松本竣介

『12月のMemento-Mori』

①……最近、以前にも増して老人によるアクセルとブレ―キの踏み間違いによる悲惨な事故(年間で約3800件!)が起きていて後を絶たない。私は運転免許が無いので詳しくはわからないが知人に訊くと、アクセルとブレ―キのペダルの形が似ていて位置が近いのだという。それを聞いた時、〈それではまるで、…こまどり姉妹ではないか!!〉私はそう思ったものであった。双子の姉妹のように瓜二つでは駄目だろう。

……せめて、「早春賦」を唄う安田シスタ―ズ(由紀さおり・安田祥子)くらいに見分けがつかないと駄目だろう。……そう思ったものであった。最近、その構造の見直しや改良が行われているというが、本末転倒、車社会になる以前にもっと早くから改良すべき、これは自明の問題であろう。とまれ、私達はいつ暴走車の被害者になるかわからない。毎日がメメント・モリ(死を想え)の時代なのである。

 

 

 

②12月に入り、いきなりの寒波到来であるが、ふと、先月に開催していた個展の事を早くも幻のように思い出すことがある。たくさんの方が来られたので、毎日いろんな話が飛び交った。今日は、その中のある日の事を思い出しながら書いてみよう。

 

……その日の午後に来廊した最初の人は、友人の画家・彌月風太朗君であった。(みつきふたろう)と呼ぶらしいが、些か読みにくい。私は名前を訊いた時に、勝手に(やみつきふうたろう)君と覚えてしまったので、もうなおらない。茫洋とした雰囲気、話し方なので、話していて実にリラックス出来る人(画家)である。彼は、このブログに度々登場する、関東大震災で消滅した謎の高塔「浅草12階―通称・凌雲閣」が縁で、お付き合いが始まった人である。ちなみに彼は私が安価でお分けした凌雲閣の赤煉瓦の貴重な欠片(文化財クラス)を今も大切に持っている。

 

 

(……ふうたろう君は、今、どんな絵を描いていますか?)と訊くと、(今は松旭齊天勝の肖像を描いています)との返事。私も天勝が好きなので嬉しくなって来る。松旭齊天勝、……読者諸兄はご存じだと思うが、明治後~昭和前を生きた稀代の奇術師・魔術の女王。小説『仮面の告白』の中で、三島由紀夫は幼い時に観た天勝の事を書いている。実は個展の前の初夏の頃に、私はプロマイドの老舗・浅草のマルベル堂に行って、松井須磨子と松旭齊天勝のプロマイドを求め店の古い在庫ファイルを開いたが、(お客さん、すみませんが今は栗島すみ子からしかありません)といわれた事があった。…ふうたろう君は(天勝の肖像は来年に完成します)と言い残して帰っていった。

 

 

 

③彌月君の次に来られたのは美学の谷川渥さん。この国における美学の第一人者で、海外でもその評価は高く、私もお付き合いはかなり古い。拙作に関しても、優れたテクストの執筆があり、拙作への鋭い理解者の人である。昨年もロ―マの学会から招聘されてバロックと三島由紀夫についての講演を行い、今回はロ―マで三島由紀夫に関しての彼のテクストが出版されるので、まもなく出発との由。……常に考えているので、突然に何を切り出しても即答で返って来る手応えのある人である。

 

……さっそく、(三島由紀夫のあの事件と自刃の謎について、いろんな人が書いているが、結局一番読むに値するのは澁澤(龍彦)じゃないですか)と私。(いや、もちろん澁澤ですね。澁澤のが一番いい)と谷川氏。(他の人のは、自分の側に引き付けすぎて三島の事を書いている。つまりあえて言えば、自分のレンズで視た三島を卑小な色で染めているだけ)と私。(全く同感、つまり対象との距離の取り方でしょ、そこに尽きますよ)と谷川氏。……今回はこの種の会話が画廊の中で暫く続いた。……そう、澁澤龍彦の才能の最も優れた点は、各々の書く対象に応じた距離の取り方の明晰さに指を折る。……そして谷川さんも私も、三島由紀夫の存在が魔的なまでに、〈視え過ぎる人の謎〉として、ますます大きくなって来ているのである。

