『2015年・日本の夏』

オリンピックをめぐるゴタゴタが続いている。白紙に戻す事になったスタジアムの、あの形を評して、森は、腐った牡蠣に似ていると言ったが、或る評論家が評した、女性器の形そのものであるという言葉の方がピタリとくるものがある。又、オリンピックの五輪エンブレムを巡るパクリ騒動は、第2弾で入ってきたそのものズバリの複数の盗用が次々とあからさまになるに至っては、もう逃れようが無いものがある。おそらくは、着想のヒントを得る為に様々な視覚情報を見ながら、自分の色に変容させる手法を常としていたのであろうが、その手法の節度がしだいに麻痺していき、やがて自らのキャリアの絶頂において、「好事魔多し」を地で行く落とし穴がその道行きにポッカリと口を開いていたのであろう。さても、先人の残した諺は実に的を得ていると云わねばなるまい。

 

以前から思っていた事であるが、初期の理念がとっくに失われて久しい、このオリンピックなるものは、いっそ止めてしまった方が良いのではないかと思っている。アスリート達を利用しての、つまりは政治家やゼネコンの荒稼ぎの墓場。いや、その一部のアスリート達にしても、その先に待っている(かもしれない)、CMの仕事などへの期待、つまりは拝金・拝金の魑魅魍魎と化した …… オリンピック。私はあの代々木のスタジアムの解体現場を見て思うのであるが、いっそ、あの荒れ地のままの盆踊り会場のような状態にして、そこで開催すれば良いと、真顔で思っている。…… 速く走る事、高く跳ぶ事、速く泳ぐ事…… は、古代のオリンピアの時代では一篇の、それは「詩 ・ ポエジー」とつながっていたが、もはやそこに人体の美・太陽の光輝は失せて無くなった。思うのであるが、その予算を全て、今もなお苦しんでいる東北の復興に充てればよいのである。2020年に日本で待っている世界の祭典!!? … 夢想も甚だしい!! 5年後の夏に待っているのは、熱狂の坩堝ではなく、異常気象の更なる凄惨の夏である。灼熱、そして一変しての集中豪雨…の凄まじい夏の、おもてなしが持っているのである。

 

先日、釣り好きの友人から聞いた話であるが、川に釣りに行っても魚は泳いでおらず、探すと、岩の僅かな陰で群れを成して、唯じっとしているだけであるという。もはや川は水ではなく、どうやらぬるま湯に近いらしい。 …… それにしても、私たちの幼年期の夏に吹いていた涼風が今は唯々懐かしい。

 

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