月別アーカイブ: 1月 2018

『時代のマチエ―ル』

先日、恵比寿の東京都写真美術館に『アジェのインスピレ―ション』と題した写真展を観に行った。近代写真の祖と云われるウジェ―ヌ・アジェ(1857―1927)と、その影響を受けた写真家たち(マン・レイ、アポット、森山大道、深瀬昌久、荒木経惟……他)による写真展である。アジェは未だに謎の多い写真家であるが、鶏卵紙に濃いセピア色で現像された彼の代表作の数々を観ながら、わがアトリエの書庫にある、アジェの写真と、マルセル・プル―スト(1871―1922)の文章の抜粋を各々に組み合わせた奇抜な写真集がある事を思い出した。プル―ストが、まるでアジェの写真を見て文章を書いたかのように、まさにピタリとそれらはイメ―ジが合致する魔法のような写真集なのである。……今朝、ふとそれが気になって調べてみると、プル―ストが『失われた時を求めて』を執筆し始めた時が1906年頃であり、アジェが撮影を始めた時が1898年。そして二人の作業は共に死ぬまで続くのであるが、調べてみて、アジェの撮影の時期とプル―ストの執筆の時期がピタリと重なっている事がわかったのである。しかし、文学と写真の分野の各々のこの異才達は全く交流がなく、同じ時代の、あの狭いパリを生きていたのである。時にはそれと知らずすれ違ったであろう、この二人。ジャンルを異にしながらも、表現者の宿命である〈時世粧〉には明らかなる接点があり、その共有の内から、異なる美意識が各々紡がれ形象化していったのである。……しかし、アジェの写真が放つ、或は孕む時空間のマチエ―ルには、いま一人の重なる人物がいる事に気がついた。……わが国の永井荷風がそれである。永井が帰朝後に記して発表した『ふらんす物語』の言語空間が正にアジェの写真と、そのマチエ―ルに於て通低しているものがあると直感したのである。……ひょっとしてと思って調べてみると、永井がパリに滞在したのが1907年~1908年。つまり、アジェが写真を撮影していた時期と重なり、プル―ストが、音がしないようにコルク張りの密室の書斎に籠りながら『失われた時を求めて』を執筆している時期に、正に永井荷風はパリに滞在して、デカダンに耽りながらイメ―ジと感性を育んでいたのである。……そして、アジェ、プル―スト、永井荷風の三人が、それと知る事なく、まさしく同時期にパリに在ったという事を想う事は、わが内なるロマンチケルな心情の部分に響くものがある。……余談ながら、プル―ストと永井荷風には共通項がいま一つある。……それは〈実践者としての覗き趣味〉である。この視線の尽きない欲望とフェティシズムが、より深く、より深くと、時代の澱を突き抜けて、過去の遠ざかっていくものを追い求めて、美的な結晶へと昇華していったのである。

 

