月別アーカイブ: 12月 2020

『さらば、2020年!!』

……年末の某日、急に故郷の名産である越前がに(雄)やセイコガニ(雌)が食べたくなり、築地の場外市場に行った。市場内にある水産専門の斎藤商店は越前蟹を商う唯一の店。行ってみて驚いた。例年より倍以上の高騰で、しかも身が薄く痩せている。今年は大漁の筈なので、高騰の理由を主の斎藤さんに訊くと、コロナ禍の影響で帰省出来ない人が多いので、地元から発送する需要がかなり多いのが原因という。ならば蟹は1月中旬頃に出直すとして、手ぶらで帰るのも寂しいので、老舗の「松露」で九条ネギ入りの玉子焼き(秘伝のダシがよく、玉子焼きはこの店が一番美味しいと思う)を買い、鮭の専門、昭和食品で超辛口紅鮭を買う。昔ながらの製法で塩漬けして半年以上冷蔵したこの塩鮭は、焼いていると塩が吹いて来て白くなる絶品で、塩分の過剰摂取はもちろん体に悪い。しかし体に悪いというのは、何故か美味さに繋がっているから始末が悪い。……大晦日まではまだ日があるのに、市場の人出は既に多い。雑踏を縫うように歩きながらふと思う。……この人達は知っているのであろうか?昔、この築地場外市場が全て築地本願寺の地所であり、人々で賑わうこの場所が全て墓場と寺であった…という事を。

 

 

日本画家の鏑木清方の代表作に『一葉女史の墓』という名作がある。私と同じく樋口一葉を慕う鏑木清方が、一葉亡き後、この築地本願寺の墓地(つまり今の築地場外市場の場所)を訪れ、一葉の墓を写して画いた名作である。……清方の絵の着想の元となったのが、やはり樋口一葉を慕う泉鏡花が書いた『一葉の墓』という随筆で、当時(明治30年代)のこの築地本願寺辺りが実に淋しい場所であった事が伝わってくる哀惜に充ちた名文である。(ちなみに墓地は関東大震災で壊滅的に被災した為に、この墓地に在った樋口一葉の墓は「明大前」の築地本願寺和田掘廟所に、また琳派の酒井抱一や赤穂義士の間新六の墓は、築地本願寺の境内内にひっそりと移されている。)……当時と今の違い、築地場外市場が墓地であった事を示す地図を掲載するのでご覧頂きたい。〈昔日と変わっていないのは通りを渡った先にある割烹・新喜楽〈芥川・直木賞の選考会場で知られる〉だけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

年末の某日、……来年1月20日頃に刊行予定の私の初めての詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』の原稿が全て完成したので、神田神保町にある文芸・美術図書出版社・沖積舎の社主、沖山隆久さんと細かい打ち合わせをする。沖山さんは私の初めての版画集、初めての写真集を次々と企画出版された方で、今回の初めての詩集が三つ目の企画になる。つまり、私の版画、写真、詩における表現者としての生き方において、導きを作って頂いた恩人なのである。詩は今までも折りに触れて発表して来たが、「詩集」となると、また別なものがあるのである。

 

……神保町での打ち合わせを終えて、次に向かったのは、竹橋にある東京国立近代美術館であった。美術課長をされている大谷省吾さんにお会いして、今日は近代日本美術史にまつわる幾つかの疑問についての自説を語り、そして大谷さんの分析を伺うのである。……先月の高島屋の個展に大谷さんが来られた際に、私は北脇昇について書かれた実に詳細に考察された大谷さんのテクストを頂き、個展の時に読み耽っていた。知の考察は鋭く深ければ深いほど、ミステリアスな妙味の深度も更に増していく。先に東京国立近代美術館で開催された『北脇昇展・一粒の種に宇宙を視る』は、近代日本美術史、特にシュルレアリスム絵画の日本における受容と展開を研究対象とされている大谷さんの企画によるものであるが、私はこの展覧会を観て、北脇昇について今まで語られていたのが、北脇昇とシュルレアリスムとの関係のみで、それが北脇においては一つの角度からでしかなかった事を知り、北脇への解釈がこの展覧会で一変したのであった。つまり、私達が既知として知っていると思っている近代美術史を含めた様々な事が、実は多面体の一面でしか無かった事を痛感したのである。〈……以前に、慧眼で知られるドイツ文学者の種村季弘さんは私に「皆は1960年代以降の事ばかり騒いでいるが、本当に面白いのは、むしろその前夜、暗い黎明期の胚種の頃だという事を誰も気づいていない」という、実にものの見方のヒントとなる発想法を伝えてくれた事があった。……私が発想の源に比較文化的な視点を置くようになったのは、実にこの種村さんと芳賀徹(比較文学者)さんからの影響が大きい。〉

