『福島・そして横浜』

秋から二つの大きな個展が控えているので、今はその制作に入っている。ひとつは、9月3日から9月末まで軽井沢ニューアートミュージアムで開催される個展―『ヴァレリーの鳥籠―52面体が開かれる前に』。そして10月22日~11月10日まで開催される日本橋高島屋での個展(タイトルは未定)である。制作に没頭の日々であるが、しかし時折は、入っている予定の為に出掛けてもいる。

 

先月の20日には福島を訪れた。福島大学教授の渡邊晃一さんのお招きで特別講義として学生を相手に喋ってきたのである。私の作品を学生に見せながら、実作者の立場から、皮膚論、情報と脳の関係、そして「現代美術」の意味などについての話である。講義後に渡されたレポートに目を通し、私の話の核が確かに学生たちに届いていた事を実感する。せっかくの福島行なので、かねてより行きたかった「さざえ堂」や白虎隊の自刃の現場跡、また天寧寺の山奥深くにひっそりと在る、新撰組局長の近藤勇の墓などを見る。「さざえ堂」の造りは二重螺旋構造になっており、昇って行く人と下りて来る人が絶対に出会わないミステリアスな仕組みである。もともと日本にこのような幾何学的な造りはなく、そのルーツはイタリアのルネサンスにおける建築構造に拠っており、より詰めれば、それはシャンボール城の二重螺旋構造を設計したレオナルド・ダ・ヴィンチへと行き着くのである。

 

7月31日は、横浜トリエンナーレの内覧会に招待されていたので横浜美術館を訪れた。出品作品は玉石混交の観があり、今はその玉だけについて語ろう。玉の最たるものは、コーネル、そしてキーンホルツである。コーネルのオブジェ4点と併せて、コーネルがまさしく自分だけの夢の王国を作る為に、バレーや子供たちの様々な映像(他人による)を自在に切って貼り合わせた物が上映されていた。かつて私が20代前半にアメリカ文化センターで、そのコーネルのモンタージュ画像を見て以来、久しぶりの再見である。他者の作品を様々に繋げながら、そこに立ち上がっているのはまさしくコーネル独自の世界に他ならないのは不思議な感覚である。オリジナルとは何か!?という当然の自問が湧いてくる。

 

彼らの他に、私の目を引いたのは、「かんらん舎」のオーナー大谷芳久さんのコレクション展示。戦時中に軍に協力して詩を書いた詩人たちの詩作品の展示を通して、戦時下における芸術家のあるべき姿を生々しく問い詰める内容である。高村光太郎中勘助北原白秋・佐藤春夫…etc。その彼らの詩の内容の陳腐さは目を覆うものがあるが、…しかし、日本浪漫派の詩人・伊東静雄の詩だけは、なかなか読ませるものがあって私の気を引いた。ドイツロマン派風の叙情詩を書き、リルケやヘンデリソンの影響を受けた伊東には詩集『わがひとに与ふる哀歌』があり、また『水中花』などは私の最も好きな詩作品の一つである。ロマン派・そして浪漫派とは、元来が強度の美意識を通しての死的世界への接近があり、こと伊東のその詩においては、高村・中・北原・佐藤等とは異なって鋭い象徴性さえも帯びており、そう短絡的には色付け出来ない展示であると私は思った。その右には、果敢にも軍部の圧力に抵抗した画家・松本竣介の手紙が展示されていたが、照明が暗く、又、二つの展示比較の意味が伝わるように説明されていない為に、残念な展示の仕方となっている。観客(その多くは、ほとんど意図がわからなかったであろう)の側からの目線を配慮する必要が欠けているのは、このトリエンナーレ全体の展示に見られたが、その結果として、求心性を欠いた散文的な展覧会となっていたのが惜しまれた。

 

さざえ堂

さざえ堂

さざえ堂

近藤勇の墓

 

 

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