さてその永井荷風であるが、少し気になっている事がある。……それは、『ふらんす物語』の文中でイタリアへの旅の希望を明らかに記しながら、何故彼は、例えばヴェネツィアに旅をしなかったのであろうか!?……という点である。あまりに滞在期間が短すぎたからであろうか。否であると思う。……ボ―ドレ―ルやモ―パッサンから多大な影響を受けているのは明らかであるが、いま一つ荷風の眼差しに、その意識に存在として強く在ったのは間違いなく、マラルメの影響下の象徴主義の詩人―アンリ・ド・レニエ(1864―1936)であり、ヴェネツィアを限りなく耽美に綴った彼の代表作『水都幻談』を知っており、また永井自身がレニエの翻訳をしており、レニエを通してヴェネツィアへの旅の希求は当然強く在ったと思われるからである。余談ながら、ヴェネツィアを日本人で初めて訪れたのは誰か!?……それは周知のように、中浦ジュリアンたち四人からなる天正遣欧少年使節であるが、文学者では森鴎外が或はそれであろうかと思われる。……医学留学生としてドイツに学んだ折り、つまり1886年前後頃にヴェネツィアの墓地の島・サンミケ―レ島を鴎外が訪れた記録がある。ちなみに、私の三作目の版画集のタイトル『サン・ミケ―レの計測される翼』の舞台はこの島である。……永井荷風が私淑していた森鴎外、そしてレニエ。……この二人が訪れたヴェネツィアを訪れたいという希望は当然ありながら、何故訪れなかったのかという点が、私の内なる美意識という点で引っ掛かってくる、それは小さな、喉にかかった小魚の骨のような疑問なのである。…………とまれ、永井荷風が行かなかったヴェネツィアは、未だに私における捕らえがたいイメ―ジの領土であり、それはスフィンクスの謎のような手強さに充ちている。私がそこに行くのは、オブジェの作り手ではなく、光の狩人、闇の狩人としての写真家として、明確なスタンスで行くのである。厳寒のヴェネツィアとの対峙、……果たして如何なる対峙が、私をして、そこに待ち受けているのであろうか‼これは表現者としての自らに課した、遂には終わりなき自問の問いなのである。

 

 

 

〈お知らせ〉

前回、1月18日付のメッセージ『光の旅人』の中で、幻の写真家・謎の写真家と云われる飯田幸次郎の事をご紹介し、写真ファン待望の中、その写真集が昨年末の12月20日に刊行されるや、たちまち初版が完売になった事を書きましたが、その後もこの写真家への反響が大きく、この度、第二刷目の写真集が増刷される事になりました。写真の分野での写真集の増刷は異例の事のようです。定価は2700円(税込み)です。……ご興味がおありの方は、発行所の飯田幸次郎写真集刊行委員会の中村恵一さんまで、お問い合わせ下さい。

〒161―0034 東京都新宿区上落合1―18―7―402 中村方 kei.nak@outlook.jp

 

また、飯田幸次郎に関するト―クイベントが、写真評論家・飯沢耕太郎さん、金子隆一さん、そして中村恵一さん他の方々の出席で2月24日(土)の10時から恵比寿の写真集食堂「めぐたま」で開催が予定されております。詳しくは「めぐたま」で検索をよろしくお願いいたします。   北川健次

 

 

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『光の旅人』

……ここに1冊の写真集がある。1932年から1935年の僅か数年間の短い間に写真雑誌『光画』に幻の夢見のような写真を連続的に発表しながら、突然、本人自身が幻のように消えてしまった写真家・飯田幸次郎の写真集である。浅草六区に住み、木村伊兵衛に人工着色の技術を伝授したのも飯田幸次郎であるが、忽然として、台頭しつつある写真の表舞台から消えてしまったのである。…………私がその写真家の存在を知ったのは昨年の秋であった。私のアトリエに毎月届く『がいこつ亭』なる私家版の薄い文芸冊子があるが、詩・映画評論・短歌・小説など多彩な内容が詰まっており、その質は高く私は毎回楽しみにしている。ある日届いたその冊子の中に、私の40年来の知人である中村恵一さんが「飯田幸次郎を発掘」と題して、その消えた写真家について詳しく言及してあり、なかなかに興味深かったのであるが、私はそこに掲載されていた飯田の二点の写真をみて、この写真家がただ者ではない事を直感した。……その数日後に、私は高島屋の個展に中村さんをお呼びして来て頂き、さらに、この幻の写真家―飯田幸次郎について詳しく教えて頂いた。……それによると、最初にこの人物に強い興味を持ったのは、写真評論で知られる飯沢耕太郎氏であった。そして、飯沢氏から中村さんは飯田幸次郎の消えた後の追跡調査を依頼されたのである。……しかし、中村さんの難航しながらも徹底した追跡によって、飯田幸次郎のその後の謎に光が当てられるようになり、今回の写真集が刊行されるに至ったのである。

 

