月別アーカイブ: 2月 2020

『墨堤奇譚―隅田川の濁流の中に消えた男④』 – 完結編

………さて、ここに一枚の地図がある。藤牧義夫が消える運命の日となった、昭和10年9月2日の藤牧の足取りを時系列順に追って記した地図である。画面最左(D)の自分の下宿を出発した藤牧は、画面最右(A)に住む姉の太田みさおの家に行き、俄に降り始めた雨の中を画面左下(C)に住む、もう一人の姉、中村ていの家に向かうと言って、みさおの家を出た。そしてAからCの途上にある小野忠重の家(B)に立ち寄ったところで、藤牧義夫の姿は完全に消滅してしまい、以後その姿を見た者は誰もいない。……その距離を地図から計算すると下宿を出て姉の太田みさお宅(A )を経て小野の家までがおよそ4600m、藤牧がこの日の最後に行こうと考えていた姉の中村ていの家までの距離は約6000mとなる。……小野が語っている藤牧の姿、「飲まず食わずの苦行僧の狂熱におそわれて、小柄な彼の頬骨は高くなるばかりだった。それ以来、私たちの視界から失われた。おそらく、どす黒い隅田の水底に、藤牧の骨は横たわっていると、いまも友人たちは信じている。」という言葉からは真逆の、藤牧義夫の壮健な姿が、この距離の数字から見えてくる。

 

 

 

 

……小野の言葉は更に続く。「……しかし私には、最後の別れがしみついている。昭和10年の9月に入る早々だった。藤牧が現れて、浅草の部屋を引き払った、といい、大きな風呂敷包みを二つ、ドサリおいて、これを預かってくれという。それまで身辺にあった版画の一やまと、あまり多くもない彼の読み物、どれの図版の裏にも彼の鉛筆画の残る、村山知義の表現派やダダの本、「アトリエ」誌のプロ美術特集号などをぶちまけた。そして聞き取りにくい小声で、私や新版画集団の友人に対してすまなかったとか、有り難かったとか、繰り返す。気がつくと頬に光るものが見えたが、それが胸にこたえるほどの、こちらの年でなかった。彼が去って、しばらくして、これから行くと言っていた浅草の姉の家から「来ない」と知らせがあって、ハッと気がついたのである。……(中略)……捜査願いも空しかったという言葉で、仏壇を見ると、位牌には、彼の法号と命日が、私の家から消えたその日をのこしていた。」

 

……小野は、藤牧がいかに自分を信頼していたかを強調したかったのであろうが、この文で大きな墓穴を掘っている。藤牧義夫は尊敬していた父親の影響で、宮沢賢治や高山樗牛、創作版画の先達だった山本鼎らも会員であった国柱会(満州事変の指揮をとった石原莞爾を擁する)―つまりは右傾化した思想の持ち主であったが故に、小野が(藤牧が最後に置いて行ったと)語ったような、云わば左翼青年が読むような表現派やダダの本を読む筈がない。逆にこれは後に判明するのであるが、小野は、自分が一時はプロレタリア運動に挺身した過去を持つと語り、偽装した経歴を積もらせていくのであるが、彼自身の自宅の本棚にあったのを安直に書き並べた事は想像に難くない。〈小野は藤牧義夫の下宿を訪れるような親しい仲で無かった事が、ここから透かし見えて来よう。〉

 

……小野が語る、自分はかつての左翼の闘士であったという経歴の嘘を見破ったのは、自身が一時は左翼の闘士であった実際の過去を持つ州之内徹氏である。小野証言に疑いの眼を深めていった州之内氏は推論する。「どちらが正しいか。(中略)いずれにしても、どちらの記述も彼(藤牧義夫)のノイローゼを強調しているのは、その後に来る彼の失踪(自殺)の理由をそこに求めようとするからではあるまいか」。……小野は記す。「…………それ以来、私たちの視界から失われた。おそらく、どす黒い隅田の水底に、藤牧の骨は横たわっていると、いまも友人たちは信じている」と。

 

……言葉には、言霊(言葉に内在する霊力)というものが必ず宿る。これは不思議な、しかし確かな事である。言霊という言葉は和歌などの調べを想わせる美しい響きがあるが、一方で〈内なる邪〉も宿す。今一度、小野の文を読むと、そこから伝わって来るのは、失った友への哀悼の情では決して無く、ギラリと光る、それこそ濁った情念のようなものがある。……仮に親友が隅田川に投身したとするならば、友が迷うことなく成仏する事を願い、水底に沈む友のイメ―ジに清冽なものを覆って黄泉へと送るのが、当然の心情ではあるまいか。間違っても、「どす黒い水底」、「藤牧の骨」と云った死者を汚すような言葉は使わない。………………とまれ、藤牧義夫の姿はその夜をもって消失し、また下宿からは、彼の版画の貴重な版木がことごとく一夜にして消えた。……藤牧義夫の版画の明らかな贋作が、あたかも秘かに生産工場が在るかのようにして続々と出てくるのは、藤牧義夫の姿が消えてからおよそ40年後の事である。」

