Event & News

『断章・二つの展覧会を観て』

 

先ずは写真展から。…先日、東京国立近代美術館で開催中の『中平卓馬 火-氾濫』展(4月7日まで開催)を観に行った。会場の展示が、中平卓馬の作品世界の固有な鋭さを映すように工夫がされていて、その知的配慮とセンスの良さに先ず感心する。

 

 

 

…中平の写真作品は、我が国を代表する写真家の一人川田喜久治の写真が持つ作品世界と共に、不穏な気配、凶事の予感に充ちていて特に惹かれるものがある。しかし川田の作品が個々に時代性を孕みながらも、普遍性という先の時間にもその効力を十分に併せ持っているのに対し、中平のそれはあくまでも60年代のオブセッションの闇に、そのレンズの切っ先が、あたかも同士討ちのように突き刺さっている、そう私には見えたのであった。

 

中平の言葉「…写真は本来、無名な眼が世界からひきちぎった断片であるべきだ」と語っているが、この世界という言葉はこの場合、彼が生きた60年代のそれに錐を揉むような鋭い集中を見せている。…中平の写真には、まるで殺人犯が逃げる時に視えているような風景の映しといった感の脅えがあるという意味の事を、以前に写真評論家の飯沢耕太郎さんに雑談の折りに話した事があったが、その特異なものが何から由来したものなのかを見つけ出す事が、今回、展覧会を訪れた主たる目的であった。…………広い会場の中で寺山修司と組んだ連載の雑誌が幾つか展示されていたのを見た瞬間、「これだ!」と閃くものがあった。…寺山の特異な言語空間(文体)を視覚化すれば、それはそのまま中平のそれと重なって来る。…もう一度、私は「これだ!」と思うものがあった。…寺山の文章が持っている固有な犯意性(犯人は本能的に北へと逃げる-北帰行の心理)とそれが重なったのである。……もう1つ思った事は、川田喜久治の作品各々が一点自立性を持っているのに対し、中平のそれは、引きちぎったメモの切れ端のように見えた事であった。…正に先に書いた中平の言葉そのものを映すように。……

 

 

先日の29日に、ア-ティゾン美術館で開催する展覧会『ブランク-シ/本質を象る』展の内覧会に行く。会の開始は3時からであるが、夕方に用事があるので午後の早い内に美術館に入った。取材中のプレス関係の人が沢山いたが、会場が広いので作品に集中して観る事が出来た。…先の近代美術館の展示と同じく、実に展示に配慮が行き届いていて感心する。展覧会への気合が伝わって来るというものである。…作品の高さ、そして最も大事な照明の具合。その配置。その何れもが作品各々に与えているのは、美というものが放つ超然とした品格である。

 

……周知のようにブランク-シは、ロダンから弟子になる事を求められたが拒絶した。ここに近代とそれ以前との明らかな分断がある事を彼の表現者としての本能が直観したのである。その独歩への意志と矜持と自己分析力が、彼をして時代を画するモダニズムの高みへと押し上げた。…そして、彼の作品の本質が意味するものを見極めていたのはマルセル・デュシャンである。その関係の豊かな物語りが、或る一角の展示の妙に現れていて、いろいろと再確認する機会ともなったのであった。

 

…内覧会の特典は展覧会の図録が付いて来る事であるが、今回の図録は読み応えのある内容で実に面白く、私は帰宅してから一気に読み終えてしまった。この図録はブランク-シについて考える時に今後の一級の資料ともなるに違いない。………中平卓馬の展示では、表現者として写真にも挑んでいる私にいろいろと考える機会を与えてくれ、またこのブランク-シ展では、今、正に制作中の鉄の作品、そして今、構想中の石の作品への善き刺激となる揺さぶりを与えてくれたのであった。…質の高い展覧会を折に触れて観る事は大事な事である。…中平卓馬展は今月の7日迄開催。…そして、このブランク-シ展は始まったばかりで7月7日迄の開催である。

 

 

…最近は制作に入り込んでいるので、なかなか出掛ける事は叶わないが、今、板橋区立美術館で4月14日迄開催している『シュルレアリスムと日本』展と半蔵門にある執行草舟コレクション/戸嶋靖昌記念館で4月30日から開催する予定の『砂の時間』展だけは、ぜひ観ておきたいと思っている。…………実は今回のブログでは、『一から三へと拡がっていく話』と題して昨今の事件騒動について書く予定であり、この展覧会の事はその序章のつもりで書き始めたのであるが、体力と字数がここで燃え尽きてしまったようである。…次回は、その事件の話から、優れた芸人だけが持っている性(さが)と、その狂気について具体的に書く予定。……その頃はさすがに桜も散っている頃か。ともかくも、…乞うご期待である。

 

 

 

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『日本橋高島屋にて個展開催中』

……今月11日から、日本橋高島屋本店6F・美術画廊Xで個展が始まった(30日まで開催)。東京で最も広い会場空間の中に新作オブジェ75点が一堂に展示され、連日たくさんの方が観に来られている。特に今回の出品作品は、作者の実感として、完成度の高い作品が揃ったように思われるが、私の作品を知る人達からも同じような感想が返って来ているので、今回の個展に強い手応えを覚えている。

……かねがね、私の作り出すオブジェ作品は、観る人の深い記憶を呼び起こし、想像力を揺さぶる〈装置〉だと考えているが、その想いを裏付けるような体験をこの春にしたので、ここにそれを書こう。

 

……このブログでも度々登場する、ダンスの勅使川原三郎氏から四年前に話があり、多摩美術大学の演劇舞踊デザイン学科の学生相手に特別講義なるものを時々している。私の講義は毎年『二次元における身体論』という題で、主に絵画、文学における修辞学(レトリック)とその動体性における関係を話している。今年の四月、三年生の学生とは初顔合わせなので、新作のオブジェを持って大学に行った。学生の中にはウクライナや中国からの留学生もいて、興味津々に私がオブジェを箱の中から出すのを待っている。……そして学生達に見せた瞬間、面白い反応が広がった。

 

……その時に見せた作品はパリのサンミッシェル通りの古写真に古い懐中時計の前と背面を構成したもの(画像掲載)であったが、ウクライナ、中国、……そして日本人の学生達から一斉に驚きの声が上がり、「自分の幼い頃の記憶が甦って来た!!」という感想が、学生達の間から沸き上がったのである。……自分の作品でありながら、この反応はやはり不思議なものである。……作品のイメ―ジを領しているのは正にパリのサンミッシェル通りなのであって、ウクライナや中国とはまるで違う。しかし、その作品の発する「気」から直感的に、各人がみな各々の自国での幼い頃の記憶が甦って来たというのである。私は以前から言っていた〈装置〉としての自作が、単なる想いではなく、実際に記憶を呼び起こす現象として、今、目の前で起きている事を目撃し、強い手応えと自信を実証的に持ったのであった。