「……看板と建物ばかりで、人の影すらもない、この写真。夜半にふとみた夢の中に、突然現れたようなこの光景。……パリの通りを描いたバルチュスの絵をふと連想したが、あの絵のようなマヌカンめいた人物たちは、ここにはなく、全くの無人……。まるで芝居の書き割りでもあるような。そして人間の視点からは僅かに外れた高みが呈する、不思議な静寂と懐かしさ、そして不安。……この不安は岸田劉生の『切り通し』にも通じる不穏と犯意があるが、やはり、画面を第一に領しているのは郷愁であろう。懐かしいが、しかし今まで見た事のない不思議な風景、不思議な時間。……そして死者たちが静かに佇んでもいるような…………。私は中村さんが飯田幸次郎の写真集を大変な苦労をされて刊行したというのを伺った時に、購入を申し出たのであるが、初版は私が最後ですぐに絶版になってしまったという。

 

 

飯田幸次郎「看板風景」1932年 

 

 

前回のメッセージでも書いたが、先日、川田喜久治さんの写真展を観に.東麻布にあるフォトギャラリ―「PGI」を訪れた。オ―プニングで沢山の来客であったが、私は一点一点、川田さんの表現世界の強度な暗部に入るべく、あたかも現代の『雨月物語』を読むような覚悟で集中して視入った。川田さんの写真には観る度にひんやりとする発見がある。…「美しい、そしてぞっとするような光景」……海外の美術館のキュレタ―達の多くもまたこのように高く評価している川田さんの写真世界は、その表象の皮膚が実に厚い。この厚さは、以前に川田さんと並べて書いたゴヤに通ずる厚さである。……ゴヤの中には、その後のシュルレアリスムや、更にはピカソまでが既に内包されていると鋭く指摘したのは、美術評論の坂崎乙郎や澁澤龍彦といった慧眼の人達であるが、私が川田喜久治という異才の人に視るのも、そういった意味の厚みであり、昨今ますます貧血と迷走の観を呈している写真の分野を尻目に、更には無縁に、川田喜久治さんの強靭な厚みが更に極まりを見せてくるのは必然であり、また事実でもあるだろう。……光の謎を直視している川田さんのみの独歩が、写真が未だ魔術的であった時代の韻を帯びて、現代の陰画の様を光を刈り込んで放射してくるのである。

 

私は前回、今回と続けて写真について記してきたが、この熱い想いは、数年ぶりとなる水都幻想の街―ヴェネツィアへの写真撮影行が控えているからなのかもしれない。また、今年に予定されている数々の画廊での個展、そして、6月から9月の長期にわたって、福島の美術館―CCGA現代グラフィックアートセンターで開催される予定の、大規模な私の個展が控えているからなのかもしれない。そう、つまり私は年始めから熱くなっているのである。……一昨年は中林忠良氏、そして昨年は加納光於氏、そして今年が私の個展と、この美術館では作家を密に絞って個展を開催しているが、これから、この個展に多くの時間を私は割いていく事になるであろう。出品作は私の版画を主として、近作のオブジェも出品する事になっている。……この個展については、折々にまた触れていく予定である。

 

 

 

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『君は初夢をみたか!?』

1月1日だけでなく、2日にみた夢も初夢というらしい。私が2日にみた夢は奇妙なものであった。私がかつて版画で度々モチ―フにしたバレエダンサ―のニジンスキ―が、どうも『牧神の午後』を踊り終えた後らしく、疲れて寝そべっている姿が現れたかと想うや、夢のカメラには次にポンペイの浴場が官能的に霞んで見え、次に噴火前のヴェスビオス火山がわずかに噴煙を不穏げに上げているのが、これまた薄く霞んで彼方に見えるという、……ただそれだけの、いささかの淫蕩、暗示に富んだ夢であった。以前のブログでも書いたが、私は美大の学生時にそれまで打ち込んでいた剣道をやめて方向転換し、何を考えたのか、熱心にクラシックバレエを学んでいた時期があるが、夢に出てきたニジンスキ―はその時の自分が化身した、ふてぶてしい姿なのであろうか。…………ともあれそんな夢をみた。