 

 

 

近代版画の歴史から次第に藤牧義夫は忘れ去られていったが、その作品が持つ表現力の素晴らしさに最初に注目したのは、画廊かんらん舎の社主・大谷芳久氏(当時まだ20代後半)であった。前述したが大谷氏はまだ日本で注目されていなかったヨ―ゼフ・ボイスの個展を開催し、また青木繁の素描展を開催するなど、慧眼にして行動の人である。藤牧義夫版画の素晴らしさを何とか世に知らせたいという大谷氏の真摯な情熱に対し、当時、藤牧義夫に関する唯一の窓口であり、あまつさえ藤牧の師匠とさえ、いつの間にか呼ばれるようになっていた小野が「個展を開催するならば」として渡した数多の藤牧版画は、そのことごとくが贋作(それも明らかに失くなった筈の実際の藤牧義夫の版木に加筆彫り込みをしたという異常さ)であった。それが一括購入した先の東京国立近代美術館からの指摘で判明する事となり、以来、大谷氏は10年以上の歳月を要して『藤牧義夫眞偽』(学藝書院刊行)と題する、真作と贋作の違いを完璧に精査した文献を出版し、この国の主たる美術館に収蔵されている。……その慧眼の大谷芳久氏と州之内徹氏が時に強力な連携を組み、事件の真相に迫っていく白熱する過程は、前述した駒村吉重氏の著書『君は隅田川に消えたのか―藤牧義夫と版画の虚実』(講談社刊行)に詳しい。そして、私のこのブログの詳細な記述も、駒村氏、大谷芳久氏、州之内徹氏の著書、更には大谷氏からの直接の聞き取りに依り書かれている。

 

……このブログで連載の形を取るのは、以前に書いたジャコメッティの件以来であろうか。そして長きに渡った藤牧義夫に関するこの連載もようやく終わろうとしている。しかし、ここに至って私は自問する。……かくも情熱を持って(しかも、向島、浅草の各々の現場跡に何度も取材し)書かしめているのは、果たして何であるのかと。駒村氏の実にスリリングな著書を読み、その詳細を知った事の驚き。或は、この事件の謎を人生の最後に取り組み、かなり追い詰めながらも不慮の急死により、その執筆が途絶えてしまった州之内徹氏の無念への想い……。そして藤牧義夫の更なる評価を希求し、逆に不実なものを徹底して断じようとする大谷芳久氏の真摯な情熱。……その全てから発して、このブログは書かれたのであるが、……私自身が40年以上前の美大の学生の時に、実際に小野忠重に会っていたという事実が、やはり大きいかと思う。

 

…………あれは確か22才の頃であったか。……その部屋には、銅版画の詩人と云われた駒井哲郎氏と私、……そして小野忠重と他に何人かがいた。私は自作の銅版画を卓上に並べ、駒井氏との貴重な話に熱中し、傍の小野には申し訳ないが全く無関心であった。それを敏感に察したのか、小野は次第に肩を震わせ始め、苛立っているのがあからさまに伝わって来た。……どういう経緯でそう言ったのかわからないが、突然私の口から「浅草に叔母がいる」という言葉が口に出た。……正にその瞬間であった。「俺ぁ、お前の作品が嫌いだな!!!」と小野は私に鋭い怒声を浴びせたのであった。卓上に並べた私の作品は、駒井哲郎棟方志功土方定一、そして坂崎乙郎……といった美術の分野を代表する先達たちから既に高い評価を受けていた作品であり、22才の若僧に過ぎないとはいえ、私にも強い自信と当然の自負があった。小野の怒声に私もまた怒りを持って鋭い声で返し、その場に異常な緊張が走った。正に殴り合いの寸前であった。見ると、無頼できこえた駒井氏でさえも驚きの顔を呈していたのを今もって覚えている。

 

〈……その時に私は見てしまったのである。〉―もし駒井氏や余人が傍にいなかったならば、間違いなく私に飛び掛かって来たに相違ない、あの男の自分でも御し難いような内なる獣性を帯びた、その瞳孔の奥に光るもう一つの異様な〈気〉を。〈浅草に……叔母がいる〉……私は何かに促されるようにして、どうしてその言葉を発してしまったのであろうか、今もってそれはわからない。しかし、その言葉を発した瞬間に小野が速攻で切れた事は間違いのない事である。

