月別アーカイブ: 6月 2014

『美の侵犯ー蕪村X西洋美術』刊行のお知らせ

以前のメッセージでもお話ししたが、拙著『美の侵犯ー蕪村X西洋美術』が求龍堂より今月の27日に刊行された。与謝蕪村の様々な俳句のイメージと、時空間を遠く隔てた様々な西洋美術の作品のイメージが完全に重なり合う事の不思議を30作づつ紹介しながら、驚くべき逸話や興味深い話を鏤(ちりば)めた内容になっている。
 
湿潤な叙情と余白の美を共に有しながらも、何故か蕪村の俳句のイメージと日本美術のそれには通い合うものがなく、不思議な事に西洋美術の中にそれがある事に気付いた時、正直、私は驚き、かつ興奮した。謎深いミステリーを解いていくような感興を覚えたのである。そしてそれを一冊の書としてまとめて世に出すべく、私はひたすら執筆に打ち込んだ。この内容は美術雑誌に連載の形で書き進めたが、連載当初から反響が大きく、やがて一冊の本になった時にあらためてまとめて読みたい内容!!との嬉しい感想を多く頂いていた。そして連載終了後に本として出したい旨を、複数の出版社から頂いていたが、私はこの内容に相応しい出版社から出したいという思いが強くあった。
 
この国の美術関連書の名著を戦前より数多く出している求龍堂からの刊行に決まったのは、正しい決断であったと思う。表紙のシャープな感覚、本文中の美しい印刷はさすがであり、この本の独自性を理解してくれている故の見事な造本となっている。今回のメッセージでは、表紙と5点の口絵を掲載するが、そこから蕪村の俳句と西洋美術の各々のイメージがピタリと照応している事の不思議を実感して頂けるかと思う。それに加えて、例えばゴッホについては、右利きの彼の死体のピストルの傷跡は頭や心臓ではなく、不可解な事に左脇腹から股の右側に達しており、ピストル自殺ならば必ず残る筈の硝煙の付着と火傷が全く無かったという事実、又、ガウディとダリは一度だけ不思議な出会いをしていたという知られざる事実、デュシャンが自らの作品に仕掛けた罠、そして、歴代の館の主が不自然な死を次々と遂げている、ヴェネチアに現存する館“ダリオ館”の秘密、また、コーネルの危ういまでの不気味な素顔など、今まで誰も言及し得なかった美術史の舞台裏とその分析を徹底的に書き記している。ご存知のとおり、私は表現世界において「語りえぬもの」の領域は、オブジェやコラージュそして版画を通して〈暗示〉の形で表現している。そして文章などの「語りえる」領域は、暗示ではなく徹底した言葉と理論の詰めを通して立ち上げている。かくして本書では、デュシャン、ルドン、マン・レイ、ダ・ヴィンチ、フェルメール、キリコ、ダリ、ゴッホ、ボス、エルンスト、クリムト、クレー、マチス……といった西洋美術の名作30篇(最新の書き下ろし3編を新たに加えて)が、ミステリアスで捕え難い蕪村の様々な俳句と共にイメージの不思議な競演を行っている。全国の書店及びアマゾンにおいても入手可能なので、ぜひ本書をご購入いただき、お読み頂ければと願っている次第である。
 

 

 

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『未亡人下宿で学んだ事』

 

 
 
私が未だ20才を過ぎた頃、横浜の高台にある一軒の家に下宿していた時の話を今日は書こうと思う。…その下宿の大家は40代半ばの女性であった。夫は本牧の米軍基地にいた将校であったが不慮の事故で亡くなって既に久しいらしい。……つまり、その大家は未亡人なのであった。その頃の私は美大の大学院生であり、いわゆる血気盛んな頃である。……ここまで書いた時点で、勘の鋭い方はもう想像を逞しくされているかもしれない。〈何かあった筈だと!!〉そう、私は確かにそこで〈或る事〉を学んだ。今日はそれについて正直に書く事にしよう。
 
不動産屋の紹介で私がその家を訪れたのは初夏の頃であった。やんごとない事情で真向かいの坂の上に住んでいたアパート「宝山荘」という所を急ぎ移らねばならなくなり、私は急いで次の住み処を見つけるべく焦っていた。次の貝殻をあわてて探す全裸のヤドカリのような心境であった。
 
「…この部屋の日当りはどうですか?」と私。「日当りは最高ですよ」と、その大家の女性はニッコリと言ったので、そこを借りる事に決めた。そして早速に荷物を運んだ次第であるが、翌日の午後に、現実を知る事となった。…確かに日当りは最高であった。傾いた太陽が西へと移ろいを見せた頃から、燦々と室内がまぶしくなり、やがてうだるような西陽が刺すように、部屋を、そして私を赤く染め出したのであった。つまりその部屋は〈西陽の強烈に当たる部屋〉だったのである。このままでは脱水症状で死ぬ!と真剣に思った私は近くの寺の境内に行き、ようやく息をつくようにして涼んだのであった。そういう日が……何日も続いていった。
 
