『 尾道 』

年の暮れになると、何人かの親しい人達からの薄墨色の葉書が届く。喪中のお知らせである。今年も何通か頂いた。… その葉書を読みながら、私は自分の両親が亡くなった時の記憶を重ねてみる。… すると、その人の気持ちと自分のその時の記憶が、一本の哀しみの線で繋がってくる。……とはいえ、私の場合は18才で上京しているので、両親の事を知っているようで、実は聞き漏らした事が多く、自分が生まれる前の両親の半生については断片的にしか知らない事が多い。…その切れ切れの話しの延長に自分がいるわけだから、今いる存在の立脚点も自ずと覚束ないものになってくる。

 

…父親は長男であったが、福井で最初のタクシー会社を作ろうとして親に反対された為に、弟に家を継がせて東京へと出奔。独身時代は東京にいた時が長く、作家の佐藤愛子の兄で、藤山一郎の『長崎の鐘』の作詞などで知られるサトウハチロ−とは、隣人どうしで気が合い、かなりの放蕩生活を共にしたようである。…結婚後は、長崎、呉、横須賀、‥そして尾道で両親は暮らしていたらしい。…戦前、戦中の頃の話しであるが… 。

 

…江戸川乱歩が作家になる前の職業は、屋台の蕎麦屋、下宿家の経営、貸し本屋‥などを幾つもやっていた。つまり怪人二十面相のモデルは乱歩自身であったのである。…それと同じく私の父も幾つもの職業を転々としていたようである。…西洋料理のコック、設計技術師、銀行員etc。…私の母親と出会った時は、父親はネクタイの行商人で、母親はカフェの女給、‥出会った場所は尼ヶ崎であったというから、「上海帰りのリル」や「蘇州夜曲」が何処からか流れてくるようで…かなり怪しい出会いである。設計技術師というのは、造船の話しであるが、これには父親なりの作戦があった。…戦争で日本が負ける事を始めから予見していたので、兵役による無意味な戦死を逃れる方策として技術者になれば内地に残されると判断して、俄(にわか)仕込みで技術師になったらしい。だが俄仕込みとはいえ、戦艦大和の設計にも参加していた事を思えば、呆れる程の徹底した変身ぶりである。赤紙が来た時に、三国連太郎は女と国内を転々と逃げ回ったというが、いろいろな抵抗をした人間が当時はいたようである。

 

…志賀直哉や林芙美子の小説の舞台は尾道が多く、また小津安二郎の映画『東京物語』の出だしと後半の美しいモノクロ-ムの画面には、尾道が美しい叙情を帯びて描かれている。… 両親が亡くなって暫くして、私は無性に尾道に行ってみたくなり、ほとんど衝動のままに列車に乗った事があった。。…母親が時折、尾道の話しを懐かしそうにしていたのを思い出したからである。…何故に尾道に住んだのか?…それが知りたくなったのである。

 

列車が尾道に入る時の感覚は、『東京物語』の冒頭シ-ンと変わらない。そして列車が駅に近づく前に、カンカン…と響いてくるものがあり、それを聞くや私はたちまち両親が尾道に住んだ理由を理解した。…志賀直哉の小説でも描かれているその音は、尾道の瀬戸内の湾に古くからある日立造船所から響いてくる音であり、父は技術師として、この地に母親と住んでいたのがわかったのである。… 不明だった点が繋がったが、しかしこの旅情を誘う尾道の、それほど広くない土地の何処に住んでいたのかを聞き漏らしていたのは、今となっては切ないものである。私は自分の勘を頼りに住んだ場所と覚しき場所を求めて、尾道をくまなく歩いたが、当然解ろう筈がない。…尾道の海の前に古い宿を見つけたので、その夜はそこに泊まった。すると、実家にあった古いアルバムの写真に日立造船所の名前が出ていたのを卒然と思い出した。…今も残るそこに行けば、記録から或いは住所がわかるかもしれない、‥そうかもしれないが、私はそれをやめた。…つまり、忘却の中に封印する事を選んだのである。… 美しい旅情が残るこの尾道の町全体の叙情と両親を重ねる方が、自分の感覚にふさわしいと思ったのである。

 

…その尾道の旅から20数年を経て、私は再び尾道を訪れた。尾道で生まれ、現在も在住されている、デザイナーで私の作品を数多くコレクションされている三宅俊夫さんが福山市立美術館でコレクション展をする事になり、その記念講演者として招いて頂いたのである。ふと思えば、20数年前に、尾道に来て切ない思いでこの町や坂道を歩き回っていた時に、同じこの町にいて既に三宅さんは私の作品のコレクションを始められていたわけであるから、人の縁というものは不思議なものである。最初にお会いしたのは10年ばかり前になるが、三宅さんの第一印象は「何故か既に知っている懐かしい人」として私には親しく思われたのであった。… 西海道の光はあの時と同じく柔らかな明るい光に充ちており、旅情や郷愁を誘って止まないものが、この尾道には変わらずにある。…両親の事を想う時、尾道に住んだ当時の光景が想像の内に生き生きと見えてくる。私の中の遺伝子の記憶の淵から、両親の明るい日々が鮮やかに蘇ってくるのである。

 

考えてみれば、私達の肉体は各々に滅んでも、遺伝子のみは死に絶える事なく、子々孫々へと受け継がれていく。…記憶もまたそうではあるまいか!? 私達は、聞かされる事のなかった父母や、またその昔の遠い祖先の紡いできた物語を、遺伝子のふとした作用の内に感受する事があるように思われる。…記憶の原郷−ノスタルジアがそれである。…ともあれ尾道は、私にとって遠い記憶を揺り動かしてくれる、不思議な懐かしさに充ちた町なのである。

 

 

※ 今回のメッセージに登場する三宅俊夫さんは、私だけでなく、横尾忠則、池田満寿夫、加納光於、瑛九、マティス、…その他、近現代の主要な作家の作品を膨大にコレクションされており、個人美術館『小さな美術館 miyake』を開設して、どなたでも気軽に鑑賞出来るようになっております。
ご興味のある方は、ぜひ訪れてみられる事をお勧めいたします。

 

福山市緑陽町二丁目23-1
TEL.070-5675-6712
bouji161@yahoo.co.jp
www.artarekore.com

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