 

……そして、この反応は、今、開催中の個展でも観に来られた人達から返って来ているのである。私はもはや美術の分野を越境して、自分が作り出すオブジェが、オブジェクトポエム、すなわち視覚を通して体感する詩の領域に在る事を、強い自信を持って実感しているのである。今月11日から30日まで開催される個展会期は、ようやく半周を少し過ぎた所に在り、未だ11日間が残っている。……来られた方と作品との不思議な出逢いのドラマが、まだまだ続くのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「哀しくて、やがて嬉しき神保町の巻」

……JRお茶の水駅から明治大学のある坂を下って行くと、世界最大の古書の街、神保町古本屋街である。その最初に在る古書店の名を「三茶書房」という。今もこの店の前に立つと来し方を思い出す。……昔、未だ美大の学生だった20才の頃、この店の二階にあるガラスケ―スの中に、版画家の池田満寿夫さんと、わが国を代表する詩人・西脇順三郎氏による詩と銅版画のオリジナル作品14点が入った詩画集『トラベラ―ズ・ジョイ』(特装本)を見つけたのである。〈その頃で定価は確か40万円前後であったか。〉興奮した私は「これを見せてくれませんか?」と言うと、年老いた店主が一言「駄目です、だってあなたには買えないでしょ!」との冷たい突き放し。……悔しかった、しかし「買えなくても、見せるくらいどうなんだ、次代の若者を育むのも、本屋の勤め、それが文化じゃないのか」と言いたかったが、言えなかった。……どうみても、長髪の着たきり雀の貧乏学生、口をつぐんで、私は店を出た。震える程に悔しかった。

 

……… しかし人生はわからない。それから僅か4年後に、私は池田満寿夫さんと出逢い、大学院を出てそのままプロの版画家としてスタ―トしていた。そんなある日、池田さんに人生初めてのエスカルゴを食べる体験とワインのご馳走をしてもらっていた時に、学生時代の三茶書房での悔しかった話をした。池田さんは笑って聞いていたが、数日後にニュ―ヨ―クへと戻って行った。……その数日後に私の当時の契約画廊であった番町画廊の青木宏さんから「画廊に来るように」との連絡が入り、私は銀座の画廊に行った。……そこで私が青木さんから渡されたのは、池田満寿夫さんから私への置き土産だという厚い紙包みであった。……開けてみるとあろう事か、件の『トラベラ―ズ・ジョイ』(特装本・しかも私への献呈署名入り)であった。……私は震えた。しかし今度は感謝の気持ちとしての嬉しい震えであった。

 

 

…………学生時代、店主に嫌な事を言われながらも、三茶書房はしかしめげずに度々行っていた。そのガラスケ―スの中に、今度は江戸川乱歩直筆の書、有名な言葉「うつし世はゆめ夜の夢こそまこと」(現世は夢、夜の夢こそ真実の意)が展示されていたからである。……乱歩の熱心な読者であった私は、またしても欲しくなった。しかし、その書はあまりにも高価であって、店主に訊けば、またあの言葉が返ってくるのは必至であった。

……そう、私は乱歩の熱心な読者であった。……そればかりか、ここに掲載した一時代を作った平凡社の月刊誌『太陽』の江戸川乱歩特集では、乱歩の代表作『押絵と旅する男』に絡めたエッセイも、編集部からの依頼を受けて執筆しているのである。……この企画では、久世光彦種村季弘谷川渥団鬼六荒俣宏石内都鹿島茂、更には俳優の佐野史郎など分野を超えて、執筆者各人を探偵に見立て、様々な視点から乱歩の多面体の謎に斬り込んでいてなかなか面白い企画であった。ちなみに私が書いたテ―マは「蜃気楼」であった。

 

……時が流れていった。……前々回(9月8日付け)のブログで、私は神保町の出版社.沖積舎の沖山隆久さんが李朝の掛軸展を開催中に会社に行き、沖山さんから李朝の掛軸を一点プレゼントされた話を書いた。その際にその展示の場所で、30年以上欲しくて探し続けていた月岡芳年の最高傑作と評される残酷絵『美男水滸傳』(今回、画像掲載)を偶然見つけ、沖山さんに私の旧作の版画一点との交換トレ―ドを申し出て快諾して頂き、念願が叶った話は書いた。(芳年は代表作の英名二十八衆句の内二点も持っている。)……以前にも書いたが、江戸川乱歩、三島由紀夫芥川龍之介谷崎潤一郎諸氏も芳年の作品の熱心な収集家であった。

 

……その沖山さんの出版社・沖積舎で、李朝の掛軸展の次に開催されたのは文人画の展覧会であった。泉鏡花.谷崎潤一郎.永井荷風.西脇順三郎.……等の書が展示されているというので、個展の出品作品の制作の合間を見て、神保町へと赴いた。……沖積舎の中に入ると、西脇順三郎のというより、西脇以後の詩人達がいまだに超える事が出来ない美しい詩「天気」の「(覆された宝石)のような朝 何人か戸口にて誰かとささやく それは神の生誕の日」の直筆の原稿が表装されていて私の眼をとらえた。

 

 

……しかし、その奥に入って私は我が目を疑った。……あの学生時代以来、ずっと意識し続けていた江戸川乱歩の件の書「うつし世はゆめ……」が奥の方で泉鏡花、谷崎潤一郎の書と並んで静かに展示されていたのであった。

「沖山さん、沖山さん、……!!」と言ってから、私は前回に芳年を入手して直ぐにというのに、またしても旧作の版画との交換トレ―ドを申し出てしまったのであった。……しかし、さすがに今回は沖山さんも難色を示され、私は冷静になり、自分が無理を言っている事を自覚した。……しかも、その乱歩の書はあまりにも高価であり、もうなかなか出ない貴重な書なのである。「さすがに私は無理を言っていますね」と言って、しばらく話をしてアトリエへと戻った。……その日の夕方、作品の仕上げをしていると突然、電話が鳴った。出ると沖山さんからであった。「北川さん、先ほどの乱歩の書の話、OKですよ!」。……私は声高く御礼を伝え、翌日の昼すぎには、長年熱望していた江戸川乱歩の書「うつし世は夢 夜の夢こそまこと」がしっかりとアトリエの壁面に掛かっているのであった。

 

