松井須磨子

『登場する明智小五郎』

…いつの頃からか、妙に気になっている場所があった。…場所はJR日暮里駅改札を出て谷中墓地へと上がる石段を上り、天王寺を越えた先の左側の陸橋真下に線路と平行して広がって在る「芋坂児童公園」がそれである。…児童公園とは名ばかりで、児童が遊んでいる姿など見た事が無く、…仮にいたとしても人気の無いこの場所で一人で遊んでいたら、十中八九怪しい男に拐われるだろう。墓地にした方が相応しいのだが何故か墓地にもなっていない。何だか仮っぽく見えるこの土地は、果たして何だろう?

 

……………先日、森まゆみさんの著書『「谷根千」地図で時間旅行』(晶文社)を読んでいたら、あっさりその謎が解けた。そこにはこう書いてあった。(……また三月十日の空襲(東京大空襲)では、いまの日暮里駅に近い児童遊園のあたりに死者が埋葬された。)…と。…古くからある公園の歴史には案外こういう伏せた物語が多い。

 

…例えば墨田区に今もある錦糸公園は、1945年の東京大空襲で命を落とした人たち実に1万余の遺体がこの公園に埋葬されたという。……  (…富蔵さん、児童公園と言いながら遊具など全く無いですね)…跨線橋にもたれながら、私は同行してもらった田代富夫(通称・富蔵さん)さんに、そう呟いた。…すると一人の男性が近づいて来た。訊くとここ谷中墓地の管理をされているとの事。富蔵さんが、この児童公園の来歴を話すと、その方も知らなかったらしく驚いていた。

 

…個展が終わった先日、私は、このブログで度々登場される富蔵さんと日暮里のカフェで久しぶりにお会いして、様々な話をして午前を過ごしていた。午後から私は、件の児童公園~谷中に在った川端康成の旧宅、そして、前回のブログで書いた川端の不気味な短編小説『化粧』の舞台となった谷中の斎場跡(芥川龍之介大杉栄伊藤野枝他を焼いた場所)を探して観ようと思っていた。…午後からの私の行動予定を富蔵さんに話すと、好奇心が強い富蔵さんは付き合ってくれるというので、先ずは児童公園の方へと一緒に向かったという次第である。

 

 

…件の児童公園を見た後で、霊園を抜けて、上野桜木町の川端康成旧宅跡(画像掲載)と隣接して在った斎場跡(画像掲載)を目指すと、すぐにその場所はわかった。

 

 

 

…当時の詳細な地図のコピ-を、私は事前に作って持参していたのである。

 

 

 

 

 

 

 

……川端の小説の中でも最も感性の鋭い時期に書かれたのが、この上野桜木町時代であり、川端康成の122編の短編小説を収録した掌編小説集『掌の小説』(新潮文庫)にその多くが入っているので、ご興味がある方には、ぜひお薦めしたい。

 

 

夕方から用事があるという富蔵さんと上野桜木町で別れて、私は三崎坂を下って、真向かいにV字へと上がっていく急な坂道の団子坂を上がり、次なる目的地へと向かった。…江戸川乱歩の小説『D坂の殺人事件』の舞台となった場所跡を目指したのである。

 

 

………「それは九月初旬のある蒸し暑い晩のことであった。私は、D坂の大通りの中ほどにある、白梅軒という、行きつけの喫茶店で、冷しコ-ヒ-を啜っていた。…(中略)…さて、この白梅軒のあるD坂というのは、以前菊人形の名所だったところで、狭かった通りが市区改正で取り拡げられ、何間道路とかいう大通りになって間もなくだから、まだ大通りの両側にところどころ空地などもあって、今よりはずっと淋しかった時分の話だ。大通りを越して白梅軒のちょうど真向こうに、一軒の古本屋がある。実は、私は先ほどから、そこの店先を眺めていたのだ。みすぼらしい場末の古本屋で、別段ながめるほどの景色でもないのだが、私にはちょっと特別の興味があった。というのは、私が近頃この白梅軒で知合いになった一人の妙な男があって、名前は明智小五郎というのだが、話をしているといかにも変わり者で、それが頭がよさそうで、私の惚れ込んだことには、探偵小説好きなのだが……… 」

