月別アーカイブ: 5月 2016

『疾走する人生 』

ダヴィンチの遺した言葉に、「人生を全速力で駆け抜けた人の生涯は充実しているが、短く凝縮して感じられるものである」という意味の記述があるが、12日に80歳で逝去した演出家の蜷川幸雄氏の疾走する人生は、まさにこの言葉が相応しいであろう。…私も「近松心中物語」をはじめとして数本の作品を観た事があるが、いずれも完成度が高く、氏の作劇法の常に在る、暗く咲くロマネスクの花冠の滴に、過剰なまでのバロックの光が鋭く照射したそれは、まさしく豪奢絢爛の美、虚構の砂上楼閣に立ち上がった大伽藍と形容するに足るものがある。いつからか、歌舞伎の〈かぶく〉という美意識の本質は、才能不在の歌舞伎の場を離れて蜷川氏唯一人の掌中へと移り、色彩の惑乱と、練られた科白の連射によって観客を絶対美の薄い皮膜へと引き込んで、遂にはカタルシスの恍惚と放心へと拉致していくその手腕の強かさは、妖しいまでに魔術的であり、おそらく不世出のものとして、更には伝説として長く語り継がれていく事であろう。

 

…その蜷川氏を、二回ほどであるがお見かけした事があった。一度目は確か国立劇場であったと思うが、三島由紀夫の『近代能楽集』の幕が引けた後のロビーでの歓談の場で、そして二度目は、私がロンドンに四ヶ月ばかり滞在している時に、シャーロックホームズ記念館を観た帰りの、チャリングクロス駅近くのカフェであった。…公演の打ち合わせの時であったかと思われるが、氏の感性の過剰が放つシャープで鋭いオーラには独特なものがあった事を、私は強い印象と共に覚えている。…かくして人生は、このように通り過ぎていく。 ……人は例外なく誰もが確実に死ぬ。この自明の理を想えば、私の表現者としての生の残余もあと僅かなものであるかもしれないが、…やり残した事のないように、私もまた疾走する「生き急ぎ」を、最後の瞬間の時まで、生きたいものである。

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『三ノ輪・逍遥』

面影橋駅から都電の荒川線に乗り、終点の三ノ輪駅に初めて降り立ったのは、今から30年ばかり前になるだろうか。… ホ-ムから紫陽花の青が美しく見えたのを眩しく覚えているから、たぶん梅雨晴れの某日であったかと思われる。…目的は小塚原の刑場跡を観る事であった。吉田松陰、橋本左内、2.26事件の磯部将校、鼠小僧、毒婦と呼ばれた高橋お伝…等、江戸から明治初期迄に処刑されたその数、およそ20万体以上という、その場所を見たかったのである。その後で何度も三ノ輪は訪れているが、何故か二ヵ所の寺だけは訪れないままに年月が過ぎ、先日ようやく各々の寺を訪れる事が出来た。…その寺とは、浄閑寺と、円通寺である。

 

浄閑寺は、天明の大火で焼死したり、病死した遊女の〈投げ込み寺〉として知られているが、永井荷風が度々訪れた寺でもあり、遊女を慰霊する古い石像の前には、永井荷風が詠んだ、この世の無情と、森鴎外を始めとして逝った人々を追想する詠嘆の見事な文を刻んだ石碑もあり、永井の文学を愛する私の気を引いた。… 私の趣味は、古い墓に刻まれた墓碑銘を見て廻る事であるが、たしかココシャネルもパリのペ-ルラシェ-ズ墓地を、そうして散歩するのを好んだという。死者と語り合い、かつての失せし様々な物語の断片を立ち上げる事には妙に魂の平安が訪れてくるのである。そうして墓地内を歩いていると「荒木家先祖代々之墓」というのが、首投げ井戸の隣に見えた。…おそらく…と思って墓碑銘を読むと、やはりそうであった。写真家の荒木経惟氏の奥さんの陽子さんの名前が細い文字で刻まれていた。そう、この三ノ輪は天才アラ-キ-の生まれた原風景の町なのである。

 

