佐伯祐三

『……まさか、パリで!!』

連休が明け、さぁこれからコロナ第9波に?……それとも一応の終息へ?の岐路に私達は今、立っているわけだが、ともあれ毎日響いていたあの悪夢のような救急車のサイレンがしなくなった事だけは慶賀である。……想えば長く息苦しい3年間であった。そして私達各々の運というものを実感する機会でもあった。

 

……さてこのブログも書き出してから早くも15年以上の月日が経った。内容の程はともかくとして、文量の多さでは最早『源氏物語』をとうに抜き、今やプル―ストの大長編小説『失われた時を求めて』に迫る勢いになってきた。…とはいえこれは私の謂わば「日記」、生きた証の夢綴りのようなもの。これからも気分転換のように気軽にお読み頂ければ何よりである。

 

昨今は加速的に凄まじいネット社会となり、無駄な情報やフェイク、仮想感覚が日常的に入り込んで来て、実に空虚でかまびすしい。……文豪永井荷風は明治期に早々と「便利さには何の意味や価値も無い」と看破しているが、その便利さを人類がしゃかりきに追った結果が、今、ここに殺伐とした精神の請求書となって私達の前に突きつけられている。……同じ価値観が人々(特に若い世代)を同じ方向へと向かわせ、人々から豊かな「個」の妙味を奪いさっている。

 

 

 

 

…最近は、寝る前に本を読みながら眠りに入っていく事が多い。しかし睡魔が急にやって来て本が落ちると顔に当たって危ないので、もっぱら文庫本である。それもバラバラな種類の本が寝床の横には積み上がっている。

 

……例えば最近は、『魔都上海』(劉建輝著)『岡本綺堂・近代異妖篇』『北原白秋詩集』『ジヴェルニ―の食卓』(原田マハ著)『創造者』(ボルヘス著)……といった具合。

 

 

昨夜、その中から原田マハさんの『ジヴェルニ―の食卓』を読み始めたら、冒頭は夜明け時の光が寝室に入り込んで来る描写から始まっていた。

 

「南に面した窓の鎧戸の隙間が、うす青い横縞を作っている。遠く近く、鳥のさえずりが聞こえる。/薄氷のような夜を溶かして、まもなく夜明けが訪れる。朝の光が部屋の中をたっぷりと満たすよりずっとまえに、ブランシュはあたたかなベッドを抜け出さなければならない。

 

…………以前に出した私の詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』に収めた『紙束』というタイトルの詩が同じ光の主題だった事を思い出し、原田マハさんの小説と私の詩の描写の比較をしてみたくなった。

 

 

『紙束』

「朝まだ来だというのに/光がすでに眩しい。紙束が温み 文字が温み/やがて室内が温む。/闇が全て消え去った頃に/呼び鈴が鳴り/レカミエ夫人の不意の帰還を告げるであろう。」

 

また同じ主題、同じタイトルで、私の第一写真集『サン・ラザ―ルの着色された夜のために』でもヴィジュアルでその時間帯の光を表すべく挑んでいる。(私のアトリエ内を撮した写真である。)……小説、詩、写真での各々の攻め方の違いが、少しでも伝われば有り難い。また同じ詩集中の『長い夜に』というタイトルの詩では、それより少し前の夜明け前の気配を書いているので、ここに写そう。

 

 

『長い夜に』

ギザルド通りを抜けて/サン・ミッシェルへと至る/一九九一年四月二日の午前二時の廻廊。/そのしじまにMary Ussellaは眠る。/暗室と化したパリの幾何学の庭で。/セ―ヌの波紋のように白布が流れ/午前の白い朝が目覚める前に。」

 

 

 

先日、横浜中華街にある画廊「1010美術」(倉科敬子さん主宰)から個展案内状がアトリエに届いた。平山健雄さんという方の個展で、ステンドグラスでは第一人者で、山口長男から学んだ人です、ぜひいらして下さいと、案内状に書いてあった。……山口長男は佐伯祐三とパリで深く関わった画家なので佐伯に関する何かが訊けるかもしれないと思い、久しぶりに横浜中華街の画廊を訪れる事にした。……中華街は、私が30才から15年間住んでいた山下町・海岸通りの真後ろにあり、思い出がある町である。……しかし久しぶりに訪れてみると、かつての油断をすれば消されかねないような怪しい気配や情趣は失せて、ただの観光地と化していて、人、人、人で溢れかえっていた。

 

 

 

 

↓同じ場所

 

 

 

中華街は知り尽くしているので、画廊の場所はすぐにわかった。……画廊主の倉科さんから、個展を開催しているステンドグラス作家の平山健雄さんをご紹介頂いた。……「この人からはいろんなお話が伺えそうである。」一目視てそう直感した私は、最初からいきなり本題の佐伯祐三に関する、山口長男が平山さんに語ったという貴重な逸話、またパリの教会のノ―トルダムやサントシャペル……の構造の違いなどについて質問した。平山さんの造詣は実に深く、私はその場の平山さんが語った何気ない話から、次回の個展のタイトルも一瞬で閃いたのであった。

 

……そして平山さんの現在のアトリエのご住所を訊いて驚いた。……15年以上続いているこのブログの中でも最も名作と評価の高い『未亡人下宿で学んだ事』というタイトルの、つまりは私が大学院時代に住んでいた横浜市港北区菊名町の住所のすぐ間近なのであった。つまり現在のお互いのアトリエも、歩いて行ける程にすぐ近くなのである。

