余談であるが、松本清張『私論/青木繁と坂本繁二郎』は全く別な角度からの論考であり、なかなかに面白くお薦めの書である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……一心不乱に表現と対峙するという、ある意味、作家にとって幸福な熱い時代は去り、1968年頃から、表現は、醒めた〈分析の時代〉に入ったというのは私の持論であるが、例えば東京国立近代美術館で10月2日まで開催中のリヒタ―展などを観ると、改めてその感を強くしたのであった。……リヒタ―の作品からは、デュシャンやフェルメ―ル他、写真に至るまでの今日的な解釈が、巧みなグラフィック的処理感覚で作品化され、視覚芸術の権能が、発展でなく一つの終止符にも似たものをそこに私などは視てしまうのである。私は迂闊にも知らなかったのだが、ドスタ―ルまでも分析の対象として作品化されていたのには驚き、かつ唸ってしまった。……リヒタ―の色彩感覚は抑えた色彩の中にその冴えを静かに見せて、実にテクニシャンだと痛感した次第である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ドスタ―ルについては、拙著『美の侵犯―蕪村X西洋美術』(求龍堂刊)でも1章をこの画家について書いているが、一言で云えば、彼(ドスタ―ル)は〈視え過ぎる男〉であり、その感性には鋭い狂気までが息づいている。そのドスタ―ルの視線に重なるようにリヒタ―のそれは追随して、僅かに余裕さえもその画韻に漂わせているのであった。……リヒタ―展、それは〈分析の時代〉に入ったという私の持論を、あらためて裏付ける展覧会であり、その意味で実に興味深い展覧会であった。

 

 

 

リヒタ―展を観た後で、他の階に展示されている常設展を観るのも、この館での愉しみであるが、その日、私が興味を持ったのは、やはり青木繁と同じく夭折の画家・三岸好太郎晩年の作品で『雲の上を飛ぶ蝶』であった。

 

 

……この絵を観た瞬間、以前のブログで書いた詩人・安西冬衛の代表的な詩〈てふてふが一匹韃靼海峡を渡っていった〉の事が閃き、画家はおそらく安西冬衛のこの詩から着想したと直感した。安西の詩が刊行されたのは1929年、三岸好太郎のこの作は晩年の1934年の作。……三岸好太郎自身も詩を書く人であったから、安西のこの詩を読んでいる可能性は高い。

 

……そう思って、絵のそばに展示されている解説を読むと、作者は昆虫学者から、海を渡る蝶の話を聴いたとある。しかし、次の行の解説では、雲の上の高さまで蝶が飛ぶ事は不可能であるとも書いてある。確かにそうである。私はこの解説文に興味を持ち、帰ってから図書館に行き結論を見つけるべく、三岸好太郎、安西冬衛に関する何冊かの本を読んでみた。……私の直感は当たり、三岸好太郎の妻であった三岸節子さんが、あの作品は安西冬衛のあの詩から着想したという記述がある事を知った。……三岸好太郎はなぜ嘘をついたのか?。三岸節子さんの話によると三岸好太郎は何より嘘をつく人であったという。しかし、この話は三岸の男女関係に関してであり、もう少し事情があると私は思った。

 

……そして私は、この作品が、三岸の迫って来る死の予感の中で描かれた事を思い、これは三岸好太郎における言わば自身の為に描いたレクイエム〈鎮魂曲〉である事を思った。昆虫学者から聴いたという、その話はそれを飾る、言わばやむをえない〈作り〉なのだと私は結論づけたのであった。……本の中に、面白い箇所を見つけた。三岸好太郎のその遺作を観た安西冬衛が書いている文である。……「四月二十三日。独立展に三岸好太郎の遺作、『海洋を渡る蝶』を観る。博愛なる海洋。この世のものでない鱗翅類。マチエ―ルとメチエの比類なき親和力が私を奪った。これだけの美事な仕事を惜しげもなく抛って就いたのである。死というものは悪くないに相違ない」。……実に清々しい一文である。……そう、死というものは悪くないに相違ない。

 

……そう思ったら、関東大震災の猛火の中で、僅か26才で焼死した私の好きな俳人・富田木歩が詠んだ、これもまた私が一番好きな俳句「夢に見れば死もなつかしや冬木風」の句が卒然と立ち上がって来たのであった。

 

 

 

 

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