 

……いろいろと話を伺っていて、大谷さんの最大の関心事が画家の靉光である事を知り、私は大いに共振した。私もまた同じだからである。……靉光……近代日本美術史上、最も鋭く、幅の広い表現力を持ち、最も捕らえ難い画家と云えるこの画家の頂点にして、近代日本の呪縛的な絵画、謎めいたブラックホ―ル的な作品『眼のある風景』は、シュルレアリスムの影響からも逸脱して聳える一つの巨大な謎かけの「門」である。……この絵の眼球に息づく、僅か二刷毛で描かれた緑の描写に幾度、溜め息をつき、唸って来た事であろうか。その靉光、高村光太郎、松本竣介、佐伯、ロダン…等について話し、時間はあっという間に経ってしまった。…帰り際に大谷さんから、コロナ禍で開催が叶わなかった展覧会の図録『無辜の絵画―靉光、竣介と戦時期の画家』(国書刊行会)を頂いた。近代という謎を多分に孕んだ靉光への、私なりの推理が、あらためて始まったようである。

 

 

 

 

 

〈部分〉

 

 

 

……竹橋の美術館からアトリエに戻ると、郵便受けに手紙と小包が届いていた。開けると、手紙は詩人の野村喜和夫さんからで、野村さんの詩集『薄明のサウダ―ジ』が第38回現代詩人賞(日本現代詩人会主催)を受賞された事を伝えてくれる内容であった。野村さんは詩に関わる賞のほとんど全てを受賞している人で、詩の可能性を広める為にジャンルを越境して果敢に挑んでいる姿勢が私の最も共感するところである。私とはランボ―を主題とした詩画集『渦巻カフェあるいは地獄の一時間』(思潮社)の共著があるが、いずれまた何か新たな閃きが湧いた時に、野村さんと組んでみたいという考えを抱いている。この国のほとんどの詩人達は、ささやかな得手の領域(巣箱)で甘んじているが、野村さんは全くそういった閉じた所が無く、むしろ次の予測が全く読めない人なので、それがいつも私における、楽しみの一つなのである。……小包を開けると、美学の谷川渥さんから届いた『文豪たちの西洋美術―夏目漱石から松本清張まで』と題する新刊書であった。先月の高島屋での個展の最終日に谷川さんが来られた時に「近々、新刊書が出るので送りますよ」と言われていたので、楽しみにしていた本なのである。……日本近代文学の文豪達は、どんな作品(西洋の美術作品)に触発されて来たか!?を切り口とした、今までになかった斬新な角度からの鋭い記述が満載である。……文豪と西洋の画家との組合せ。妥当もあれば意外な結び付きもあり、既存の解釈がぐらついてくる知的快楽に充ちている。コロナ禍で籠る事が多い昨今であるが、そういう時に、ぜひ気軽に読まれる事をお薦めしたい本である。

 

 

……さて、コロナ禍に終始した2020年もいよいよ後僅かである。来年はいよいよ正念場。世界はウィルスに押し切られるのか!?、……それともワクチンが想像以上に効いて、土俵際の見事なうっちゃりで、収束へと向かわせられるのか!?……不気味な気配を孕んだまま、今し地球がゆっくりと回っている。……読者の方々の平安と無事を祈りつつ、今年最後のブログを終わります。

 

 

 