 

 

④……その日の夕方に、東京国立近代美術館副館長の大谷省吾さんが画廊に来られた。……以前に書いたが、澁澤龍彦の盟友であった独文学者の種村季弘さんは、私に「60年代について皆が騒ぐが、考える上で本当に面白く、また大事な事は、60年代前の黎明期の闇について考える事、その視点こそが一番大事だよ」と話してくれたが、大谷さんは正にそれを実践している人で、著作『激動期のアヴァンギャルド・シュルレアリスムと日本の絵画―一九二八―一九五三』(国書刊行会)は、その具体的な証しである。昨年に私は大谷さんと画家・靉光の代表作『眼のある風景』(私が密かに近代の呪縛と呼んでいる)について話をし、それまで懐いていたいろいろな疑問や推測について、実証的に教わる事が大きかった。…画廊から帰られる時に、今、近代美術館で開催中の大竹伸朗展の招待券を頂いた。……以前にこのブログで、三岸好太郎の雲の上を翔ぶ蝶の絵と、詩人安西冬衛の「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」との関係についての推理を書いたが、収蔵品の質の高さとその数で群を抜いている東京国立近代美術館に行って、また何らかの発見があるのでは……と思い、個展が終了した後に行く事にした。

 

……1階の大竹伸朗展は圧倒的な作品の量に観客達は驚いたようである。描く事、造る事においては、我々表現者に始まりも無ければ終わりも無いのは当たり前(注・ピカソは七割の段階で止める事と言い残している)であるが、こと大竹伸朗においては、日々に直に実感している感覚の覚えかと思われる。……ジェ―ムス・ジョイスから青江三奈、果てはエノケンまで作者の攻めどころは際限がないが、同時代に生まれた私には、ホックニ―ラウシェンバ―グティンゲリー他の様々な表現者のスタイルがリアルに透かし見え、当時の受容の有り様が、今は懐かしささえも帯びて映ったのであった。しかしこの感想は、例えば観客で来ている修学旅行中の中学生達には、また違ったもの、……見た事がない表象、聴いた事がないノイズとしてどう映るのか、その感想を知りたいと思った。

 

……階上に行くと、件の靉光の『眼のある風景』と松本竣介の風景画が並んで展示してあり、また別な壁面には、親交があった浜田知明さんの『初年兵哀歌』があり懐かしかった。……私が今回、興味を持ったのは、ひっそりとした薄暗い壁面のガラスケ―スに展示してあった菱田春草の『四季山水』と題した閑静の気を究めたような見事な絵巻であった。咄嗟に、ライバルであった横山大観の『生々流転』、更には雪舟の『四季山水図』との関係を推理してみたくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

⑤……昔、美大にいた時に、私と同じ剣道部にTがいた。Tは確か染織の専攻だったと記憶するが、演劇の活動もするなど、社交的な明るい人物であった。剣道部でも度々私はTと打ち合ったが、Tの剣さばきには強い力があった。……そのTが夏休みにインドに行くと言って私達の前から姿を消した。……しかし、夏休みが終わり後期が始まってもTは大学に現れなかった。……秋が終る頃に、大学にようやくTの姿があった。私達はTの姿、その顔相、その喋りを視て驚いた。Tは魂が抜けたように一変していたのであった。……ただ喋る言葉は「……虚しい、空しい……」の繰返しで、その眼はまるで生気を失い、虚ろであった。……Tがインドに行って一変した事は間違いないが、そこで何を視て人が変わってしまったのかは、当時の私達には無論わかろう筈がなかった。

 