 

……正月5日は、映画『ジャコメッティ・ 最後の肖像』を観た。観て驚いた。昨年の夏に私はこのブログで、3回に分けてジャコメッティのこれが実像と確信する姿を直感的に書いた。それはこの国の評論家や学芸員、更にはジャコメッティのファン、信奉家諸君が抱いているようなストイックな芸術至上的な姿ではなく、殺人の衝動に駆られ、特に娼婦という存在にフェティッシュなまでの情動を覚える姿―その姿に近似的に最も近いのは、間違いなく、あのヴィクトリア時代を血まみれのナイフを持って戦慄的に走り抜けた〈切り裂きジャック〉である……という一文を書いたが、この映画は、まさか私のあのブログを原作としたのではあるまいか!!と想うくらいに、ピタリと重なる内容の展開であった。切り裂きジャックと同じく、〈女の喉を掻き切りたいよ!!〉と言うジャコメッティの犯意に取り憑かれたような呟き。……マ―グ画廊から支払われる莫大な額の画料のほとんどを、気に入りの娼婦とポン引きにむしりとられる老残を晒すジャコメッティ……。妻のアネットを〈俗物〉と罵り、自らは深夜にアトリエ近くの娼婦街を酔ったように虚ろにさ迷うジャコメッティの姿は、矢内原伊作の名著『ジャコメッティのアトリエ』の真摯な表層を一掃して、不可解な、その創造の神髄に更に迫って容赦がない。私の持論であるが、フェティシズムとオブセッション(強迫観念)、犯意、更には矛盾の突き上げが資質的に無い表現者は、創造の現場から去るべしという考えがある。芸術という美の毒杯は、強度な感覚のうねりと捻れから紡ぎ出される、危うさに充ちた濃い滴りなのである。……ともあれ、この映画はジャコメッティ財団が協力に加わっている事からも、かなり客観性の高い事実や証言に裏付けられたものとして興味深いものがある。

 

7日は、勅使川原三郎氏、佐東利穂子さんのデュオによるアップデ―トダンス『ピグマリオン―人形愛』を観るために、荻窪の会場―カラス・アパラタスに行く。……実は、昨年12月に両国のシアタ―Xで開催された、勅使川原・佐東両氏によるデュオの公演『イリュミナシオン― ランボ―の瞬き』の批評の執筆依頼をシアタ―Xから頼まれていたのであるが、極めて短い原稿量でありながら、これが意外に難航して年越しの作業になってしまった。私はかなり書く速度が速く、拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』の連載時も、毎回二時間もあれば、直しなく一発で書き上げていた。しかし、勅使川原氏の演出・構成・照明・音楽・出演を全て完璧にこなすその才能に対しては、私ならずともその批評なるものの、つまりは言葉の権能がその速度に追いつかない無効というものがあって、私は初めて難渋して年を越してしまった。このような事は私には珍しいことである。最初に書いた題は『勅使川原三郎―速度と客体の詩学』、そして次に書いたのが全く異なる『勅使川原三郎―ランボ―と重なり合うもの』である。そもそも、このような異才に対するには、批評などというおよそ鈍い切り口ではなく、直感によって一気に書き上げる詩の方が或いはまだ有効かと思われる。……さて今回の公演であるが、毎回違った実験の引き出しから呈示される、ダンスというよりは、身体表現による豊かなポエジ―の艶ある立ち上げは、私の感性を揺さぶって強度に煽った。キリコの形而上絵画やフェリ―ニの映像詩を彷彿とさせながらも、それを超えて、この身体におけるレトリシャン(修辞家)は、不思議なノスタルジックな光景を彼方に遠望するような切ない抒情に浮かび上がらせたと思うや、一転して最後の場面で、『悪い夢』の底無しの淵に観客を突き落とす。その手腕は、〈観る事〉に於ける時間の生理と心理学に精通したものがあり、ドラマツルギ―が何であるかを熟知した観がある。とまれ、この美の完全犯罪者は、今年のアパラタス公演の第1弾から、全速力で走り始めたようである。