 

そして、この〈浅草〉〈叔母〉という2つの言葉は、駒村吉重氏の著書『君は隅田川に消えたのか』に何度か出てくる言葉でもあったが、小野が私に示したあからさまな敵意の真因が何に依るものであるのかは、今もってそれはわからない。……ただ、年月を経ても私の記憶の内に、あの小野が瞬間に見せた敵意を孕んだ私への、刺すような眼孔の鈍い光だけはありありと今も覚えている。……人は、一体どうなればあのような〈眼〉が出来るのであろうか。

 

……その謎を解くべく、今回のブログは綴られて来たように今は思う。……後の版画の歴史に鮮やかな一頁を間違いなく残したに違いない藤牧義夫。その彼が24才の若さでその生を終える瞬間に、脳裡に去来したものは果たして何であったのか。……そして、いや、だからこそ私は結論として今想う事がある。州之内徹氏が死の直前に綴った最後の文章「……失踪した藤牧義夫がこの水の底に沈んでいるという説もあるが、私は信じたくない。」と書いて、小野忠重が引っ張ろうとしている「隅田川に自死して消えた」という方向への強い懐疑を示したが、この一点だけが州之内氏と私の推理が異なる点である。……私は断言するが、藤牧義夫は、間違いなくこの隅田川の水底に沈んでいると。そして、その現場は、藤牧義夫が故郷の館林に帰る度に乗っていた東武伊勢崎線が隅田川を通過して、北十間川と接する水門の真下近く、……前回のブログで永井荷風と交差した不気味な黒い影、『断腸亭日乗異聞』に登場したその暗い男が向かった隅田川河畔の向島寄りの水底に藤牧義夫は眠っていると私は想う。

 

 

最後に後日譚を記そう。……藤牧義夫の墓は館林の故郷に在るが、当然ながらその墓の中に藤牧の遺骨は無い。……一方、小野忠重は今、何処にいるのであるか。……小野は小梅の自宅が空襲で焼かれた後に杉並の方に移ったと聴くが詳しくは知らない。……では今は何処に!?小野は1990年の10月に81才で亡くなっている。そして、その墓は浅草の慶養寺という寺に在る。私はその寺を訪れた事があった。今でこそスポ―ツセンタ―の巨大な建物によって隅田川の景観は全く見えないが、かつてはその寺からは、そして墓地からは隅田川の流れが見えた事と想われる。……その寺の在る場所は対岸に向島が、そして、丁度右斜め45度の対岸には、今し書いた東武伊勢崎線の鉄橋と、その下の水門とその水の面が見えるのである。樋口一葉、幸田露伴、永井荷風たち文人が……鮮やかな美文で綴ってきた隅田川の景観は、今は無い。ただ、隅田川の流れだけが今も、とうとうと流れているのである。(終)

 

 

追記.……私が関心を持つと少し遅れてメディアが、その主題を取り上げるという現象は度々このブログでも書いて来た。近い例では前述したジャコメッティの話がそうである。私はブログで、今迄のジャコメッティのイメ―ジを取り除き、娼婦に翻弄される、およそ今迄のストイックな巨匠の姿を覆して書いた。するとその半年後に『ジャコメッティ最後の肖像』という映画がジャコメッティ財団の監修で日本でも上映されたが、それは私のブログを台本にしたかのように、私が記した正にそのままのジャコメッティの姿の提示であり、矢内原伊作で築かれたイメ―ジはあっけなく覆った。創造の舞台裏、それを私は直観的に視てしまうらしい。

 

……そして今回の藤牧義夫に関しても同じような現象が起きた。駒村氏の著書に登場する藤牧義夫研究家の和田みどりさんから先日連絡が入り、今月の29日(土曜)の『美の巨人たち』(テレビ東京・夜10時~)で藤牧義夫を取り上げるという。〈大谷芳久氏が出演される由である。〉何というリアルタイムであろうか。……この番組のプロデュ―サ―が、ある程度掘り下げて、藤牧義夫の実像とその作品の独自性を観せてくれるのを今は祈るのみである。なお、次回のブログは『もう一つの智恵子抄』を書く予定。知られざる高村光太郎と智恵子の実像が鮮やかに、そしてショッキングに立ち上がります。……乞うご期待。

 

 