……Tはまもなく大学を去り、故郷の高松でなく、京都に行った事だけが風の便りに伝わって来た。清水で陶芸をやるらしい……という噂が流れたが、それも根拠がなく、Tは結局、私達の前から姿を消し、今もその行方は誰も知らない。……Tがインドで視たもの、それは、この世と彼の世が地続きである事、つまり地獄とは現世に他ならない事の証を視てしまったのだと私達は推理した。……そして、インドという響きは、あたかも禁忌的な響きを帯びて私達は語るようになった。未だ視ていない国、しかし、そこに行っては危うい国、私達の生の果てまでも視てしまう国……として。

 

…………1983年に写真家・藤原新也の写真集『メメント・モリ』が刊行された時は、大きな衝撃であった。そして、その写真を通して、私はTが一変したその背景をようやく、そして生々しく知る事になった。………………個展が終わって間もない或る日、世田谷美術館から招待状が届いた。『祈り・藤原新也』展である。……私が美術館に行ったその日は、まもなく激しい豪雨になりそうな、そんな不穏な日であった。……(次回に続く)

 

 

 

 

 

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『私にとって今、なぜ恩地孝四郎であるのか。』

最近のブログで度々書いているが、つくづく思うに、今日の文化で美術の分野が最も堕落しているという観がある。堕落というよりは腐敗しているという方が、より正しいか。先の贋作事件などはそのほんの一例にすぎず、作品の価値の俄製造と大衆への巧みな仕掛けで、作品は仕手株と化し、金はあっても真贋を見分ける眼識を全く持たない多くの連中が、易々と引っ掛かって拝金主義にひれ伏し、もはやマネ―ゲ―ムのうす汚れた現場と化している。不毛という言葉の具体的なこれは実例であろう。

 

……作品それ自体は、まるで地方の高校の文化祭のポスタ―程度にすぎないバンクシ―という画家が演ずる、神出鬼没という戦略と、とって付けたような意味付けが、あたかも現代を突くかのごとく巧みに効を奏して、何でもいいから面白い話題が欲しいメディアがそれに乗り、作品の実質とは別な付加価値で、作品は信じがたい価格に化けていく。……以前に観たテレビの漫才で、お笑い芸人が、オ―クションの時に額に仕掛けたシュレッタ―でバンクシ―自らの仕掛けで自分の作品を切り裂く(低迷しているオ―クション会社と作者によるあざとい戦略)という、ネタがバレバレのその行為を冷笑的に茶化し、客も爆笑していたが、この爆笑した感覚は、まだ理性的と云っていい。……有り体に言えば、賽銭箱を担いで三途の川を渡れると本気で信じている連中が百鬼夜行する、この美術という分野は、ある意味で、もはや焦土と化していると断じていいものがある。実はこの現象の歴史は古く、1920年辺りから始まった雪崩れ現象で、今やそれが極まったという感じである。……それを醒めた眼で冷静に見ていたのは、実にデュシャンくらいであろうか。

 

 

……だから、そんな中で年明けに読んだ池内紀氏の著書『恩地孝四郎一つの伝記』は、表現者たるものが、その生を燃焼するには如何に黎明期(注・夜明けにあたる時期。新しい文化・時代などが始まろうとする時期。)こそが実は豊かな時代であり、その不足感や精神の飢餓こそが、実は表現に豊饒をもたらすかという真実が伝わって来て、夢中で読むと共に、最後に出たのは「あぁ、遅く生まれすぎた!」という溜め息であった。

『恩地孝四郎 一つの伝記』……著者の池内紀さんはカフカの名訳で知られるが、その執筆範囲の幅は実に広く、かつ深い。……私事になるが、以前に開催した個展に池内さんが私の不在時に来られ、版画『フランツ・カフカ高等学校初学年時代』を求めて購入され、書斎に掛けてカフカ他の多岐にわたる執筆をされておられたと聞くが、生前、残念ながら私はお会いする機会がなかった。しかし、その著書からは実に沢山の教わるものがあり、お会いしたかった人である。

