月別アーカイブ: 3月 2023

『桜が咲いたその夜に、橘夫人が……』

……作品の制作中はアトリエの中は全くの無音であるが、寛いでいる時はレコ―ドを聴く事が多い。脳のリセットに丁度良い。……最近は専らジュリエット・グレコを聴いている。曲で特に気に入っているのは『あとには何もない』という曲。低音の艶を帯びたグレコが歌い紡ぐ、過ぎ去りしサンジェルマン・デ・プレのノスタルジックな情景は、留学時にそこに住んでいた時を彷彿とさせ、風景や街の匂いまでがありありと浮かんで来て懐かしい。

 

聴きながらアトリエの外の桜の樹に目をやると、満開を過ぎて散りゆく桜花が美しい。…時おり、通行人がそれを撮影しているのが目に映る。

 

 

 

……桜と言えば、幕末に坂本龍馬が好んで唄った都々逸に「咲いた桜になぜ駒つなぐ/駒が勇めば花が散る」というのがある。元々は伊勢の民謡で男女の事を謳った卑俗な唄らしいが、龍馬は薩摩の島津久光の命令で起きてしまった「寺田屋事件」の悲惨な同士討ちへの憤りを嘆いて度々三味線を弾きながら唄ったという。…曲本来の意味を変える、引用と見立てのセンスが龍馬は抜群である。……龍馬自作の都々逸は「何をくよくよ川端柳/川の流れを見て暮らす」というのがある。実に粋であるが、粋と云えば、長州の暴れ馬、高杉晋作の作った都々逸「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」もなかなか秀逸である。

 

幕末の変革を起爆的かつ実質的に変えたのは、西郷隆盛、坂本龍馬、高杉晋作の三人の行動力であるが、その中の二人が共に風狂な諧謔精神を多分に持っていた事は興味深い。この二人に共通していたのは即興の力であり、機敏―即ち、機を視るに敏の能力が、長州の藩論を一気に倒幕へと動かした巧山寺挙兵の高杉晋作のク―デタ―、また坂本龍馬の薩長連合や大政奉還の仕掛けへと繋がっていった事は周知の通り。……桜について色っぽく書こうと思っていたら、また熱くなってしまったので、ここで少しく話題を変えよう。

 

 

先日、京都の観光名物の一つ、亀岡から嵐山へと流れる保津川を舟で行く「保津川下り」で船頭の棹(さお)の操作ミスにより舟が岩に激突し座礁して転覆、四人乗っていた船頭の内の一人が死亡、もう一人の船頭が今も行方不明という事故が起きた。乗客25名はライフジャケットを着けていたので無事であったという。

 

……私はこの事故の詳細を知ってゾッとした。今から30年前の春、桜の花見時に京都にいて、この保津川下りを体験していたからである。ゾッとしたのは他でもない。私が乗った時はライフジャケットなど無く、もしその時に転覆事故が起きていたら果たして……と思ったからである。

 

亀岡を出発して終点の嵐山・渡月橋まで舟で行く距離は16Km、およそ二時間の舟旅である。……私は数名の知人と一緒に乗っていた。桜が満開の時で風景が華やいでおり、乗客はみな浮かれ気分であった。……江戸時代から、嵐山遊山の名物の一つであった、この保津川下り。船頭の巧みな技で、川の巨大な岩々に棹を当てて漕いで行くのであるが、その棹を岩に当てるポイントが決まっている為に、長年の時を経て、その岩に棹の当たる所に穴が出来ている。それ程に永い歴史をこの観光名所は持っているのである。

 

…………最初は流れが緩やかなので、船頭が客に「誰か棹を操ってみませんか?」と楽しそうに言う。すると、私が乗っていた時は中年の主婦らしき人が勇んで手を挙げ「私、やります!」と言って立ち上がり、棹を操ってみせた。なかなか上手い。……すると船頭が「さすがお客さん、人妻だけに棹(竿)の扱いが実に上手い!」と下ネタのジョ―クを言って笑わせた。……鴨にされたその主婦はふくれるが回りは爆笑。おばさん達も笑っている。ある意味それも恐いが……。思うにこの船頭、毎日飽きもせず、このネタで楽しんでいるのだろうな、と思ってみたりもする。