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『墨堤奇譚―隅田川の濁流の中に消えた男③』

②からの続き。………………すみだ郷土文化資料館で、昭和10年頃に「本所小梅1―7」であった場所の現在の住所を問うと、「向島1丁目―30」がその番地である事がわかった。地図を見ると約800mくらい先か。とすれば徒歩だと10分くらいの距離である。………そして私は目指すその場所へと辿り着いた。小野忠重の家(すなわち藤牧義夫がこの世から姿を消した最後の地点)の区域は、空襲で様相を変えてしまっているが、当時の面影は何となく伝わってくる。そしてかつてのその現場に私はピンポイントで立った。見ると、先の高みにはスカイツリーが寒々とした姿で立っている。少し行けば隅田川と交わる北十間川、振り向けば隅田川が意外に近い。 ……私は今までこのブログで、藤牧義夫が「失踪した」或は「消えた」という能動態で表して来たが、その語法は藤牧義夫の姿が消えた後で語り始めた小野忠重の発言に依っている。しかし、ロジェ・カイヨワの言を引くまでもなく、世界の本質は対称的な関係で成り立っている。ならば自らの意思によって「消えた」だけでなく、受動態の、「消された」という考えも当然湧き上がって来よう。そうでなければ、推理は在ってはならない片手落ちになってしまう。

 

……ここに藤牧義夫をモデルにした野口富士男著の『相生橋煙雨』という小説が登場する。野口は小野が繰り返し書いてきた「晩年(まだ24才)の藤牧義夫は、前後の事情から考えて貧窮による栄養の絶対量の極限にちかい不足と胸部疾患でひどい健康状態だったはず」・「……藤牧は終日川岸を去らなかった。わずか寝るだけに帰る浅草の裏街の部屋に入るとパッタリ倒れる。飲まず食わずの苦行僧の狂熱におそわれて、小柄な彼の頬骨は高くなるばかりだった。それいらい、私たちの視界から失われた。おそらく、どす黒い隅田の水底に藤牧の骨は横たわっていると、いまも友人たちは信じている。」という、どうしても自殺―隅田川からの投身に持って行きたい言葉を真に受けたのか、野口は妄想を膨らませて、9月2日の夜、小野の自宅に立ち寄った藤牧義夫を、実は小野が見た幽霊のように書き、文意の繋がりのかなり不明な奇妙な小説を書いている。(しかし、実際の藤牧義夫を撮った写真が駒村吉重氏の小説の最後に載っているが、姿が見えなくなる半年前に撮られたその姿は、藤牧が小柄ながらも服装はきちんと整い、その顔は気概に満ちて健康そのものである)。私はあきれながらも、その小説に出てきた幽霊の登場を面白いと思った。これからは、このブログから小野はしばらく退場してもらい、……これからは、幽霊……すなわち、夜半に揺れる何者かの黒い影をここに登場させて、狂言回しのように書いていこう。

 

 

 

 

……私が今いるこの舞台、すなわち向島にはかつて、文人の幸田露伴が永い間住んでいた。その露伴が書いた「墨堤」という一篇に「……裏道づたひいづくへとも無く行くに、いけがきのさま、折戸のかかりもいやしげならず、また物々しくもあらぬ一構の奥に物の音のしたる。……」という、確かそのような文章があったのを私は何故かふと思い出した。その「……一構の奥に物の音のしたる」という文が、何故か、ここ(現場)にいてふと浮かんだのである。……奥に物の音のしたる。その連想が膨らんで、何者かの暗い影が奥戸からぞぞと現れ出で、何事かをするその影が揺らめいて見えた。……突然「リアカ―か!?」という唐突な閃きが、野口富士男が書いた幽霊に倣って俄に浮かんだ。……すると、あろう事か、妄想が現実を凌駕して、ここ向島1丁目―30のかつての藤牧義夫が消失した、正にその現場の私の眼前に、一台のリアカ―が立て掛けてあるのが目に映ったのであった。(注・画像掲載)

 

 

 

 

 

 

……幸田露伴から転じて、ここから永井荷風の登場となる。……私はふと、藤牧義夫がこの世から突然その姿を消失した昭和10年9月2日の夕刻に(駒村吉重氏の小説はその時、気象は雨)、では永井荷風は、どうしていたのかがふと気になり、彼の日記『断腸亭日乗』にその日付を追った。……あった。……荷風は著す。「昭和10(1935)年九月初二。雨降りては止む。『すみだ川』改刻本の序を草す。晩間雨の晴れ間を窺ひ銀座に行き竹葉亭に食し、茶店きゆぅぺるに小憩してかへる。」と。……そうか、正にその時、荷風は銀座にいたのか!。なかなかリアルである。……しかし、ご存知のように日記に全てが書かれているわけではない。樋口一葉は行間にもう一つの、いわゆる裏日誌の秘めた記述があり、荷風はその余白に(後の世に知られたくない)秘めた行動がある。