 

その池内さんの視点は一言で言えば性善説である。だから、本の中で書かれた恩地孝四郎像は内面の生々しい暗部には安易に斬り込んでいない。それでも、この国における創作版画の立ち上げと、日本人で初めて抽象絵画を表現した人、この恩地孝四郎という人が、何よりも先ず優れた詩人であったという事、そして、萩原朔太郎、北原白秋等の詩人達との交流など、大正前から昭和三十年の死去までの多岐な歩みが実にしっかりと描かれているので、私は現代前の近代版画の歩みがこの本によって整理された思いである。

 

……また才能豊かな田中恭吉(結核)や谷中安規(餓死)などの壮絶な非業の死、たくさんの文芸や音楽家との交流など黎明期にしかあり得ない豊かな日々の生きざまが伝わって来て、その交感、ぶつかり合いの熱い様が肌を通して伝わって来た。そして恩地作品の底に流れる鮮やかな感性の映りの背景が見えて来たのであった。整理してみると、恩地孝四郎に端を発した創作版画は、その後で数多登場した版画家の中から才能ある突出した人材を池内さんは絞っていき、棟方志功、駒井哲郎、……そして、池田満寿夫の三人に指を折り、彼らの表現を持ってこの国に認知、定着を見たと観ている。……

 

 

 

 

 

 

 

最近の私は、その近代から現代に至る、数多いる群像の十字路に、では誰を置くかと自問した結果が、この恩地孝四郎なのである。駒井さんから直で度々聴いた名前が恩地孝四郎であったが、今、駒井さんが恩地孝四郎に見ていたものもまた漸くにして見えて来たのである。……言葉で書く詩人だけが詩人ではない。むしろ美術の分野にこそ実質的な詩人がいた!という分析から見ると、近代詩における天才・萩原朔太郎と詩のありようと意味においてぶつかった恩地孝四郎(彼は実にたくさんの詩を書き残している)の詩を読むと、抑制された幾何学的とも云える感性の内に、萩原より先んじて近代を呼吸し、それを多岐にわたる版画の実作においても表しているのが見てとれる。……そして、その遺伝子とも云える駒井や池田の感性の内にもリリックなるものが豊かに息づいているのである。(勿論彼らにおいても、その作品は絞られていくが)

 

しかし、昨今の版画の分野に眼をやると、このリリックが消え失せ、批評眼、果敢な実験への意志……も消え失せ、個々人の表現が閉ざされた内向的なものや、いたずらにささくれた流行りのものに変わり、一言で言えば、一点が孕む自立性、象徴性、強度、……が消え失せ、名作と自他共に認めるような作品が出て来なくなった事は問題であろう。私個人を言えば、版画集を七作刊行し終えた後、ピタリと版画をやめてオブジェ、写真、詩、執筆へと転換したのが13年前の事。分析すると丁度その頃から、版画の傾向が変わり、舞台が動くように版画は内向的な、一人称の呟きのようなものへと転じて来たのであるが、私が視るその映りは、今の版画家達にはおそらく見えていない分析の視点かと思われる。……次第に死に体へと変わりつつある昨今の版画の傾向を見て、恩地孝四郎ならば如何に叱咤するであろうか。それとも……時代だよ、仕方がないと少し笑うか、はたまた別な表情を見せるのかは私は知らない。

 

彼らの生きた時代は、版画で食べられる事など想像外の事であった。ただひたすらに版画を通して自分の存在の意味を模索し、自分の存在した何か刻印のような物を、時代に向けて突き刺すような熱意で、その1回きりの生を生き急ぐように駆け抜けたのであった。その足りないという飢餓感覚の中からしか実験は生まれ出ないのである。……版画だけでなく、私が常に引かれている佐伯祐三松本竣介靉光、……達もまた、今のマネーゲ―ムと化した不毛な美術の分野とは別な豊かな次元で、その一回だけの人生を生ききって逝ったのである。