 

…………更に話は続いて、私が1990年から1991年にパリに住んでいた場所の話になり、「…私はサンジェルマン・デプレ地区のギザルド通り12番地の最上階の屋根裏部屋に住んでいました。……マン・レイジュリエット・グレコの家が近く、天窓からはサンシュルピス教会の古い尖塔が見えました。家の通りのすぐ前には、いつも閉まっている真っ黒い重い扉のレズビアンバ―がありまして……」と話した瞬間、平山さんが突然「……レズビアンバ―!あった、あった!!」と大きな声を発したのには驚いた。

 

「…!?」と思って平山さんに訊くと、1976年にパリに渡りフランス国立高等工芸美術学校のステンドグラス科に入学して以来、幾つかした転居の中で、平山さんはそのレズビアンバ―の上の部屋に住んでいた女性の部屋に転がりこんで住んでいたのだという。そして、あの店の重く黒い扉は深夜になると静かに開くのだという。…………今、この画廊で向かい合って話している正にこの位置のままに、広いパリの中で、時代を隔てながらも、平山さんと私の住んでいた場所は向かい合い、そこを拠点に充電、研鑽の時間が流れていったという事がわかり、この偶然の妙にお互いが暫し何ともいえない感慨を抱いたのであった。

 

 

……出会いとは不思議なものであるが、特に見知らぬ異邦の国でのこの偶然がもたらした感慨は、アトリエに帰ってからもしばらく尾を引いたのであった。……近いうちに、私のアトリエのすぐ近くに在るという、平山健雄さんのステンドグラスの工房を訪れてみようと思っている。……まだまだ不思議な話の続きが出て来そうな予感がするのである。

 

 

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『……大日本陸軍の闇がそこにはゴッソリと!!』

①……よく知られているように、江戸川乱歩は強度な「隠れ蓑願望」の持ち主であった。自分にまとわりついている社会的な属性を一切捨てて、見知らぬ町に隠れ家を見つけて住み、もう一人の自分として別な呼吸をして生きたいという、一種の変身願望である。私にもそれは多分にあって、時々遠方の地を歩きながら、隠れ家にむいたエリアを物色している時がある。

 

……最近気にいっている場所は谷中・初音町。…(はつねちょう)という響きが実にいい。森鴎外樋口一葉が愛した谷中の墓地からも近く、鴎外の『青年』の舞台としても登場する。必ずやいつか!……と思っていたら、この場所に先客がいるのを最近知った。その住人とは、……ゲゲゲの鬼太郎である。漫画にはこう書いてあった。

 

「……東京に、こんな古めかしいところがあるかと思われるような谷中初音町に……おばあさんと孫が、昔おじいさんが三味線を作った残りかすの猫の頭などを売っていたが、今時こんなものを買う人もない。そこで二階を人に貸したのだ。借りた人は鬼太郎たちである。……」 隠れ蓑願望の強かった水木しげるもまた、谷中初音町にアンテナがいっていたのかと思うと嬉しくなってくる。ともかくそこは、昔から全く時間が動いていない、停止した空間なのである。

 

 

 

②私の出身地である福井のギャラリ―サライ(松村せつさん主宰)では、10年前から隔年毎に私の個展が開催されている。今年はその開催年になり、4月1日から今月末まで開催中である。私は初日から3日間の慌ただしい滞在であったが連日画廊につめていた。……初日の夜は、福井県立美術館、そして福井市美術館の館長はじめ学芸員の人達が多数集まり、歓迎の宴を催してくれた。また3日目は、高校の美術部の後輩達がこれもまた小料理屋での宴を催してくれたりと、懐かしい人達との嬉しい再会の時間が流れていった。

 

中2日目は、福井新聞社編集局の伊藤直樹さんが記事の取材に来られ、私のオブジェの特質である「二物衝撃」と、観者の人たちの想像力の関係の不思議について話をした。伊藤さんは実に思考の回転が早く、話す事の核心を的確に汲み取る人なので、話をしていて実に手応えがあって愉しい。……また、画家のバルテュスとも個人的に親交が深く、近・現代版画の優れたコレクタ―であり、そして私の作品も多数コレクションされている荒井由泰さんが来られ、最近新しくコレクションされたという谷中安規の代表作「自画像」の版画(微妙に刷りが異なる珍しい二種類の版画)を見せてもらい勉強になった。

 

……ギャラリ―サライの松村さんは人望があるので、来客が実に多い。……その中で一人の男性の方が静かに語りかけて来られ、「北川さんは、戦時中に武生(福井県)に陸軍の中国紙幣の贋札工場が在ったのをご存知ですか?」と切り出して来られ、私の関心は一気に沸騰した。この魅力的な切り出しは「その話、じっくり聴かせて頂こうではないですか!」となって来る。……名刺を頂いた。見ると、先ほどの伊藤さんと同じ福井新聞社の論説委員の伊予登志雄さんという方であった。「北川さんのブログは毎回拝読しています。実に面白いので、あのブログは纏めてぜひ本にすべきです」と言われ、有り難いと思う。……それから、伊予さんが語られた話はどれも戦慄する内容の洪水であった。

 