 

……名作『墨東綺譚』には次のような、気になる文がある。「……柳橋の妓にして、向島小梅の里に囲われていた女の古い手紙を見た。」……小梅!……正に私がいるその現場がそれである。荷風の記述はさらに続いて、その女が荷風に会いたいという、女から届いた手紙(……少々お目もじの上申上たき事御ざ候間、何とぞ御都合なし下されて、あなた様のよろしき折御立より下されたく幾重にも御待ち申上候。一日も早く起越しのほど、……)が彼の人生に於ける正直な開示として記してある。『墨東綺譚』が書き始られたのは昭和11年9月21日からなので、実際の物語りはそれ以前、つまり、藤牧義夫がこの世から突然姿を消失した昭和10年9月2日の頃と重なってくる。……ならば『断腸亭日乗』のその日の書かれなかった部分に、荷風が銀座を出ようとして、降りだして来た雨の湿りの内に恋情が湧き上がり、女(仮にその名をお元としよう)の待つ本所小梅に円タクで向かったとしたら……という連想を、あったかもしれない可能性の内にここに書いてみよう。

 

「……銀座より円タクを拾いて、枕橋にて下りる。雨、その降りを少し増し北十間川の流れ早し。余お元の待つ本所小梅へと向かう。ふと視る、小梅の方より重いリアカ―を引きし男の在るを。この雨の内に何を何処へ運ばんや。男、余の横を俯きて過ぐ。その気配、覆われた荷の歪な様、いかにも奇妙なり。そは何者ぞ。余は興味ありを以て幅をとりその後を少し尾う。男、暗き隅田の川岸へと消える。余お元の待つ小梅へと向かう。雨、夜半にいりても遂にその止む事を知らず。」

 

…… 紡いだ荷風の幻はそこで消え、私は向島1丁目30の場から北十間川に沿って枕橋に至り、見番通りを渡って隅田公園に入った。その先はもう隅田川である。……すると、公園の中に一枚のプレ―トが立っているのが目に入った。近づいて見ると昔日の写真とその説明が書いてあった。……それを見て私は唖然とした。そのプレ―トの写真は、私が荷風に成り替わって書いた『断腸亭日乗異聞』のままに、リアカ―を引いて正に隅田川へと向かう一人の男の後ろ姿の写真が、そこに写っていたのである。しかも写真の年代の説明文を読むと〈昭和10年頃に撮影〉と記されていた。正に藤牧義夫が突然この世から消失した、その当時の写真なのであった。……写真に撮された電信柱に書かれた(花柳病専門病院)の白い文字が、時代を物語っている。

 

……④の完結編へと続く。

 

 

 

 

 

 

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『墨堤奇譚―隅田川の濁流の中に消えた男②』

……画廊主であり、小説家、美術エッセイストでもあった州之内徹(1913―1987)という人に強い関心を懐いたのは、私が最も霊妙な作品と高く評価している松本竣介の『ニコライ堂』を、この人も評価し、一時コレクションしていたという事を知ってからであった。だから、骨董市で州之内氏を特集している『芸術新潮』を見つけて買い求め、彼の人生とその意味深い足跡を読んだ時に、彼が最期に執念とも云える情熱を持って追っていたのが、版画家・藤牧義夫の24才での突然の失踪と、その失踪の鍵を唯一人握っている版画家・小野忠重にまつわる、いわゆる美術界最大のミステリ―と云われる事件であるのを知った時、おぉ、州之内氏も追っていたのか!!……という驚きがあった。そして、彼が或る言葉を残しているのを知った時、私はこの謎の失踪事件に対してのあらためての追求の意欲が湧いて来たのであった。

 

州之内徹氏が語るその言葉を、ミステリ―作家駒村吉重氏の著書『君は隅田川に消えたのか―藤牧義夫と版画の虚実』から引用しよう。 「……なごやかに語らいながらも州之内は、かつての宣撫官の肩書を彷彿とさせる、ふてきな言葉をふともらす。〈嘘でかためた話は長い間には、ボロが出て来ますよ〉と。小野証言を指していた。」……これは、このノンフィクションミステリ―小説に於ける最も凄みあるドスの効いた場面で、事実、恐るべき眼識を持った州之内氏の睨んだとおりの方向へと真相は不気味なまでに傾いていく。そして州之内氏は連載『気まぐれ美術館』の、まさしく急死する直前の最後の文章を暗示的に次のように締め括っている。〈失踪した藤牧義夫がこの水の底に沈んでいるという説 (注.小野忠重の説)もあるが、私は信じたくない〉と。