 

………という始まりで、話は次第にサディズムを孕んだ陰惨な猟奇殺人事件へと展開していく。…私が目指したのが、正にこの小説の舞台となった団子坂(つまりD坂)であり、後に私立探偵の代名詞となっていく明智小五郎が、この小説で初めて登場するのである。

 

また文中に書かれている古本屋とは、実際に江戸川乱歩が二人の弟たちと営んでいた書店『三人書房』であり、この団子坂を登りきった場所(千駄木五丁目5-14)に乱歩は住んでいたのであった。(…時代は大正8年、あの松井須磨子が自殺した年である。)

 

 

 

この小説を初めて読んだのは高校時代であったが、その時以来、私はいつかこのD坂なる怪しい場所に行ってみたいと思っていたのである。妙にこのタイトルに惹かれるものがあった。…D坂が団子坂という名前である事を知った時は唖然としたが、やがて乱歩のそのタイトルの付け方の妙に私は惹かれていき、影響すら受けたのであった。

 

(これに似たのがクレーの名作『R荘』というのがある)…私がタイトルや、オブジェの中に時々アルファベットの大文字を使うのは、実にこの『D坂の殺人事件』というタイトルからの影響が大きいのである。

 

 

 

……鴎外の旧宅(観潮楼)の跡地に建つ森鴎外記念館が見えて来て、さらに暫く行くと右側の番地が正にその三人書房があった場所。

辺りにいる筈がない乱歩や明智小五郎の影を探すが、時代は既に令和となって抒情も怪しさも、物語の発生する気配すら無い。

 

 

…私はこの小説の芯となっている彼ら「高等遊民」(ある意味、シャ-ロック・ホ-ムズもそうであるが)が生きていた虚構と現実の間(あわい)が好きなので、その影を、もはや暮れ始めて来た、このD坂なる坂道の翳りの中に追ったのであった。…坂を下って途中から左へ折れると、高村光太郎智恵子の旧宅跡、その隣には池田満寿夫さんが若き日に住んだ旧宅跡が在る、それはまた次の探訪の楽しみにするとして、千駄木駅の改札口へと向かったのであった。

 

 

 

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『12月のMemento-Mori』

①……最近、以前にも増して老人によるアクセルとブレ―キの踏み間違いによる悲惨な事故(年間で約3800件!)が起きていて後を絶たない。私は運転免許が無いので詳しくはわからないが知人に訊くと、アクセルとブレ―キのペダルの形が似ていて位置が近いのだという。それを聞いた時、〈それではまるで、…こまどり姉妹ではないか!!〉私はそう思ったものであった。双子の姉妹のように瓜二つでは駄目だろう。

……せめて、「早春賦」を唄う安田シスタ―ズ(由紀さおり・安田祥子)くらいに見分けがつかないと駄目だろう。……そう思ったものであった。最近、その構造の見直しや改良が行われているというが、本末転倒、車社会になる以前にもっと早くから改良すべき、これは自明の問題であろう。とまれ、私達はいつ暴走車の被害者になるかわからない。毎日がメメント・モリ(死を想え)の時代なのである。

 

 

 

②12月に入り、いきなりの寒波到来であるが、ふと、先月に開催していた個展の事を早くも幻のように思い出すことがある。たくさんの方が来られたので、毎日いろんな話が飛び交った。今日は、その中のある日の事を思い出しながら書いてみよう。

 

……その日の午後に来廊した最初の人は、友人の画家・彌月風太朗君であった。(みつきふたろう)と呼ぶらしいが、些か読みにくい。私は名前を訊いた時に、勝手に(やみつきふうたろう)君と覚えてしまったので、もうなおらない。茫洋とした雰囲気、話し方なので、話していて実にリラックス出来る人(画家)である。彼は、このブログに度々登場する、関東大震災で消滅した謎の高塔「浅草12階―通称・凌雲閣」が縁で、お付き合いが始まった人である。ちなみに彼は私が安価でお分けした凌雲閣の赤煉瓦の貴重な欠片(文化財クラス)を今も大切に持っている。