……戦時中の「アメリカ本土を攻撃した風船爆弾」スパイのゾルゲ事件」「人体実験で知られる731部隊」「日本陸軍が作製した精巧な蒋介石の顔を印刷した贋札工場」「帝銀事件」……と、次々に伊予さんが話される大日本陸軍の闇、闇、闇の具体的な話。伊予さんは以前にその関係者や生存者に直接会って取材して来られたという経緯があるので、話の重みと迫真力が違う。そして、それらの実際の現物や資料が、神奈川県川崎市の多摩区東三田にある明治大学生田キャンパス内の『登戸研究所資料館』(この資料館の在る場所が、戦時中に実際の機密組織として様々な研究や活動をしていた場所)に保存されていて一般に公開されている事を教えて頂いた。……松本清張の『日本の黒い霧』『小説帝銀事件』など殆どの著書を読破している私としては、この伊予さんとの出会いは天啓であったと言えよう。

 

〈…………しかし、2年前にこのサライで個展があった時は、佐伯祐三について来客の方と話をしていたら、その隣にいた方が話に入って来て、実に佐伯について詳しく話され、「明日、北川さんに面白い本を持って来るので良かったら差し上げますよ!」と言われ、早速翌日にその方が来られて『二人の佐伯祐三』(馬田昌保著)という本を頂いた。いわゆる佐伯祐三にまつわる贋作事件、それに連座してのこの国の美術評論家の実態、福井の武生市が女性詐欺師に騙された話など、それまで切れ切れであった話がこの本で一気に繋がった。……私の気から発する何かがその人達を喚んでいるのか、ともかく不穏な話、興味深い話が何故か自ずと集まって来るのである。〉

 

 

 

③私はフットワークが実に早く、そして軽い。横浜に戻って直ぐに大日本陸軍の闇を書いた本を図書館で借りて来て読み、件の『登戸研究所』にさぁ行こうとして、ふと郵便受けを開くと伊予さんから詳しい資料が入ったお手紙が届いていた。正にこれから出発という、その絶妙なタイミングである。「今から行って来ます」と伊予さんにメールして電車に乗った。

 

小田急線の生田駅を下車して件の研究所を目指して坂を上がって行くと、まもなく大学構内に入る。……するとさっそく不穏な建物が出迎えてくれた。「弾薬庫」と呼ばれる暗い廃墟である。

 

研究所内に入ると係の方の説明があり、何室かに分けられた資料室があり、731部隊、スパイ養成所であった「陸軍中野学校」、特務機関、諜報・謀略活動……暗殺の為の腕時計…、贋札の実物、…等々、わけても私の注意を引いたのは、部屋の隅にさりげなく展示されていた帝銀事件の際に犯人が実際に使用したのと同じ型のスポイド、被害者の銀行員たちが呑まされて多数が毒殺された湯呑み茶碗であった。実に生々しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……敗戦と同時に「特殊研究」に関する書類や実験器具は焼却、埋設処分するなど証拠隠滅作業は徹底的に実施された由なので、この研究所内に原物がいろいろ展示されている事自体が奇跡に近いかと思われる。研究に関わっていた人達はGHQによって徹底的に尋問を受けたが、不思議にも実際に戦犯指名を受けた者はいないという。何故か!?……考えられる事は唯一つ、731部隊の隊長、石井四郎と同じく、当時のアメリカ軍に情報提供を条件に免責された可能性は大きいが、真相は遂に闇の中へ。………………今回は撮影して来た写真を掲載して終わりとしよう。とまれ百聞は一見に如かず。ご興味がある方は、この研究所見学をぜひお薦めしたいと思う次第である。

 

 

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『巴里に命を刻む二人の話』

前回のブログの舞台は京都であったが、今回は一転してパリである。……年末、そして先日に歌人の水原紫苑さんから、パリでの現地詠を含んだ歌集『快楽Keraku』(短歌研究社刊行)と、昨年過ごしたパリ滞在の日々を短歌、写真と共に綴ったエッセイ集『巴里うたものがたり』(春陽堂書店刊行)が送られて来た。……最近、私は森有正の『遠ざかるノ―トル・ダム』を読んだばかりで、今はモンマルトルの坂道を主題にした鉄の立体も作っている折であり、正にパリづくしである。

 

水原さんはわが国の現代短歌の紛れもない第一人者である。30年以上前に比較文化学者で評論家の四方田犬彦氏宅の何かの集まりの時にお会いしたのが始まりと記憶しているので、お付き合いはかなり古い。自宅が近いという事もあり、才ある表現者として身近に感じる存在である。ご本人は柔にして自然体の人であるが、次々と刊行される短歌に綴られた表現世界は、美しい日本語で開示された幻視の領土が拡がり、光と底無しの闇が交差する危うさがある。そして何れの作品もその完成度はきわめて高い。

 

 