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『今、世界はあたかも泥の舟と化して……』

ずいぶん間が開いた久しぶりのブログ掲載になってしまった。あまり途切れるのが長いと「遂に北川もコロナでは……!?」と思われた方も或いは……。しかし、どっこい、私はまだ元気に生きています。とは言え、今後さすがに2ヶ月近くブログの更新がなかったら、まぁその時は私が昇天したと思って下さって間違いないでしょう。……しばらく更新が無かったのは、来年早々に刊行される予定の詩集の為に、詩の原稿を専らに書いていたからである。毎年12月は、さすがに来年の新しい作品展開に向けての、頭の切り替え、充電に使われるのであるが、今年の年末は詩作に耽る日々。いささか生き急ぎの感があるかもしれない。版画、オブジェ、コラ―ジュ、写真、評論……と螺旋状に切り開いてやって来たが、私がまだ集中して開けていない自分の可能性の引き出しは、純粋の言葉だけによる「詩」の領域、……そして1冊の詩集の刊行なのである。今までは小だしに書いて、写真集『サン・ラザ―ルの着色された夜のために』(沖積舎刊)の掲載した各々の写真の横に、写真作品と併せて載せる為に、90点の詩を3日間(つまり1日に30点の速度で詩を書き上げていく!)で書き上げたり、作品集『危うさの角度』(求龍堂刊)の中に入れる詩を書いては来たが、まとまった1冊全てが詩文で構成された詩集というのは初めての挑戦なので、また別な力が入るというものである。2年前に詩の分野の賞―歴程特別賞なるものは頂いたが、この受賞理由は、私の今までの全業績に対して……というものだったので、今回の詩集刊行への挑戦は、とにかく別物なのである。その詩作に没頭している間にふと世間を見やると、世界はコロナウィルスの凄まじい感染によって、まるで泥の舟、……あり得ない、しかし沈まないという予見の裏付けが無い様相を呈している。……18世紀中葉からイギリスで起きた産業革命は、加速的かつ致命的に自然を破壊して、今や人心までも荒んだものに変え、地球は断末魔の様相を呈しているが、地球サイド、豊かだった自然界、動物界から見れば、地球にとっての破壊的なウィルスは、私たち人類に他ならない。……聞いた話であるが、もし人類が絶滅しても地球にとって全く損失はないが、仮に蜜蜂が全て死滅したなら、地球の生態系がかなり壊滅的に狂う……という話は、なんとも暗示的である。今年の春に、人々が行動を控えた時、例えばヴェネツィアの濁ったアドリアの海が透明度をいや増して、魚が元気に泳ぐ姿を見たが、何やら近未来的な人類消滅後の地球の清んだ光景を透かし視るような思いであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

……さて今回は、私の友人の一人である久留一郎君について書こうと思う。久留君はデザインの分野ではかなり知られた実績のある人であるが、その美的な感性を、彼がかつて住んでいた神保町の部屋で、私はありありと目撃した事があった。古い面影を漂わせた神保町の街の佇まいはそれだけで惹かれるものがあるが、その街の闇に溶け込むようにして、ある黄昏時に彼の部屋を訪れた事があった。……下町の何処にでもありそうな小暗い印刷工場(だったか?)の中に入り、暗い階段を彼に導かれるままに上がって行くと、突然目の前に広がっていたのは、完全なる美意識の映し、喩えるならば、そこだけがパリの一室、例えばリラダン男爵の舘の一室ではないかと見紛うような眩惑の気配をその部屋は漂わせていた。洗練された調度品といい、積まれた書籍の内容といい、何かの魔法にかかったような気持ちであった。そのダンディズムの薫り漂う部屋に私のオブジェ作品『ヴェネツィア滞在時におけるアルブレヒト・デュ―ラ―に関する五つの謎』(作品画像は、拙著『危うさの角度』に掲載)が掛かっていて、実に調和していたのを思い出す。……しかし、3・11の激しい地震の揺れをもろに受けて部屋は倒壊し、その部屋の耽美に充ちた印象の記憶は、残念ながら私の記憶の中に今も消えない鮮やかな眩惑性を帯びて、ひっそりと息づいている。(後で聴くと、彼は私の作品を抱えてその部屋から避難したようである。)閑話休題、今、私はリラダン男爵の名前を挙げたが、その夢幻の世界と近似値的に近いポーの世界を彼は幼年の時から熱愛している一人である。……そしてコロナ禍の今、彼は一念発起してネットによる画像配信によるポーの世界への頌(オマ―ジュ)の開示を立ち上げた。……それに関して私も協力する事となり、ゲストクリエイタ―としてコラ―ジュ『モ―リアックの視えない鳥籠』という作品を提供した。その私の作品の中には一見してポーらしきものは無い。しかし、作家にして名書評家でもあった故・倉本四郎氏(『鬼の宇宙誌』『妖怪の肖像』などの名著多数)は、私の作品を評して、私を「ポーの末裔」と呼んだ事があり、私を面白がらせた。今では伝説的な画商として語られる故・佐谷和彦さんも私を同じように評した事があり、偶然とはいえ面白い。その倉本さんは一言にして本質を語る卓見の人であった。…………これは私見であるが、オマ―ジュにポーの肖像を画く事はむしろ容易(たやす)いし、ある意味、それは既存のポーのイメ―ジに寄り掛かった借景であり、安直であると私は視る。……ポーの世界とは、その表裏に於いて繋がり、或いは地下で通底し密接しておれば良いので、私は彼にそのような作品を提供した。彼の今回の試みにはフランス文学者にして、日本におけるシュルレアリスム研究の第一人者、巌谷國士氏も久留一郎君の為に長文を書いている。今回のコロナ禍の中にあって久留君は最も精力的にポーに挑んでいるが、その姿はなかなかに考えさせられるものがある。一つの試みとして私はこの挑戦の行く末に密かな興味を持っているのである。……ご興味のある方は、ぜひ彼のサイトを開かれて、ご覧になる事をお薦めする次第である。

