『鹿児島にて想う事』

鹿児島の画廊「レトロフト」での個展初日は、朝日新聞、南日本新聞の取材があり、またテレビ局からも取材と撮影があったりして、喋ることに追われた1日から始まった。……しかし、画廊の始まりが11時からなので、二日目からは、画廊のオ―ナ―の永井明弘さんにご案内いただいて、西南の役の最期の激戦の地となった、西郷たち60名が籠った洞窟、そして西郷が2発の弾を被弾した場所、……最期に自刃した場所や、砲弾の痕が生々しく残る私学校の石垣、……また、歴代の島津家の墓所、西郷、大久保利通らの生誕地などを連日見て廻っている。……今から7年ばかり前に、私は津山30人殺し〈昭和13年勃発〉の現場に行った事があるが、その時と同じく、例えば司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を読んでも見えてこない、城山の規模、被弾した場所から自刃までの距離(実際に歩くと180メ―トルくらいであった。)が、現場に行ってみると、その規模や距離感がわかって、当事の激戦の様(政府軍4万対、西郷軍は最期の時は僅かに60数名!)がありありと見えてくるのである。

 

……連日ご案内いただいている永井さんは、幕末史に関しても実に詳しく、同行していただくのに、これ以上の人はいない。しかも永井さんのかつてのご実家は、何と西郷が被弾した場所の、まさにその場所に在って、かつては大きな旅館を経営されていて、画家の梅原龍三郎や海老原喜之助をはじめとして多くの画家や文人が訪れて桜島などを描いたという逸話が残っている。……自刃の後に西郷の首はいったんは河原の地中に埋めて隠されたが、折からの激しい雨に流されて頭部が出てきた為に、政府軍によって発見されたという、その場所について私たちは推理しながら、当事の面影を僅かにとどめている、その城山のエリアを廻った。……西郷を中心に2400名以上が整然と眠る南州墓地に行き、その側に建つ顕彰館を訪れた時は、以前から見たかった物が展示してあって、私は興奮した。……それは、西南の役最大の激戦地だった熊本の田原坂〈たばるざか〉で見つかった物であるが、政府軍と西郷軍が撃ち合った銃撃戦で、お互いの弾が空中でぶつかって1つの塊に変形したその現物が展示されていたのである。この事からも激戦の凄さが生々しくリアルに伝わってくるというものである。

 

西郷隆盛がもし西南の役を起こさずに生きていたならば〈事実は政府の仕掛けた挑発にはまってしまったのであるが……〉、或いは日本は大久保利通によって牽引された欧化主義の稚拙な模倣、そしてその後の資本主義による今日的な疲弊はなく、或いは農本主義を中心に置いた別なこの国の姿があったかもしれない……と考える事には、取り返しのつかない苦い感慨が付きまとう。海軍卿であった勝海舟、そして後の夏目漱石といった真の知識人のみが、この国が辿っていく末路を冷静に見透していたように思われる。…………さて、その想像を信長に広げれば、或いはこの国は合理主義的な海洋国家として、私たち日本人の想像を遥かに越えた可能性の姿があったわけであるが、その意味でも、信長と西郷隆盛の悲劇は、一個人の死を越えた、この国のタ―ニングポイントであったように思われるのであるが、果たして皆さんはどのように思われるであろうか!?

 

……さて、鹿児島での個展は、いよいよ11日で終了する。今回の個展は11時から19時まで毎日ずっと会場に詰めていたので、初めての様々な方とお会いする事が出来、予想していた以上に充実した日々であった。作品を通して多くの人達と巡り会う事の多い、表現者としての私の人生。……ふと想うのであるが、それはあたかも定宿のない旅人の人生と重なって見えてくる時がある。圧倒的に出逢いの多い人生であるかと思うが、この大切な出逢いを、人生は一度限りの思いを強くして、いよいよ形あるものにしていきたいと考えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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