 

……さらに舟が行く。……私は舟に乗りながら、昭和25年7月3日に、この保津川に、乗っていた山陰本線の列車から真っ逆さまに飛び降りて死んだ一人の女性・林志満子の事を想っていた。〈昭和25年〉、〈林〉……この2つの言葉でピンと来たら、その人の連想力は刑事級であるかと思う。……先を急ごう。……林志満子、……昭和25年の7月2日の深夜に金閣寺を焼いた林養賢の母親の名前である。……事件翌朝、舞鶴から駆けつけ、牢獄にいる息子に面会を求めたが息子に拒絶され、その帰途に母は列車から、……私達がいるこの保津川に投身して果てたのである。……『金閣寺』を刊行した直後に対談した三島由紀夫小林秀雄との会話の中で、この保津川の寂しい景色の事を(静まり返った不思議な所)と二人が共に語った箇所を読んでいて、いつかその場所に行ってみたいと思っていたのである。

 

……………………「さぁ、これからがスリル満点の荒々しい場所に入りますからね。皆さん覚悟はいいですかぁ!」と船頭が大声で言って、最大の難所―大高瀬という流れの激しい場所に舟が入って行く。……この度の転覆死亡事故はそこで起きたのであった。「事故はやはりあすこで起きたのか!」……当然だなと思う程に今もありありとその時の光景が浮かんで来る、そこは激しい急流なのである。だから、その難所を経て流れは次第に穏やかになり、終点の嵐山の渡月橋が正に大観の「生々流転」の縮図、劇のカタルシスのように効果的に見えて来るのである。……

 

 

 

今回のブログは、タイトルにあるように橘夫人が登場する予定であったが、桜にまつわるエトセトラにくわれてしまい、どうやら出番を見失って、小栗虫太郎の小説の行間の中に入っていってしまったようである。橘夫人には、またいつか登場して頂く事にしよう。

 

 

 

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『「人形の家」奇潭』

その①……

春三月・早いもので、いよいよ桜が満開を迎える頃になった。昼の制作時の集中のせいなのか、夜は床に就くのがかなり早い。寝床ではいつも読書三昧であり、これが実に愉しい。最近読んだ本は坪内稔典著の『俳人漱石』(岩波新書)。……夏目漱石正岡子規に、著者の坪内氏が加わりながら、初期の漱石が作った俳句百句について各々が自由に意見を述べるという、夢の机上対談である。

 

周知のように、漱石(1867~1916)は森鴎外と共に日本近代文学の頂点に立つ文豪であるが、小説家としてのスタ―トは実は遅く、そのデビュ―作『吾輩は猫である』を書いたのは1905年、実に漱石38歳の時であった。……では、その前は何をしていたかと云うと、親友の正岡子規に作った俳句の添削を仰ぐ熱心な俳人であった。その詠んだ句数はおよそ2000句。しかし子規と比べてみると、漱石の俳句は詰めと捻りに今一つの冴えが無い。

 

子規は一生懸命に添削をして鍛えるが、子規の死後に俳誌「ホトトギス」を継承した高浜虚子などに言わせると、「俳句においては漱石氏などは眼中になかったといっては失礼な申分ではあるが、それほど重きに置いてなかったので、先輩としては十分に尊敬は払いながらも、漱石氏から送った俳句には朱筆を執って○や△をつけて返したものであった」と書いている。

 

 