円通寺は、上野の彰義隊と、西郷が指揮する薩摩軍とが壮絶な死闘を演じた黒門の遺構が移された寺として知られているが、その黒門に刻まれた夥しい数の貫通した弾痕を見ていると、当時の激戦の凄まじさがリアルに見えて来る。…その横には、三島由紀夫の先祖にあたる、幕閣きっての秀才—永井尚志(玄蕃頭)や、函館戦争に加わった松平太郎、そして彰義隊の墓や碑が…つまり幕府側の遺構が数多くあり、私の気を強く引いた。が、しかしこの円通寺は其れだけではなくて、昭和の事件を代表する一つ「吉展ちゃん事件」で、犯人の小原保が夜陰に乗じて、吉展ちゃんの遺体を、この裏の墓地に隠した地としてもまた知られている。…私はこの三ノ輪の土地特有の物語の相を透かし見ながら、しばしの時間、この町を歩いた。 ……またアトリエに戻れば、長い制作の日々が待っている。時は五月、1年の内で最もよい気候の頃か。庭の草木の緑が鋭いまでに鮮やかである。窓の外を伝う蔦も、かなり延びてきたが、もはや切るのは止めて、いっそ延びるにまかせようか。……まもなく、またあの夏の日が訪れるのであるから。

 

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『山口県』

草むしりをする時に、人は二通りに分かれるようである。…地表の草のみを鎌で刈る人と、鎌と手で根こそぎ刈ってしまう人。…私は後者である。平清盛は死の床で源頼朝の旗揚げを聞いた時に、昔、幼い頼朝や義経たちを殺さずに生かしてしまった事を後悔したというが、草を根こそぎに抜いている時に、私はいつもこの清盛の無念を想いながら、源氏を根絶やしにする気持ちで根の果てまでを引き抜いていく。…すると思いの他に根は長くて、それが地中で物凄いネット状の拡がりを見せており、私はそこに「活断層」の有り様さえも重ね見てしまうのである。

 

地震が起きると、地震学者や気象庁の連中が権威ぶって、さも地中のメカニズムについての知ったかぶりの発言をしているが、それが推測や仮説の域を出ず、唯の私的な感想にしかすぎない事を、私達は今回の熊本で起きた地震で知る事となった。…地震を前震、本震、余震と分ける事が、いかに危険であり、余震と油断して二次被害を起こしてしまう事による悲劇を、今回痛感したのである。…つまり、私達は地中奥深くの更なる深部については、ほとんど何も知りえてはいないのである。

 

…そんな事をつらつら考えていたら、ある事に気がついた!…それは、日本国内で何故か山口県だけが地震の被害をさほど受けていないという事実に行き当たったのであった。山口地震…この響きだけが全く聞いた事がないのである。…その事に気がついたら、私はもう止まらない!さっそく調べてみたら、私の直感は当たっていた。…山口県だけが、プレ-トの層が日本国内で違っており、確かに山口県が最も地震の被害から遠いという事も記してあった。…山口県は母親の生地であり、かつて行った秋芳洞や秋吉台の地層には、他であまり見ない岩盤の趣きがあった事を私は思い出した。

 

今回の熊本地震で倒壊した家々の映像を観ていたら、もう一つ思い出した事があった。…それは、昔、進駐軍が日本の各地で建てていた、あのカマボコ状の形をしたハウスの造りが、じつは縦揺れ・横揺れのいずれにも強いという事である。…私達は地震大国・日本に住み、狭い島国故に被曝をしても逃げ場がないという歴然とした現状が在りながら、しかも福島の被害を知りながら、まだ懲りずに原発を数十ヵ所も温存しているという、知性と理性を欠いた、リスクと強迫観念の自縄自縛の中に在り、もう一方では個人としての強烈なアイデンティティーをもたず、浮調で軽薄な不気味な情緒感覚に委ねて生きるという、緊張と弛緩の限りなく捕らえ難い日々を過ごしている。… それを嘲笑うかのように、「歴史は繰り返す」の、知恵と正確な記録を多分に残している古文書の暗示的な記述は、東北から熊本を経て次なる大地震の可能性の場所として「小田原」を指し示している。…つまり、関東である。…横須賀には太い活断層が三つも縦横に走っているが、それは、草むらのあの根の不気味な走りを呼び起こして、なおも奇怪である。…いっそのこと山口県に転居して、カマボコ形の家にでも住もうか!? …そんな事を思いながら、今日も制作に向かっている私なのである。

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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