自分の写真作品がコレクションされていくために、写真家たちは様々な発表の仕方をしている。勿論、各々の方法は自由である。ただ、その自由な発表の中で疑問に思っている事が一つだけある。それは限定部数を極力少なくして、写真一点に数百万もの価格を付けるというやり方である。
このやり方だと、本来、版画や写真が持っている複数性ゆえの可能性、つまり、より多くの人に普及していくという特性を自ら閉ざすものがあり、美術館や限られた人にしかコレクションされず、感性が豊かな若い世代を含めた広い層には手が届かなくなってしまう。そこに私が覚えるのは,不自然な歪み感である。版画や写真といった複数性を持った芸術には、発表当初の適正な価格がある筈であり、作品が良ければ、それは作品本来が持っている力で支持され、人気が高まり、自然発生的に評価は上がっていくものである。(先日書いた、写楽やデューラーなどがそうであったように!!!)
私事を記せば、私は複数性と芸術性とを絡めた独自なものを自主的に刊行して行く為に、十年以上前にEDITION PRESS STUDIOなる版元を自ら立ち上げ、出版企画、そして版画集を六種類作り、全てを完売して来た。発売当初の価格を低く設定した事で、十代から八十代までの幅広い世代層に購入して頂き、新しいコレクターの広がりにも繋がった。私のこの考え方は、複数性の原理に即した、最も自然な流通法であり、版画や写真史の盛衰のドラマを詳しく分析した結果であると思っている。
作品の発表当初の価格を、誰にでも手が届くところに置いているのは、作品に対する自信が無いからでなく、むしろ、その逆である。将来、確実により評価されていくという強い自信があり、事実、そのような作家としての歩みを着実に独歩するように、刻んで来ている。これは、私のひそかな誇りである。
私は版画には限定番号は記しているが、写真には、木版画家の棟方志功が信念としてそうしたように、限定番号は入れず、低価格に抑えた所から出発していこうと思う。先ず何よりも、より広く人々にコレクションされていく事が重要なのである。
写楽、デューラー、そして棟方たちは作品に限定番号は記していないが、その価値は高く、今では容易に手に入らない所にいってしまっている事が、その実証である。
今回私がかく記しているのは、そのような理念に立って、発表している画廊の地域以外の方で私の写真作品を直に見れない方、又、コレクションを欲しても遠方に在って入手出来ない方に向けて、ネットギャラリーを開設したからである。美術は音楽に比べて遥かにポピュラリティーが無いために、作品世界を享受してくれる人がその先にいても、そこまでは情報が届かない実に閉ざされた世界なのである。ランボー研究の第一人者であるJ・Colas氏が私のランボーの版画を見つける事が出来、ピカソやミロ、そしてジャコメッティ等と共に評価してもらい、パリでの展示が実現したのも、ネットの存在があったからこそ、幸運な出会いが実現したのである。「遠方にいるために作品をコレクションしたくても出来ない。何か方法を考えて欲しい・・・」そういった内容の手紙やメールを受けて、ネットギャラリー開設の為に、準備を始めたのは一年前であり、ここに来てようやく立ち上げる運びとなった。作品を介在としての私と、私のイメージを共有してくれる人との強力な出会い。私は更なる出会いを求めて、これを期に挑戦を続けていきたいと思っている。