……月岡芳年の絵もさりながら、思い返せば、あの学生時代に、三茶書房のガラスケ―スの中で展示されていて熱い眼差しを注いでいた、池田満寿夫さん、西脇順三郎氏の詩画集『トラベラ―ズ・ジョイ』と、江戸川乱歩の書のいずれもが私のもとに在る事の不思議。……そして私は今にしてふと想うのである。これはまるで芝居のラストの大団円のようではないかと……。つまり、人生の終章に今、……いやいやまさか……と、私は揺れているのである。

 

……さて、今月11日から30日まで、東京日本橋・高島屋6Fの美術画廊Xで個展『幻の廻廊 Saint-Michelの幾何学の夜に』がいよいよ始まる。作品が完成してリストを見ていてつくづく思うのだが、不思議と作って来たという実感がないのである。私は作品を作るというよりも、閃きが先ずあり、啓示のようにしてなにものかの力が私と平行して共に作品が次第に立ち上がって来るのである。……この傾向は年々強くなり、次々とイメ―ジが前方あるいは背後から押し寄せて来て、作品が形を成していくのである。……豪奢、静謐、逸樂、……そして豊かな詩情とノスタルジア。更には実験性と完成度の高さとのスリリングな共存。

 

……今回の個展案内状を受け取った何人かの方から、今回の個展の今までにも増して質の高い予感を指摘された。それは個展を前にしての嬉しい手応えである。……10日は展示、そして11日が個展の初日。……次第に緊張が高まって来ているのである。

 

 

個展『幻の廻廊 Saint-Michelの幾何学の夜に』

 

 

 

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『近況―春から続く展覧会の中で……』

4月24日にアップしたブログで、詩人の高柳誠氏からは新刊の詩集が、そして同じく詩人の野村喜和夫氏からは対談集(私との対談も所収)が送られて来た事はご紹介したが、先日は、いまパリに滞在中の歌人の水原紫苑さんが1月の2冊同時刊行に続いて歌集『快楽』を、そして美学の谷川渥氏が『三島由紀夫/薔薇のバロキスム』を、ちくま学芸文庫から刊行し、先日、西麻布でその刊行記念講演が開催され、私も出席した。

 

……ことほどさように、我が文芸の友人諸氏は健筆を振るってますます盛んに表現領域の開拓に意欲的であるが、……ふとその眼差しを美術の分野に転じれば、私と同じ頃に登場した版画家や画家はことごとく、その存在が薄墨のように目立たなくなってしまって既に久しい。全く発表しなくなったか、発表しても、小林旭のヒット曲「昔の名前で出ています」ではないが、同じパタ―ンの繰返し、或いは旧作を弄くっているだけで、その作家における「現在」が無い。特に版画の分野はそのほとんどが死に体のごとく、沈んだ沼の底のごとくである。しかし、その理由は判然としている。未開の版画にしか出来ない表現というのが実は多々ある筈なのに、既存の版画概念の範疇内で作り、複眼性、客観性を欠いた、つまりは批評眼が全く欠けている事に気づいていないのである。

 

「私は版画家だけにはなりたくない」と日記に記したパウル・クレ―の、その文章の強い意思の箇所に、銅版画を作り始めたその初期に鉛筆で線を強く引いた事を私は今、思い出している。…………私は、美術の分野では15年前に、自分が銅版画でやるべき事は全て作り終えたという発展的な決断の元、次はオブジェ制作に専念すべく意識を切り替え、既に1000点以上のオブジェを作り、文芸の分野では、詩作や美術論考の執筆をやら、そして写真も……と、分野を越境して制作しているので、その比較が俯瞰的にありありと見えてしまうのである。

 

私個人の展覧会に話を移せば、4月は1ヶ月間にわたって個展を福井で開催し、5月24日から6月12日迄は西千葉の山口画廊で個展『Genovaに直線が引かれる前に』を開催。……そして今月の10日から24日迄、日本橋の不忍画廊が企画した『SECRET』と題したグル―プ展で、池田満寿夫さん他6名の作家の作品と共に、私のオブジェや版画が多数出品されている。本展では、私のオブジェの中では大作と云える、イギリス・ビクトリア期の大きな古い時計を真っ二つに切断したオブジェ(画像掲載)や、銅版画『回廊にて―Boy with a goose』(画像掲載)も出品しているので、是非ご覧頂きたい。また詩も作品に併せて各々に書いているので、こちらもお読み頂ければ有り難い。……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、10月11日から10月30日迄の3週間にわたって、日本橋高島屋の美術画廊Xで個展を開催する予定で、現在アトリエにこもって制作が続いている日々である。その間にも充電と称して、ブログに度々登場する、不穏な怪しい場所、ミステリアスな場所へと探訪する日々が続いている。……こちらもまた追ってブログで書いて登場する予定であるので、乞うご期待である。

 

 

……さしあたっては湿気の多い病める梅雨なので、いっそそれに相応しい阿部定事件のあった荒川区尾久の現場跡にでも行ってみようかと思っている、最近の私なのである。

 

 

 

 

 

 

 

不忍画廊『SECRET』展

会期: 6月10日~24日 (休廊日:月曜・火曜)

時間:12時~18時

東京都中央区日本橋3丁目8―6 第二中央ビル4F

TEL03―3271―3810

東京メトロ銀座線・東西線・都営浅草線「日本橋駅」B1出口より徒歩1分

東京メトロ半蔵門線「三越前駅」B6出口より徒歩6分

http: //www.shinobazu.com/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『個展、最終週に入る』

10月19日から始まった今回の個展も、11月7日(月曜)迄の、いよいよ最終の週に入った。……毎日、個展会場である日本橋高島屋の美術画廊Xに出ているが、私の作品を愛してくれる熱心なコレクタ―の人達、親しい友人、……そして新しく出逢えた縁ある人達が次々と来られ、貴重な日々が続いている。

 

昨日は夕方から俳人の馬場駿吉さん(元・名古屋ボストン美術館館長)が名古屋から来られ、ヴェネツィアのお話しなどがたくさん話題に上った。馬場さんは瀧口修造さん、加納光於さんをはじめとして50年代後半からの美術界を知る最も重要な目撃者、証人でもあり、ヴェネツィアを主題にした馬場さんの句集『海馬の夢』などで、私はヴィジュアルで加わったりもして、最も永いお付き合いをさせて頂いている先達の方である。……私の交流は美術よりもむしろ文藝や他の分野の方が多いので、今回もその方面の方が特に目立つ。今回の個展は、今までで最も完成度の高い作品が一堂に揃っているという評価を多くの方がされており、作品をコレクションされる方は、どの作品に決めるかの自問自答を永い時間をかけて考えておられ、正に個展会場が真剣勝負の場所になっている。

 