「シャルトルの/薔薇窓母と/見まほしを/共に狂女と/なりてかへらむ」

「彫刻と/オブジェのあはひ/ゆく蝶を/ひたにおそれき/ことのは以前」……………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何れの作品にも、鋭く研がれたナイフの切っ先のような鋭さと、時に美しい狂気すらある。新刊『巴里うたものがたり』のエッセイの本は、私がかつて1年近く住んでいたパリが舞台なので、実に愉しく懐かしく一気に読んでしまった。水原さんが滞在したホテル・カルチェラタンは、私がいたサン・ジェルマン・デ・プレ界隈にも近く、記憶が重なって、自分が旅人であるような錯覚すら覚えてしまった。……文中、オペラ座に和装で行くのを願うが、狙われる事は必至なので友人に忠告されて断念する下りは、与謝野晶子のパリ滞在(明治45年)、林芙美子がパリに滞在した(昭和六年)時とは隔世の感がある。しかし晶子や芙美子にとってパリが一過性の街であったのと違い、この人は、また3月からパリに行くが、パリでの客死すら厭わない覚悟が透かし見えて来て引き込まれる。……滞在中はソルボンヌに学び、日々のエッセイを書きながら、写真家が被写体を狩るように、又は鋭く呼吸するようにして集中して一気に短歌を詠んでいく。……なるほど、この人はこのようにして歌を詠んでいるのかというのが垣間見えて面白い。

 

先日、私はヴェネツィア行もお薦めしたが、既にそれもこの春からの予定に入っているという。……限り無く美しい日本の言の葉によって紡がれる、西洋の硬く乾いた硬質なマチエ―ルとの対峙がどのようなイメ―ジの化学反応を産んで、更なる深化へと、この人を導いて行くのか見届けたいものである。……以前からの私の願望であるが、ヴェネツィアを舞台にした壮麗な歌集の出現を、水原紫苑女史に期待しているのである。……そして、この度刊行されたこの二冊をぜひ読まれる事を、このブログの読者諸氏にお薦めする次第である。……さて次は、パリで客死した画家・佐伯祐三の話。

 

 

 

……先日、東京ステ―ションギャラリ―で開催中の佐伯祐三展を観た。10代の中学生の時に画集で出会って以来、佐伯祐三は今もって一番好きな画家である。……佐伯の集中力(一点を仕上げるのに要した時間は僅かに30分から2時間)は神憑り的で、しかも完成度も高い。パリに行き、佐伯がフォ―ヴィスムの画家ヴラマンクに油絵の作品を見せた時に、「このアカデミック!」と一蹴され、強いショックを受けたという逸話は有名であるが、実はこの逸話には先に続きがあって、ヴラマンクは「しかし、色彩感覚は良いものを持っている!」と佐伯を誉めているのである。……佐伯の作品を観ると、確かに優れた色彩感覚がそこに視てとれるのと同時に、彼の作品の骨となっているのは、作品の奥に透かし見える幾何学的な秩序感覚の先鋭な才気であり、また硬質さに対するオブセッションとフェティシズムである。

 

佐伯はゴッホに傾倒していた事もあって、その死もゴッホと重ね合わせるように、神経衰弱、肺炎の悪化による自殺未遂、そして狂死という事で、何れの佐伯祐三伝説も同じように書かれているが、しかし、私には以前から引っ掛かっている〈或る事〉があった。それは現存する数葉の写真の中にある。……寒風の中、街頭に出てひたむきに描く佐伯祐三の姿。しかし、その横に佐伯の幼い娘(彌智子)が写っているのであるが、ずいぶん以前から私はそこに違和感を覚えていたのである。……集中して挑むように画布に向かう佐伯祐三。……何故その真剣勝負の時に、気が散る存在の幼い娘がいるのか?

 

 

 

 

……常識的に視て、佐伯が絵に集中する時には常に妻の米子が娘の面倒を見る筈である。……佐伯は午前早くから写生に出て、暗くなるまで描く事に没頭していた筈。……その長い時間、では米子は何処で何をしていたのであろうか……。佐伯祐三の死因については諸説ある。……中には事件性すら思わせる説もあるが、私の推理は、……佐伯がある時を契機にして何かに憑かれたように作画に集中して神経を磨り減らして行くのであるが、それは何もゴッホへの傾斜、自己の完成度への焦り……といった伝説的なものではなく、原因は、もっと身近なパリの日常生活の〈或る時〉にあったと私は視ている。……或る事実を知ってしまった佐伯が、その怒りを他者でなく、自らへ向けた自傷行為の果てに墜ちていった、詰まりは緩慢なる自殺行為の果ての客死であったと私は推理しているのである。……この推理と近いものを、例えば美術史の裏面までも詳しい山田五郎氏(評論家・編集者・コラムニスト)なども考えているように思われる。

 

 

 

荻須高徳

 

 

 

薩摩治郎八

 

薩摩千代

 

里見勝蔵

 

藤田嗣治

 

 

 

……とまれ、これは推理するに足るドラマ性を多分に含んでいるのであるが、そこに登場する人物達の画像をここに掲載するに留めて、ひとまず今回のブログの筆を置く事にしよう。……年表の表に書かれた物語はあくまでも表皮に過ぎない。「事実は小説よりも奇なり」という言葉をここに残して。

 

 

 

佐伯祐三「カフェのテラス」

 

 

佐伯祐三「ガス灯と広告」

 

 

佐伯祐三「広告貼り」

 

 

 

……さて、今月は11日に歌舞伎座の二月大歌舞伎『女車引』と『船弁慶』を観劇予定。……翌12日は荻窪のカラスアパラタスで、勅使川原三郎佐東利穂子両氏による今年初のアップデイトダンス公演『月に憑かれたピエロ』(2月14日迄、公演開催中)、……そして翌13日は、先月の寒波で延期されていた名古屋に行き、俳人の馬場駿吉さん、名古屋画廊の中山真一さんとの打ち合わせで、俳句と私の作品との接点の可能性について語り合って来る予定。……異なる優れたジャンルに積極的に触れる事が、自身の表現に善き展開をもたらして来る。……絶え間無い充電と、制作の日々が今月も続くのである。