 

……松本竣介は絶筆「建物」(東京国立近代美術館蔵)を死の直前まで描いて逝ったが、幾つか遺された竣介の言葉に「たとえば空襲でやられた断片だけが残ったとしても、その断片から美しい全体を想像してもらいたい」というのがある。……この短い言葉は、しかし私ども表現者が常に作品に向けるべき緊張と美の理想を表して充分なものがあり、……けだし名言であると思う。

 

 

 

 

 

最後になるが、私は今回のタイトル『私にとって今、なぜ恩地孝四郎であるのか』について、危うく書き忘れるところであった。それを書こう。恩地孝四郎は版画を作ったが、同時に先駆的なオブジェを作り、写真も撮り、詩も書き、批評も書き、文芸の人達とも交流が深かった。……ふとそれを我が身に重ねると、私は版画を作り、美術家よりも寧ろ文芸の人達との交流が深く、オブジェを作り、写真も撮り、詩集を出し、評論の本も書き……と、恩地孝四郎の生き方と面白いまでに酷似している事に、最近ふと気付いたのである。

 

先達としては、池田満寿夫さんもいろいろな分野に多才さを発揮し、その身近に私はいたが、今の私の実感としては、恩地孝四郎の方により近い親近性を覚えるのは何故であろう。私の中で何かが変わったのであろうか?…………駒井哲郎さんから直に恩地孝四郎の事をいろいろと伺った時は、私はまだ美大の学生で、二十歳そこそこの若僧であった。正直、その頃は恩地孝四郎はまだ私の関心の外にあったと云えよう。しかし人生はどうなるかわからない。……長い時を経て、恩地孝四郎の生きざま、生き方が一つの強い範となって、私の前に、或る示唆的な意味を持って来ようとは……。だからこそ人生は面白い。……恩地孝四郎、……今、私の前に彼の存在が静かに、しかし確かな意味を持って佇んでいるのである。………………了。

 

 

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『今年最後の個展を開催中』

……前回のメッセ―ジを読まれて、上野のデュシャン展に行かれた方がかなりおられたらしく、〈確かに『大ガラス』(この作品のみ和製)の、マチエ―ルへの配慮を欠いた作品のみが、著しく劣って見えた〉という感想が何通か届いた。やはり、表象に宿るマチエ―ルは重要であり、ある意味でそれが全てなのである事をあらためて痛感した次第である。

 

さて、そのマチエ―ルであるが、それの豊かな宿りを持った作品について具体的に考えていくと、幾つかの作品に思い至るのであるが、そこには「霊妙」といっていい境地に達した作品が幾つか浮かんで来て、陶然とした感慨に包まれる事がある。

 

……例えばダ・ヴィンチの『モナ・リザ』、宗達の『牛図』、劉生の『切通し』の絵や、菱田春草の『菊慈童』などがそれであるが、しかし今、脳裡に先ず鮮やかに浮かぶのは、それらを排して松本竣介のニコライ堂を描いた作品である(掲載画像参照)。竣介絶筆の『建物』は絵画の不思議さを映す一つの極であるが、『ニコライ堂』の持つマチエ―ルの権能が霊妙へと私達をして導く危うさはまた別格なものがある。……夢の中のノスタルジックな懐かしさと、見てはいけないものを見せられたような禁忌の韻の混交は、この絵画をして竣介の才能の高みを証して余りあるものがあるのである。

 