 

 

 

 

……………………版画家・藤牧義夫の名を知る人は、美術界の中でも、或いは少ないかもしれない。近代版画史の中に燦然と輝く一枚だけ存在する版画『赤陽』(東京国立近代美術館蔵)と数点の木版画、そして『隅田川両岸画巻』と題する、総延長60メ―トルの長さの全四巻から成る隅田川両岸を、墨一色、筆一本で正確無比に描き終えた後、僅か24才の若さで、昭和10年・9月2日の雨降る夜に忽然とその消息を絶ってしまったからである。遺作『赤陽』の深い抒情性、光に対しての澄明なる清んだ感性、そして版の可能性を極めん為の果敢にして実験的な精神。もし生きていれば近代版画史に新たな美の水脈を間違いなく切り開いたであろう、その優れた才能は惜しまれて余りあるものがある。

 

……9月2日の夕刻、浅草神吉町の藤牧の下宿を出て、向島にある姉の太田みさをの家に行き、今一人の姉の中村ていが住む浅草小島町に向かう途中、向島小梅にあった小野忠重の家に立ち寄ったところで、藤牧義夫は永遠にその姿を消してしまう。(……けっきょくみさをは、雨音を耳にとめながら、湿った暗がりに溶けてゆく、弟の背を見おくることになる。みさをが、弟・藤牧義夫の姿を見たのはこれが最後となった。……)『君は隅田川に消えたのか―藤牧義夫と版画の虚実』より。……一方の小野忠重であるが、小野は創作版画という新しい動き、運動に於ける、理想に燃えながらもいまだ作家とはいえないアマチュア集団に於けるリ―ダ―的な存在であった。隅田川の左岸、本所小梅の小野の自宅に版画を志す青年達が集まってくる。小野より2才年下の藤牧義夫もそこに時おり姿を見せていたという。その若者達は突出した才能を見せる藤牧義夫の作品に興味や羨望を示すが、藤牧はその誰とも距離を置き、独自な表現を模索する日々が続く。……そして若冠23才にして作り上げた完成度の高い名作『赤陽』の後に、長大な画巻による線描の独自な展開を見せ始めた直後の突然の謎めいた失踪となり、以後、藤牧義夫の名前は版画史の表舞台から消えていく。

 

藤牧が失踪した後、小野は版画家・近代の版画史に詳しい研究家として重宝され、俗にいうところの版画界の大御所的な存在となっていき、国から勲章ももらい、順風満帆な歩みを見せることとなる。……しかし、その順風が急に凪ぎとなり、また冷たい風となり、そこに、慧眼な複数の人物達が懐き始めた疑念、徹底的な推理分析、更には矛盾点を徹底的に突いた緻密な研究書が出るに及んで、小野が記して来た版画史の記述の、いま改めての見直しへと時代は少しずつ軌道を修正しつつある。……今、私のアトリエには、芸術新潮の記事『版画家Xの過剰なる献身』、駒村吉重氏の著書『君は隅田川に消えたのか―藤牧義夫と版画の虚実』、更には、日本の美術館が未だこの国に紹介する遥か前に、作品集を見て、直観でその才能を見抜き、日本での最初の個展、ドイツの現代美術家のヨ―ゼフ・ボイスの展覧会を開いた、画廊「かんらん舎」の画廊主・大谷芳久氏が記した、徹底して積み上げた小野忠重の矛盾点(その膨大な数)と、あろう事か、藤牧義夫の失踪後、少しずつ小野が藤牧義夫の作品として出して来た明かに稚拙な贋作を藤牧義夫の真作と比較分析し、(10年以上の年月を要して)書き上げた研究書『藤牧義夫 眞偽』(学藝書院刊行)、そして州之内徹氏の名著『気まぐれ美術館』の著作……他がある。合わせると膨大な量であり、そこには全て人物達の名前が実名で書かれている。このメッセ―ジの私の記述は、それらの文献の総体に導かれたものである。

 