 

 

 

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『美の速度』

……2週間ばかり前の事であるが、アトリエの前の桜の樹の上で蝉が鳴いていた。まさかの空耳かと思い外に出て樹上を仰ぐと、高みの色づいた葉群のところで確かに蝉が見えた。雌の蝉も仲間も死に絶え、蝉はたいそう寂しそうであった。……また先日は、上野公園のソメイヨシノが狂い咲き、観光客が不気味がっている光景を報道で観た。……明らかに狂っている。ここ数年来、加速的に世界の全てが異常の様を呈して来て、底無しの奈落へと堕ちていく観が見えて来るようである。若者達は灰色の閉塞感の中に在り、AIだけが先へと向かって優位の様を見せている。若者達は便利極まるスマホに追随し、自らの脳に知の刺激を入れて高めようという気概は失せ、皆が不気味なまでに同じ顔になっている。……薄く、あくまでも軽く。……

 

芸術は、人間が人間で在る事の意味や尊厳を示す最期の砦であるが、昨今は、芸術、美という言葉に拘る表現者も少なくなり、ア―トという雲のように軽く薄い言葉が往来を歩いている。元来、美は、そして芸術は強度なものであり、人がそれと対峙する時の頑強な観照として、私達の心奥に突き刺さって来る存在でなくてはならない、というのは私の強固な考えであり、この考えに揺らぎはない。……だから、私の眼差しは近代前の名作に自ずと向かい、その中から美の雫、エッセンスを吸いとろうと眼を光らせている。……美は、視覚を通して私達の精神を揺さぶって来る劇薬のようなものであると私は思っている。

 

 

 

 

 

……さて、いま日本橋高島屋の美術画廊Xで開催中の個展であるが、ようやく1週間が過ぎ、会期終了の11月7日まで、まだ12日が残っている。

 

今回発表している73点の新作は、ほぼ5ケ月で全ての完成を見た。換算すると150日で73点となり、約2日でオブジェ1作を作り終えた計算になる。頭で考えながら作るのではなく、直感、直感のインスピレ―ションの綱渡りで、ポエジ―の深みを瞬時に刈り込んでいくのである。……この話を個展会場で話すと、人はその速さと集中力に驚くが、まだまだ先達にはもっと速い人がいる。

 

例えばゴッホは2日に1点の速度で油彩画を描き、私が最も好きな画家の佐伯祐三は1日で2点を描き、卓上の蟹を画いた小品の名作は30分で描いたという。またル―ヴル美術館に展示されているフラゴナ―ルの肖像画は2時間で完成したという伝説が残っている。……話を美術から転じれば、宮沢賢治は1晩で原稿250枚を書き、ランボ―モ―ツァルトの速さは周知の通り。先日、画廊で出版社の編集者の人と、次の第二詩集について打ち合わせをしたが、私の詩を書く速度も速く、編集者の人に個展の後、1ケ月で全部仕上げますと宣言した。ただし、ゴッホ、佐伯祐三、宮沢賢治……皆さんその死が壮絶であったことは周知の通り。私にこの先どんな運命が待ち受けているのか愉しみである。

 

 

 

 

 

 

 

 

……ダンスの勅使川原三郎さんと話をしていた時に、私の制作の速度を訊かれた事があった。私は「あみだクジの中を、時速300kmの速さで車を運転している感じ」と話すと、勅使川原さんは「あっ、わかるわかる!!」と即座に了解した。この稀人の感性の速度もまたそうである事を知っている私は、「確かに伝わった」事を直感した。この人はまたダンス制作の間に日々たくさんのドゥロ―イングを描くが、先日の『日曜美術館』でその素描をしている場面を観たが、もはや憑依、自動記述のように速いのを観て、非常に面白かった。以前に池田満寿夫さんは私を評して「異常な集中力」と語ったが、かく言う池田さん自身も、版画史に遺る名作『スフィンクスシリ―ズ』の7点の連作を僅か3週間で完成しているから面白い。

 

 

……私が今回の個展で発表している73点の新作のオブジェ。不思議な感覚であるが、作っていた時の記憶が全く無いのである。7月の終わりになって完成した作品を数えたら73点になっていた、という感じである。……また、夢はもう1つの覚醒でもあるのか、こんな事があった。……夕方、作品を作っていて、どうしても最後の詰めが出来ないまま、その部分を空白に空けたまま眠った事があった。……すると明け方、半覚醒の時の朧な感覚の中で、作品の空白だった部分に小さな時計の歯車が詰められていて、作品が完璧な形となって出来上がっているのであった。(……あぁ、この歯車は確かに何処かの引き出しの中に仕舞ってあったなぁ……)と想いながら目覚め、朝、アトリエに行った。しかし、なかなかその歯車が簡単には見つからない。様々な歯車があって、みな形状が違うのである。アトリエに在る沢山の引き出しの中を探して、ようやく、その夢に出てきたのと同じ歯車を引き出しの奥で見つけ出し、取り出して空いた箇所に入れて固定すると、作品は夢に出てきた形の完璧なものとして完成を見たのであった。