前回のメッセ―ジでお伝えした通り、12月1日まで、本郷の画廊・ア―トギャラリ―884で作品集刊行記念の個展『狂った方位―幾何学の庭へ』を開催中なので、日々画廊に通っているが、ある朝早めに御茶ノ水駅に着いたので、松本竣介の描いたニコライ堂の現場を探してみる事にした。基点は聖橋である。かつて中原中也が「去らば東京、おぉ我が青春」と橋上で叫び、また竣介がモチ―フを求めてさすらった聖橋は、まだその面影を色濃く残して、そのままにある。ただ、竣介のいた当時の静かな情緒はさすがに薄れ、彼が描いた地点に立つと、車に跳ねられてしまうのが少し辛い。湯島聖堂周辺は、竣介の眼差しをなぞるほどに気配は残っているが、彼の手法は、幾つかの視点を組み合わせたモンタ―ジュなので、ピタリと重なる地点はない。しかし、彼の生きた残余の韻は今も伝わって来て、暫しの感慨に私は包まれた。今日の美術界はご存じのように拝金主義に堕ちて久しい。竣介の生前は殆ど評価されない無名の人であったが、死後に、画家の岡鹿之助や評論家の土方定一らが寄せた評価によって、忽ちその才能が評価されるようになった。竣介の生涯などを見ると、やはり表現者は、その分野が未成熟な黎明期に生きるのが幸せであって、飽和期に生きるものではないなと、ふと思う。……その日の午前、私は竣介の生に己が身を重ねる試みをして暫しの時を過ごし、昼前に、我が個展の会場へと入ったのであった。……今年は例年になく多忙な一年であったが、今年最後の個展も12月1日に終わり、暫くの充電へと私は入る予定である。……しかし、このメッセ―ジはまだまだ続く。次回も乞うご期待である。

 

 

作品集刊行記念展『狂った方位―幾何学の庭へ』

ア―トギャラリ―884

東京都文京区本郷3―4―3 ヒルズ884お茶の水ビル1F

TEL03―5615―8843 11時―18間30分 月曜休み

最寄り駅・JR御茶ノ水駅

千代田線・丸の内線 新御茶ノ水駅より徒歩5分

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『松本竣介』

20年ばかり前の話であるが、親しくしている額縁屋のI氏宅に行った折に仕事場で一点の油彩画が立て掛けてあるのが目に留った。初めて見る作品であったが、深い詩情性と言いようのない孤独感を湛えたその画面から「・・・松本竣介だな!!」と直感した。「竣介の絵が何故ここに?」—- 私がI氏に問うと、氏はニヤリと笑みを浮かべながら或る逸話を語り出した。I氏の話によると、或る人物が信州の旅館に泊まった時、部屋にこの作品が掛かっていたという。一目で竣介だとわかったその人物はそれとなく旅館の主人に問うてみると、絵の事は門外漢で、その絵もたまたま持ち込んだ人がいたので掛けているだけだという。しかもあろう事か主人は、「そんなにその絵がお好きなら良かったら差し上げましょうか」と申し出た。その人物はドキリとしながらも、「いや、タダというわけにはいきませんから、では3000円で・・・」と言ってその絵を入手し、それが持ち込まれて今、その額を考案中なのだと云う。ちなみに竣介の絵は最高時で一億を超えたというから、果たして・・・その絵はいくら位の評価が付くのであろうか。

 