……私はその全ての文献を読み、一つの結論へと推理が終わりつつあるのであるが、それを確かめるべく、藤牧義夫が消えた地点、すなわち小野忠重の家がかつて在ったというその場所(本所小梅1―7)へと向かったのであった。……州之内徹氏の二つの言葉、「嘘でかためた話は長い間には、ボロが出て来ますよ」という言葉と、「失踪した藤牧義夫がこの水の底に沈んでいるという説もあるが、私は信じたくない」という言葉が、幻聴のように私の耳に響いてくる。……私は浅草駅から出て、先ずは言問橋を渡り、最初に目指す、すみだ郷土文化資料館へと歩を進めた。隅田川河畔の公園に「小梅」という名前は残っているが、肝心の「本所小梅」という地名は今は無い。地名番地が変わった後の今の現場を、先ずは調べるのである。……その日は快晴ながらも、隅田川河畔には時おり冷たい風がふく、不思議に生ぬるく、不思議に荒れた妙な日であった。

…………③・完結編へ続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『墨堤奇譚―隅田川の濁流の中に消えた男①』

正月に数年ぶりに引いた御神籤は大吉であった。……その勢いもあってか、オブジェの制作の速度が凄まじく早い。まるで何かに取り憑かれたように一心に集中して制作が進んでいる。暗い室内から数多の鳥が飛び立つように、イメ―ジが次々に浮かんで止まらないのである。しかし、その間にも時折の外出があり、気分転換と充電になっている。今回のブログの入り口は、先ずはそこから。

 

 

1月17日

長年改装中だったブリヂストン美術館が名称を変更して「ア―ティゾン美術館」になり新装オ―プンしたという招待状が届いたので、その内覧会に行く。私の好きな青木繁や佐伯祐三、松本俊介……そして、海外ではピカソやルオ―など多数の秀作をコレクションしているこの美術館は、未だ美大の学生だった時に懐かしい思い出がある。……第11回現代日本美術展に応募した私の版画三点(「午後」「Friday」「Man.Walking」)が全てブリヂストン美術館賞を受賞し、この館のコレクションに入ったのである。審査委員長の土方定一氏が即決で私の作品を美術館賞に決め、「では、うちの美術館に!」と、その場に審査員でいた当時のブリヂストン美術館館長だった嘉門安雄氏が名乗り出て収蔵に決まったという審査の経緯を、後に、この美術館の館長室で嘉門さん自身から伺った。(想えば、その場に美術評論家の河北倫明氏が同席していて静かに私達の話を聴いていたのをふと思い出す。この時の私の服装はと云えば、確かボロボロのアロハシャツにモジャモジャの長髪、そして高下駄であった。学生だったから致し方がないが、絶望的に貧乏だったのである。)……そして、その時の展覧会を観た美術評論家の中原祐介氏が私の作品を気に入り、氏が作家選定のコミッショナ―をしていた第10回東京国際版画ビエンナ―レ展(会場・東京国立近代美術館)の日本側の招待作家に選出され、海外からの審査員も交えた審査会で国際大賞の賞候補へとなっていく、その契機となったのが、この美術館なのである。ちなみに、館長の嘉門安雄氏とはその後に、文化庁の在外研修員として留学試験に応募した際に、その最終選考の席に審査委員長として再び顔を会わせる事になる。(その横に同じく審査員として、詩人の岡田隆彦氏が同席していたのを、ふと思い出す。)

 

 

新装なった館内の展示作品をざっと観て、美術館が用意した軽食を食べていると、突然「北川さん……でしょうか?」と声をかけて来た人がいた。NHKの番組制作会社のT氏であった。話をしていると、T氏が早稲田大学の学生時に坂崎乙郎氏のゼミにいて影響を受けた事を話し出したので、私も話に熱が入った。坂崎氏は私も縁あって学生時にお会いした事があり、私の初期の版画を高く評価して頂いた懐かしくも貴重な思い出がある。……「坂崎さん、あの人は実にいいですね!私は大学や講演で話す時は必ず坂崎さんの名前を出し、美術評論を読むなら、先ずは三島由紀夫、それから澁澤龍彦坂崎乙郎、更には種村季弘瀧口修造……などを必ず読むように!と言っています。坂崎さんの評論では特に『エゴン・シ―レ(二重の自画像)』が良いですね。あの著書は翻訳して海外でも読まれるべきかなり質の高い本ですよ!」と。………………しかし、今日の内覧会はさすがに株主招待者が多いらしく、美術の関係者(特に作家)が実に少ない。友人の美学の谷川渥氏や美術評論家の中村隆夫氏がいないかと見るが、どうやら今日はお休みのようである。帰りに、美術評論家の高階秀爾氏と蕪村の話を少しして館を出る。

 

 

 

 

