『恐るべき探求と実験—勅使川原三郎』

昨日、荻窪にある勅使川原三郎氏のダンススタジオ「カラス・アパラタス」で、『静か』-—無音のダンスを見た。…いや、見たというよりも、その強度な引力に引き込まれて、不思議な美的体感を強烈に享受したと記した方が正しいか。…私は以前から時間の許す限り、勅使川原氏によって次々と繰り出される「身体表現を通してのポエジーの生成の現場」に立ち会って来た。しかし、今回のダンスにはまた格別な意味があり、その特異な生成の場に立ち会えた事の感動、興奮を御し難いままに、この文章を書いている。(このような事は私には珍しい事なのである。)

 

タイトルにある『静か』とは、正に1時間という絶対空間の中で、一切の音(音楽)を封印して、ひたすらに身体表現の可能性を追うという、ダンスの分野史上初めての試みなのである。私は今回の公演のお知らせを頂いた時に、すぐにその試みの意図を直感した。しかし、まさかという思いも抱いていた。何故なら、無音の中で、しかも長時間踊り続けるという事は、耳栓をして目隠しをしながら完璧に踊るにも等しい至難の試みであり、しかも立ち会っている観客を美的空間に引き込むという、難易度の高いものがあり、…… ダンス史上、この事に果敢に挑戦した者は皆無だったからである。

 

かつてはジョンケ-ジが『4分33秒』というタイトルで、ピアノの前に座ってピアノの蓋を開いたままに、一切弾く事をせずにジャスト4分33秒後に蓋を閉じて終わるという試みがあった。しかし、身体、…つまりは心臓の鼓動をも音楽であるという問いがそこにあるとしても、マルセルデュシャンが『秘められた音に』という作品で開示した「観念の中にも美はある」という思念の影響下にあった事は否めない。 しかし、あえてこの難題に挑んだケ-ジの試みは、果たして音楽の多面性を拡大し、音楽分野のそれまでの領域を突き破った功績は大きいものがある。

 

しかし、ケ-ジは無音、不動のままに試みは終わったが、ダンスは事情が大いに違ってくる。何よりも身体を止める事なく、常に動的緊張のままに集中を切らしてはならないのである。 ニジンスキ-はストラヴィンスキ-やドビュッシ-の音楽を表現の際の絶対不離のものとして公演し、以来、土方巽、大野一雄の時代まで、世界のダンス表現に音楽は欠かせない必須の、むしろ当然必要なものであった。音と絡む事によって、身体はそのリズムを刻み得るからである。「音楽には気をつけろ」と言ったのは、ジュネかコクト-であったと思うが、この勅使川原氏の試みの前には、ダンスは聴覚と視覚を併せ持つというのが既存の発想としてあったのである。

 

観客の中の一人として、私はその開演の時を待った。前日までは、佐東利穂子、勅使川原三郎両氏が各々にソロを無音で踊り、今日は対のデュエットの初の試みなのである。佐東氏は動、勅使川原氏は静の動きを見せながら、動の中には静のヴェクトルが、そして静の中には激しい動へのヴェクトルを、まるで水銀が放つ、あの彷徨引力のように透かし見せながら、眼前に奇跡のような美の結晶が鮮やかに紡ぎ出されていく。勅使川原、佐東両氏が各々に孕む幻視の時間が、そして時に二人の交点が結ばれる瞬間に立ち上がる幻視の時間が、更には私達観客が絡んでいる現実の時間という、つごう四つの時間が交響して、無音の中の豊穣へと私達を引き込んでいき、私達の内なる感性を揺さぶって、今までに体感した事のないカタルシスの感覚を覚えて、私は、このダンス史上、画期的な瞬間に立ち会っている事の興奮の中にいた。…天才ニジンスキ-はやがて狂いの静まりの中に入って伝説と化したが、勅使川原三郎氏に狂いが訪れる事は絶対に無いであろう。…彼にあっては、〈狂気〉や〈オブセッション〉もまた幼児の掌中にある親しい玩具と等しく、既にして馴染みの物だからである。そうでなければ、誰がこのような「無音」に挑むなどという、美の禁忌への侵犯を着想するであろうか。いや、美の本質は禁忌の側にこそ息づいているのである。…思うに、藤原定家の危ういまでの先鋭なる美、或いは、一秒に百年を可視化して顕在化して見せる世阿弥の美意識とその試みの近くに、勅使川原三郎氏はいるように思われる。

 

この作品『静か』は、3月に勅使川原氏がスウェーデンのイエテポリ・バレエ団へ振付・創作する「Tranquil」(トランキル=静か」に先駆けての公演である。日本と西欧では、沈黙への感覚に違いがある。故にどのような反響になるかは興味が尽きないものがあるが、いずれにしても、ダンスの概念を突き破り、更なる美とポエジーの可能性を切り開いた、この『静か』という作品が伝説の中に刻まれていく事は間違いのない事である。…この作品は、荻窪のカラス・アパラタスで、2月1日、2日、3日、4日まで公演が行われる予定である。ぜひご覧になられる事をお薦めしたい極めて優れた作品である。

 

カラス・アパラタス のお問い合わせは、http://www.st-karas.com/ TEL 03-6276-9136

 

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