 

……また、夢の目覚めの朧な時に、10行くらいの短い詩であるが、完全な完成形となって、その詩が出来上がっていた時があった。……私は目覚めた後に、夢見の時に出来上がっていたその詩の言葉の連なりを覚えているままに書き写すと、それは1篇の完成形を帯びた詩となって出来上がったのである。…………たぶん夢の中で、交感神経か何かが入れ代わった事で、作りたいと思っている、もう一人の私が目覚めて、夢の中で創るという作業を無意識の内にしているのであろうか。……とまれ、眠りから目覚めのあわいの時間帯に、オブジェが出来上っている、或いは言葉が出来上がっている……という経験は度々あるのである。………

 

私が自分に課しているのは、1点づつ必ず完成度の高みを入れるという事であるが、今回の個展に来られた方の多くが、作品の完成度の高さを評価しているので、先ずは達成したという確かな手応えはある。……今回の作品もまた多くの方のコレクションに入っていくのであろう。私は作品を立ち上げた作者であるが、それをコレクションされて、自室で作品と、これからの永い対話を交わしていくその人達が、各々の作品の、もう1人の作者になっていくのである。……個展はまだ始まったばかりであり、これから、沢山の人達との出会いや嬉しい再会が待っているのである。

 

 

 

 

 

 

 

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『10月―新作オブジェの大きな個展、近づく』

……今日は9月24日。彼岸も過ぎて、日本橋高島屋本店6階の美術画廊Xで10月19日から始まる個展が少しずつ近づいて来た。……毎年連続して開催されて来たこの個展も、今年で14回目になる。今までに制作して来たオブジェの作品数は既に1,000点を越えているが、そのほとんどがコレクタ―の人達の所有するところとなり、今、アトリエに残っているのは僅かに30点くらいである。オブジェの前に制作していた銅版画も刷った枚数は5000点以上になるが、全てエディションは完売となっていて、手元には作者が保有するAP版の版画が少しあるだけで、これは表現者として実に幸せな事だと思う。感性の優れたコレクタ―の人達との豊かな出逢い、そして、手元に旧作が残っていないという事の自信が、次なる新たなイメ―ジの領土への挑戦の促しとなり、それらが相乗して、制作への集中力をさらに鋭く高めてくれるのである。

 

…………毎回、主題を変えて開催して来た今までの個展図録を通しで見ていると、自作に懐いているオブジェへの視点や構造、ひいては、この「語り得ぬ、物語りを立ち上げる装置」への想いが、次第に変わって来ている事に気付かされ、様々な感慨がよみがえって来る。……そして今回新たに制作した作品を見ていると、以前にもまして、象徴性や暗示性が増して来ているように思われる。

 

 

今回の個展のタイトルは『射影幾何学―wk.Burtonの十二階の螺旋』。新作オブジェ72点は全て完成し、今は、求龍堂から刊行される個展案内状の校正刷りのチェック段階に入っている。案内状作りは個展を象徴的に表す大事な仕事。まだまだ神経の張った日々が続くのである。

 

今回の個展に向けての制作が始まったのは3月の初旬であった。作品全てが完成したのは8月の末。……計算すると6ケ月で72点、1ヶ月で12点の計算になる。しかも1点づつに完成度の高みを自分に課して作って来たわけだが、不可思議な事に作って来たという実感がない。オブジェ、この限りない客体性を持った、不思議なる詩的装置を作るという事は、一種の憑依的な感覚によって集中的に成されているのかもしれない、……と振り返ってみてあらためて思うのである。

 

私が未だ20代前半の学生であった頃、私が信頼している美術評論家の坂崎乙郎さんや、池田満寿夫さんは、私の作品が放つものを直感的に読み取って、感性が鋭すぎて身が持たないのではないかと危ぶんだ事があるが、大丈夫、私はまだ生きている。……集中力と速度、これは私の表現者としての生来の資質なのであろう。だから制作のペ―スはコントロ―ルしていて、時折は興味ある場所に出掛け、気分転換を図っている。

 

 

……その気分転換を兼ねて、9月のある日、田端に在った芥川龍之介の家跡を訪れた。…高校生の頃から芥川龍之介は好きでよく読んでいて、昭和2年に自殺した芥川のその場所をいつか訪れてみたいと思っていたのが、漸く実現したのであった。折しも田端にある田端文士村記念館では、詩人の吉増剛造企画による芥川龍之介展が開催されていて、なかなか見応えのある展示内容であった。会場には芥川関連の貴重な写真や資料が展示されていたが、私が興味を持った写真は、出版記念会の席で向かい合って写っていた、芥川と谷崎潤一郎の姿であった。小説における筋の是非をめぐっての芥川vs谷崎の大論争は、近代文学史上で最も興味深い論争であったが、今、この二人の天才は仲良く、巣鴨の染井墓地横の慈眼寺に並ぶように眠っている。

 

私は昔、コロタイプで精巧に印刷された芥川龍之介の河童の墨絵(確か2mくらいの原寸大)を持っていた事があった。……芥川が自殺したその部屋に、死の直前に描いて放り投げてあった河童(自画像)の絵と自讚の言葉である。その言葉は今でも覚えている。「橋の上ゆ/きうり投げれば水ひびき/すなわち見ゆる/禿のあたま」である。……上ゆの「ゆ」は、からの意味。……橋の上から……である。その現物がないかと探したが会場になかったのは残念であった。