〈余談であるが、この高浜虚子という名前。以前から実にいい名前であり、構えに隙が無い城郭のようなものとして私には映っていた。しかしこの度の坪内氏の本を読んで、高浜虚子の本名を知って驚いた。驚きのあまり寝床で読んでいる本が顔に当たりそうになった。その本名とは…………高浜清(きよし)。……禅の悟りの境地のような響きを帯びた虚子(きょし)でなく、身近にもよくいそうな、やさしい響きのきよしなのである。それを知って、文藝の山脈の高みから一気に下りて来て、前川清(ク―ルファイブ)、西川きよし……の列に近づいて来た時は何故か嬉しくなってしまった。(察するに少年時の呼び名はキー坊ででもあったのか?)……この人も頑張って来たんだなぁ、そんな感じである。ちなみに虚子と命名したのは正岡子規。〉

 
しかしこの高浜虚子の存在が、俳人から文豪夏目漱石へと変貌する切っ掛けを作ったのだから、その功績は大きい。……虚子は自らが主宰する俳誌「ホトトギス」に何か書くように漱石に薦めた。そして書いたのが国民的小説『吾輩は猫である』であった。……漱石は以後、『坊っちゃん』『草枕』『三四郎』『それから』『門』『こころ』『明暗』へ……と一気に文豪への階段を駆け上がっていった事は周知の通り。……そこで私は考えてみた。漱石はなぜ完成度の高い小説を次々と、まるで堰を切ったように書きえたのか?と。…………そしてその才能の開花の伏線に、23歳の時に正岡子規との交友が始まり、以後、子規の死まで2000句にも及ぶ句作の訓練をした事が膨大なイメ―ジの充電に繋がったに違いないと私は思い至ったのである。

 
漱石の最高傑作は『草枕』であるが、それは俳人・与謝蕪村が俳諧で描いて見せた理想郷を小説化したものである。私は拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』(求龍堂刊)を書くにあたり蕪村の俳句2000句を詰めて分析し、そのイメ―ジの多彩さ、絢爛さ、その人工美の引き出しの多さに目眩すら覚えた。……漱石がその初期から最も心酔し、影響を受けたのがこの蕪村であった。……俳句とは五七五の17文字の中にイメ―ジを凝縮し、爆発的に放射させる力業の分野である。……漱石は、小説家としての出発以前から既にして、〈夏目漱石〉が準備されていたのであり、その才能の開花に大きく寄与したのが、もう一人の天才正岡子規の存在であった事は言うまでもない。

 

 

 

その② ……

昔、銀座七丁目に『銀巴里』という名の日本初のシャンソン喫茶があった(今はそれが在った事を示す小さな石碑のみが建っている)。……私も美大の学生時に知人に誘われて何度か訪れた事があった。三島由紀夫川端康成等も度々訪れた伝説のシャンソン喫茶である。若き日の美輪明宏金子由香利戸川昌子岸洋子……達が専属歌手として歌っていた。……そのシャンソン喫茶にピアフグレコアズナブ―ル……等のシャンソンの訳詞を書いて現れては、なにがしかの翻訳代を受け取って生活している若者がいた。後年、私も2回ばかり銀座で間近で見かけた事があるが、その若者は、獲物を確実に仕留めるような切れ長の、獣のような鋭い眼をしていた。……後の作詞家、なかにし礼である。……以前から私はこの人が書く詩が放つ〈艶〉に興味があった。そして、その詩法なるものに興味があった。……例えば、この人の初期にあたる作詞に『人形の家』という、弘田三枝子が唄ったヒット曲がある。……

 

 

顔もみたくないほど/あなたに嫌われるなんて/とても信じられない

愛が消えたいまも/ほこりにまみれた人形みたい

愛されて捨てられて/忘れられた部屋のかたすみ

私はあなたに命をあずけた

 

 

……詩は一見、哀しくも耐える女のそれと映るが、異例の大ヒットのこの曲に、何か直感的に引っ掛かるものがあった。もっとこの詩には底に秘めた何かがあるに違いない、そうずっと思っていた或る日、なかにし礼本人がその底にあるもう一つの意味を、たまたま観ていたテレビで語った時には驚いた。……この詩に登場するのは、天皇と、召集令状が来て南方へと行き戦死した日本兵士だと、氏は告白したのであった。中国の牡丹江から命からがらに逃げて来た僅か10才の少年、なかにし礼の視た人間が獣と化す地獄絵図。………はたして直感は当たっていた。……なかにし礼における作詞のメソッドには、強かな二元論が入っていたのである。