画廊を一周して即断で決める方、2時間くらいじっくり熟考される方、数日考えて決める方、……「コレクションという行為もまた創造行為である」という言葉があるが、その現場の真剣勝負を私は毎日、作者として視ているのであり、作り手として最も手応えを覚える場面でもある。(……先日、30代の男性の方であるが、画廊に午前早くに来られて作品と出逢い、昼食でいったん画廊を離れてからまた戻って来られ、実に6時間という熟考の後で作品を2点購入された方がいるが、この方が最長記録かと思う。昔、私はスペインのプラド美術館でゴヤを、そしてオランダでフェルメ―ルを長時間観続けた事があったが、この男性の方には脱帽する。) ただ、作品は版画と違いオリジナルが一点しかこの世に存在しないので、迷って決まらず、いったん帰られた方と入れ違いに、その作品と本当に縁のあった方が来られて決める場面が度々あり、数日考えてからコレクションを決めた方が再び画廊に来られた時に、作品が既に他の方のコレクションになっているのを知って落胆されるという場面が、今回も数回あるが、それは仕方がない事かと思う。作品もまた、真に作品を永く愛してくれる「その人」の到来を待っているのである。

 

……作品を選ばれる方は、今回は大学生の方から八十代の方までとやはり幅が広い。世代を問わず、各々の作品の中から自在にイメ―ジを紡いでおられるのであろう。或る女性の詩人の方は『Cadaquesの眠る少年』というタイトルのオブジェ作品を選ばれたが、この一点で新しい詩の世界が一気に拡がり、数点の詩が書き下ろせると喜んでおられた。その詩が出来上がるのが私も楽しみである。…………かくして今回の個展でも、多くの作品がわがアトリエから旅立って行き、作品との永い対話を交わしていく人達が、各々の作品から様々なイメ―ジを紡いでいく、次なるもう一人の作者になっていくのであろう。(……話は少し変わるが、前回のブログで第二詩集刊行予定の事を書いた事で私の詩集の存在を知った方から、私の第一詩集について詳しく知りたいという問い合わせを画廊に来られて訊かれる事があるので、このサイトの別な所に詳しく書いてある事を申し添えておこう。……今も詩集購読の申し込みがアトリエに届き、第一詩集も根強い人気が続いているのは作者として嬉しい事である。)

 

 

……さて、今回の個展、いよいよ最終週に入った。天候に恵まれ、懸念していた台風も去った。……残る七日間、また不思議なご縁のある方との出逢いや、親しい人達との再会が待っているのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『美の速度』

……2週間ばかり前の事であるが、アトリエの前の桜の樹の上で蝉が鳴いていた。まさかの空耳かと思い外に出て樹上を仰ぐと、高みの色づいた葉群のところで確かに蝉が見えた。雌の蝉も仲間も死に絶え、蝉はたいそう寂しそうであった。……また先日は、上野公園のソメイヨシノが狂い咲き、観光客が不気味がっている光景を報道で観た。……明らかに狂っている。ここ数年来、加速的に世界の全てが異常の様を呈して来て、底無しの奈落へと堕ちていく観が見えて来るようである。若者達は灰色の閉塞感の中に在り、AIだけが先へと向かって優位の様を見せている。若者達は便利極まるスマホに追随し、自らの脳に知の刺激を入れて高めようという気概は失せ、皆が不気味なまでに同じ顔になっている。……薄く、あくまでも軽く。……

 

芸術は、人間が人間で在る事の意味や尊厳を示す最期の砦であるが、昨今は、芸術、美という言葉に拘る表現者も少なくなり、ア―トという雲のように軽く薄い言葉が往来を歩いている。元来、美は、そして芸術は強度なものであり、人がそれと対峙する時の頑強な観照として、私達の心奥に突き刺さって来る存在でなくてはならない、というのは私の強固な考えであり、この考えに揺らぎはない。……だから、私の眼差しは近代前の名作に自ずと向かい、その中から美の雫、エッセンスを吸いとろうと眼を光らせている。……美は、視覚を通して私達の精神を揺さぶって来る劇薬のようなものであると私は思っている。

 

 

 

 

 

……さて、いま日本橋高島屋の美術画廊Xで開催中の個展であるが、ようやく1週間が過ぎ、会期終了の11月7日まで、まだ12日が残っている。

 

今回発表している73点の新作は、ほぼ5ケ月で全ての完成を見た。換算すると150日で73点となり、約2日でオブジェ1作を作り終えた計算になる。頭で考えながら作るのではなく、直感、直感のインスピレ―ションの綱渡りで、ポエジ―の深みを瞬時に刈り込んでいくのである。……この話を個展会場で話すと、人はその速さと集中力に驚くが、まだまだ先達にはもっと速い人がいる。

 

例えばゴッホは2日に1点の速度で油彩画を描き、私が最も好きな画家の佐伯祐三は1日で2点を描き、卓上の蟹を画いた小品の名作は30分で描いたという。またル―ヴル美術館に展示されているフラゴナ―ルの肖像画は2時間で完成したという伝説が残っている。……話を美術から転じれば、宮沢賢治は1晩で原稿250枚を書き、ランボ―モ―ツァルトの速さは周知の通り。先日、画廊で出版社の編集者の人と、次の第二詩集について打ち合わせをしたが、私の詩を書く速度も速く、編集者の人に個展の後、1ケ月で全部仕上げますと宣言した。ただし、ゴッホ、佐伯祐三、宮沢賢治……皆さんその死が壮絶であったことは周知の通り。私にこの先どんな運命が待ち受けているのか愉しみである。

 

 

 

 

 

 

 

 

……ダンスの勅使川原三郎さんと話をしていた時に、私の制作の速度を訊かれた事があった。私は「あみだクジの中を、時速300kmの速さで車を運転している感じ」と話すと、勅使川原さんは「あっ、わかるわかる!!」と即座に了解した。この稀人の感性の速度もまたそうである事を知っている私は、「確かに伝わった」事を直感した。この人はまたダンス制作の間に日々たくさんのドゥロ―イングを描くが、先日の『日曜美術館』でその素描をしている場面を観たが、もはや憑依、自動記述のように速いのを観て、非常に面白かった。以前に池田満寿夫さんは私を評して「異常な集中力」と語ったが、かく言う池田さん自身も、版画史に遺る名作『スフィンクスシリ―ズ』の7点の連作を僅か3週間で完成しているから面白い。

 

 