 

……会場を出て、2つ鉄橋を越えて、崖の石段を上がるとそこが芥川龍之介のいた家の跡である。……以前に池田満寿夫さんは、「芥川龍之介とビアズレ―は似ている。共に若い時期にはまるが、その後は熱病が引いたように関心が薄れていく。」と何かの折りに語っていて、上手い事を言うなと感心した事がある。……この二人は、若い時期の先鋭な感性に直で響いてくるものがあるのかもしれない。……夏目漱石はその逆。

 

 

 

 

 

……田端は、芥川龍之介以外にも室生犀星菊池寛野口雨情堀辰雄……などの文士が住み、大龍寺という古刹には正岡子規の墓がある。その墓の前に立ち、かつては漱石が、そして私が唯一、先生とひそかに呼んでいる寺田寅彦氏がこの墓の前に立った事を想い、時間の不思議な流れを思った。……そして、寺のすぐ前に、女優の佐々木愛さんが代表をしている劇団文化座(80年以上の歴史を持つ)があり、その劇団の人としばらく言葉を交わした。いつか機会を作って、是非この劇団の芝居を観てみたくなった。

 

 

 

 

……田端駅裏には田端操作場があり、かつては、佐伯祐三長谷川利行が、その生を刻むように画布に向かって筆を走らせた場所であった。…………半日ばかりの探訪であったが、この日は、過去へと往還出来た貴重な時間と体験になった。……しかし、開発は加速的に進み、風景はますます不毛と化している。……このような過去の豊かだった時代を偲び、体感できるのも、今後はもう不可能になって来るに違いない。……いにしえを訪ね、気分転換を兼ねて充電を図る事は、日本ではもう最後の時かとも思ったのであった。

 

 

 

……10月19日から始まる個展に関しては、順次このブログでも書いていく予定でおります。……さて次回は一転して、最近私の身近に起きた怪奇譚を書こうと思っています。……乞うご期待。

 

 

 

 

 

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『謹賀新年―1月の佐伯祐三』

昨年は、近年あまりない多忙な一年であった。制作の間は当然無言であるが、昨年はその時間が特に長かったせいか、反動で全ての個展が終わった年末の日々はよく喋った。私のオブジェや版画について鋭い論考のテクストを書かれている四方田犬彦氏(比較文化・映像の論者・著書は160冊以上に及ぶ)や、谷川渥氏(美学の第一人者)とも久しぶりにお会いして喋りあい、宇都宮の市民大学講座では、拙著『美の侵犯―蕪村X西洋美術』の中からゴヤとヴァルディについて熱心な聴衆を前にして語り、暮れの28日には、ダンスの勅使川原三郎氏と荻窪の公演会場『アパラタス』で、たくさんの観客を前にして対談をおこなった。23時頃には終わる予定であったが、終電時間がとうに過ぎ、観客が帰ってからも話題が尽きず、場所を移して話が続き、結局、東の空が明るくなるまで喋って帰途についたのであった。……そして年が明け、一転して静かな正月が訪れた。

 

新年の1日、2日はアトリエの中で静かな時間が過ぎていった。……窓外の景色を眺めながら、来し方の日々をぼんやりと思い出していた。……そしてふと、若年時より私の最も好きな画家で影響を強く受けた―佐伯祐三の事を思い、彼がいた当時のパリ(95年前)に、自分が過ごした、今から29年前のパリの冬の光景を重ねてみた。……1991年1月6日、私は前年の秋に1ヶ月ばかりバルセロナに住み、年末にパリの郊外トルシ―へと移り、パリ6区のサンジェルマン・デ・プレにあるギザルド通り12番地に引っ越して来たのであった。その部屋は偶然であるが、かつて写真家エルスケンが棲み、写真集の名作『サンジェルマン・デ・プレの恋人たち』を現像した部屋であり、天窓から差し込む強烈な光の体験を通して、私が写真を撮影し始めるきっかけとなった部屋でもあった。……石畳のしんしんと冷えた1月のパリは寒い。その厳寒のパリに在って、私は、この街を駆け抜けて30歳の若さで、精神の病と結核のために亡くなった天才画家―佐伯祐三の事を考えていた。

 

……「私は巴里へ行って街の美しさにあまり驚かなかった。その一つはたしかに佐伯祐三氏の絵を沢山見ていたからだと思ふ。祐三氏の絵は外人が巴里に感心した絵ではなく、日本人が巴里に驚いた表現である。同一の自然も見る眼に依って違うことの事実は、分かりきったことである。誰もそれには気附かぬだけだ。佐伯祐三氏は最初にそれに気附いた画家の一人である。(中略)日本人が巴里を見た眼のうちで佐伯氏ほど、巴里をよく見た人はあるまいと思ふ。」(横光利一・佐伯祐三遺作展覧会目録より)