 

 

(……ふうたろう君は、今、どんな絵を描いていますか?)と訊くと、(今は松旭齊天勝の肖像を描いています)との返事。私も天勝が好きなので嬉しくなって来る。松旭齊天勝、……読者諸兄はご存じだと思うが、明治後~昭和前を生きた稀代の奇術師・魔術の女王。小説『仮面の告白』の中で、三島由紀夫は幼い時に観た天勝の事を書いている。実は個展の前の初夏の頃に、私はプロマイドの老舗・浅草のマルベル堂に行って、松井須磨子と松旭齊天勝のプロマイドを求め店の古い在庫ファイルを開いたが、(お客さん、すみませんが今は栗島すみ子からしかありません)といわれた事があった。…ふうたろう君は(天勝の肖像は来年に完成します)と言い残して帰っていった。

 

 

 

③彌月君の次に来られたのは美学の谷川渥さん。この国における美学の第一人者で、海外でもその評価は高く、私もお付き合いはかなり古い。拙作に関しても、優れたテクストの執筆があり、拙作への鋭い理解者の人である。昨年もロ―マの学会から招聘されてバロックと三島由紀夫についての講演を行い、今回はロ―マで三島由紀夫に関しての彼のテクストが出版されるので、まもなく出発との由。……常に考えているので、突然に何を切り出しても即答で返って来る手応えのある人である。

 

……さっそく、(三島由紀夫のあの事件と自刃の謎について、いろんな人が書いているが、結局一番読むに値するのは澁澤(龍彦)じゃないですか)と私。(いや、もちろん澁澤ですね。澁澤のが一番いい)と谷川氏。(他の人のは、自分の側に引き付けすぎて三島の事を書いている。つまりあえて言えば、自分のレンズで視た三島を卑小な色で染めているだけ)と私。(全く同感、つまり対象との距離の取り方でしょ、そこに尽きますよ)と谷川氏。……今回はこの種の会話が画廊の中で暫く続いた。……そう、澁澤龍彦の才能の最も優れた点は、各々の書く対象に応じた距離の取り方の明晰さに指を折る。……そして谷川さんも私も、三島由紀夫の存在が魔的なまでに、〈視え過ぎる人の謎〉として、ますます大きくなって来ているのである。

 

 

④……その日の夕方に、東京国立近代美術館副館長の大谷省吾さんが画廊に来られた。……以前に書いたが、澁澤龍彦の盟友であった独文学者の種村季弘さんは、私に「60年代について皆が騒ぐが、考える上で本当に面白く、また大事な事は、60年代前の黎明期の闇について考える事、その視点こそが一番大事だよ」と話してくれたが、大谷さんは正にそれを実践している人で、著作『激動期のアヴァンギャルド・シュルレアリスムと日本の絵画―一九二八―一九五三』(国書刊行会)は、その具体的な証しである。昨年に私は大谷さんと画家・靉光の代表作『眼のある風景』(私が密かに近代の呪縛と呼んでいる)について話をし、それまで懐いていたいろいろな疑問や推測について、実証的に教わる事が大きかった。…画廊から帰られる時に、今、近代美術館で開催中の大竹伸朗展の招待券を頂いた。……以前にこのブログで、三岸好太郎の雲の上を翔ぶ蝶の絵と、詩人安西冬衛の「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」との関係についての推理を書いたが、収蔵品の質の高さとその数で群を抜いている東京国立近代美術館に行って、また何らかの発見があるのでは……と思い、個展が終了した後に行く事にした。

 