太陽の後の責苦は〈音〉であった。その大家は森進一の大ファンであり、私が寝ている早朝から最大のヴォリュームで森進一の、あの、ザラつき、鳴咽する声が廊下を伝って私の部屋に響いてくるのであった。そればかりか、叩きをかけながら合唱する大家の声も響いて来て、あたかも部屋の中には、二人の森進一が立っているようであった。敷金も払ってしまったので引っ越す金など当然無い。私がそこで考えた苦肉の策は、前向きな姿勢になる事であった。つまり、……森進一の歌を何とか好きになるしか、もはや道は無いと思ったのであった。
 
 

襟裳岬    作詞 岡本おさみ 作曲 吉田拓郎
 
北の街ではもう 悲しみを暖炉で
燃やしはじめてるらしい
……………………………………
……………………………………
黙りとおした歳月を ひろい集めて 暖めあおう
襟裳の春は 何もない春です

 
 
……仰向けのまま、しんみりとその曲を聞いていた私は、上手い詞だなと思った。そして最後の〈何もない春です〉に至っては、その作詞家の思い切った勇気あるセンスに感心した。〈何もない〉という表現は、下手をすればその歌の世界を台無しにしてしまうからである。そして私はこの作詞家がおそらく〈定家〉を知っているなと推察した。そう、この詞の構造は新古今集の藤原定家の、あの秀逸なる和歌「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮れ」のレトリック(修辞学)の構造に直結していたからである。
 
凡庸な国文学者の手にかかると、この和歌の解釈は「何の色彩もない殺風景な秋の夕暮れの海辺の情景を詠んだものであるが、花・紅葉という春と秋を代表するもののいずれもない状態の枯れた美を認めるような時代になったことを示す歌といえよう。」となり、その実としての定家の美の本質からはほど遠い。しかしこれが、三島由紀夫の眼識にかかると、定家がこの和歌に仕掛けた美の本質が鮮やかに立ち上がってくる事になる。すなわち…「なかりけり」こそが、つまりは要の字句であると主張し、花も紅葉もと言いかけて、それを言葉の上で否定していても、花や紅葉という言葉が出て来た以上、そのイメージは残る。そればかりか、「なかりけり」と言う事によって、かえって寂しげな海岸風景にうっすらと華やかなヴェールがかかったように、イメージは艶を帯びてくると解いているのである。
 
三島がもし自死を計らなかったならば、絶筆となった『豊饒の海』の次に構想していたのは、藤原定家の美的世界について書く事であった事はよく知られている。しかし果たせずに彼は死に、人はその構想を惜しんでやまない。しかし実は定家について、彼は絶筆の主題に於いて、また、その最終行のイメージの凝縮された文章の中で、その全てをも書き尽くしていたのであった。先に挙げた定家の歌と重ねながらそれを読めば、「見渡せば花も紅葉もなかりけり……」の変奏がそこにありありとある事が見てとれよう。
 
 
「…そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。庭は夏の日盛りの日を浴びてしんとしている。……」
 
 
三島がここで立ち上げたのは言葉による美の大伽藍であるが、私がその時に気付いたのは、総じての人間が持つ想像力なるものの豊かさであった。「なかりけり」と否定すれば、私たちの想像力の内に、鮮やかに花や紅葉のあでやかな光彩が咲き点(とも)る。つまり、美は確かに作者を離れてもなお、他者の感性の内に伝わっていくのである。未亡人下宿で私が学んだのはかくのごときものであり、私が作品の内に〈暗示〉を強い確信を持って入れるようになったのは、それを契機としてからの事なのであった。
 
 

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『ぎゃらりー図南、そして篠田守男さん』

久しぶりに、富山・金沢…そして福井を巡る、北陸路への旅へと出た。富山のぎゃらりー図南では、22日まで私の個展『ヴィチェンツァの光降る庭で』が開催中である。2年ぶりの個展なので、オーナーの川端秀明さん御夫妻にお会いするのは久しぶりである。個展は6回目であるが、この地には眼識の高いコレクターが多くおられ、私の多くの作品がコレクションされている。そして個展の度に、私はその初日にぎゃらりー図南に行くのであるが、それには二つの楽しみがいつもある。一つは、コレクターの方々にお会いする事、そしてもう一つが川端さんが手掛けられた作品の展示を拝見する事と、御夫妻にお会いする事である。10年ばかり前に、私の個展をやりたいという話は、友人の版画家A氏を経て入って来た。そして東京で川端さんと初めてお会いした時に、そこから伝わってくる〈画廊〉という仕事に対する信念と理念、そして秘めた自信が感じられ、私はすぐに快諾したのであった。


