『突如、前原伊助が!』

鹿児島の個展開催中の六日間、私の頭の中には139年前にこの地で起きた西南戦争と、はたして西郷隆盛とは何者であったのか……という問いがあり、その最終舞台となった城山の現場を歩く日々が続いた。……そして個展が終わり、東京に戻って来たと思いきや、その二日後の夜には、314年前に両国橋近く、本所松坂町で起きた赤穂浪士による吉良邸の討ち入り現場跡にいた。日はくしくも同じ12月14日。……この日は昔日の夜に吉良の首を求めて吉良邸の中で47人の浪士が血眼で乱闘を演じた、まさにその同じ空間にあるシアタ―Xで、314年後のこの日に、勅使川原三郎氏のダンス公演「白痴」が演じられるのである。両国に早く来た私は北斎美術館、関東大震災最大の悲劇の現場となった4万人が焼死した現場跡に建つ震災記念館と死者が眠る納骨堂を訪れてから、会場に来たのであるが、少し早かったので、吉良邸跡に行き、その後で、既に夜の帳がおりて闇が支配する付近を散策したのであった。

 

……この付近は、勝海舟、芥川龍之介、小林一茶、葛飾北斎たちの生誕や住居跡が多く、江戸の空間にタイムスリップしたような不思議な時間感覚を覚えるゾ―ンであるが、人気の絶えた暗い通りを歩いていて、彼方の暗闇に何かの碑が朧気に見えたので近づいて見て驚いた。……赤穂浪士の一人で、大胆にも吉良邸の近くで米屋に成りすまして吉良邸にも浸入し内偵していたという、前原伊助のその米屋跡を示す碑が、それなのであった。

 

 

最近の研究で、この「赤穂事件」に関する実際の史実がよりわかって来ており、先日のTVでもそこに言及していたが、この前原伊助宅で大石内蔵助はじめ47士は、隠してあった討ち入りの衣装に変え、武器を手にして、僅かに100メ―トルもない吉良邸に速攻で討ち入ったのであった。(……話しには聞いていたが、こんな間近から出発したのか!)……私たちのイメ―ジに刷り込まれている忠臣蔵の服装、雪、炭倉などの話しは、歌舞伎の仮名手本忠臣蔵(1748年初演)や、それを模した、後の映画やTVに拠るものがあるが、……では、本当は、真実はどうであったか!?を徹底的に知りたい私にとって、この私の〈知りたい願望〉に答えてくれる、遠い彼方からの恩寵のように、闇夜に見る前原伊助の碑は私を高ぶらせてくれたのであった。

 

…………たかが碑を見つけたくらいで、かくも高ぶる私のこの文章を読みながら、読者は或いは何がそんなに面白いのかと、疑問に思われているかもしれない。かくいう私自身も我が身をかえりみて時々自分でも可笑しく映る時があるのだから当然であろう。………………私は、美術評論めいた本(『モナリザミステリ―』も書いているが、その執筆の際に自分に課した事があった。それは、学者のような机上の空論はやめて現場主義に徹する事であった。刑事が信条としている現場百回を範としたリアリティ―のある文章を書く事に徹したのである。結果、拙著を読まれた方々から頂いた感想で最も多かったものが、私がモナリザの多面的な謎に迫る為に、フィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィアに飛び、また京都大学大学院の発達心理学の教授に、哲学者の木田元氏を介してお会いし、私の持論と推論の裏付けを確認したり、光明寺に赴いて、秘仏の法然像を見せてもらい、モナリザとの類似、そしてダヴィンチと法然の内面にある母子合体の願望の共通点に迫るなど……およそかつての美術論になかった現場主義の徹底とその醍醐味に共鳴されたという方々が多かった。私の中に蓄積している様々な知識の点の散らばりが、現場に行く事で点と点が繋がり、それが瞬時にして一本の線になり、結果、絡み合っていた紐がほどけて、そこに好奇心と知のカタルシスがどっと流れる瞬間の恍惚が、書く事のアニマとなって伝わってくるのである。それは、制作の悦びとも繋がっていて、強度な美を立ち上げる為に私は徹底的に虚構性を詰めていく。そしてその果てに立ち上がるリアリティ―の顕在化に、表現者としての創る事のアニマを覚えるのである。……要するに私はしつこいのであろう。そして思うのだが、私は消え去った時間と、それが孕んでいる物語に、あまりに遅く生まれてしまった者としての悔恨と羨望を覚えているのであろう。

 

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