……1階の大竹伸朗展は圧倒的な作品の量に観客達は驚いたようである。描く事、造る事においては、我々表現者に始まりも無ければ終わりも無いのは当たり前(注・ピカソは七割の段階で止める事と言い残している)であるが、こと大竹伸朗においては、日々に直に実感している感覚の覚えかと思われる。……ジェ―ムス・ジョイスから青江三奈、果てはエノケンまで作者の攻めどころは際限がないが、同時代に生まれた私には、ホックニ―ラウシェンバ―グティンゲリー他の様々な表現者のスタイルがリアルに透かし見え、当時の受容の有り様が、今は懐かしささえも帯びて映ったのであった。しかしこの感想は、例えば観客で来ている修学旅行中の中学生達には、また違ったもの、……見た事がない表象、聴いた事がないノイズとしてどう映るのか、その感想を知りたいと思った。

 

……階上に行くと、件の靉光の『眼のある風景』と松本竣介の風景画が並んで展示してあり、また別な壁面には、親交があった浜田知明さんの『初年兵哀歌』があり懐かしかった。……私が今回、興味を持ったのは、ひっそりとした薄暗い壁面のガラスケ―スに展示してあった菱田春草の『四季山水』と題した閑静の気を究めたような見事な絵巻であった。咄嗟に、ライバルであった横山大観の『生々流転』、更には雪舟の『四季山水図』との関係を推理してみたくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

⑤……昔、美大にいた時に、私と同じ剣道部にTがいた。Tは確か染織の専攻だったと記憶するが、演劇の活動もするなど、社交的な明るい人物であった。剣道部でも度々私はTと打ち合ったが、Tの剣さばきには強い力があった。……そのTが夏休みにインドに行くと言って私達の前から姿を消した。……しかし、夏休みが終わり後期が始まってもTは大学に現れなかった。……秋が終る頃に、大学にようやくTの姿があった。私達はTの姿、その顔相、その喋りを視て驚いた。Tは魂が抜けたように一変していたのであった。……ただ喋る言葉は「……虚しい、空しい……」の繰返しで、その眼はまるで生気を失い、虚ろであった。……Tがインドに行って一変した事は間違いないが、そこで何を視て人が変わってしまったのかは、当時の私達には無論わかろう筈がなかった。

 

……Tはまもなく大学を去り、故郷の高松でなく、京都に行った事だけが風の便りに伝わって来た。清水で陶芸をやるらしい……という噂が流れたが、それも根拠がなく、Tは結局、私達の前から姿を消し、今もその行方は誰も知らない。……Tがインドで視たもの、それは、この世と彼の世が地続きである事、つまり地獄とは現世に他ならない事の証を視てしまったのだと私達は推理した。……そして、インドという響きは、あたかも禁忌的な響きを帯びて私達は語るようになった。未だ視ていない国、しかし、そこに行っては危うい国、私達の生の果てまでも視てしまう国……として。

 

…………1983年に写真家・藤原新也の写真集『メメント・モリ』が刊行された時は、大きな衝撃であった。そして、その写真を通して、私はTが一変したその背景をようやく、そして生々しく知る事になった。………………個展が終わって間もない或る日、世田谷美術館から招待状が届いた。『祈り・藤原新也』展である。……私が美術館に行ったその日は、まもなく激しい豪雨になりそうな、そんな不穏な日であった。……(次回に続く)

 

 

 

 

 

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『あの芥川龍之介も感染していた!』

……今月の20日から11月8日まで開催される、日本橋高島屋本店・美術画廊Xでの個展『迷宮譚―幻のブロメ通り14番地・Paris』の作品制作も、新作オブジェ74点の全容が見えて来て、いよいよ最終段階に入って来た。個展の案内状も、そろそろ発送しなければならない。……朝は8時くらいからアトリエに入り12時間制作をして、後は寝る前に読書という日々が最近続いている。……そんな中で、最近面白い本を見つけたので今はその本を読んでいる。題して『文豪と感染症(100年前のスペイン風邪はどう書かれたのか)』(朝日文庫)。

 

 

その本を読むと当時の文豪の芥川龍之介、斎藤茂吉、志賀直哉、菊池寛……を始め、たくさんの人が感染していた事が、彼らの手紙や小説からわかって来て実に参考になって良い。芥川は父親がスペイン風邪で亡くなり、自身も感染してかなり苦しんだ事が、随筆家の薄田泣菫宛の手紙から見えてくる。