結果は見事なもので、第一回目の個展(それは版画集からであった)から、多くの作品が、川端さんからこの地のコレクターの方々へと広まっていった。そして川端さんの展示の抜群のセンスの良さは初回から私を驚かした。絶妙な高さ・絶妙な構成により、作品各々の世界が強い伝幡力を帯びて、気品さえも帯びて、イメージの各々が立ち上がっているのである。私は展示にものすごくこだわる人間(それは当然の事)であるが、その私をして、さすがと脱帽してしまう感性の鋭さを川端さんは持っている!!今回も個人で複数点をコレクションされる方がおられて私を驚かせたが、事実、私の中でも密かなる自信作が、眼識の高いコレクターによってこの地で収集されていっている事は、私の大いなる喜びなのである。

金沢ではシャーロック・ホームズのごとき雰囲気を持った謎の青年、眞木雄一君が、駅まで迎えに来てくれた。この青年は造型作家として、必ずや今後の美術界にその才能を持って登場してくる人物であり、私はそれを楽しみにしているのであるが、しかし今もってこの青年は私にとって〈謎〉である。地上の俗から浮いた所で、この世の万象を透視しているのである。
眞木君との出会いは不忍画廊の展覧会で、私の版画『廻廊にてーBoy with a goose』を即決で購入を決めた時からである。この作品は、この国の現存の版画家たちが束になっても粉砕してしまうようなメチエの強度さ、完成度の高さを持っているが、その事を眞木君は一目で見抜き、「完璧な作品ですね」と評したのであった。
その作品を眞木君は金沢の自宅に掛けていたのであるが、ある日、造型作家の篠田守男さんが来られた折に拙作をご覧になって「カッコいい作品だね!…作者は誰!?」と問われた事があったという。「あの篠田さんが、そう言われたのか。」私は眞木君からその話を伺ったときに、蘇ってくる或る感慨があった。


私が未だ美大に入ってまもない頃、篠田さんは既にニューヨークを拠点にしてその独自な表現世界は海外でも高く評価されている人であった。その篠田さんが『快楽宣言』という本を出され、特装本にマルチプルのオブジェを百部限定で発表していた。一目見て私はそれが欲しくなった。文句無くシャープで、禁欲性の裏にエロティシズムを隠したそれは、つまり「カッコ良かった」のである。しかし定価は十万円。当時6畳一間の下宿代が6千円の相場であった。当然、貧乏学生であった18才の私にそれが入手出来る余裕などない。普及本の『快楽宣言』は頑張って買ったのであるが、それ以来、篠田さんは私の中で存在を成していったのであった。その篠田さんが、眞木君宅で拙作を見て[カッコいいね!!」と云われたのである。


ここで誤解の無いように申し上げておくが、このカッコいいという言葉は単純に見えて、実は評価における至上の批評言語なのである。私と篠田さんが時を経て、奇しくもお互いの作品について共に語った言葉ー「カッコいいね」は、かくして私たちを結びつける言葉となったのであった。その篠田さんと私の出会いを、眞木君は金沢で演出してくれたのであった。私はホテルのロビーでお会いした瞬間から篠田さんを気に入ってしまった。本当に才能のある人間のみが持つ、権威とは無縁な自由人のみの豊かなオーラを、篠田さんも又、強く発していたからである。話が面白く、結局午前2時まで店を3軒変わりながらも話は尽きないのであった。


あの時のマルチプル百部は全て完売であったが、そのうちの一点はサム・フランシスが欲しがり、交換で篠田さんはサムのガッシュ(青を主題とした最高傑作!!)を入手されたとの由。私は篠田さんから、イサム・ノグチの紹介でマックス・エルンストと出会った話やコーネルの話他、実に面白い逸話などを数々伺い、楽しい金沢の夜は更けていったのであった。別れ際に篠田さんは突然、私に作品交換の話を切り出された。それは望外の喜びである!!かつて池田満寿夫さんとは作品交換をし合った事があるが、篠田さんには、私が18歳のときの事もあり、その感慨は特別なものがある。かくして、近々の再会を約束して私たちは別れたのであった。


北陸の旅から戻って休む間もなく、私には次なる仕事が待っていた。今月28日に刊行予定の拙書『美の侵犯ー蕪村 × 西洋美術』の原稿校正が待っていたのである。美術書の刊行では最も歴史のある求龍堂からの刊行であるが、表紙も実にハイセンスでミステリアスであり、私は大いに気に入っている。特に帯の言葉「あなたの想像をはるかに超えるー謎の競演」という言葉が本書の特徴をよく捕らえている。麹町にある文藝春秋社の中で、ぶっつけ12時間の校正となったが、それによって文章は更に締まり、密度のある内容になったと思う。この本については、刊行が近づいた時にまた詳しくお知らせしたいと思っている。

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