先だって、東京の某美術館で開催された、琳派の名を冠した、宗達・光琳・抱一…等の展覧会を見に行ったが、会場に展示してあったパネルの解説を読んで唖然とした。そこには、宗達を琳派の創始者と断定した解説が記してあったのである。もし書くならば、「宗達は琳派の(結果としての)先駆者となった」と記すべきであって、創始者と先駆者ではその意味に開きがある。また正しくは、宗達には琳派という概念は全く無く、故に結果としての先駆者であったと記すのが、より正しいかと思われる。
琳派、…そもそも「派」の意味とは何か!? 「派」とは芸術、宗教などにおいて、教義・様式などを同じくするグループ、或いは党派、仲間、小集団を意味し、つまりは行動を同じくするグループを意味するものである。しかし、宗達は光琳を知らず、宗達の百年後を生きた光琳も、その百年後を生きた抱一を知らない。光琳は宗達の美意識を継いだと評されているが、宗達と光琳では、そもそも絵の次元に於て格段の差があり、光琳が晩年に描いた『紅梅白梅図屏風』と『杜若図屏風』の僅かに2点がある事によって、宗達の域にかろうじて絡まっているにすぎない。
光琳は確かに宗達に美の規範を見た。しかし、それはあくまでも光琳の感性というレンズを通した私的な、しかも誤謬を孕んだ翻訳であって、宗達の腰に手を当てたくらいのものでしかない。この辺りの事を、宗達研究の第一人者である村重寧氏は「大和絵における近世的装飾化、という大きな鉱脈は宗達によって徹底的に堀り尽くされてしまった。以後同じ仕事に取り組んだ者はいない。光琳は宗達の掘り出した産物そのものに興味を示し、巧みに活用したにすぎない。彼は宗達画の近代的装飾性をとり上げ、その他の大きな部分は切り捨ててしまった。だから彼は大和絵の長い伝統とは無縁である。二人の違いはそこにある。光琳以後の作家も等しく彼に倣った。…」と記しているが至言である。故に琳派とは、その一面だけを掴んだ、実に曖昧で実体のない概念にしかすぎない物である事がおわかり頂けたかと思う。「琳派」と一括りにする事によって、その豊かで大きな実質的な意味の多くがこぼれていってしまうのである。
…このような曖昧な誤りは、たとえば「印象派」という言葉にも当てはまる。「印象派」なるものが、光りが綾なす色彩の一瞬のうつろいの刻印に意味を見るという、視点の着眼と認識に、モダニズムとしての価値があるとするのであれば、その代表者たるモネは、タ-ナ-の遺伝子を継ぎ、その導きはブ-ダン、そしてその筆法はマネに拠っており、その意味に純度を求めるならば、印象派とはモネ独自のものと解さねばならない。そもそも「印象派」なる言葉自体が、モネの『印象・日の出』というタイトルを見た評論家の造語から始まっているのである。また、印象派の中でモネの次に人気があったと言われるドガは、「自分は印象派などではない。私は独立派である。」と明言している。この流れで書けば、ゴッホなどの「後期印象派」という言葉が、実に意味不明な妙な言葉であるかが浮かび上がって来よう。「後期」ではなく、次世代の芸術の要求しているところは、明らかにポストモダンなのである。…美術史というものは、えてして十羽一絡めに括って語ろうとするが、そこに実は無く、短絡的な社会学の域で終わってしまうものがある。…ともかくも原物を自分の目で見て、自分の中で意味を掘り下げていく事が重要なのである。…美術史とはあくまでも仮説でしかない。その意味で、美術館に掛けてある解説は、学芸員による安易な断定的記述を記してはならないのである。