……私が今回の個展で発表している73点の新作のオブジェ。不思議な感覚であるが、作っていた時の記憶が全く無いのである。7月の終わりになって完成した作品を数えたら73点になっていた、という感じである。……また、夢はもう1つの覚醒でもあるのか、こんな事があった。……夕方、作品を作っていて、どうしても最後の詰めが出来ないまま、その部分を空白に空けたまま眠った事があった。……すると明け方、半覚醒の時の朧な感覚の中で、作品の空白だった部分に小さな時計の歯車が詰められていて、作品が完璧な形となって出来上がっているのであった。(……あぁ、この歯車は確かに何処かの引き出しの中に仕舞ってあったなぁ……)と想いながら目覚め、朝、アトリエに行った。しかし、なかなかその歯車が簡単には見つからない。様々な歯車があって、みな形状が違うのである。アトリエに在る沢山の引き出しの中を探して、ようやく、その夢に出てきたのと同じ歯車を引き出しの奥で見つけ出し、取り出して空いた箇所に入れて固定すると、作品は夢に出てきた形の完璧なものとして完成を見たのであった。

 

……また、夢の目覚めの朧な時に、10行くらいの短い詩であるが、完全な完成形となって、その詩が出来上がっていた時があった。……私は目覚めた後に、夢見の時に出来上がっていたその詩の言葉の連なりを覚えているままに書き写すと、それは1篇の完成形を帯びた詩となって出来上がったのである。…………たぶん夢の中で、交感神経か何かが入れ代わった事で、作りたいと思っている、もう一人の私が目覚めて、夢の中で創るという作業を無意識の内にしているのであろうか。……とまれ、眠りから目覚めのあわいの時間帯に、オブジェが出来上っている、或いは言葉が出来上がっている……という経験は度々あるのである。………

 

私が自分に課しているのは、1点づつ必ず完成度の高みを入れるという事であるが、今回の個展に来られた方の多くが、作品の完成度の高さを評価しているので、先ずは達成したという確かな手応えはある。……今回の作品もまた多くの方のコレクションに入っていくのであろう。私は作品を立ち上げた作者であるが、それをコレクションされて、自室で作品と、これからの永い対話を交わしていくその人達が、各々の作品の、もう1人の作者になっていくのである。……個展はまだ始まったばかりであり、これから、沢山の人達との出会いや嬉しい再会が待っているのである。

 

 

 

 

 

 

 

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個展「射影幾何学―wk.Burtonの十二階の螺旋」、……始まる。』

10月19日(水)から11月7日(月)迄の3週間、東京日本橋・高島屋本店6階の美術画廊Xで、新作オブジェ73点を一堂に発表する個展『射影幾何学―wk.Burtonの十二階の螺旋』がいよいよ始まる。……今年の3月から集中的に制作して来た成果が、世に問われるのである。……個展案内状は私と画廊から、コレクタ―の人達を中心に既に送られており、受け取った人達から案内状に掲載されている作品についての問い合わせが、早くも画廊に届いているようである。18日が作品の展示作業であるが、オブジェは版画と違い、全て一点しか存在しないので、気に入った作品との出会いを求めて、展示作業時に早くも画廊に来られる方がおられるのが最近の傾向である。

 

今回のブログでは、その作品中から八点ばかりを取り上げて掲載する事にしよう。…………しかし、やはり作品は各々のオリジナルが持っているマチエ―ルを通して、そのアニマを実際に享受して頂くのが一番醍醐味があるので、ぜひ会場に来られて作品を直で体験して頂きたいと思う。……一点、一点が各々に全く違うイメ―ジで、これが73点、関東では最も広い画廊空間に並ぶのである。……不思議な感覚であるが、作品もいよいよ緊張するのか、画廊に展示された瞬間から急にその息をはっきりと呼吸し始める。そして、静かなその息が全体に拡がって、画廊空間にえも言われぬ緊張感を漂わせ、それが現実を凌ぐ虚構の華となって輪舞を開始するのである。

 

 

「Jeanne-Marieの七つのリング」

 

 

「左を向いたVirginia Woolfの肖像」

 

 

「Opera Garnierの盗まれた時間」

 

 

「Anna Pavlovaの肖像Ⅰ」

 

 

「Nijinsky―頭文字「N」のある肖像」

 

 

「Veneziaの視えない扇」

 

 

「水晶譚―分割されたNijinskyの肖像」

 

 

「SCHONBRUNNの停止する時間」

 

 

 

…………かつて、1890年から1923年の33年間、この世に、えも言われぬ不思議な引力を持った十二階から成る高塔が建っていた。……あたかもそれは究極にして完璧なる一つの巨大なオブジェのようであった。……その妖かしの塔は、数多くの文学者や詩人達の想像力を刺激して、数多くの名作が生まれていった。……そして或る日、それは夢の中に視る逃げ水のように倒壊し、忽然と消えていった。

 

この十二階の塔の設計者の名はwk.Burton(ウィリアム.k.バルトン)。今回の個展のタイトルに登場する実在した人物である。バルトンは、シャ―ロック・ホ―ムズの著者として知られるコナン・ドイルと幼児期から親交が深く、ドイルは彼に『ガ―ドルスト―ン商会』という一篇の謎めいた小説を献呈している。…………この十二階の高塔への私の思い(執着)は、時々このブログでも書いているが異常なまでに強く、それを特集した本にも、その熱い思いを記している程である。云わばこの高塔は、私自身の存在と重なった分身、或いは自身の映し姿のようにも思われてならないのである。

 

 

……ともあれ、私は今回の個展に際し、とっておきの禁忌領域を遂に登場させる事にした。……その十二階の高塔の螺旋階段をもの凄い速度で駆け上がった時に垣間見た様々な幻視(73の場面から成る様々な無言劇、或いは寸秒夢)を透かし視て、各々の作品の中に封印したのである。……………………

 

 

 

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『梅雨入り前の良き日に記す事』

前回のブログでご紹介した千葉の山口画廊での個展『二十の謎―レディ・エリオットの20のオブジェ』が好評の中、6月13日(月)まで開催されている。私は初日にお伺いしたが、画廊に入るや、画廊のオ―ナ―の山口雄一郎さんによって構成された展示空間の緊張感漂う気配が直に伝わって来て思わず唸ってしまった。……作品の展示の高さ、作品の構成、照明、タイトルを書いたキャプションの作りの巧さ。……いずれをとっても神経の細やかさ、美意識が作品と共鳴し、自分の作品でありながら思わず見入ってしまったのであった。私には珍しい事である。

 

 

 

 

 

 

……画廊にいると、次々と来廊者が来られる。千葉での個展は初めてであるが、皆さん、山口さんとは旧知であることが伝わって来て、たちまち今回の個展に私は手応えを覚えたのであった。机の上を見るとプリントがある。手にとって読むと、それは前回の『画廊通信』とはまた別に山口さんが書かれた拙作についてのテクストであった。山口さんが本展に懐いている熱意が伝わって来て嬉しかった。全文が一気に書かれたと思われる、私の作品の核に言及した文章なので、今回のブログでご紹介しよう。

 

 