1月18日

荻窪のカラス・アパラタスでの勅使川原三郎氏・佐東利穂子さんによるバッハへの『音楽の捧げもの』と題する公演を観る。常に新境地を開いて歩む、その果敢な実験の精神が、この天才をしてまた深く、かつ純度の高い表現世界を開示した。公演が終わるや、満席で埋まった会場内に感動の拍手が鳴り止まない。……この人に於いては、メソッドの芯の中さえも官能性に充ちた危ういバイブレ―ションが揺れ続いている。……帰り際に私は勅使川原氏に、ジャン・ジュネの名前を出し、併せて短い感想を少し話した。またいずれ、じっくりと話をする事にして帰途につく。……次回の公演は早くも2月3日から11日まで、新作の『オフィ―リア』が始まる。常に実験、そして完成度の高い表現世界の切り開きが、このカラス・アパラタスの地下の舞台で繰り広げられているのであるが、それは実に驚異的な事なのである。

 

 

1月20日

骨董市でふと見つけた『芸術新潮』(1994年の11月号)の「州之内徹・絵のある一生」の特集号が目にとまったので購入した。開いて見ると、州之内氏が愛し、私も好きな隅田川の写真が何枚か載っていた。……小林秀雄が「当代一の評論」と称賛した、型破りな美術評論家・州之内徹。また先述した土方定一氏や白州正子さんもその眼識を高く評価した州之内徹。その彼が記した、長年にわたって書いた名著『気まぐれ美術館』の最後に、彼が追っていたのが、この国の美術界最大のミステリ―と云われる、版画家・藤牧義夫の突然の失踪の謎と、その鍵を握るもう一人の版画家・小野忠重の事であったのを知った時、私の中に新たなる推理の熱い火が俄然灯ったのであった。そして、直ぐにその事件の事を詳細に記したノンフィクション小説『君は隅田川に消えたのか―藤牧義夫と版画の虚実』(駒村吉重著・講談社刊行)を読み、私なりの推理と分析が始まった。そして、その本の中には低奏音のように逆巻いて流れる隅田川の濁流が在るのであった。本の中に登場する実際の人物(事件の鍵を握る小野までも含めて)の多くと私は実際に面識があるだけに、この本はいっそうのリアルな不気味さがあった。そして、私はかつて話しを交わした、ドイツ文学者にして鋭い慧眼の人、種村季弘氏との会話を思い出したのであった。

 

……1990年の7月のある日、私は半年間暮らしていたパリを出てイギリスへと向かった。夏というには余りにも暗いド―バ―海峡を渡り、揺れの激しい三等列車でロンドンに入った時は激しい雨であった。そして、テムズ河の陸橋を渡る時に、私は眼下を、豪雨で激しく逆巻く眼下を見た。テムズ河の濁流を見た時に、私は1888年の晩秋にジョン・ドルイットという名の青年が、このテムズ河で自殺を遂げ、その水死体が濁流の中で見つかった、という話を思い出していた。……ジョン・ドルイット、……澁澤龍彦がその著書の中で、彼こそが切り裂きジャックの真犯人であると断定した、その男なのであった。本を読んだ時に、澁澤氏はなぜ犯人を断定しえたのか、その根拠を知りたくなり、直ぐに私は鎌倉に住む澁澤龍彦夫人の龍子さんに電話をした。……龍子さんの答えは「自分が結婚する前の著書なので、澁澤のその根拠まではさすがにわからない」という話であった。……とまれ、眼下に見るテムズ河は、正にミステリ―の舞台に相応しく、その時の私の脳裏に隅田川と重なるものが、何故かふと浮かんだのであった。

 

「…………と、いうわけなのですよ。私には、そのテムズ河と隅田川が何故か重なって仕方がないのです。この点、如何でしょうか?」と目の前の人物に語った。……目の前にいる人物、種村季弘氏は、先ほどから腕を組み、じっと私の話を聞いている。そして、その眼をゆっくり開けると、次のように語った。「……確かに言われてみると、テムズ河と隅田川は妙に似ているなぁ。……つまりあれだな、犯人が片方の街で深夜に殺人を犯した後で河畔に立ち、飛び込んで何とか泳ぎ渡れる、川幅が似た妙に暗い不穏さが、確かにこの二つの川は孕んでいるなぁ。」……種村氏は、そう語り、私達の話題は永井荷風と隅田川の関係の方へと移っていったのであった。種村氏もまた浅草を愛し、深夜まで浅草の六区で酒を飲み、暗い隅田川に想いを重ねる人であったので、こういう話を聞いてもらう相手として、これ以上に手応えのある人は、もういない。……さて、次回は『墨堤奇譚―隅田川の濁流の中に消えた男』の②を連載で記す予定。話は不気味さの渦中へと展開。……乞うご期待。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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