 

時代は大正七年(1918年)~大正九年(1920年)頃で、ちなみにスペイン風邪は第2波まであり、芥川は2回とも感染して苦しんでいる。1918年の三月にアメリカで最初の患者があらわれ、あっというまに世界中に広がった。世界では4000万人が亡くなり、日本国内でも38万人~45万人が亡くなった由。この度のコロナでの日本での死者は現時点で17500人くらいであるから、スペイン風邪の猛威が今とは比べ物にならないくらいに凄かった事が見えてくる。……さてその芥川の手紙から。

 

「僕は今スペイン風邪でねています。うつるといけないから来ちゃ駄目です。熱があって咳が出て甚だ苦しい。」また別な日には「スペイン風邪でねています。熱が高くって甚だよわった。病中彷彿として夢あり退屈だから句にしてお目にかけます。……凩(こがらし)や大葬ひの町を練る」……いたるところから葬式の列が出て、その中を木枯らしが吹いている……といった凄まじい当時の光景が透かし見えてくるようである。

 

また面白いのは、与謝野晶子の『感冒の床から』と『死の恐怖』と題する二作の文章で、「今は死が私達を包囲しています。東京と横浜とだけでも日毎に四百人の死者を出しています。……盗人を見てから繩を綯うというような日本人の便宜主義がこういう場合にも目に附きます。……」と書いて、当時の政府の後手後手の無策に与謝野晶子は怒っているのであるが、それを読むと当時と今と全く変わっていない事が見えてくる。

 

その100年前のスペイン風邪で最も悲劇的で有名な話は、女優の松井須磨子と恋愛関係にあった妻子ある島村抱月(劇作家で演出家)の死であろう。最初にスペイン風邪にかかったのは松井須磨子であるが、それが島村抱月に感染し、抱月はあっけなく亡くなった。

 

抱月の弟子の秋田雨雀の日記にはある。「大正七年、十月三十日。ぼくは風邪(スペイン風邪)はなおったが、島村先生は須磨子と共に流行性感冒に苦しめられている。すこし心臓が弱いので、島村先生は呼吸困難を感じていられる由だ。須磨子はかなりよくなったようだ。」

 

「十一月五日。今暁二時七分前、師島村抱月は芸術倶楽部の一室で死んだ。みんな明治座の舞台から帰った時はまったく絶命していた。小林氏(須磨子の兄)もまさか死ぬとは思わなかったらしい。実にひじょうな損失だ。須磨子は泣いてやまない。……」

 

「大正八年・一月五日。昨夜、島村先生のマスクの破れた夢をみた。朝、起きてまもなく島村先生の墓地へゆこうとすると、芸術座から電報がきた。〈マツイシススグコイ〉。ひじょうなショックを感じて、思わず立ち上がった。自殺!という連想がすぐ頭を襲うた。

……芸術倶楽部へいった。道具部屋の物置で、正装して縊死を遂げたのであった。半面紫色になっていた。顔が整っている。無量の感慨に打たれた。……」

 

 

……この本には菊池寛の「マスク」、谷崎潤一郎の「途上」、志賀直哉の「流行感冒」、永井荷風の「断腸亭日乗」、斎藤茂吉の「つゆじもより」……など、作家達のスペイン風邪感染の実体験と奮戦記が載っていて実に参考になり、感染症に対する視野が複眼的になってくる。この本から学んだ第一の事は、100年前のスペイン風邪の凄さに比べると、今日のコロナ禍なるものは、甚だ軽いという事であり、しかも今、感染しても死亡率が格段に下がって来ている事は、先に漸くの明るい兆しが見えてきた感がある。……第6波の感染拡大の可能性も未だ多分にあり、迂闊に軽視する事は禁物であるが、しかし、そろそろの感がある。かつてのコロリ(コレラ)も、スペイン風邪の猛威も不思議な事に、だいたい二年で消えていった。……そして、今日のコロナも、まもなくその二年目を迎えようとしている。

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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