《北川 健次   Kitagawa Kenji 》

 

黒く塗られた密やかな箱の中で、絢爛と醸成される幻惑の浪漫、それは不穏に謎めくようなアトモスフィアをまといつつ、ミステリアスな異界を現出させる。鋭利な詩的直感をもとに、解体された無数のエレメントを再構成して創り出された、多様なイメージの錯綜する別次元の時空。このガラス越しに浮かび上がる鮮明な異境を見る時、私達はいつしか非日常の境界に、条理を超えて燦爛たる闇を彩なす、見も知らぬ魔術の領域へと踏み入るだろう。見る者を妖しく誘なって已まない、類例なき「装置」としてのオブジェ、それは巧みに添えられたタイトル=詩的言語のもたらす不可思議の暗示と相俟って、濃厚な意味を帯びつつも決して解き得ない謎を生起する。

 

北川健次──駒井哲郎に銅版画を学び、棟方志功・池田満寿夫の強い推薦で活動を開始、フォトグラビュールを駆使した斬新な腐蝕銅版で、版画界に比類のない足跡を刻む。以降、その卓越した銅版表現を起点に、コラージュへ、オブジェへ、写真制作へ、更には詩作や美術評論へと、ボーダーを超えた自在な表現を展開しつつ、留まる事を知らない意欲的な活動を続けて現在に到る。その極めてユニークな制作は、ジム・ダインやクリスト等の著名な美術家にも賞讃され、アルチュール・ランボー・ ミュージアムやパリ市立歴史図書館等からも出品依頼を受けるなど、名実共に国際的な評価を獲得して来たが、 実は多彩な変容を見せる表現活動の根幹は、或る揺るぎない方法論に貫かれている。

 

コラージュ──前世紀の大戦間にエルンストの「コラージュ・ロマン」という言葉から始まったこの手法は、以降様々な派生形を生みながら、現代技法として定着するに到っているが、その原義を最も正統に継承する者として、のみならずその可能性を極限まで拓きゆく者として、北川健次という存在は他の追随を許さない。コラージュ・ロマンというエルンストの命名は、今や北川芸術の表徴として甦るのである。

山口雄一郎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『山口画廊・山口雄一郎さん/私の個展に寄せて』

……美術の分野で、今では伝説的な人となった佐谷画廊の故.佐谷和彦さんは70年代の後半から90年代終わり迄、画商の立場から美術界を牽引した人である。その優れた企画力と実行力において他の追随を許さない突出した人物であった。企画したクレ―展は会期中に三万人以上が来廊し、ジャコメッティ矢内原伊作展、オマ―ジュ瀧口修造展など、その全ての展覧会が美術館クラスの質を誇り、本物を求める多くの人たちがそこに集まった。

 

 

……私がお付き合いをしたのは、80年代半ばからである。佐谷さんがコレクションされている私の巨大なオブジェ作品は、来日したクリストの眼に留まり賞賛を受けたが、またご自宅にも度々伺って様々な話をした思い出があり、それは私の大きな財産である。その佐谷さんが、他の画商と決定的に違うのは、毎回の展覧会で質の高いカタログを制作し、そこに佐谷さんの展覧会に寄せる意図が明瞭に書かれた文章が載っている事である。その文章も含めて幾冊もの著作があり、最期の本となった『佐谷画廊の三十年』(みすず書房)では、デュ―ラ―の『メレンコリアⅠ』の隠された謎をめぐって、佐谷さんと一緒に私も登場し、謎を推理する人物として書かれている。いろいろ思い出はあるが、…………思うに、この人は何よりも先ず矜持の人であった。画商という仕事にプライドを持ち、高い知的好奇心を持って、次々と挑むように企画を立ち上げ、その骨太の豊かな生涯を全うした。その生きざまは見事の一言に尽きる。……佐谷さんは画廊を閉じる際に私に「毎回の展覧会のカタログ作りは大変だったが、やっておいて本当に善かった。結局、画廊のやってきた仕事で生きた形で残るのは、そのカタログに書いた事だけだよ」と言われた事があった。確かにそうだと私は思った。そして、佐谷画廊の事を知りたい今の世代の人達が、その著作から多くを吸収しているという。…………佐谷さんの著作と、カタログを私は時々読みなおしてふと思うのだが、なぜ画商で、佐谷さんのように、自分が企画する展覧会について文章を書く人物がいないのか?それは自信であり、また一身に責任を負う事であり、ひいては画廊側からの具体的な発信の証しなのではないか?……これは最近特に思う素朴な疑問であった。

 

 

………………そんな折、昨年、一つの出逢いがあった。私が刊行した詩集を注文して来られた方の中に、その方がいた。……名前は山口雄一郎さん。……署名を書いてお送りした私の詩集に対し、なかなか鋭い感想が送られて来て、大いに興味がひかれるものがあった。「手応えのある面白い人」がいる!!……私は好奇心の強い人間なので、さっそく連絡を入れて、お会いする事にした。お会いして、その人が千葉で山口画廊というギャラリーを開いている事を知った。タイプは違うが、佐谷さんの事をふと思い出した。……「確かな言葉を持っている人」……私はそう思った。そして、2022年5月25日、つまり明日から私の個展『二十の謎―レディ・エリオットの20のオブジェ』が山口さんとの出逢いに端を発して開催される事になった。……. 誠に出逢いとは不思議なものである。

 

そして、展覧会の為に山口さんは長文(何と原稿用紙12枚!!)のテクストを書かれ、12頁から成るカタログ(冊子)、『画廊通信』が先日アトリエに届いた。……展覧会の案内状を掲載すると共に、このブログでは例外的であるが、山口さんが書かれたそのテクスト全文を以下に掲載する事にした。……私の無意識の部分をも鋭く書かれているので、ぜひお読み頂く事をお願いする次第である。

 

 

 

 

『画廊通信 Vol.229    コラージュ ── 異界への扉』

 

今回の案内状に載せた文中で、その極めてユニークな 作風を形容して「幻視のオブスクーラ」と記したが、これは字数の関係による無理な略語で、正確には「幻視の カメラ・オブスクーラ」と記すべきものである。邦語で は「暗箱」と訳されるカメラ・オブスクーラは、例のフェ ルメールが制作に用いたとされる事から、近年にわかに 人口に膾炙した感があるが、これに関連した作家自身の印象的な記述が有るので、ここにその一節を抜粋してみたい。以下は北川健次著「デルフトの暗い部屋」から。

 

