『オーラとは何か!?』

テレビ番組のプロデューサーの方と、銀座のカフェで二時間ばかりの打合せを終えて、近くにある個展開催中のビルに戻ろうとすると、そのビルの前の光景が昭和初期に一変し、パナマ帽の紳士やモボ・モガの若い男女が多数立っている、まるでタイムスリップしたような空間に出くわした。しかも通行規制がしかれている。眩しいライトや反射光・そしてカメラが在るのを見て、撮影中なのだとすぐにわかった。ハテッ、では役者は誰かと見回すと、そこだけがひときわ光っている空間に、女優で歌手の今井美樹と、名前が出て来ないが、テレビで度々見た事のある女優がいた。

 

そこだけが光っているとは、つまりはオーラの事であるが、オーラとは何なのか・・・と時々思う事がある。以前に個展をしていた森岡書店の時には、同じビル内に撮影中の、女優の伊東美咲がいて、やはり華やいだオーラを放っていた。その伊東美咲が去った後、極寒の時ではあったが、何故か個展会場に多くの人が集中的に来て多くの作品がコレクションされていった。オーラの余波が人を呼ぶのだろうか。今回もこのオーラを頂こうと思った私は、その「気」を意識的に吸収して、撮影現場の奥野ビルに入り、会場である6階の画廊へと入った。そして画廊主の香月さんに「・・・今日はこれから多くの人が来ますよ」と予告した。「気」の流れをこちらに変えたのである。すると案の定、来場者の切れ時が無い程に来客が続き、一人で私のコラージュを三点も購入される人が現われるなど、閉廊時まで会場は人で賑わった。

 

オーラとは、著名人にやはり付きもののようであるが、仕事は確かであっても、しかしその人がオーラを放っているとは限らないから、その仕事の質とはまた別物のように思われる。かつて真近で接した人では、断トツなオーラを放っていた棟方志功池田満寿夫は光っていたが駒井哲郎には無く、近代詩の頂点にいる西脇順三郎吉岡実は地味な実朴の感があった。また、瀧口修造はオーラは無かったが、類のないブラックホールのような引力を放ち、艶のあるカリスマ性をオーラと共に放っていた澁澤龍彦が鮮やかな記憶として残っている。記憶と云えば、強烈なオーラを放っていたのは、やはり勝新太郎であろう。

 

美大の学生時に、私は東宝撮影所でアルバイトをしていた事があった。〈セット付き〉という仕事で、俳優に付いて撮影の細かい仕事を主にやるのである。或る時、その撮影現場に将棋盤と駒があるのを見て、それを持ち去り、私と友人はセットの裏でさぼりながら将棋を楽しんでいた。しばらくすると、私の背後でもの凄い怒声が響き、振り返ると、私を殺意ある形相で睨む勝新がいた。そして勝新の後には、事の成り行きを心配そうに見守る、相手役の丹羽哲郎がいた。その日は映画の最も大事な山場の撮影で、『王将』の坂田三吉に扮した勝新が最高なテンションに自分を高めて現場に入ると、大事な将棋盤が無いので撮影が出来ず、勝新自らが狂ったようにそれを捜しはじめ、セットの裏から響く駒の音に気付いて、その音を辿っていくと、そこに私がいたのであった。勝新は私を役者志望の苦学生と明らかに勘違いしたらしく、怒りから一転して、役者の心得というものを丁寧に私に論してくれたのであったが、ともかく勝新が放つオーラは強烈に焼き付いている。他の記憶で云えば、私がクラシックバレエを学んでいた時に、自由が丘の中華飯店で後にいた現役時の長嶋茂雄もまた強い光を放っていたが、その横にいた王貞治は意外にも実朴の感があった。新潮社から刊行した拙著『モナリザミステリー』の帯に名前が出て来るビートたけしも同じであり、・・・・オーラとは、知名度とは比例しない別種な「何ものか」のように思われる。つまり、こちらがその人に対して抱いている想いや、主観の投影ではなく、やはりオーラを放つ類の人は、自身から何かを発しているのである。その良い例を話そう。

 

幕末に小曽根英四郎という名の長崎の豪商がいた。長州や薩摩の御用達も務めた人物である。この小曽根なる人物が、或る時に旅籠の一階で旅の荷を解いて休んでいると、側で何人かの侍が談笑しているのが聞こえて来た。見るとその侍の中で一人だけ不思議な光を強烈に放っている若者の姿が見えた。今まで見た事のない体験である。さすがに小曽根は気になり、その若者に声をかけた。・・・・その若者とは、坂本龍馬の事であるが、以来、小曽根は坂本と気が合い、亀山社中・海援隊設立に関わり、自身の家を龍馬の潜伏先として提供もしていく仲となる。つまり、小曽根と龍馬は長州や薩摩の仲立ちで知り合ったのではなく、ふとした偶然に出会った見知らぬ同士として知り合い、強烈なオーラを放つ若者に声を掛けた事から関係が始まっている。

 

光って見えたのは、相手が龍馬としての主観からではなく、既にして自身からオーラを放っている青年が彼の眼前にいたのである。私見ではあるが、歴史上の人物でこのオーラを放っていた人物として先ず浮かぶのは、織田信長上杉謙信であり、秀吉はそれなりに光っていたであろうが、おそらく家康はオーラとは別物の重い実朴の存在感を放っていたように思われる。さてもオーラとは何か!? ・・・・内なるアドレナリンの過剰なる活性が表ににじみ出て光を放つものなのか。オーラ、おそらくその語源はアウロラ〈Aurora〉か。意味は、ローマの暁の女神、極光である。・・・・ともあれ、それについて誰かが分析的に書けば面白い本が出来るように思われるが、そこに着眼した書き手は未だいないように思われる。

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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