…………14歳の頃に私は佐伯祐三の作品を知り、取り憑かれたように佐伯の作品の模写をし、線路の鉄路や駅舎、古い教会など、佐伯の絵のモチ―フに似た、パリのそれと重なりそうな場所を求めて描きまくり、時には吹雪の中で三脚にキャンバスを固定して絵を描いた事もあった。硬質な対象、鋭い1本の線への拘り、正面性……今思えば、自分の資質の映しを佐伯祐三の作品に見て感受していたのであるが、とまれ、私が最も影響を受けた画家の一人が佐伯祐三である事は間違いない。……そんなわけであるから、初めてのパリを見て、横光利一の文章にあるように、佐伯祐三の作品の事が浮かんで来るのは自然な事なのであった。……そしてパリの部屋にいて、持参して来た荷物から佐伯祐三の画集を取り出して読んでいた時、ふと面白い事に想いが至ったのであった。それは佐伯祐三がパリに在って描いた作品数に対して現存する作品数があまりに少ないという事である。……例えば、〈CORDONNERIE(靴修理屋〉という作品は、パリ滞在時にドイツの絵具会社に買われ、現在は行方不明であるが、それにしても……と、私は電卓を打ちながら考えた。多くの作品が美術館などに収蔵され確認され、現存する数は360点あまり。しかし、1日に二点以上描く事もあり、かつて佐伯がパリに滞在した月日を考えると450点近くは描いた事になる。気に入らず焼却した作品もあるというが、単純な推定にしても、計算に差がありすぎる。ひょっとすると、このパリの何処かに、まだ佐伯の作品が人知れず眠っているのではないだろうか……私は1991年の1月に、パリの部屋の中で、ふと、そんな事を考えていたのであった。

 

……それから月日が経った今年の正月、私はアトリエで、昨年末の古書市でたまたま見つけて買った新潮社刊の『佐伯祐三のパリ』という、小さな画集を開いていた。……その中に、佐伯祐三研究の第一人者として知られる朝日晃さんの文章が載っていた。「……私は1991年の1月、パリ環状線の北東、モントルイユの引っ越し荷物倉庫で、薄っぺらいひん曲がった木の額に入った佐伯祐三氏の作品を見付けた。既に死去した船乗りの荷物の中にあったものを、日本人の作品……と、うろ覚えのままの姪が家具などと一緒に持ち続けていた。発見した絵は、はみ出しそうな視角で、街角の二階建てレストランや周辺の古い壁を抱き抱え、ピラミッド形構図は石畳の街の空間を緊張させている。……倉庫の中で私は背筋が寒くなった。きっとアトリエ探しで歩きまわっている間に見つけたモチ―フ、と見当をつけた。」……そして朝日晃さんは翌日から、発見されたその絵の現場風景探しを始め、遂に1月の寒いパリの中、歩き始めて5日後に、その絵の現場を突き止めたのであった。……1991年の1月、私がパリの部屋で、佐伯の作品はまだこの街に人知れず眠っている筈に違いないと、何故か閃いて結論づけた、正に同じ頃に、そのパリで、思った通り、佐伯祐三の作品が発見されたのである。……私はその文章を読んで、偶然の一致に驚くよりも〈あぁ、またしても〉という想いであった。……昨年の2月に、このメッセ―ジ欄でも書いたが、大正12年の関東大震災で崩れ去った、あの江戸川乱歩の最高傑作『押し絵と旅する男』の舞台となった浅草十二階(通称―凌雲閣)の高塔。明治から大正にかけて建っており、震災で崩れ去って今は無い筈の、その高塔をせめて幻視しようと、私は隅田川河畔に建っているアサヒビ―ル本社隣の高層の最上階にあるレストランから浅草寺の方角にかつて在った浅草十二階の姿を、幻視への想いの内に透かし見ていた。……すると、(後日に詳しく知ったのであったが)正にその同じ日、ほぼ同じ時刻に、浅草花屋敷裏を作業員が工事していた地中から、その浅草十二階の1階部分の赤煉瓦の遺構が現れ出たのであった。そして、後日に行ったその工事現場で、長年想い続けていた完全な姿の浅草十二階の赤煉瓦までも、何故か現場に人の姿の絶えた淡雪の降る中で入手して、今、それはアトリエに大事に仕舞われているのであるが、同じ時刻、あるいは予知的な後日に、私の脳裡に閃いた事が、点と点を結ぶように現実化するという事は、このメッセ―ジでも度々書いて来たので、今回の佐伯祐三の遺作発見の符合も、静かな感慨で受け取ったのであった。……佐伯祐三、浅草十二階……と強い想いを抱いていると、奇妙な、不可解な時間隨道(トンネル)を通って、現実の前に現れる。……この、いつからか私に入り込んだ直感力はインスピレ―ションとなって、イメ―ジの交感を生み出し、オブジェやコラ―ジュ、或いはタイトルや執筆の際の、自分でも異常と思う事がある閃きの速度や集中力となって現れ、私をして作品化へと向かわせるのである。………………思うのだが、私達表現者が「芸術」や「美」と正面から立ち会い、この危うい魔物と絡み合うには、この交感力こそ最も必要な能力なのではないだろうか。私は、インスピレ―ションの鋭さを孕んでいない作品には全く反応しない。……例えば佐伯祐三の作品から伝わってくる最大の物は、巴里の硬い壁のマチエ―ルを通して、〈絶対〉という言葉でしか表わせられない、何物かを捕らえんとする激しくも崇高な、衝動なのではないだろうか。放射された衝動の〈気〉が転じて〈強い引力〉と化す!!……そうとしか言えないものが、そこには宿っているのである。

 

 

〈佐伯祐三〉

 

 

〈1991年1月に発見された作品と現場写真〉

 

 

 

 

 

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