半世紀以上前まではほとんど無名に近い存在であった松本竣介。しかし今や彼は、靉光藤田嗣治佐伯祐三岸田劉生等と共に近代洋画史を代表する人気と高い評価を得ている。松本竣介が今日の評価を獲得するに至るには二人の人物の存在が大きく関わっている。一人は神奈川県立美術館館長であった土方定一氏と、今一人は画家の岡鹿之助氏である。二人とも生前の松本竣介と面識はなかったが、竣介の死後まもなく、彼の絵を見たこの眼識ある二人の人物の果たした動きが、急上昇するように竣介の絵の価値を世間に知らしめる事となった。土方氏は美術館で竣介の展覧会(二人展)を企画し、また、岡氏は画集出版に関しての労を取った事がその起爆剤となったのである。土方氏は、美術館の果たす役割として次代の可能性を持った画家を見出し、本物の形へと高めていく事もその仕事であるという理念を持っており、実際に動いていた。私も版画を作り始めたばかりの20歳の頃、土方氏から突然に作品を神奈川県立美術館で購入したい件に関する丁寧な手紙を頂き、それが作家としての自信を深める契機となっている。「お前さんは、もっと高みを目指していい作家だよ!!」—-これは、私が土方氏から頂いた言葉である。しかし私のような場合と違い、松本竣介は生前に自分を引っ張り上げてくれる人物とは出会っていなかった。非常に暖かい友情で支えあった画家や彫刻家の友人達はいたが—–。今では信じ難い話ではあるが、彼は経済的な困窮の中でのほとんど衰弱死的な形で僅か36歳で夭逝してしまったのである。今一人の岡鹿之助氏は、竣介の作品の中に自らが理想とする表現世界が在るのを見て、すぐに画集刊行を指示し水面下で動いたが、それが如何に松本竣介の名声の確立に寄与した事かは計り知れないものがある。秀れた眼識があり、しかもその発言が大きな力を持っているこの二人の人物との出会いがもっと早ければ—–という無念はあるが、それも又、運命なのであろうかとも今にして私は思う。

 

昨日、世田谷美術館で開催中の『松本竣介展』を観に行った。十代の初期から絶筆までの見応えのある内容であり、私はしばし竣介の哀愁を帯びた静かなポエジーと美しいメチエの世界に没入した。わけても私が好きなのは「Y市の橋」と「ニコライ堂」である。特に「ニコライ堂」を描いた連作の中の一点が持つメチエの深さは、既にして神秘を孕み、霊妙といっても過言ではない表現の深みに達しており、松本竣介の最高傑作の一点はこれであると私は見た。岸田劉生の遺した言葉の中に「いい画は皆、永遠の間に、夢の様にふっと浮かんでいる。」という名言があるが、まさしくこの言葉に竣介の「ニコライ堂」は当てはまる。竣介の最晩年の作品「建物」や「彫刻と女」を見ると、最後の表現の域は、更なる上昇を計りながらもあたかもイカロスの失墜のごとく力尽きているのが惜しまれる。生前に欧州に行く事を夢見ていたというが、もしそれが叶えられていたら確実に日本の洋画史は、藤田や佐伯とは異なる豊かな美の顕現を得ていた筈に相違ない。

 

横浜に住んでいる私は、時折、横浜駅の東口を出て高速道路が見える「或る場所」に立つ事がある。そこは名作「Y市の橋」が描かれた現場なのである。今から70年前に松本竣介はそこに立ち、まるで生き急ぐような素早い線画でそこを描き、帰宅してから別な風景もモンタージュとして加え、風景画の典型を刻印した。その連作も含め、竣介の風景画には謎めいた人物が黒のシルエットとして不気味に散見出来るのが気にかかる。ほとんどの人は気付いていない事であるが、実は佐伯祐三の晩年の風景画(カフェテラス等)にも同様な死を予感させる気配を帯びた謎の人物が、作品から作品へと渡り移るように度々描かれているのである。映画『アマデウス』ではないが、絶筆の「レクイエム」を作曲時に、ちらちらと不気味な人物が幻視のように出現している事をモーツァルトも語っている。—–まさか、死後の名声と引き換えに現れたデモニッシュなものの変容ではあるまいが、—–興味のある方は佐伯の画集を併せて御覧頂ければと思う。とまれ、多くの美術館で様々な展覧会が開催されているが、世田谷美術館の『松本竣介展』(2013年1月14日まで開催中)は、私が今一番に推す展覧会である。

 

建物

 

鉄橋近く

 

Y市の橋

 

Y市の橋(部分)

 

不思議な気配を帯びた人物の黒いシルエットが、硬質な画面に郷愁を奏でると共に不穏な韻を立ち上がらせている。

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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