『そして、私は閃いた!』

私が大学に入った1970年という年は、ある意味で最悪な年であった。自分を導いてくれる教授(斎藤義重氏ほか)に会いたいと期待して入った大学は、大学紛争の例に漏れず、教授をしていた内でも、優れた作家達はことごとく学外に出てしまい、代わりに空席を埋める為に頭数を揃えるように、全く名前も知らない団体展の画家たちが〈教授〉として入ってきた。…この憤りは大きかった。我々はその画家達を、学ぶに足る教授としては認めないとして、多くの学生と〈教授?〉とが授業中ににらみ合いをして対立し、この年は失望した学生達の多くが大学を去っていった。…また世の常として、そういう〈教授〉達に取り入ろうとする(腰巾着)のような学生達もおり、バラバラな虚無の嵐が大学には吹いていた。…私は油画専攻で在籍していたのであるが、油絵よりも三島由紀夫の戯曲に惹かれ、その舞台装置・或いは映像・文芸評論などの道を逡巡と模索しながら進むべき方向性を模索していた。そして二年の春に銅版画に漸く自分の可能性を見出だしていた。しかし、版画専攻は3年生からなので私は技法書を読みながら独学で銅版画を作っていた。版画科には、教授として来ている「銅版画の詩人」と言われる駒井哲郎氏との出会いが半年後には待っているのである。…そういう次第なので、油画科に在籍していながら、油絵の課題作品は、全く大学に提出してはいなかった。

 

…その2年生の終わり頃に、私が住んでいる大学の寮に、私宛てで、大学の油画科から一通のハガキが届いた。…読んで見ると、明後日迄に未提出の油画の課題作品30点を提出しなければ、八王子の新校舎(私の代までは世田谷の上野毛に校舎があった。)に留年させる、という内容であった。当時、八王子の新校舎への留年と転居は〈島流し〉という言葉で学生達から悪い響きで呼ばれていた。…………まいったなぁ!留年すれば版画をやれなくなってしまうではないか!!…さすがにこの時の私は一瞬絶望的になってしまった。—— しかし、しかしである。必ずこのピンチを突破する何らかの策がある筈である。…とはいえ明後日迄に油絵30点を描く事は物理的に絶対に不可能事である。だいいち絵の具が乾かない!…佐伯祐三、ゴッホ、フラゴナ-ル、ピカソは数時間で1点仕上げたというが、彼らでも明後日迄に30点は絶対に不可能である。…しかし、難題ほど燃える私は諦めなかった。……寮の部屋で仰向けに寝て天井を見ながら私は考えた。 そして、遂に私は閃いた!!!〈ひょっとして、あすこにあるのではないか!?〉と。

 

私は寮の部屋を出て、裏庭に行き、今まで入った事の無かった薄暗い物置の扉をこじ開けた。…籠った黴臭い匂いが鼻をつく。その暗がりの中に私は入った。〈…あった!!〉…先ほど浮かんだ閃きとよみは正しかった。…その暗がりの中には寮の昔の先輩達が残していった古くかびたキャンバスが夥しく棄ててあったのである。私は中から30点を引き出して部屋に運んだ。そしてクリナ-で黴を洗い去り、その上から速乾性のニスを塗りまくり、部屋の四方の壁面に積んで、…後は乾くのを待った。一晩、ニスの強い匂いが漂う中で私は寝た。そして翌朝には、ニスで光る30点の初々しい油絵が、提出課題数に化けた油絵が、鎮座ましていた。

 

寮に住む友人二人に手伝ってもらい、電車に乗って大学の教授室に行くと、タイミングよく一人の教授がいた。私は大学からのハガキを見せて、課題数の確認をしてもらい、その後で教授の(とりあえず)の批評が待っていた。どう言うか興味津々であったが、批評は、あっけない程の、たった一言であった。その教授いわく「何だか、全部違った感じがするねぇ」と。…ここぞとばかりに私いわく「えぇ、型に拘らずにいろんな描き方を試してみました!」と。私の言葉を聞いて、教授はウン、ウンと頷いた。
…それで終わりである。私は課題数を克服したとされて漸く進級した。そして、版画専攻に入る事になり、私の本格的な制作が待っていた。…しかし、ふと思うのであるが、もしあの物置に先輩達の残していった油絵が無かったならば、その後でどうなっていたであろうか!? 無理な事ほど必ず突破してみせるというのが私の信条であるが、それは微妙な偶然で成り立っている事が多々である。それを思うと、寒い風がサァっと吹き抜けて行くのである。

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