 

 

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『記憶の謎―迷宮の無限回廊』

3週間に渡って日本橋高島屋本店・美術画廊Xで開催された個展『直線で描かれたブレヒトの犬』が終わり、今は初めての詩集の刊行が企画されている為に、詩を書き下ろしている日々である。思い返せば、個展時は毎日会場に行き、新作の〈今〉の姿を静かに考えたり、様々な人との嬉しい再会があり、また新たな人達との出逢いがあって、実に手応えのある展覧会であったと思う。……ともあれ、ご来場いただいた皆様に心よりお礼申しあげます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……個展会場にいると様々な人が来られるので、これが実に面白い。Mさんはその中でも異風の人であったかと思う。画廊Xの受付の人に「彼(私の事)、大学が一緒なんですよ」と言う声が耳に入って来たので振り向くと、そのMさんが私の前にやって来てマスクを外し「私の事を覚えていますか?」と問うので、私は「申しわけないですが、全く覚えていません。でも貴方だってそうでしょ?」と言った。するとMさんは「いや、北川さんの事は強烈に覚えていますよ!…だってあなたは入学式の時に学生服を着て来たので、最初からかなり存在感が強かった!」と言う。私が学生服を?……全く覚えてない話であるが、言われてみるとそんな事もあったような気も少しする。私の忘れていた自分の記憶の一部を、私でない他人が所有しているという事は、ちょっと風が吹くような感覚である。(……私が学生服姿で大学の入学式に現れた?)……まぁ、これをわかりやすく例えれば、実践女子大の着飾った華やかな入学式に、1人だけ鶴見の女子高のセ―ラ―服姿で荒んだ顔の娘が現れたようなものか。……そんな事あったかなぁと思う自分と、いやこれは、Mさんが懐いている私のイメ―ジが独走して紡いだ錯覚ではないかと思う、もう一人の自分がいる。……過去の一つの事象に対して立ち上がる、異なる断定と懐疑、また別な角度からの予想外の解釈が現れて、そこに短編のミステリ―が誕生する。一つの事象に対して複数の証言者が全く違った物語を展開する。……それを膨らますと、何だか芥川龍之介の『薮の中』、またそれを題材にした黒澤明の『羅生門』のようである。

 