あれはまだ私が小学校に入る前であったから、おそらく四、五歳の頃だったと思うが、今でも忘れられない 光景がある。それは雨戸の小さな節穴から午前の一条 の光が暗い室内にさしこみ、壁の一点に魔法のように 逆さまに映っていた庭の一隅の光景である。その小さ な楕円の形をした光の面には、濃緑色をした棕梠の葉 と薄黄色の小花、そして大小の淡い光の珠がぼんやりと映っていた。それを見た時、はじめは誰かが仕掛け た何やら遠い彼方の不可思議な映像を、透かし視てい るような気分であった。それが庭の光景であることに 気付いたのはしばらく経ってからのことである。しか しそれとわかっても、最初に覚えた不思議な感覚は消え去ることなく、むしろそれが既知のものであるがゆえに、虚と実のあわいを見るかのような捕えがたい謎 めいた印象となって、記憶の底に残っていった。その時の体験が、今日のカメラの原型となったカメラ・オ ブスクーラの原理であり、あのフェルメールが絵を描 く際に多用したといわれる装置の仕組みそのものであることを知ったのは、さらに時が経ってからである。

 

 

北川健次ーこの異能の美術家を知ったのはいつの事であったろう、今となっては最早定かではないのだが、一つ確かな事は知り得た当初から、既に北川さんは銅版画の急先鋒として、革新的な作品を次々と発表されていた事だ。フォトグラビュールを駆使したその斬新な腐蝕銅版は、比類なき独創性と高い完成度が相俟って、当時の版画界でも傑出したオリジナリティーを誇っていた。その卓越した銅版表現を起点として、コラージュへ、オブジェへ、写真制作へ、果ては詩作や美術評論へと、稀有の表現者は自らの領域を自在に広げつつ、八面六臂とも言える活動を展開されて現在に到る訳だが、そのボーダーを超えた幅広い表現の根底には、共通して或る特有の「匂い」が、まるで持続低音のように流れている。謎めいた不可解な幻妖とでも言おうか、見慣れた日常の裏 に潜むあの不条理の闇が、洗練された浪漫のあでやかな彩りの陰で、そこはかとない怪異を醸成する、それは言うなれば、不可思議な幻惑に満ちた「異界」の匂いなのだ。作家の体臭とも言えるそんな背理の匂いが、何処から来ているのかを推し量る時、考えるまでもなく上述の鮮烈な原体験が、ありありとその起端を語るだろう。或る朝に雨戸の節穴から、ゆくりなくも入り込んでいた小宇宙、それが薄闇に怪しく浮かぶ様を目撃した少年は、我知らず異界への扉を開いてしまったのだ。おそらくはそれから現在に到るまで、日常とは別次元としての異界は作家と共に在り、常に創作の源泉となって来たに違いない。それ故か、上に「怪異」と云う言葉を使いはしたけれど、それは決して邪悪な昏冥でもなければ、陰湿な妄念でもない、むしろ未知へのときめきに満ちた、めくるめくような魅惑を孕むものだ。

 

あの日少年の目覚めた「暗い部屋」は、そのまま「カメラ・オブスクーラ」の語源でもあるように、暗箱と云う魅惑の装置そのものであった。そして今、作家の手から作り出されたオブジェもまた、黒く塗られた箱の中の闇に、別次元の異界を映し出す。この鮮明に浮かび上がる沈黙の映像を見る時、私達はいつしか日常の裏側に広がる、見も知らぬ魔術の領域へと踏み入るだろう。言わば北川さんの仕掛けるオブジェとは、異界への扉を開く暗箱装置に他ならない。

 

 

近代の寓話 ── Tower of Babel

 

 

 

北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』絶賛発売中──この文言を作家のサイト上に見つけたのが、北川さんと面識を得る端緒となった、ちょうど一年ほど前の事である。以前からブログ等を拝読して、美術家にあらざるような文才に、常々感銘を受けていた折りでもあり、遂に詩集が出たかと雀躍して、早速注文を入れたと云う訳だ。程なく届いたサイン入りの詩集(丁寧なお手紙も添えられていた)は、正に期待通り、昨今の詰まらない詩人など軽く凌駕する内容であったから、過分にも私はこんな感想をしたためて、作家宅へとお送りした。

 

「今回詩集を拝見して、言語表現においても、美術表現 と全く変わらない世界を展開されている事に、改めて目を瞠る思いでした。以前からブログのエッセイは時折読ませて頂いておりましたが、特有の謎めいた雰囲気と、確固とした論理の相俟った文章には、いつも魅せられております。絢爛たる語彙の響きと、不可解なアフォリズムの綾なす世界、そこから鮮やかに喚起される『謎』そのものの魅力に、北川さんの視覚表現と共通する美学を感じております。なお、遅ればせながら作品集も拝見致しました。解体された無数のエレメントを知的に(もち ろんその根底には鋭い詩的直観が有ると思いますが)再構成し、そこにタイトル=詩的言語をぶつける事によって生起する、濃厚な意味を帯びつつも決して解き得ない謎、ここにはコラージュの本質を成すデペイズマンの、磨き抜かれた究極の具現が在ると思いました。それが通常のコンセプチュアル・アートの陥りがちな、脆弱な知的遊戯に終わる事なく、常に豊潤な浪漫の香りを帯びて いる事に、美術表現としての尽きない魅力を感じます」

 

 

Muybridgeの背面の肖像

 

 

 

と云う具合で、顧みれば未だ作品の一つも持たざる身で、誠に僭越な物言いであったが、それから3 週間ほどを経た或る午後、一本の電話が入った。「北川健次です」と云う不意の一言を耳にした驚きは、きっとお分かり頂ける事と思うが、今度ぜひ話をしたい、と云う更なる一言は、私にとっては最早、事件とも言えた。但し、その時は折しも銀座の永井画廊における個展の最中で、直後にはお茶の水のギャラリーにおける個展、更 には日本橋高島屋・美術画廊Xの個展も控えられて、作家自身多忙を極めておられたので、実際にお会い出来たのは秋口に入った頃である。雨の中を軽装で現れた先鋭の美術家は、あの謎めいた作風からは意外とも思えるような、至って快活で飾らないお人柄であった。たぶん私と会って、買い被りを後悔された事と思うのだが、何せ私にとっては千載一遇のチャンス、是非ともお願いしたいと展示会を申し込んで、目出たく今回に到ると云うのが概ねの経緯である。以降も幾度かお会いする機会があり、当店までお越し頂いた事もあって、その度にお話をさせて頂きつつ驚嘆した事は、その広範に及ぶ比類なき博覧強記と、そこから導出される鋭利な推論の面白さである。言うまでもなくそれは「絵画の迷宮」や「美の侵犯」と云った著作に結晶されているのだが、その謦咳に直に触れ得た経験は、正に至福の感興に満ちたものであった。そしてそんな豊饒の土壌が有ってこそ、あの絢爛たるイメージの交錯を生み出す、コラージュの鮮やかな策略が可能になるのだと、密かに首肯したのであった。

