『遺伝子の力』

出版社から連絡が入り、久世光彦さんと私の共著『死のある風景』が電子書籍化される事になった。配信先は紀伊国屋書店・アマゾン他10社以上あるので、これからは若い世代の方にも読まれる事であろう。早晩に、拙著『絵画の迷宮』もその予定であるらしい。

 

『死のある風景』という題名はシンプルであるが、とても上手いタイトルである。週刊新潮での連載が決まり、私と久世さんが青山のレストランで初顔合わせの際、久世さんが20ばかりのタイトル案を考えてきたのであるが、編集者も含め全員一致ですぐに、このタイトルに決まった。その久世さんも既に逝って久しく、以来、あの酔わせるような美文の書き手は、文芸の世界から全く絶えてしまった。

 

その久世さんのお葬式の時、その中に目立って小柄な御二人がいた。森光子さんと中村勘三郎さんである。この御二人を含め、あの時に参列していた人たちが今は、かなり亡くなっている事にふと気付き、いろいろと考えるものがある。何かに憑かれたかのように、あきらかに生き急いでいた勘三郎さんのエネルギーは、しかし、確かな遺伝子となって形になっている事を、私は昨日、歌舞伎座の舞台で見る事となった。

 

八月の納涼歌舞伎は見たい物が揃っている。午前からの『恐怖時代』(谷崎潤一郎作)も良いが、私は第三部の『怪談乳房榎』(かいだんちぶさのえのき)を選んだ。勘九郎・七之助・そして獅童が出るこの出し物は、先だってのニューヨーク公演の凱旋記念という事もあり、特に勘三郎さんの長男の勘九郎の一人三役と、実際の舞台に大量の水が滝のように使われる事で話題を集めているからである。私の席は一階の前から六列目、水がかかる程に真近な場所で相見る事となった。

 

最初の一幕物は『勢獅子』。山王祭で賑わう江戸の街。その祭礼の華やぎを描いた常磐津の舞踊で、三津五郎、橋之助、獅童、七之助、扇雀,そして勘九郎が見せる艶やかな舞の競演が実に粋である。真近で見る極彩色の虚構を前にすると、知らず内に惚けた気分になってネジがゆるみ、何やら東山の郭遊びの御大尽のような心地になってしまうから、まことに歌舞伎は怖ろしい。これも、虚構が持つ引力であろう。

 

さて、『怪談・・・・』である。先代の父を継いで見せる勘九郎の一人三役はまことに見事なものであったが、以前に見た時よりも、その気配に〈華〉が付いてきたように思われ、ふと亡き先代と声色が重なって、私は遺伝子というものの不思議さを実感する事となった。人材面から見て確かに今の歌舞伎は危機にあるが、その事の意識がそれを促したのか、勘九郎は急速に化けて来ているように私には思われた。歌舞伎の本質は、過剰なるバロックでなければいけない。それを可能にするのは演じ手の〈狂い〉と〈客観性〉との醒めた複眼ではないだろうか。

 

話は変わって、先月に刊行した拙著『美の侵犯 ― 蕪村X西洋美術』であるが、近々に新聞でこの本の書評も出る事になり、更に書評が続いて出るとの由。手紙やメールでも多くの方々からの嬉しい感想も頂lき、作者としての手応えを覚えている。美術評論にも、ポエジーが可能である事を、私は三島や、ケネス・クラークから学んだが、この本ではそれを自らに課して書き上げたものである。瀧口修造・澁澤龍彦以後に〈美術評論〉というジャンルにその名が浮かぶ人が皆無なのは、この国の美術の分野における大きな不幸である。私は、このジャンルにも自らの能力の限界を試してみたいと、本気で思い始めている。

 

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