 

…………翌日の8日は、ご招待を頂き、歌舞伎座で公演中の『初春大歌舞伎』を観に行く。松本白鸚・松本幸四郎・市川染五郎の高麗屋―同時襲名披露を兼ねている事もあり、勘九郎・七之助・愛之助・扇雀・猿之助……と賑やかである。しかし私が好きな、九代目中村福助が長期療養中の為に観れないのは寂しいものがある。静かな面立ちに似合わないこの破天荒者の才が放つ華の光彩には独特の魔があって、他の追随を許さないものがある。……さてこの日、私が観たのは昼の部―『箱根霊験誓仇討』『七福神』『菅原伝授手習鑑』であった。『菅原伝授……』を観るのは今回が二回目である。伝統の様式美の中に如何にして「今」を立ち上がらせるかは、歌舞伎の常なる命題であるが、私はそこに脈々と流れる血と遺伝子の不思議と不気味を垣間見て、時としてこの華やいだ歌舞伎座が一転して暗い宿命の呪縛的な檻に見えてゾゾと想う時がある。三島由紀夫は「芸道とは、死んで初めて達成しえる事を、生きながらにして成就する事である。」と、その本質を見事に記しているが、確かに芸道とは、その最も狂気に近い処に位置しており、精神の過剰なる者のみに達成しえる業なのかもしれない。精神の過剰が産んだ美とは、西洋では例えばバロックがそれであり、この国に於いては、歌舞伎、すなわちその語源たる「かぶく―傾く」が、それに当たるかと想われる。精神、感性の過剰のみが達成しえる美の獲得、……それはこのブログの先に登場したジャコメッティ、それに勅使川原三郎についても重なるものがあるであろう。……さて、飛躍して結論を急げば、おそらく20年後の歌舞伎の世界にあって、これを牽引しているのは、松本幸四郎の長男、……今回襲名した市川染五郎(現在まだ12才)と、市川中車(香川照之)の長男―市川團子、つまり名人・三代目市川猿之助(現二代目市川猿翁)の孫あたりがそれであろうかと想われる。……遺伝とはある意味で残酷なものであり、才はそれを持って宿命へと変える。美におけるフォルム(形・形状)の問題とは何か。……それを考える機会とそのヒントを歌舞伎は与えてくれるのである。…………さて、今月の12日からは東麻布にあるフォトギャラリ―「PGI」で、写真家・川田喜久治さんの個展『ロス・カプリチョス―インスタグラフィ―2017』が始まり、私はそのオ―プニングに行く予定である。私は先に写真家として川田さんの事を書いたが、正しくはゴヤの黒い遺伝子を受け継いだ写真術師という表現こそ相応しい。唯の言葉の違いと思うと、その本質を見逃してしまう。シュルレアリストの画家たちの事を絵師という表現に拘った澁澤龍彦のこの拘りに、いま名前は失念したが、フランスのシュルレアリズム研究の第一人者もまた同意したことと同じく重要である。光の魔性を自在に操って、万象を川田喜久治の狙う方へと強力に引き込んでいく恐るべき術は、正に魔術師の韻にも通ずる写真術師のそれである。私はゴヤの最高傑作の版画『妄』のシリ―ズの何点かを、パリやマドリッドで購入してコレクションしているが、この度、川田さんから届いた個展案内状の写真を視ると、伝わってくるのは、写真の分野を越えて、世界を、万象を、暗黒のフィルタ―で透かし視たゴヤの変奏を想わせて尽きない興味がある。個展は12日から3月3日までと会期は長い。……ぜひご覧になる事をお薦めしたい展覧会である。

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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