写真家のエドワ―ド・マイブリッジが3台のカメラを使って撮影した、一人の女性が椅子から立ち上がった数秒間の動作を正面、右側、やや背後の三方から同時に撮した写真があるが、視点の違いから、同じ瞬間なのにかくも違って見えるから面白い。記憶もそうである。人が懐かしいと思って記憶している或る場面とは、つまりは一つの角度からの光に充ちた光景に過ぎず、違った角度から見れば、それは何と闇に包まれた別相なものである事か。ことほど左様に記憶とは覚束無い、つまりは脳の不完全な営みが産んだ幻影のようなものなのである。……先ほどの入学式の記憶をもっと解体すると、そもそも私は本当に美大に行ったのか?……もっと言えば、そう思っている実の自分は、未だ幼年期に故郷の神社の木陰で涼しい風をうけながら惰眠をむさぼっている、少し永い夢見の少年のままでいるのではないだろうか?……荘子が詠んだ『胡蝶の夢』、更には王陽明の詩にある「四十余年、瞬夢の中。/而今、醒眼、始めて朦朧。…………」或いは更に現実を離れて、唯心論の方へと、想いは傾いても行くのである。

 

 

 

 

……さて、今まで書いて来た事「記憶とは何か?……その不確実性が生むミステリアスな謎の無限回廊」を映画化した名作がある。アラン・レネ監督、脚本アラン・ロブグリエによる『去年マリエンバ―トで』が、それである。…私が、美術をやるか、或いは映像、文芸評論、……それとも舞台美術の何れに進むか!?その進路に迷っていた頃に観て自分の資質を知り、先ずは、銅版画の持つモノクロ―ムの冷たく硬質な、更に言えば強度な正面性を孕んだ表現分野に没入して行く事を促してくれた、決定的な出逢いとなった作品なのである。……この映画に軸となる一本の定まった筋は無い。文法的に言えば、文章が成り立つ為の規則―統語法(シンタックス)が外されている為に、それを観た観客は謎かけを提示されたままに、冷たい幾何学的な硬い余韻のままに映画館を去る事になるが、しかし想像する事の妙が次第に立ち上がって来て痛烈に忘れ難い印象を、私達の内に決定的に刻み込んでくる。……アラン・ロブグリエは映画化に先立ち四本の脚本を作り、それをバラバラにした後で繋ぎ合わせるという実験的な手法を用いた。「①現在、②Xの回想〈Xにとっての主観的事実〉、③Aの回想〈Aにとっての主観的事実〉、④過去〈客観的事実➡Mの視点〉の四本である。……ちなみにこの映画を、シュルレアリスムに深く関わった詩人の瀧口修造は「私における映画の最高傑作」と高く評している。画像を一点掲載するので、そこからこの映画の気配を感じ取ってもらえれば何よりである。

 

 

 

 

この映画『去年マリエンバ―トで』に、ダンスの勅使川原三郎氏が果敢に挑戦するという報が入って来た事は、最近に無い鮮烈な驚きであった。かつて観たあの難物に、最近ますますその才を発揮している佐東利穗子さんと共にデュオで挑む!!……氏の公演は三十年前から観始め、およそ七年前からは殆ど欠かさず集中的に観ており、このブログでも機会をみては度々書いて来たが、今回の公演はまた別な昂りもあり、今から公演が待たれて仕方がない。題して「去年『去年マリエンバ―ドで』より」。「……二十世紀は二人の怪物を産んだ。ジャン・ジュネニジンスキ―である」と書いたのは鋭い予見の人でもあった三島由紀夫である。私はそのニジンスキ―の伝説的なバレエの舞台に立ち会えなかった事を後悔し、長い間、嘆息をついていたのであるが、勅使川原氏のダンスを知ってからは、その嘆きも何時しか消えた。……送られて来た今回の公演の案内状には、「記憶ほど怪しいものはない。交わらない視線上の女と男」という一行と共に、以下のような一文が記されていた。「……私にとって記憶とは、頭脳で操作する遠近法ではなく、不確かに記録した身体内に置き去りにされた消えつづける煙のようなものを物質化する遊戯のようです。遊戯としての記憶と希薄な身体とが時間をさかのぼりさまよい途方にくれる。螺旋状に女は蒸発しつづけ男は常に決して勝てないゲ―ムをつづける。…………勅使川原三郎」

 

会場・シアタ―X(東京・両国)
会期: 2020年12月12日(土)・13日(日)・14日(月)・15日(火)

詳しいお問合せ : KARAS(カラス)  TEL03―5858―8189

 

〈チケットの取扱〉

チケットぴあ・イ―プラス

シアタ―X 〈電話予約・03―5624―1181〉

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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