 

それを知ってから、更にその詩法が知りたくなった。指紋のように付いてくるその艶の正体が知りたくなった。……私が出版編集者であったら、その詩法を書いて本にすれば面白い本になる筈、そう思っていた。……先日、制作の合間を縫って横浜の図書館に川本三郎氏の著書『白秋望景』(新書館刊行)を借りに行った。係の人から文芸・詩・俳句のコ―ナにある筈です、と言われ探したがなかなか見つからない。……すると2冊、目に入る本があった。一冊は先述した拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』。この図書館の美術書のコ―ナ―には拙著『モナリザミステリ―』(新潮社刊行)があるが、この本が文芸の俳句の欄に在る事は作者の執筆意図が反映されていて嬉しいものがある。

 

……そして、その本の近くに、願っていた本が川本三郎氏のすぐ横の詩の欄に『作詩の技法』(河出書房新社刊行)―なかにし礼というタイトルで見つかった。氏が亡くなる直前、2020年に刊行した遺作本である。作詞でなく、作詩と書いてあるのが氏の矜持と視た。

早速借りて来て読むと、一作が出来る迄の膨大な迷い、閃き、更なる言葉の変換が書いてあり、美術家としてでなく、私も詩を書く表現者として実に興味があった。……そして、なかにし礼氏の艶なるものが次第に見えて来た。……それはプロの作詞家になる以前の膨大な、およそ2000曲は翻訳して書いたというシャンソンの翻訳作業時代に培われて来た感性の構築が大きく関わっていると私は視た。……シャンソンの詞が孕んでいる愛憎、哀愁、そして洗練された優雅なるエスプリ。氏はそこから多彩な艶を吸収し、掌中に収めていったと私は視たのであった。

 

 

…………最初に書いた夏目漱石の俳句の修行時代に作った俳句、およそ2000句。そしてなかにし礼氏が食べて生きていく為に書いたシャンソンの訳詞数、およそ2000曲。……不思議な数字の符合である。

 

 

……以前に、ダンスの勅使川原三郎氏と公演の後だったか忘れたが、楽屋で雑談をしていた時、氏はこう語った事がある。「我々は10代から20代の半ば頃迄に何を吸収し、自分の糧としたかで、その後の人生は決まって来る。ひたすら吸収した後は、その放射だけである」と。全く同感である事は言うまでもない。

 

 

 

 

 

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『……それは拷問の話から始まった』

①…………今から思えば、…あれはその場所の「残酷な土地の記憶」というものが多少なりとも響いていたように思われる。……あれ、あの時、つまり前々回のブログで書いた、大寒波の夜に京都.先斗町で、京都精華大教授の生駒泰充さん、そして京都高島屋美術部の福田朋秋さんと一緒におばんざい屋の酒席で語り合っている時に、どういう弾みであったか、話は美術から離れて次第に血の気の多い世界史上における残酷な様々な拷問の話へと移っていった。……その話題へと突き動かしたのは、やはり、私達がその時、語り合っていた場所の土地の記憶の成せる業であったのか?