 

初期の銅版画から近年のオブジェに到るまで、多岐に亘る表現を展開しつつも、一貫して作家が自らの手法として来たのが、即ち「コラージュ」である。換言すれば北川さんの創作とは、コラージュの多彩なヴァリエーシ ョンであると言っても過言ではない。現在は、画面に何かを貼り付ければ何でもコラージュと称しているが、これはむしろパピエ・コレに近いもので、本来のコラージュとは似て非なるものだ。その歴史を遡れば、90数年前に刊行された一冊の奇書に辿り着くのだが、これが当時としては実に奇妙な絵本で、古い挿絵本や博物図鑑から切り取った図版を、何の脈絡も無しに貼り合わせて作られたものであった。タイトルは「百頭女」、作者は気鋭のシュルレアリストとして名を馳せていたマックス・ エルンストである。この面妖な書物に付けられた「コラージュ・ロマン」と云う副題から、その魅惑に満ちた歴史が始まった訳だが、同様に前掲の手紙に記した「デペイズマン」と云う言葉も、アンドレ・ブルトン(『シュルレアリスム宣言』の著者)が同書に寄せた緒言で用いたことから、美術用語として定着したものだ。この発端から見ても、コラージュとデペイズマンは切り離せない概念である事が分かるのだが、試みにデペイズマンを定義すれば、このようになるだろうか──無関係な要素を自由に組み合わせる事によって、思いも寄らない意外性を生み出し、受け手に混乱・困惑を齎す方法。即ちコラージュとは、デペイズマンの実践に他ならない。

 

以降コラージュは「アッサンブラージュ」や「フォトモンタージュ」、更には「ボックスアート」へと派生してゆく事 になるのだが、北川さんは長年に亘る創作過程の中で、それら全てを自家薬籠中の物とされているので、ここでは「コラージュ」と云う言葉のみで統一したい。思えばこの「本来の」コラージュを、北川健次と云う作家ほど純粋に追求し、徹底してその可能性を拓き続けた人は居ないだろう。今一度繰り返せば、先の手紙に「ここにはコラージュの本質を成すデペイズマンの、磨き抜かれた究極の具現が在る」と記したのだけれど、これは決して大仰な物言いではなく、むしろ「磨き抜かれた」の前に「生涯を懸けて」と入れるべきだったと、今はそう考え ている。かつて偶然に作られた暗箱の闇で異界に遭遇した少年は、後年「コラージュ」と云う幻惑の魔術を駆使して、日常に慣れ親しんだイメージを大胆に錯乱し、あたかも金属を自在に変成させるあの錬金術のように、世界の要素をことごとく組み換えて、新たな奇想に満ちた異界を現出させる、類例なきカメラ・オブスクーラの製作者となった、この正に「生涯を懸けた」一人の美術家の足跡こそが、そのままコラージュの行き着いた究極の地を提示するのである。以下は北川さんのブログから。

 

それにしてもコラ―ジュという技法は、尽きない不思議に充ちた技法であると、あらためて実感している。ピカソやエルンスト達が多用したこのコラ―ジュは、20世紀美術が生んだ、エスプリと謎を孕んだミステリアスな技法である。異なったイメ―ジの断片を、同一空間に配置転換する事で立ち上がる、イメ―ジの化学反応。それは夜に視る夢のように、何処か懐かしいノスタルジアをも秘めている。(中略)……コラージュこそが私の紛れもない原点であり、これこそが表現における最深の秘法、イメ―ジの錬金術なのである。

 


イカロスになろうとした少年の話

 

 

 

まだまだ語りたい事はある。北川さんの詩や評論について、ボックスアートについて、錬金術について等々。しかし、もう紙面も尽きるようである。それに、意味の撹乱を第一義とするコラージュを前に、これ以上の長広舌も不用であろう。後は暗箱の中に仕掛けられた、絢爛たる魅惑の魔術に、存分に身を委ねて頂くのみである。

(22.05.08)    山口雄一郎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『コラ―ジュの珍しい個展始まる』

今月2日から17日(日)まで、東京・本郷のア―トギャラリ―884で個展『秘苑/フロ―リアンの夢の夜に』が始まった。……今回の個展は、30点以上のコラ―ジュ作品の展示を主とした今までになかった珍しい内容で、他にオブジェ3点、版画2点、写真3点の合わせて40点近い作品を展示している。

 

今回は新しい試みとして「美術表現は、マチエ―ル(表層の画肌)が全てである」という持論を具体化すべく、作品を額とガラスから外し、コラ―ジュの手技、その表層のリアリティをお見せしたく、直で視てもらえる展示方法になっている。なので、来廊された方は、普段観る事の出来ない直の作品をすぐ近くで観て、今までと違う新たな感想を話される方が多い。作品をコレクションされた方には個展が終わり次第、額装してお渡しするのであるが、今回の珍しい展示法の試みはなかなか好評である。

 

今回の個展は、タイトルに「秘苑」の文字がある如く、また時期が時期であるためにひっそりと、秘めた感じで開催しようと思い、個展のDMを遠方の方にはお出ししてなかったのであるが、ご覧になった方が発信している情報が伝播しているのか、個展の事を知った遠方の方も来廊され、今回の珍しい試みの個展を堪能されている。

 

……それにしてもコラ―ジュという技法は、尽きない不思議に充ちた技法であると、今あらためて実感している。ピカソやエルンスト達が多用し開示したこのコラ―ジュは、20世紀美術が生んだ、エスプリと謎を孕んだミステリアスな技法である。異なったイメ―ジの断片を、一つの同一空間に配置転換する事で立ち上がるイメ―ジの化学反応。それは夜に視る夢のように、何処か懐かしいノスタルジアをも秘めている。……十二面体の幾何学的な夢。あるいは書かれなかったロマネスク異聞。そして視る度に異なって映る水晶幻想……。コラ―ジュは視覚で綴るポエジ―の叙述、そして観者が記憶の遠近法を駆使して垣間見る夢の技法なのである。……そして今回の個展を開催してあらためて想う。……コラ―ジュこそが私の紛れもない原点であり、これこそが表現における最深の秘法、イメ―ジの錬金術なのだと。

 

 

 

 

北川健次展『秘苑/フロ―リアンの夢の夜に』

 

ア―トギャラリ―884

東京都文京区本郷3―4―3 ヒルズ884 お茶の水ビル1F・TEL03―5615―8843

2022年4月2日(土)~4月17日(日)

11時~18時 月曜日(休み)・最終日は16時まで

〈JR・丸ノ内線・千代田線各.「お茶の水駅」より徒歩5分〉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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