 

 

…………先斗町、その場所の残酷な土地の記憶。……それは今から158年前の「池田屋事件」に遡る。……河原町四条上ル東(先斗町近く)で古道具屋を商っていた尊皇攘夷の志士、古高俊太郎宅を急襲した新撰組に踏み込まれ、武器弾薬を押収され、諸藩志士と交わした手紙や血判書が押収され、屯所に連行された古高は過酷な拷問を受け、遂にその痛みに耐えきれず口を割り、御所に火を放ち、天皇を長州に連れ去ろうという計画を自白、それが池田屋事件へと発展した事は周知の話であるが、その時の自白へと至らしめる為の拷問が凄かった。新撰組副長・土方歳三の指示で、古高は屯所の二階から逆さ吊りにされ、足の甲から五寸釘を打たれ、貫通した足の裏の釘に百目蝋燭を立てられ火をつけられたのである。日本拷問史に残る特筆すべき一例であるといえよう。

 

 

 

 

……また、この先斗町近くは、桂小五郎の愛人・後の妻の幾松寓居(ここにも新撰組が踏み込んでいる)跡があり、佐久間象山大村益次郎、そして坂本龍馬中岡慎太郎の暗殺現場も近いという血飛沫が飛び交った場所柄、私達の話が自ずと熱くなってしまったのは仕方がない。……拷問の話は西洋の方へと拡がっていったが、突然「北川さん、こんな話は知ってますか?」と生駒さんが面白い中国の拷問の話を切り出してくれた。……拷問と云えば、痛みが伴うものだが、生駒さんが語ってくれた話は違っていた。全く痛みが伴わない「ジワジワ」の話なのである。……生駒さんは語る。「狭い部屋の中に人間を閉じ込める、ただそれだけの話です。しかしこの部屋にはちょっと変わった仕掛けがあって、部屋の四面の壁面に一本に繋がった平行線が引かれています。しかし、その1ヵ所の平行線だけが〈ちょっとだけ〉歪んでいる。……ただそれだけですが、部屋に閉じ込められた人間は、日々の中でその歪みがどうしても眼に入ってしまい、やがて次第に精神に歪みが生じ、常軌を逸して来るという、そういう話です」。

 

……その場では、確かに面白い話の1つを教えてもらったというだけで、話題は別な方に移っていき、やがてお開きとなったのであるが、祇園の宿に帰ってから、先ほど生駒さんが語ってくれた、その歪んだ平行線の話が妙に気になり出し、今やその話は、鉄による立体作品の構想へと発展して来ているのである。元来、私の作品には垂直性と正面性がオブセッションのように食い込んで来ている事もあり、垂直線と平行線の交差した絡みがそこに入り込んで来て私の感性を揺さぶり、日々、時間の合間をみては、狭い部屋に見立てた立方体や直方体を描いて、その一辺に歪みを入れた図面を作っているのであるが、なかなかにこれが面白く、私は今、のめり込んでいるのである。

 

 

②2月最終の1週間は特に慌ただしかった。4月から5月に、私の親しい人達三人の方が続けざまに個展を開催するので、個展案内状に載せる序文の詩や、画廊で展示する為のテクストを頼まれていて、その作品を拝見し、各々の方の作品に寄せる想いを伺ってから文章にしていくという作業をしていたのである。その中の一人、私の後輩としても永いお付き合いをしてもらっている彫刻家の川越三郎君のアトリエに行く為に千葉へと向かった。電車で横浜から二時間で千葉の茂原駅に行き、そこから川越君の車でアトリエに向かうのである。……アトリエといっても彼は石を彫る彫刻家なので、仕事場は外である。このあたりはミケランジェロの時代と何ら変わらない。……広いスペ―スの中に石彫りの未だ途中の作品も幾つか在り、私はこういう生の現場を視るのが好きである。最初訪れたのは昨年の春であった。気軽に訪れたのであったが、なかなか重厚にして深い作品が何点かあるのを視て、私は彼に個展の開催を薦め、それがこの5月に実現の運びとなったのである。……何点か撮影したので、その画像と、私が彼の作品から触発されて書いた詩をここに掲載しておこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

光のプリズムを浴びて
石の豊穣の中に神話学が走る。
打つ、削る、弾く、磨く……………………、

そこに生まれる
メビウスの曲線、スピノザの直線、
或いはカッラ―ラの石化する感情よ。
………………………………

幾何学の深奥にイメ―ジが宿り、
石の表が官能の華と化す。
物語の最終行が
遂には伝説に変わるように。

 

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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